第19章 命令の上の名
カイの右腕を載せた枠は、寝台の縁へ固定されていた。エドが下の留め具を締め直すあいだ、同乗する医師が二枚の片を見比べる。アルバは馬車の開いた戸の脇に立ち、枠と壁の間に残った幅を確かめた。外へ運び出す時には、ここから二人の手が入らなければならない。医師が測定の数を記すと、カイは左手で掛布を下げた。
「今度は、どこへ連れてくんだ」
「治療院だ。ここの医師も行く」
アルバが答えると、カイは馬車の奥に座った助手を見た。薬の箱はその足元にあり、引き継ぐ記録は別の革袋へ入っている。
「また、着いてから違う薬にするのか」
「今朝までと同じものを持っていきます」と医師が言った。
「向こうへ着いたら、まず、今の値と比べる。途中でも測るので、腕はこのままに」
カイは枠の縁へ左手を置き、戸口から見える研究棟へ顔を向けた。
「あの学者は」
「ここにいる。記録は研究班が渡した」
アルバは戸に手を掛けたが、まだ閉めなかった。カイが医師へ薬の量を尋ね、その返事を聞き終えてから、外の兵へ合図した。
承認書の写しが新聞へ出て、三日目だった。患者のいる研究所は、記事が出る前から追跡者に知られている。今朝も受付には、取材や見舞いを名目に、カイへ会いたいという者が来ていた。治療を移す先は医師と研究所が決め、ローデンはその建物の警備を引き受けた。アルバは今朝の移送表を畳み、グラントへ出発を告げた。
キースが先に角を曲がり、サーラは車の後ろへついた。エドが戸の内側へ最後に顔を入れ、枠に緩みがないことを確かめてから、外の踏み台へ移る。アルバは車の左側に馬を寄せた。治療院までは、普段なら一時間ほどの道だったが、段差のある橋を避けるため、今日は運河に沿って南へ回る。揺れが続けば途中で止める。そう決めた道順を、御者にも、後ろの兵にも同じように渡してあった。
石造りの倉が並ぶ通りへ入ると、車輪の音が壁の間で響くようになった。庇の下には袋を積んだ荷車があり、先の角では、樽を運ぶ二人が道を空けている。アルバは上階の窓へ目を移した。開いているのは一つだけで、干した布も、荷を吊るす綱もない。その下をキースが通り、先の横道を見てから、こちらへ片手を上げた。
角の先で荷車が横倒しになっていた。袋は道の半分に散り、残った幅へ馬車を入れれば、車輪が縁石へ乗る。アルバは御者へ止まれと合図し、荷車の向こうを見た。転がった袋を拾っている男は、重い底を持たず、口の紐だけを掴んでいた。キースも近づかず、荷車の陰から出る足を見ている。
「下がれ。車の左右を空けろ」
男の手が袋を離した。上階の窓で白いものが動き、アルバが馬の首を引いたところへ、細く束ねた魔力が落ちた。石の継ぎ目が砕け、馬車の屋根へ次の一撃が当たる。サーラの障壁が張られたのは、その破片が御者へ落ちる前だった。樽を運んでいた二人は荷を捨て、後ろの道へ棒を渡した。退く方も塞いである。
アルバは馬を兵へ渡し、車の戸へ背をつけた。「エド、中へ。サーラ、上。グラント、後ろを開けろ」戸を細く開けてエドを入れる間に、窓からの打撃がもう一度来た。サーラが面を傾け、光を屋根から壁へ逃がす。そちらへ力を使わせた直後、荷車の陰から三人が出た。先の二人は車の左右へ分かれ、最後の一人だけが御者台へ向かった。
キースが最後の男の前へ出た。手首へ短い棒を当て、御者の足へ伸びた鉤を外へ落とす。アルバの側へ来た男は、キースにも、サーラにも顔を向けなかった。短い剣を低く持ち、車輪とアルバの膝の間へ刃を入れる。アルバがその腕を蹴り上げると、もう一人が反対側の戸を引いた。開かないと分かるまでの間が短く、すぐ留め金へ刃を掛けた。
「戸から離れろ」
