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Ipomoea  作者: Tanahituzi


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第22章 今夜いない分

 向かいの家の雨樋の下に、知らない男が立っていた。少年は水桶の取っ手へ指を掛けたまま止まった。さっき裏の水場へ行く時には、通りに荷車が一台あるだけだった。男は帽子を目深に被り、片手を上着へ入れている。荷車が間を通ると、泥を避けて一歩退いたが、通りが空いても歩き出さなかった。


 このところ、家の近くには軍の人間がいた。交代する時にはアルバと話をしていたし、少年にも、見張りで来ていると教えられた。あの男は知らない。少年が桶を置いて門へ近づくと、男の顔がこちらへ向いた。目が合う前に、少年は落ち葉を拾うふりをした。湿った葉が指に張りつき、袖口へ冷たい水が入った。


 顔を上げると、男はもうこちらを見ていなかった。それなのに、少年が家へ向きを変えたところで、雨樋の下から靴が一足出てきた。門を通り過ぎるのかと思ったが、歩く音は途中で止まった。少年は玄関へ入り、戸を閉めた。敷居に引っかかったところを少し持ち上げると、いつもの音で収まった。


 アルバは食卓で、開いた手紙の端を押さえていた。少年が近づいてもすぐには顔を上げず、最後の行を読んでから紙を畳む。


「どうした」

「外にいる奴、知ってる?」


 少年は戸の方へ顎を向けた。


「帽子の。向かいにいたけど、僕が入る時、こっち来た」


 アルバの手が止まった。椅子を引く音がして、少年は窓より先に、その立ち方を見た。片手を卓につき、身体を捻らずに立つ。まだ脇の傷が痛むらしい。


「どこまで来た」

「門のちょっと先。歩くの、やめた」


 アルバは窓に寄ったが、顔を硝子へ近づけなかった。壁際から通りを見て、少年へ目を戻す。


「他に誰かいたか」

「荷車。あと、見張りの人は角にいた」

「分かった。お前は中にいろ」


 短く言って、上着を取った。少年も戸へ向かいかけると、「見に戻らなくていい」と声がかけられる。足を止めた時、奥の部屋からニルが出てきた。片手に細い羽ペンを持っていて、こちらを見てから卓の上へ置いた。


 アルバが場所を説明すると、ニルは窓へ近づきかけ、呼び止められた。


「ここにいろ。少し見てくる」

「追いかけるんですか」

「確認だけだ」


 アルバは戸を開け、外の人間を呼んだ。低い声で話したが、帽子と雨樋のことは少年にも聞こえた。アルバはその人と通りへ出た。戸の隙間から見えた肩は、走らずに角の方へ動いていった。


 ニルは戸を閉め、少年へ「どこか触られたりはしていませんか」と聞いた。少年が首を振ると、手や袖を確かめるようには近寄ってこなかった。


「中に入ってきてくれてよかったです」


 水の器を置いたが、自分は座らず、玄関と窓の間を一度歩いた。少年は卓の端の椅子に座り、器には触れなかった。男が門を越えていないことは分かる。それでも、庭に自分の仕事が中途半端に残っているのが嫌だった。


 アルバは戻ると、上着のまま食卓へついた。


「帽子の男がいた。こっちが通りへ出たら、角を曲がった。その先で、また家の方を見てた」


 後を追った人間からの知らせは、少し遅れて来た。男は別の通りへ抜けたという。アルバは場所と時刻を聞き、家の周囲を引き続き見るように頼んだ。


「倉庫の近くでお前を探していた連中の可能性がある」


 アルバは少年の前で言った。


「逃げた商品を取り戻すつもりかもしれない」


 商品、という言葉は知っていた。少年は上着の内側へ手を入れた。朝、籠から取った乾いたパンが一片ある。指で縁を確かめながら、「あの倉庫に連れてくの」と聞くと、アルバは「連れていかせない」と答えた。少年が次を言うまで、こちらから目を離さなかった。


 戸口の人間が、もう一つ報告した。近所の者が、子供を預かっている学者の家を尋ねられていた。そこにいる子供は、もう検査を受けたのか、とも聞かれたらしい。少年はパンから指を離し、ニルを見た。「その言い方も、報告に残してくれ」とアルバが言い、戸口の人間が頷いた。


