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Ipomoea  作者: Tanahituzi


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第21章 続きを見たい手

 廊下の向こうから来る人は、角を曲がる時にも歩調を変えなかった。案内の職員が会議室を指すと、そちらへ顔を向け、半歩だけ進む位置を譲る。ニルは手にした帳面を抱え直した。軍の執務室で見た署名から、ここへ来る人の顔を何度も思い浮かべていたはずなのに、先に分かったのは歩き方だった。セレドの廊下でも、フェーンはあの速さで歩いていた。急いで説明を続けるニルが横へ並ぶと、歩幅を少し狭くしてくれた。


 窓の下には、温室へ返す空の鉢が積まれていた。ニルはその前から動けず、案内の職員がこちらを見て足を緩めたところで、ようやく会釈した。フェーンの目が上がる。驚いたように立ち止まることも、軍医たちへ説明を求めることもなく、知っている顔を見つけた時の笑みが浮かんだ。


「久しぶりだね」

「お久しぶりです」


 返事は、考えるより先に出た。フェーンは帳面へ目を下ろし、「今も、持ち歩くものは多そうだ」と言った。昔、紙が挟まりきらず廊下で落とした頁を拾ってもらったことがある。ニルは腕へ力を入れかけたが、今日の帳面は薄かった。挟んであるのは、自分で書いた照会事項と、出席の範囲を定めた紙だけだった。


 合同調査への協力者としてフェーンが来ると知らされたのは、昨日だった。軍の文書で名を確かめてから、四日が過ぎていた。マレナは、今日見せられる治療経過について、研究上の説明を聞き、疑問を述べることを認めた。事件資料を自由に読み直す許可は、まだ出ていない。ニルは今朝、受け取った紙の下まで読んでから、署名した。会議室へ続く廊下を歩く間も、質問の順番を直していた。昔と同じ挨拶を返すところまでは、考えていなかった。


「エヴァンで植物の研究を続けていると聞いたよ。君には、よい場所だったかな」

「研究は、続けています」


 ニルが答えると、フェーンは頷いた。


「それはよかった」


 声に、探るような間はなかった。そのまま昔の試片について聞かれたら、どこまで答えるつもりだったのか。ニルは帳面の角を親指で押し、会議室の戸へ目を移した。


 


 内側からマレナが戸を開けた。


「ニル、こちらへ」


 彼女が示した椅子は、卓の短い側に置かれていた。隣にマレナ、向かいにラザルカが座り、長い側へ軍医三人が入る。フェーンは窓寄りの席に革の書類入れを置いた。留め具を外す手が見え、ニルは、資料を一緒に広げる時と同じ位置へ椅子を寄せかけた。脚が床を擦る前に止め、示された席へ座った。


 ラザルカは出席者の名を確かめ、提出する記録はここで受け取り、説明と照合の結果を別に残す、と告げた。フェーンは「承知しています」と答え、綴りを卓へ置く。厚さの違う三冊だった。表紙にある症例の符号を見ても、そこに誰がいるのか、ニルには分からなかった。カイの観察表であれば、紙を開く前から、右腕を置く枠の位置も、測定の途中で顔を背けるところも思い出せた。今、知らない人の経過が、手の届くところへ並べられていた。


     *


 初めの一冊には、処置をする前の測定と、その後の観察が日付順に綴じられていた。導路損傷による魔力喪失。ニルは診断の行を読み、下に続く数値へ目を移した。応答のない期間が続いたあと、処置の日を境に、ごく小さな変化が現れる。初日の線だけなら、器材からの干渉を除かなければならなかった。けれど、その次にも、十日後にも、同じ側から戻る線があった。


「この方は、以前から魔力を使えていたんですね」

「事故の前にはね。従来の処置を受けたあとも、放出は戻らなかった」


 フェーンは前の頁を開いた。別の医師が記した診断と、事故以前に魔力を使っていたことを確かめた記載がある。


「痛みを抑えることはできても、断たれた導路を繋ぎ直すところまでは届かなかった。君の試片が示した迂回の可能性を、実際の損傷へ使っている」


 ニルは、その言い方だけで頷かなかった。測定を続けた期間を指し、検査器から魔力を送った記録があるか尋ねる。年嵩の軍医が、卓の中央へ別の検査表を出した。


「この二回は、私が診察しました。器材からの供給は切ってあります。本人の魔力で、水を入れた小さな器の温度を保たせた。最初は短時間で途切れましたが、二度目には、それより長く続いています」