アルバは中へ言い、こちらの男の剣を短剣で受けた。刃を合わせたまま押せば、男の背を荷車へ当てられる。だが、男は押し返さずに身を引き、足元から細い鎖を投げた。鎖が短剣の柄へ掛かる前に腕を返すと、今度は頭上の光が、戸の取っ手を正確に打った。木が裂け、中から医師の声が聞こえた。
狙いは車を止めることだけではなかった。開いた隙間へ男の手が入り、内側の掛金を外す。アルバは踏み台へ片足を掛け、その肩を掴んで引き戻した。男が戸を離さずに身体を捻ると、壊れた板が広く開いた。助手が革袋を胸へ抱え、エドはカイの寝台の足元へ立っていた。カイの顔が上がり、右腕の細い線が濃くなる。
「枠は動かすな」
アルバが言った時、後ろで木の割れる音がした。グラントの兵が、渡された棒を外へ倒している。だが、車の反対側でも戸が開いた。男が助手の肩を押し、革袋の紐へ刃を当てる。エドがその手を払うと、袋だけが床へ落ち、次の手はカイの襟へ伸びた。資料と患者を、別々の側から取ろうとしていた。
アルバは掴んでいた男を車輪の前へ押し倒した。踏み台を越え、カイを引く腕へ短剣の柄を当てる。男の指が襟を離れ、カイの肩が寝台へ戻った。医師が枠を押さえるのを見てから、アルバは空いた戸へ身体を入れた。右腕だけを強く抑えても、カイは守れない。片の角度が崩れれば、その先の処置まで失う。エドが床の袋を助手へ戻す間、戸の外から来るものは、ここで受けるしかなかった。
頭上で、サーラが短く声を出した。窓の隣の屋根にも一人いる。そちらの光が、開いた戸の中へ向いた。アルバは車の外へ障壁を押し出し、屋根から来る打撃を受けた。面が鳴り、肩へ重みが掛かる。同時に、車輪の陰で倒れたはずの男が立った。低いところを通った刃は、障壁の内側へ入り、アルバの左脇を引いた。
息を吸う前に、そこだけ皮膚が冷たくなった。男は刃を戻してもう一度寄ったが、アルバは右肘をその顎へ当て、短剣で手の甲を払った。剣が落ちる。屋根の一撃が弱まったところで障壁を切り、空いた力を男の足元へ落とした。膝が石へつき、手を伸ばしても立てなくなる。その向こうで、別の男がカイへ向けて刃を投げようとした。アルバは戸板を引き、その腕との間へ入れた。刃は木を貫き、寝台までは届かなかった。
「出るぞ。後ろだ」
グラントが棒を退け、馬車を通せる幅を作っていた。御者は手綱を握ったままで、キースが馬の脇から男を一人倒している。サーラが屋根へ光を返すと、窓にいた影が奥へ引いた。アルバは壊れた戸を押さえ、エドが枠の位置を確かめたのを見てから、御者へ車を戻させた。車輪が半回転する間にも、後ろから二人が来た。グラントの兵がその間へ入り、片方の剣を落とした。
荷車の向こうで、口笛が一度鳴った。屋根の男が姿を消し、前にいた者も横道へ引いたが、車へ近い男だけは動かなかった。次の打撃は屋根ではなく、板の割れ目から見える寝台の高さへ来た。アルバは車の側面に力を広く掛け、戸ごと受けた。取り出せないなら、その場で殺すつもりか。光が消えるまで押さえ、残った男の足をサーラの障壁が止めたところで、アルバは車から離れた。
「追うな。患者を出す」
キースへ伝えると、彼は横道から目を戻し、御者台の前へ走った。アルバも踏み台へ上がりかけたが、左の脚へ力を入れた時、脇腹が深く引かれた。片手を車へつき、足を置き直す。グラントがこちらを見て、壊れた戸より先に、腰の濡れたところへ目を下ろした。
「隊長、それは」
「あとだ」
アルバは戸を持ち上げた。
「カイの腕は」
「枠は保ってます」
中からエドが答えた。その返事を聞いてから、アルバは外の兵を数えた。一人は前腕に布を当てている。もう一人は膝をついていたが、自分で立ち、御者の脇へ戻った。人数は減っていなかった。拘束した襲撃者は残る兵へ渡し、サーラの障壁の下を、馬車が後ろの広い道へ抜けた。