 ニルが水の器を自分の方へ寄せた。


「姉様には、もう様子を知らせてありますね」

「ああ。相談に来てもらう。しばらく邸宅に移った方が安全かもしれない」


 アルバが言い終える前に、少年は「出た方がいいなら出る」と答えた。二人がこちらを見た。少年は椅子から下り、「荷物、上」と言って階段へ向かった。「待ってください」と呼ばれたが、段の途中で振り返っただけだった。


「何」

「まだ、いつからか決めていません」

「今からだろ。だから、取ってくる」


 床の毛布を広げ、着替えと独楽、紐を置いて巻いた。軸が布を押したので、向きを変えて包み直す。自分のものは少ないはずだったが、水の器を持っていくのか、床へ敷いた布は残していいのか、考えると手が止まった。使った物を全部片づけた方が、あとで困らせない。器を取ろうとして、空っぽだと分かってから、少年は窓際へ置き直した。


 廊下で足音がした。ニルが戸の外から「入ってもいいですか」と聞き、少年の返事を待って中へ入った。床の包みを見て、「それは、今日は持っていかなくても」と言いかけたので、少年は先に尋ねた。


「下の鉢、ここに戻す?」


 ニルは口を閉じた。ここへ来た時、この部屋にはいろいろ置いてあった。邪魔な鉢や箱を出して、少年の寝る場所になった。戻しておけば、あとで誰も運ばなくて済む。


「鉢は、戻しません」


 ニルは答えたが、少年が器へ手を伸ばすと、もう一度包みを見た。


「そのままにしておいてください。姉様が来たら、一緒に話しましょう」


 セリュシアが来るまで、少年は包みを階段の下に置いて待った。庭の桶はニルが取り込んだ。昼に近づくと煮た野菜の匂いがしたが、誰も食卓につかなかった。少年はパンを少し食べ、残りを内袋へ押し込んだ。セリュシアは戸が開くと、まず少年を見て、アルバへ顔を向けた。


「誰か入ってきたの」

「いいや。周りを見ていた。今のところ、それだけだ」


 彼女は手袋を外し、少年の包みを避けて入った。


「向こうの部屋は使えるわ。寝具も、前に使ったものを出してある」


 セリュシアの言葉に、少年は頷いた。泊まったことのある部屋だった。戸の開き方も、朝の光が入る窓も覚えている。ヴァレットがいるし、食べる物もある。知らない場所へ連れていかれるわけではなかった。それなら、これ以上聞かなくてもいい。少年は包みを膝へ載せ、卓の隅の椅子に座った。


 三人は窓から離れた席で話し始めた。邸宅には門を守る人間がいて、外から部屋が見えない。来訪者も、そのまま中へ入れることはない。アルバは家の見張りを増やす話をし、ニルは研究所へ出る時刻を答えた。


「僕が戻る前に、アルバも出なければならない日があります」

「そういう日だけ、送り迎えを組むより、しばらくこちらにいた方が確実でしょう」


 セリュシアが言い、アルバが頷いた。


「夜の任務もある。俺が必ず戻るとは言えない」


 少年は三人の顔を順に見た。ここにいてはいけない日が、思っていたより多いらしかった。


 ニルが紙を寄せ、「では、明日からの予定を」と言った。少年には字が読めない。何日向こうにいるのか、そこに何が書かれるのかは分からなかった。包みを膝へ持ち上げると、独楽の紐の端が滑り落ちた。押し戻す間に、ニルの羽ペンが紙から離れた。こちらを見てから、玄関へ目を移す。少年はもう立った方がいいのかと思い、椅子の端へ腰をずらした。


 


「待ってください。まだ、聞いていませんでした」


 ニルは羽ペンを置いた。セリュシアが話を止め、アルバも紙から顔を上げる。


「君はどうしたいですか」


 少年は膝の包みを押さえた。


「行くって言った」

「それは聞きました。出た方がいいなら、でしたね」


 ニルの声はいつもと同じだったが、予定の紙は、書きかけのまま卓の中央へ戻された。少年はもう一度、セリュシアの顔を見た。邸宅の部屋が空いていることは、さっき聞いた。何を言い直せば話が進むのか、分からなかった。