「処置に使った器材で、そのまま測ったんですか」

「私の所属する医務室のものです。校正の控えも添えてあります」


 軍医は一緒に綴じた紙を開いた。ニルは測定の条件を読み、フェーンの記録へ戻った。似た形の線があるから、同じ現象だと思ったのではなかった。供給を切った時刻、反応が続いた時間、停止したあとに残る値。その間を順に追っても、本人の魔力が通ったことを否定する箇所は見つからなかった。


 観察欄には、患者が翌日、もう一度試したがったことも記してあった。うまくいかなかった時には器を替えてほしいと頼み、二度目の診察では、以前より長く保てたことを本人が先に口にしている。ニルはその数行を読み直した。失っていたことが戻った時、何を最初に試すのか。大きな魔法でなくても、水の冷える速さを自分で変えられる。そのために、次の日も器を持って待っていた人がいた。


「痛みは」とマレナが尋ねた。軍医は薬剤の欄へ指を置いた。

「投薬は継続しています。痛みの訴えは、処置直後より減っていますが、なくなってはいない。負荷を上げた時の熱と、疲労も残ります」


 ニルは薬を投与した時刻を見た。測定の線がよくなっていることと、薬を必要としなくなったことは、同じ記録ではなかった。それでも、温度を保った二回が消えるわけではない。


「効果がないとは言えないんですね」


 ニルが言うと、軍医は顔を上げた。


「ええ。私は、あると判断します。どこまで回復したと言うかは、日常の負荷を含めて経過を見なければなりませんが」


 フェーンはその返事を遮らず、二冊目を開いた。そこにも、処置前には見られなかった応答がある。条件は違い、戻る量も同じではなかった。最初の一冊だけを取り除いても、問いは残った。


 硝子板の上では、朝顔から得た成分と微細な魔力結晶で橋を作れた。作れても、繋がった状態を保つことができなかった。ニルの記録では、戻り始めた細い線が、やがて途切れる。目の前の紙は、そのあとにも日付が続いていた。紙の端を押さえる指へ力が入った。


「ここは、前の測定と条件が違います。負荷を小さくしただけですか。それとも、戻る側の角度を変えていますか」


 フェーンは、ニルが指したところを一度見ただけで、後ろから図を出した。


「角度を変えた。量だけを落としても、ここが保たなかったんだ」


 図の曲がる部分へ、細い筆で小さな数が添えてある。ニルは椅子から少し身を起こした。


「なら、戻りを先に抑えた時の測定も必要です。ここの反応が小さくなるのは、全体の量が減ったからではなくて、戻る先が狭くなるからかもしれません。見かけの値だけを揃えると、同じ条件として扱ってしまうので」

「その区別はつけているよ。君の古い記録にも、繰り返し出ていた」


 フェーンの指が図の下へ動いた。その先の頁を見るより早く、ニルは、セレドの小さな打合せ卓を思い出した。昼の説明では、どれくらい流せたかを先に言うよう求められ、まだ繋がっていない箇所を話す前に時間が終わった。図を片づけていると、フェーンが残った一枚を押さえた。量を増やした試験の方ではなく、少なくしたのに破れた方だった。


「ここの戻りを、もう一度説明してくれるかな」


 ニルは卓の端に立ったまま、試片の作り方から話し直そうとした。フェーンは首を振り、図へ羽ペンを置いた。


「そこまでは分かっている。君が、二つを同じ失敗に数えなかった理由が聞きたい」


 ニルは途中で止めた説明を、その箇所から続けられた。橋が残る時間は似ていても、剥がれた端が違う。量を戻しただけで回復する方と、先に向きを直さなければ戻らない方がある。話しながら新しい紙を探すと、フェーンが自分の手元の一枚を出した。


 羽ペンを受け取った時の、手の軽さを覚えていた。途中の言葉を急いで省かなくてよい。まだ名をつけられない違いも、指した場所から見てもらえる。ニルはその日の図を、あとから何度も使った。フェーンが書き足した数を消さずに、空いたところへ自分の線を増やした。誰に何を説明するかを考える時、あの卓で話した順番なら、最後まで届くと思えた。


 今の卓にも、同じ細さの字があった。ニルは図へ近づけた顔を、少し戻した。ラザルカのペンが動く音が聞こえ、隣のマレナが、こちらの指していた欄を見ている。自分がどれほど速く話していたかを、そこで初めて知った。カイが持ってきた紙を読んだ時にも、こんなふうに先を追った。痛みを訴える腕の前で、思いついた測定を重ねていた。


 