治療院の門へ着いた時には、アルバが押さえていた服の上から、エドの布が重ねられていた。車が動き出すとすぐに、彼は中から傷を見るために出てきた。「擦っただけだ」と言っても、布を剥がした手は止まらなかった。
「それ、俺が納得すると思いますか」
低い声のあと、傷の上へ厚い布が当てられた。カイを降ろす時には、グラントが戸を持った。アルバは開いたところへ手を残していたが、枠を運ぶ者に呼ばれず、そのまま下ろした。
医師が引継ぎの値を読み、助手が革袋から記録を出した。薬の箱も、紙も、カイの枠と一緒に中へ入った。カイは門を抜ける前にアルバへ顔を向けたが、何か言うより先に、寝台が戸口を通った。アルバは搬入が終わったことを記した紙を受け取り、研究所への使いを出した。自分の傷は軍の救護記録に残せばよい。それより先に、カイが着いたことを知らせる必要があった。
*
翌朝、証拠保管庫の前には、濡れた紙が桶ごと運び出されていた。軍基地の別棟を囲む縄の外から、アルバは崩れた窓を見た。奥の棚は黒く、どの段に何があったかは読めない。脇腹には昨夜、洗って縫われた傷があり、呼吸するたび、巻かれた布が肋骨の下へ当たった。腹の中までは達していないとエドに言われたが、寝台を離れるところは、見られないように出てきた。
放火を知ったのは、治療院から基地へ戻ったあとだった。保管庫にいた兵が医務室へ来て、襲撃が始まった頃、こちらでも火が出たと告げた。見張りの一人が裏手で殴られ、物置へ倒れていた。油の染みた布は、紙を収めた棚の内側にもあり、開けた窓から、焼けた頁が庭へ落ちていたという。
グラントは縄のそばで、保管係の一覧を受け取っていた。河岸倉庫から出た帳簿二冊、紹介票の原本、まだ照合を終えていない送り状。昨日まで、ここにあった物の名が並ぶ。写しを取った分もあるが、押印や綴じ方まで確かめていなかった束も残っていた。アルバは二冊目の帳簿の欄へ指を置き、保管係に、表紙だけでも見つかっていないか尋ねた。
「いま分けています。頁が貼りついて、開けられない物もあります」
「急いで剥がすな。読めるところを先に残せ」
係が台へ戻る間、アルバは出納係の部屋に残った受渡しの記録を読んだ。何が保管されていたかは分かる。中身を、同じ形でもう一度確かめられるとは限らなかった。
キースが持ってきた図には、襲撃者の消えた横道が書き足されていた。道へ倒した袋は、表だけ穀物で、中には石が入っていたという。上階の窓の借り主は戻っていない。
「窓と屋根は、別に数えろ。どっちへ消えた」
「二人とも裏です。車を狙った者とは、引く道が違います」
頭上へ力を使わせ、その下で戸を開ける。前を塞いだ者が引く間に、近い者だけが患者を狙う。河岸で帳簿を取り返そうとした男たちとは、動きが違った。軍服を着ていないことは見ていたが、それだけで訓練を受けていない者とは言えない。アルバは襲撃の始まった時刻と、保管庫で煙を見つけた時刻を並べた。両方の襲撃者を見たという報告はない。それでも、片方の騒ぎを聞いてからもう片方へ走れる距離ではなかった。
「捕まえた連中の身元は」
「名は二つ出ましたが、確認はまだです。持ち物に、所属の印はありません」
「武器の寸法も残せ」
キースが図を広げると、風で角が持ち上がった。アルバは左手を出しかけ、傷に引かれて止めた。グラントが代わりに重しを置き、「戻りますよ」と医務室を指した。
詰所へ戻る途中で、グラントが別の封筒を出した。
「昨日、届くはずだった分は、まだです」