「邪魔なら出る」


 そう言えば、もう聞かれないと思った。ニルはすぐには答えず、卓に置いた指を一度曲げた。


「邪魔かどうかを聞いているんじゃありません。君は、どうしたいですか」


 少年は顔を上げたまま、唇を閉じた。声の調子から、叱られているのではないと分かる。それでも、さっきまでうまく言えていた返事が、急に使えなくなった。出ていけと言われれば、荷物を持てばよかった。ここにいることが困るなら、困らせない方へ動けばよかった。どうしたい、と聞かれると、包みを持った手をどちらへ動かせばいいのかも決められなかった。


 窓の外で、荷車が石を踏む音がした。少年はそちらへ目を向けかけ、膝へ戻した。ここに来る前、道を選ぶことはあった。明るいところを避けるか、人の多い方へ紛れるか。売られる場所を自分で選んだことはない。逃げたあとにも、行きたい場所より、追いつかれない場所を考えた。今は三人が待っていて、どちらの家にも食べ物がある。何も言わずにいると、その両方から離されるような気がした。


「安全なのは、そっちなんだろ」


 少年が言うと、アルバは「守りやすい」と答えた。


「じゃあ、そっち」

「待て。それも、俺たちが先に言ったことだ」


 アルバは椅子を少し引いた。包みからまた紐が落ち、拾おうとしたが、身体を屈める前に手を止めた。


「安全の話を、お前の答えより先に始めた。まだ聞いてなかった」


 少年は紐を自分で引き上げた。アルバは受け取ろうとせず、手を膝へ戻した。


「ヴァレットに会うのは、嫌?」


 セリュシアが尋ねた。


「嫌じゃない」


 それだけはすぐに言えた。ヴァレットは、庭へ出る時に、どの虫を見たいか聞く。独楽を借りる時にも、少年が渡すまで待っている。向こうに行けば、明日も一緒に遊べるかもしれない。それでも、部屋の水の器を残したことが気になった。朝、水を替えなければ、窓の埃が入る。床の布も、あのままになっている。少年は包みの折り目へ爪を入れた。


「泊まるのも、嫌じゃない」


 ニルは何も書かなかった。いつもなら、少年が答えたことに次の質問をつけ、まだ答えていないところまで順に聞いてくる。それが今は、二つ言ったあとにも、羽ペンを取らずに待っていた。少年は卓の向こうを見た。窓際の角に、細い紐が張ってある。そこから先には鉢を置かないと決めたので、独楽は葉にぶつからずに回せる。少し狭いし、ニルが水をやる時には滴が飛んでくる。アルバが拭くと、ニルはその布を別の鉢へ使おうとして、また何か言われる。その間にも、独楽を回していてよかった。


「ここがいい」


 言ったあと、少年は窓際から目を戻せなかった。来たばかりの時は、誰かが訪ねてきたら自分が出るのかと聞いた。その時は、来る予定がないとだけ言われた。今は、来る人間がいる。自分のために見張りが立ち、三人が予定を変えようとしている。それでも、ここがいいと言ってよかったのか、あとから確かめたくなった。


「でも、あいつらが来たら困るだろ」


 付け足すと、アルバが「困るのは、お前がいることじゃない」と答えた。


「勝手に連れていこうとする奴が来ることだ」


 セリュシアは卓の予定を見てから言った。


「では、ここで暮らすのを続けましょう。私の家は、危ない時に泊まる場所として使えばいいわ」


 少年は彼女を見た。


「ずっとじゃなくて」

「ええ。危険があるかは、その都度、知らせる。向こうへ行くかどうか、あなたにも聞くわ」


 ニルは頷き、「何日いるのかも、分かる範囲で先に話します。分からない時は、分からないと言います」と続けた。必ず帰れる日が出てくるわけではない。それでも、読めない紙の上で、知らないうちに決められるのとは違った。


