第20章 責任者の欄
ラザルカは支出簿の頁を戻し、ヴェルク医薬工業の名がある三つの欄へ、細い紙を挟んだ。薬剤調製、測定器材、委託調査。別々の費目に記された額を手元の紙へ移すと、今期だけで終わらないことが分かった。前の期にも、その前にも、同じ参照番号がある。朝の参謀文書室はまだ窓際しか明るくなく、机の奥では書記が灯を点けていた。ラザルカは帳簿の角度を変え、金額の隣に小さく書かれた枝番号まで確かめた。
昨夜ローデンから届いた照会には、独自捜査を停止させた命令の写しが添えられていた。発行元も承認者も、アルバ隊へ普段命令を下ろす系統とは違う。ローデンが自分の受領経路を確かめる一方で、ラザルカには、その文書番号を予算側から照合してほしいと頼んできた。研究権利を受け取った会社と、その系列へ軍が何を払っているかは、先の週から調べていた。今朝は、別々に置いてあった二つの用件を、同じ机へ広げていた。
ヴェルク社の名は、ほかの頁にもあった。通常の薬剤納入には数量、受取部署、納入日が揃い、精製を請け負った分には検収の番号がある。ラザルカはその一件を、印を入れた欄の隣へ写した。比べたい三件には、支払いの承認印はあっても、品目と納入先が書かれていない。代わりに、局内取扱の別紙による、とあった。いずれも兵器技術局の予算から出ている。医薬品を扱う会社へ軍が金を払ったというだけなら、この厚い帳簿のどこを開いても見つかった。今、頁を戻させるのは、別の費目を使いながら、説明を同じ一枚へ預けている三件だった。
書記が、請求していた前年度の簿冊を運んできた。ラザルカは台の端を空け、重ねずに置いてもらう。「委託先の名前が、今のものとは違います」と言われ、法人登録の控えを出した。ルーヴェ薬剤研究社。ニルの旧研究がセレドから渡された先だった。資本関係が変わったあとの支出簿では、名をヴェルクへ替えているが、参照番号の前半は残っていた。
「会社が替わった時の変更届は」
「この欄から引けます。ただ、金額を変更した分と、受取名だけを替えた分があります」
書記は頁を開き、二つの番号を指した。ラザルカは両方を書き取った。古い方には、魔力障害回復療法・基礎資料整備、とある。最初の支払いは、研究権利の譲渡登録よりも後だった。二つの日付を並べてから、ルーヴェ社へ何の資料を整えさせたかを読むため、支出の根拠となる綴りを求めた。
書記は出納簿の索引を開いたが、該当する行へ指を置いたまま、棚へは向かわなかった。
「綴りは別の保管です。こちらで出せるのは、費目と金額の変更届までになります」
「根拠の契約も、別に」
「はい。兵器技術局の秘匿項目です。予算の総額はここにありますが、内訳の別紙は、閲覧の記録を付けて取り寄せることになります」
ラザルカは出納簿を自分へ引かなかった。停止命令の写しをその脇へ置き、同じ番号の頭を示した。
書記は二枚を見比べ、命令書の番号を別の用紙へ写した。紙を焼かなくても、総額と使い道を違う場所へ収めれば、片方だけ読んだ者には分からない。ラザルカが普段使う作戦予算にも秘匿の別紙はあった。それ自体で不正とは決められないが、支出を承認した者と、捜査を止めた者の所管が同じかどうかは、確かめる必要があった。
「支出根拠の照合として申請するよ。昨日の命令については、受領したローデン大佐からの照会も添えておく」
ラザルカは用紙へ目的を書き、求める範囲を契約、費目変更、責任者の記載まで広げた。書記は受け取った時刻を記し、返ってきたものは執務室へ届けると言った。
「戻せる時刻は、まだ申し上げられません」
「受け付けた控えをもらえるかな。こちらで待つものを残しておきたい」
一枚を受け取り、停止命令の写しと重ねた。上に自分の名を書いたことで、中にある頁まで読めるようになったわけではなかった。