「君なら、これは失敗だけではないと分かるだろう」


 フェーンは笑いを足さずに言った。ニルの理解を確かめるように、図はまだこちらへ向けてある。失敗だけではない。そのことなら、さっき自分も口にした。回復があると認めた軍医の検査表が、図の隣に置かれている。ニルはそこへ目を落としたまま、息を吸った。声を出そうとするより、説明の続きを選ぶ方が簡単だった。


「失敗かどうかと、していいことかは別です」


 自分の声は思ったより低かった。フェーンは少し顎を引き、次を待つ顔をした。ニルは帳面を開いた。薬を止めれば痛むこと、出たいと言ったあとも出られなかったこと。カイから聞き、忘れないよう書いておいた問いがある。


「カイさんは、途中で戻りたいと言いました。それでも、薬を止めれば身体がもたないと言われて、帰れなかった。最初の説明で、その状態になると知らされていたんですか」

「募集時の説明を、私が行ったわけではない。契約と募集は、ヴェルク社の実務部門が担当している」

「では、説明されたかどうかを、あなたは確かめていないんですか」


 ニルが聞き返すと、フェーンは手を図から離した。


「提出された同意の書類は確認している。現場の説明に不足がなかったかは、会社へ照会しなければ答えられない」


 ラザルカが、今の返答を確認するために言葉を繰り返した。フェーンは頷き、「説明や契約の不備があれば、そちらで訂正すべきだと思う」と続ける。ニルは図の下へ目を戻しかけた。何を投じれば保てるかの話なら、フェーンは頁を開いて答えた。帰りたいと言った人の話には、確かめる相手として会社の名が出た。


「承認された範囲を越えた処置や、適切な同意を得ていない試験が指摘されています」とラザルカが言った。

「それについては、全て事実ではないとお答えになりますか」


 フェーンは、すぐには首を振らなかった。


「全ての現場手順が適正だったとは申し上げられません。治療研究には危険が伴う。従来の方法で回復しなかった患者に、新しい処置を試す以上、予測できない反応も起こる。その危険を、結果が悪かった例だけで判断することはできません」


 言葉は落ち着いていた。軍医の一人が、予測されていた危険を尋ねると、フェーンは投薬後の熱と拒絶反応について答えた。分からない部分を隠して、完成した治療だと言い張ってはいなかった。ニルには、説明の筋を辿ることができた。従来の処置が届かなかった場所へ、橋を伸ばす。その試み自体を、カイの痛みがあるから無意味だとは言えない。次の図も見たいと思っている自分が、まだここにいた。


「予測できなかった反応と、患者に知らせなかったことは、同じですか」


 マレナが尋ねた。フェーンは彼女へ顔を向けた。


「違います。だから、契約上の説明については、実務を担当した者の回答が要る」

「研究への参加をやめても、必要な薬を受け取れるようになっていたか。その回答も求めます」


 マレナの声は変わらなかった。


「薬を止めれば危険だと分かったあとにも、研究に参加し続ける以外の道がなかったのなら、書類を訂正するだけでは足りません」


 フェーンは薬剤の欄を開いた。


「処置後の薬を、簡単に別のものへ替えることはできない。そこは理解していただきたい」

「今、別の薬に替えろとは言っていません」


 マレナが答えた。ニルは、続けて何か説明しようと開いた口を閉じた。どうして替えられないかなら、自分も話せた。その説明を求められていたのではなかった。


「継続治療の手配を含めて、会社へ確認します」とフェーンは言った。ラザルカが確認事項へ一行足した。答えが来たわけではない。ニルは自分の帳面にも、回答待ち、と書いた。ペン先が止まったところで、さっき書いた戻りの角度についての問いが見えた。そちらの字は、行の間へはみ出していた。


     *


 休憩になっても、ニルは帳面を閉じられなかった。フェーンと軍医二人が窓側で処置後の検査について話し、ラザルカは残った軍医から控えを受け取っていた。卓の中央には図が伏せて置かれている。裏から透けた線の続きを、頭の中で繋げそうになって、ニルは自分の帳面へ顔を戻した。


 マレナが茶の器を置いた。持ってきた盆には、切ったパンもあった。


「食べておきなさい。午後も長くなる」


 ニルは礼を言い、器を寄せたが、パンへ手を出す前に、中央の綴りを見た。


「あの経過の写しを、申請してもいいですか。測定の条件を揃えて読みたいんです。今日の頁だけだと、薬を変えた時と、負荷を変えた時が重なるので」

「必要な範囲を書いて出しなさい。私から確認する」


 マレナは隣へ座った。


「持って帰れば早い、と思う前にね」


 ニルは伏せた図から目を離した。持ち出すつもりはない、と答えかけたが、今すぐ写せれば夜には比べられると、もう考えていた。元の記録まで見れば、次の朝を待たずに分かることがある。自分の手で確かめたい理由を、いくらでも並べられた。