 アルバは紙を自分の方へ引いた。


「普段はここだ。見張りは続ける。危険があって、こっちで守る人数が足りない日は、先に話して、向こうに泊まるか決める」


 そう言ってから、少年を見る。


「今日は、あの男がどこへ行ったか、まだ最後まで分かってない。夜は邸宅にいてほしい」


 少年はすぐに頷かず、包みの上を指で撫でた。


「今日だけ?」


 アルバは「まず、今夜」と言った。


「明日の様子は明日確かめる。勝手に泊まる日を増やさない」

「じゃあ、一晩行く」


 少年は答えた。セリュシアが「分かったわ」と言い、ニルは包みを見た。


「ここに残したいものは、そのままでいいです。部屋も使いません」


 少年は膝から包みを下ろした。ニルが手を伸ばしかけたので、「僕がやる」と言って階段へ運んだ。毛布を広げ、いつもの壁際へ戻す。独楽は着替えで包み直した。水の器を窓から離すと、床には、自分が今夜いない分だけの空きができた。


 下へ戻ってから、籠のパンを一片、包みに足した。二つ取ろうと思ったが、一つにした。内袋にはまだ朝の残りがある。籠ごと持っていく必要はなかった。卓の紐が片側だけ緩んでいたので、結び目を引いた。誰もそこへ鉢を置こうとしなかった。ニルは冷めかけた鍋を温め直し、馬車へ乗る前に食べていきましょう、と四人分の器を出した。


     *


 セリュシア邸へ着く頃には、上着の襟を立てても首が冷えた。道の曲がるところをいくつか覚えていたが、途中からは似たような塀が続いた。少年は包みを抱えて降り、門の内側へ入ってから振り返った。朝の男は見えない。アルバが門番と話している間に、ニルとセリュシアは玄関へ進んだ。少年も一歩動き、階段の上からヴァレットが手を振っているのを見つけた。


「泊まるんだって?」


 ヴァレットは下りてくると、少年の包みへ目をやった。


「今日は」

「じゃあ、あとで独楽貸して。うまく回る持ち方、ちょっと分かった」


 少年は包みを持ち直した。


「ちょっとなら、まだ下手じゃん」

「だから貸してって言ってるんだよ」


 ヴァレットは笑い、先に戸を開けた。いつまでいるのかも、なぜ来たのかも、それ以上は聞かなかった。中へ入ると、廊下の奥から皿を重ねる音がした。ここにはここで、昼の片づけをしている人間がいた。


 部屋は前に使ったところだった。寝台の毛布が一枚増え、水の器には蓋が載っている。少年は包みを置き、窓を確かめた。ヴァレットが「僕、あと一つ運んでくるから」と言い、少年もついていった。廊下へ出ると、水差しと器を載せた盆を持ち上げるところだった。「何かやる」と少年が言うと、「じゃ、そこの戸。こっちに開くから」と頼まれた。


 少年は取っ手を引き、ヴァレットが通れるところまで戸を開いた。盆が少し傾くと、水差しの中で水が揺れ、二人とも一度止まった。


「開きすぎると、後ろの壁に当たるよ」

「先に言えよ」


 壁へ触れる前に戻すと、ヴァレットはその隙間を横向きに抜けた。部屋の中にいた女が礼を言ったが、何か他の仕事を渡してくることはなかった。ヴァレットも盆を置くと、そのまま少年を連れ、裏の小さな部屋へ戻った。


 窓の下に広い作業台があり、今は何も置かれていなかった。ヴァレットは布で表面を拭き、少年へ手を出した。


「ここなら端まで回せる」


 少年は独楽を取り出したが、渡す前に、台の木目を指でなぞった。継ぎ目が一つある。


「そこ、引っかかる」

「じゃあ、こっち側から」


 ヴァレットは紐を巻き、肩を大きく動かした。独楽は継ぎ目を越えたが、斜めのまま端へ寄っていく。少年が手で受け止めると、ヴァレットは「前より回った」と言った。


「前、倒しただけだろ。回ってない」

「今日は倒れてない」


 次は少年が回した。台の上を少し滑ったあと、独楽はまっすぐ立った。ヴァレットが顔を寄せ、紐を引く時に手をどこへ置いたか尋ねる。少年は自分の手で一度示したが、言われた通りに真似されると、かえって回らなかった。


「そうじゃなくて。もっと下」

「こう?」

「それじゃ床に当たる」


 言い合いながら二度、三度と投げた。ヴァレットの回した独楽が継ぎ目のところで跳ね、今度は少年の方へ戻ってきたので、二人とも台へ手をついた。受け止めた指に、小さな振動が残った。


 