昼の鐘までには、一般の支払綴りが揃った。三件のうち薬剤調製の分だけは、検収表がこちらにも残っていた。受取先は局の管理窓口で、調製する薬剤の番号が列になっている。ラザルカは、ローデンが添えたカイの所持品記録を開いた。四一七、その後に横線、〇六。表にある一行と、一文字ずつ比べた。札の向きまで描かれた所持品の記録に対して、検収表にあるのは文字と数量だけだったが、番号は全部一致した。
彼は該当する行だけを切り取って写すようには頼まなかった。前後の品目と、表の上にある契約番号、下の検収印も要る。書記が一頁を写すあいだ、ラザルカは、軍がその薬剤をヴェルク社へ調製させ、受け取った日を控えた。カイの腕へ実際に使われるまでの道は、この表にはない。それでも、軍の薬剤調達と関係があるかという、最初の照会に答えられる物が、ここには残っていた。
写しへ原本の所在を書き添えてもらい、ラザルカは帳簿を返した。台に広げた紙を片づけると、午前中ずっと隠れていた机の傷が現れた。窓の光も、そこまで届いている。執務室へ持っていく薄い綴りの表には、ヴェルク社の名と、兵器技術局の予算番号を並べて書いた。まだ返っていない秘匿の別紙については、その下へ、閲覧申請中、と残した。
*
セリュシアは執務室の窓側で、法人登録の控えを開いていた。朝の使いで照合を頼み、持ってきてもらったものだった。ラザルカが机へ綴りを置くと、彼女は鞄を足元へ下ろし、先に小さな包みを椅子の上へ移した。
「食べる物も持ってきたわ。あとでと言っているうちに、夕方になるでしょう」
「まだ昼だよ」
「今なら昼のうちに食べられるのよ」
彼女は契約の紙を窓側へ寄せ、机の端にだけ包みを開いた。
パンを一切れ取ると、少し冷えた指でも、まだ柔らかさが分かった。ラザルカは膝の布で手を拭き、ルーヴェ社からヴェルク社へ支払名を替えた日を示した。セリュシアの持参した登録の日より後だった。会社の変更を知らず、同じ仕事を二度支払ったという形ではない。番号は引き継ぎ、払う先も分かって替えている。
「この、資料を整える費用は、権利を買った代金なの」
と聞かれ、ラザルカは古い変更届を隣へ置いた。
「最初の契約が返ってくるまでは、そこは決められないね。ただ、名義を替えたあとも、薬剤と器材へ支出が続いている」
「もう終わった研究の資料を保管しているだけでは、薬は要らないわね」
「ああ。つまり今も動いている何かに、金を出しているってことだね」
ラザルカが検収表を見せると、セリュシアは番号ではなく、受取部署の欄を読んだ。
「軍の中で、受け取っているのね」
頷き、カイが持ってきた薬の札と一致することを伝えた。彼女はパンの包みを閉じ、書類から離れた椅子へ戻した。
ローデンが来たのは、その直後だった。卓上へ昨夜の命令書と、今朝受け取った発行記録を置く。アルバは少し遅れて戸口を通り、左側へ身体を傾けないよう、片足ずつ向きを変えた。腰に短剣の帯はなく、上着の前も普段より緩く留めてある。ラザルカが椅子を示すと、アルバは座る前に、机の検収表へ目を落とした。
「何が出た」
「座ってからでも読める」とローデンが言った。
アルバは返事をせず椅子へ下り、右手を机の縁へついた。
「医務室へは」
「見せた。朝に」
短い答えを聞いてから、ローデンは命令書を開いた。ラザルカはアルバの前へ検収表を回し、所持品の番号が一致したことと、支出元を伝えた。アルバは自分で記録した用紙の方を先に見た。
「四一七だけじゃなく、後ろもか」
「〇六までだね。この番号の薬剤を、局の窓口が受け取っている」
「それが、カイのいた所へ渡った記録は」
「この綴りにはないようだね」
アルバは二枚を重ねず、番号のところを横へ揃えた。襲撃者の報告は取らず、次に、ローデンの持つ命令書を見た。
大佐は承認欄の脇へ、発行記録を置いた。
「偽造ではなかった。番号も、発行部署も登録されている。兵器技術局が、特別案件の管轄を理由に出した命令だ。私に来る前に、通常の司令部で案件を整理した記録はない」