「本当に、回復していました」


 ニルが言うと、マレナは茶を飲んだ。


「ええ。そこも残す」

「……続きを知りたいと思ったんです」


 口にしてから、パンの縁へ目を下ろした。焦げたところが少しあり、そこから欠片が落ちている。


「聞いている途中で、昔と同じように話していました。あの人には、最初から説明し直さなくても通じるので」


 マレナは窓側を見なかった。


「それで、質問をやめたの」


 ニルは首を振った。


「まだ、答えてもらっていません」

「なら、あとで続きを聞く。測定についても、帰れなかったことについても」


 簡単に言われ、ニルは器を持った。知りたいと思ったことを咎められなかったのに、胸の狭くなる感じは残っていた。フェーンが次の図を出した時、手の届く位置へ動かしてほしいと思った。カイの話を持ってここへ座った同じ手で、紙を押さえた。研究の話が通じるのを、嬉しいと思ったのだ。そのことを認めるのが嫌で、器を口へ運ぶのが遅れた。


 パンを一口食べると、茶がぬるくなっているのに気づいた。朝、家を出る前には、アルバが医務室へ寄る時刻を尋ねた。答えを聞いてから、帰りにも傷を見せるように言った。縫ってあるから済んだ話だと、あちらが思っているのは分かる。それでも、立つ時に手をつく場所や、身体を捻れないことまで消えたわけではない。ニルは茶を飲み、検査表の痛みの欄を思い出した。よくなった数値を見れば、その先までよくなった形に並べたくなる。自分は、そちらへ紙を動かすのが速かった。


 窓側で椅子が鳴り、フェーンが卓へ戻った。


「少し休めたかな」


 ニルは口の中のパンを飲み込み、器を図から離した。


「はい。あとで、測定条件の揃った経過をお願いしたいです」

「もちろん。君が気にしたところは、私も長く見ていた」


 フェーンは席へ下り、伏せた図を表に返した。ニルの方へ向ける角度は、休憩前と同じだった。


 


 再開してから、ニルは投薬の続いている期間を尋ねた。回復を確かめた患者が、その後どれほど薬を減らせたか。フェーンは記録の最後を開いたが、そこに離脱を終えた日付はなかった。


「今も観察を続けている。魔力が戻ったから、それで終わりにできる段階ではない」

「この方も、受けたいと思った期間より長く続けている可能性はあるんですね」

「本人の希望は、治療を受け持つ側へ確認しよう。今、私が答えられるのは、身体の経過までだ」


 ニルは頷く前に、答えを帳面へ書いた。観察を続ける必要はある。本人が何を望んでいるかは、この綴りを読んでも分からない。フェーンはその次に、橋を保てた期間について説明した。ニルは聞きながら、記された日付を追った。自分が作れなかったところを、誰かが先へ進めている。分かったから見たくなくなる、という形にはならなかった。


 ラザルカは、回復の示された記録だけでなく、同じ期間に状態が悪くなった例も照合したいと求めた。フェーンは必要な範囲を確認し、提出について返答すると言った。今日開いた三冊は、提出物として卓の向こうへ移された。ニルは手を出さず、受け取る軍医が図の向きを揃えるのを見た。自分の帳面だけを閉じると、挟んだ紙の端が、朝より多く外へ出ていた。


 会議室の戸が開き、廊下から冷えた空気が入った。軍医たちが先に出て、ラザルカはマレナと、回答を求める項目を読み直していた。ニルは椅子の背から鞄を取った。フェーンは空になった書類入れの留め具を掛け、戸口でこちらを待った。


「君の問いは、変わっていないね。量が出たところで、すぐ終わりにしない」

「患者の話への回答も、お願いします」


 ニルが言うと、フェーンは頷いた。


「今日求められたものは、正式にこちらへ返すよ」


 そう言ってから、帳面を抱えた腕へ目を移した。


「まだ完成したとは思っていない。だからこそ、どこを詰めるべきか分かる人と話したかった」


 ニルは返事を探した。今なら、図にあった一箇所を挙げられる。それを口にしたところから、また長い説明が始まることも分かっていた。


 案内の職員が廊下で足を止めた。フェーンはそちらへ顔を向け、一歩出る前に、もう一度ニルを見た。声は、昔、卓に残った図を押さえた時と同じだった。


「君が続きを見れば、もっと早く完成する」

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