 ここで暮らせば、毎日この台を使えるのかもしれない。少年は独楽を紐で巻き直しながら、窓の外を見た。庭は広く、門も通りもここからは見えない。朝の男がまた歩いてきても、すぐに顔を合わせずに済む。ヴァレットがいるのも、嬉しかった。だから向こうの家がいいと言ったのが、間違いだったような気がしかけた。けれど、次に投げる場所を選ぶと、思い浮かぶのは窓際の細い紐だった。あそこでは端にニルの鉢があるので、勢いをつけすぎると葉に当たる。回す時、自分はそれをもう知っていた。


「次、そっち行ったら、あの狭いとこで回させて」


 ヴァレットが言った。少年は窓から顔を戻した。


「こっちの方が広い」

「でも、あそこでちゃんと回ってたじゃん。僕は、あそこでまだうまくできない」


 少年は独楽を渡した。


「じゃあ、今、強く引くな。広いとこだと分かんない」


 ヴァレットは肩を下げて投げ直した。少し揺れながらも独楽が立つと、少年はその横へ指を置き、押すなよ、と先に言った。


 夕食の支度を手伝うよう、廊下からヴァレットが呼ばれた。少年は独楽を受け取り、包みへ戻した。


「また来る?」


 背を向けたヴァレットに聞くと、「そっちに? 行くよ。日を聞かないとだけど」と返事が来た。少年は頷き、紐を仕舞った。ここへ来なければ会えないわけではなかった。台を拭こうとして取った布を、窓の下へ戻した。


     *


 夜の部屋では、家より厚い戸が廊下の音を遠くした。少年は寝台の毛布を一枚下ろし、壁際へ敷いた。窓は閉じていて、足元へ入る風もない。包みから着替えを出したあと、独楽は布に巻いたまま、手の届くところへ置いた。明日、戻れるかはまだ分からない。朝には話してもらえると言われたが、もしもう一晩と言われたら何と答えるのか、考えてみても、今は決められなかった。


 戸を叩く音がして、ニルの声がした。


「水は足りますか」


 少年が返事をすると、少しだけ戸が開いた。ニルは中の様子を見て、寝台より先に、床へ置いた水の器へ目を移した。


「こちらへ、置いておきますね」


 新しい水の入った器を壁際へ下ろしかけたので、少年は「もうちょっとこっち」と指した。寝返りを打つ方にあると、夜、手が当たる。ニルは言われたところへ置き直し、空の器だけ持ち上げた。


「お前も泊まるの」

「はい。向こうの部屋です」


 ニルは廊下の先を示した。少年はそちらを見たが、開いた戸からは壁の一部しか見えなかった。


「家、誰もいないじゃん」

「今夜はそうですね。外は、軍の方に見ていてもらいます」


 少年は毛布の角を引いた。誰もいない家の中を考えると、置いてきた籠を取りに戻りたくなった。窓際の紐も、張ったままだ。


「あそこ、片づけないで」

「独楽のところですか」


 ニルが聞き、少年が頷くと、「片づけません」と答えた。


 


 ニルは器を持って戸へ向かったが、少年が口を開いたところで足を止めた。


「何かありますか」


 少年は毛布から指を離した。明日戻れるかを聞き直しても、今はまだ分からないと言われる。それとは別に、朝から引っかかっている言葉があった。家の部屋も、そのまま残る。そこまで決まってから、ようやく聞けそうになった。


「あの男、調べたかって聞いたんだろ」


 少年が言うと、ニルは戸の内側へ半歩戻った。


「はい。そういう話があったと聞きました」

「何を」


 ニルはすぐに答えず、手にした器へ目を下ろした。


「僕が君に、どんな検査をしたのか知りたがっていたようです。何のために聞いたのかは、まだ分かりません」


 少年は上着の背へ手をやりかけ、途中で止めた。腕の近くへ道具を当てられた時、痛くはなかった。もっと詳しくと言われて嫌だと答えたあとも、食事は出たし、あの部屋で眠れた。朝の男は、独楽を持っているかも、字を読めないかも知らないくせに、それを尋ねた。


 ニルは器を抱えたまま、返事を待っていた。少年は自分の腹へ目を落とし、服の下にあるものを指で確かめる代わりに、毛布を握った。言葉を選んでいる間にも、戸は開いていた。


「僕の身体のこと?」

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