ラザルカはそこへ、予算の枝番号を書いた紙を添えた。局名だけでなく、下の所管番号も一致する。三つの支払いを、同じ別紙へ繋いでいた番号だった。
「私は、この治療試験を引き受けた覚えがない」とローデンが言った。
「患者の保護も、研究所周辺の警備も、こちらで始めた。上げた報告へ、別件として管轄するとの返答はなかった。それが今になって、独自捜査を止めろと来た」
アルバは命令の文を読んだまま、「保管庫が燃えた翌々日だ」と言った。ローデンは頷いたが、放火の報告と命令書を、同じ綴りには入れなかった。
「出した者が襲撃を指示したかは、まだ分からん。だが、捜査を止める側が、この研究へ金を出していたことは残せる」
ラザルカはその言葉を聞き、机に置いた照合表へ確認済みの印を足した。拘束具が軍の旧型だった時には、払い下げた先を調べる必要があった。今回も、金と薬剤が局からどこへ渡ったかは追わなければならない。それでも、軍の外で古い装備を買った者だけを探せば足りる案件ではなくなっていた。
アルバが、今後受け取る報告の欄へ指を置いた。
「隊から出せる照会は止まってる。窓口の受取人も引いた」
「停止は、現時点では続く」とローデンが答えた。
「保護と保全はそのまま維持してくれ。こちらから、軍医と外の研究所を入れた合同の照合を上申する。管轄を主張した局だけに、何を調べるか、誰に調べさせるかまで決めさせるわけにはいかん。」
大佐はラザルカへ顔を向けた。
「予算の方は」
「私の所管で、引き続き根拠を確認するよ。今日の閲覧申請も、もう受け付けられている」
アルバは、薄い受領の控えを手前へ寄せた。捜査の報告で使うものとは違う書式だった。
「これで、向こうの紙が出るのか」
「こちらが求めたものと、実際に出てきたものは分けて記録しておくよ。返さないというなら、その理由も記録に残るからね」
「いつまで待つ」
「今日中の返答を求めてはいるよ。ただ、向こうから確約はもらっていないね」
ラザルカが答えると、アルバは控えを戻した。
「分かった。こっちに残ってる分は、焼けた物と分けて渡す」
その声は短いままだった。ラザルカは受け取る物の一覧へ一行足し、現場にいた者の報告を、予算の額だけで置き換えないよう、別に紙を用意した。
午後の光が窓枠を越えた頃、文書室の書記が封じた綴りを持ってきた。届いた時刻を記した用紙へラザルカが署名し、閲覧者と持ち出しの範囲を確かめる。原本は室内でのみ閲覧でき、返す時刻も決まっていた。写しを取れる頁には、受け取る部署を記す必要がある。ローデンが自分の名を受領記録へ添え、セリュシアも契約照合の立会人として名を書いた。ラザルカは机のパン屑を布で払ってから、封を開いた。
古い契約の表題は、支出簿と同じだった。魔力障害回復療法・基礎資料整備。委託する範囲には、損傷導路再建に関する権利と記録の取得が含まれている。別紙の目録にある権利番号は、セレドからルーヴェ社へ移ったものと一致した。ラザルカは番号を読み上げ、セリュシアが持参した登録控えの該当箇所を開く。ニルを退所させた和解契約から、院の権利台帳、民間への譲渡、軍の支払いまで、今は同じ机で辿れた。
次の頁には費目変更の承認があり、基礎資料整備の名の下に、試験継続費をまとめると記されていた。その先から紙の扱いが変わる。頁の上端に極秘の印があり、外へ出す目録には計画名を記載しない、という注記が添えられていた。ラザルカは先ほどの予算番号を確認してから、その下にある題を読んだ。
黎明計画。
ローデンが椅子を寄せた。
「同じ番号か」
「古い費目から、こちらへ引き継いでいます。今の支出も、停止命令も、この所管です」
ラザルカは題のある頁を机の中央へ置いた。下には、ヴェルク医薬工業を実務の委託先とする記載がある。試験の細かな手順も、患者の行き先も、この予算綴りにはなかった。研究院を出た研究が軍へ入ったことを示す紙として、ローデンはそこへ自分の受領記録を並べた。
最後の承認頁を開くと、研究責任者の欄があった。アウレリオ・フェーン。記された活字の下に、本人の署名が続いている。ラザルカは二つを見比べた。会社の代表者でも、予算を承認した軍人でもない。取得した研究を使って試験を進める責任が、ここでは、その一人の名へ戻っていた。
「ニルに、確認を頼むよ」
ラザルカが言うと、セリュシアは書類から顔を上げた。
「今の制限のままで、見せられるの」
「原本を預けることはできないね。必要な範囲を記して、研究所へ正式に頼もう」
照合表とは別に、確認を求める紙を作った。古い研究名と、責任者の氏名、署名。その三つについて、ニルの知っていることを聞く。資料全体を彼一人へ戻すという申請にはしなかった。
使いが出てから、ラザルカは綴りの残りを読んだ。受領窓口と承認の経路は増えたが、カイがそこからどこへ送られたかを埋める頁はない。ローデンは合同調査の上申を書くため、机のもう一方を使った。アルバは襲撃報告の写しを読み直していたが、紙を取ろうと左へ身体を捻り、途中で右手を出し直した。ラザルカは報告を近くへ寄せた。
「その図は、広げたままでいいよ」
アルバが見上げ、少し間を置いてから手を戻す。机の上では、力を入れずに続きを待つ時間も必要だった。
*
ニルが執務室へ入った時、窓の外の旗は、下の端だけが夕方の光を受けていた。軍の門で確認書を見せ、案内された廊下には、研究所で聞く硝子器具の音がない。代わりに、どの戸の奥からも、紙を動かす低い音がした。机の向こうに姉を見つけてから、ニルは右側の椅子へ目を移した。アルバが座っていた。上着の前は朝、家を出た時と同じように緩く、左の肘も身体に近いままだった。
「朝のあと、もう一度診てもらいましたか」
挨拶を終える前に聞くと、アルバは顔を上げた。
「替えるのは夜だ」
「布を替える時刻ではなくて、傷を」
「朝に見せた。今も支障はない」
ニルは机の向こうへ回りかけ、ラザルカに示された椅子で足を止めた。歩いて来ていないことは、玄関前の軍の馬車で分かった。ここでまた上着を開かせる必要はない。アルバの手が脇へ戻らないのを確かめ、鞄を椅子の下へ置いた。
マレナからは、照会を受けた範囲について答えてよいと、書面を渡されていた。事件資料の閲覧制限は続いている。今回は、軍が保管する文書にある研究名と人物について、当時知っていたことを確認する。新しい解析を始める許可でも、預けた観察表を持ち帰る許可でもなかった。ニルは確認書をラザルカへ渡した。
「覚えていることと、記録を見ないと分からないことは、分けて答えるようにと言われました」
ラザルカは「その通りにしてもらえるかな」と返し、紙は受領の綴りへ入った。閲覧する頁と時刻を記した欄へも、自分の名を書いた。
卓上には、会社の登録控えと、予算の数字を写した紙が並んでいた。ラザルカは、支出元が兵器技術局であること、カイが持ってきた薬と一致する番号が軍の検収表にあることを説明した。ニルは所持品記録の図を見た。あの硝子の札を調べても、誰が使わせたかは分からなかった。その横へ今、調製を頼み、受け取った者の部署が加わっていた。「軍が、ここまで進めさせていたんですか」と尋ねると、ラザルカは、予算で試験を続けていたことは確認できる、と答えた。
「この綴りには、処置の手順はありません。番号の一致だけで、腕に何をしたかまで決めることはできない。ただ、研究を取得する費用と、今の試験への支出は繋がっています」
ニルは頷き、示された目録の番号を読んだ。姉から受け取った別紙と同じものが含まれている。知らない誰かが公開論文を読んだだけではない。院に置いてきた作業記録まで、使える権利を引き継いでいた。その先を、軍が払った費用で作っている。
頁の上にある黎明という字へ、目が止まった。カイの腕にも、硝子板の上に作った試片にも、そんな名はついていなかった。ニルは、計画の対象を探すためにその下を読みかけたが、ラザルカが次の頁を置いたので、そちらへ顔を向けた。
「責任者の記載だよ。この人物に、覚えはあるかな」
アウレリオ・フェーン。
ニルは紙へ伸ばしかけた手を、机の端で止めた。題の下に、名がある。読み違いか確かめるには、初めからもう一度辿ればよかった。アウレリオ、フェーン。姓も、名も変わらない。研究責任者という欄の中にあっても、それは知っている人の名前だった。部屋の向こうでペンが止まる音がした。ニルは顔を上げず、活字の下に続く細い線を見た。
「知ってるのか」
アルバの声で、息を止めていたことに気づいた。ニルは机の縁から指を離した。
「昔、一緒の研究院にいました」
声は出たが、紙の方へ戻す視線の速さを、自分で決められなかった。
「セレドにいた、先輩の研究者です。植物の部門ではなくて、魔法生理の方に」
ラザルカは白紙へその所属を書き、在籍の時期を尋ねた。ニルは自分が会っていた頃を答えた。退所後、いつどこへ移ったかまでは知らない。その分は、知らないと言った。
署名の最後が、少し上へ返っている。日誌へ書いた自分の字とも、エゼルが承認欄へ書く太い名とも違った。小さな図の脇へ、この筆で数字を足してもらったことがある。ニルはその線の先を、指でなぞりかけてやめた。紙の上には、何を理解してもらえたかではなく、誰が責任を持つかが書かれていた。それでも、覚えている手つきだけを、別の人のものへ替えることはできなかった。
「同じ試験をしていたのか」とアルバが聞いた。ニルは首を振った。
「この計画のことは知りません。僕がいた時の研究について、話したことがありました。橋を作る式や、戻るところの条件を」
言いながら、いつもの説明の速さへ戻ろうとしたが、その先に並ぶ言葉が決まらなかった。フェーンは、途中の条件を省かせなかった。まだ結果の出ていない箇所を話しても、どこで止まっているかを、もう一度初めから説明する必要がなかった。
「僕の研究を、よく理解してくれる人でした」
言ったあと、誰もすぐには次を尋ねなかった。ニルは、昔の話です、と付け足したくなった。今の計画に関わっていたと知っていたわけではない。カイへ薬を渡したことも、軍の金で何を作ったかも知らなかった。その説明ならできる。けれど、研究の話が通じたことまで、今日初めて見た名のように扱うことはできなかった。
姉が机の向こうで手を動かした。紙を閉じるためかと思ったが、窓から来る風で浮いた登録控えへ重しを置いただけだった。アルバは署名の方へ目を下ろし、もう一度ニルを見た。
「いつから、ここを受けてた」
「この紙から分かるのは、責任者として承認した日付までだね」とラザルカが答えた。
「それ以前の関与については、別に確かめる必要がある」
「院にいた頃の記録も要るな。何を、どこまで知ってたか」
アルバはそう言い、ニルが答えようとすると、「覚えてないところは、あとでいい」と続けた。ニルは日付を読んだ。自分が退所したあとだった。そのことは分かったが、ここに名を書いた日のフェーンが、何を見ていたかまでは分からなかった。
机の端には、ニル自身の名を書いた確認書も置いてあった。人体に使う試験ではないと説明し、別紙を待っている古い承認書が、頭に戻る。今見ている紙にも、ここへ載っていない続きはある。ニルは署名だけで、カイの腕へ何を命じたかを全部読もうとはしなかった。ラザルカが在籍時期を確認しても、記憶のない日付を埋めなかった。それでも、この名前の主を知らないとは答えられなかった。
確認を終えた用紙へ署名してから、ニルは羽ペンを置いた。ラザルカが原本を返すために綴りを揃え始める。残る頁の数を確かめる間、研究責任者の欄だけは、まだこちらへ向いていた。ニルはその細い字を見た。自分が作れなかった続きを進める責任を、この人が引き受けていた。紙が重ねられる前に、最後の文字が上へ返るところへ、もう一度目を留めた。
「この字、覚えています」