アルバは差出人のない紙を受け取った。二日前、軍の押収品受付へ来た手紙だった。カイへ論文を渡した者だと書いてあり、紙を隠させた場所も、本人の説明と合っていた。送り主の名はない。次は、薬剤の受渡しを記した控えを届ける、とあり、昨日の日付と、市内の使いの窓口が指定されていた。
窓口へ来たのは、軍の受取人だけだった。日が落ちても包みはなく、今朝も同じ返事だったという。
「取り違いは」
「前後の日付にも、ありません」
アルバは受取人の報告を重ねた。カイが話した女と同じ者だと、まだ確かめられない。その確かめる相手まで、連絡の先から消えていた。
午後も使いは戻ったが、包みは来なかった。翌日、承認書が出回って五日目になっても、その欄は空いたままだった。エドに傷を見せてから詰所の椅子へ戻ると、カイの治療は新しい院で続いていると報告が来た。アルバはそれを記し、失った物と、待っている返事の一覧へ重ねた。
昼を過ぎて、キースが薄い報告を置いた。倉庫の近くで、少年を尋ねる者がいたという。連れていった軍人の名、子供の髪の色、背にある痕。その上、服で見えない腹のことまで知っていた。
「臍がない、と言ったのか」
「はい。男に知っているか聞き、そういう子供だと、向こうから」
キースは聞き取った順番を指した。アルバは、焼けた保管庫の一覧を手前へ戻した。翼痕、臍なし。厚い帳簿にあった二つの言葉を、自分もニルもあの倉庫で読んだ。押収した後は、軍へ報告を上げている。帳簿が燃えたから、そこにあった情報までなくなるわけではなかった。
「住んでる場所は、答えたか」
「知らないと。尋ねた者の名も、取れませんでした」
「家の近くで尋ねられた話は」
「今のところはありません」
アルバは自宅のある区画を別紙へ書き、当直の兵へ渡した。外から来る者を見させる。少年がいる家の門へ、人を立たせることを、先に決めた。ニルにも知らせる必要はあったが、返事を待つ用件にはしなかった。
その紙を渡し終える前に、当直士官がローデンからの通達を持ってきた。導路治療の案件について、アルバ隊による独自捜査を停止する。関係者への接触、記録照会、新しい現場の捜索は、以後、別途承認を要する。患者の警備と、押収物の保全は続ける。アルバは最後まで聞き、「大佐は」と尋ねた。
「呼ばれている。戻ってから、命令書の写しを渡すそうだ」
士官は受領欄のある通達を卓へ置いた。
「上から管轄を整理する、と。今出ている兵は、保護と保全の分だけ残せ」
アルバは紙を読み、キースがこれから行くつもりだった使いの窓口の名を見た。返事を待つために置いた人員まで、引き揚げることになる。
「捜索の分は戻す。受け取った報告は、日付をつけてここへ」
答えると、士官は頷いた。
受領欄へ名を書き、ローデンへ、襲撃、放火、連絡の途絶、少年への聞き込みをまとめて回す。次の照会を自分で出せなくなったことも残した。家の警備には、既に保護している子供への対応として申請を添えた。
夕方、エドはもう一度、上着の下の布を確かめた。
「帰るなら馬車です。明朝も来てください。走らない、荷を持たない。傷が開いたら、また縫うことになります」
アルバは寝台の端へ置いた革帯を取った。エドがその手を見て、「それも、今日は持つだけに」と付け加えた。腰へ締める位置は傷に近い。グラントが革帯ごと短剣を鞄へ入れ、車の用意はできていると言った。
*
家の戸を持ち上げようとして、アルバは左の脇へ力が掛かったのを感じた。内側から取っ手が動き、戸が開く。布を持っていたニルの目が、顔から足元、それから、脇へ添えた左手に下りた。
「カイさんは、着いたと聞きました」
「着いた。治療も続いてる」
ニルは頷いたが、道を空ける前に、もう一度こちらの手を見た。
「どこか、痛いんですか」
「切った」
「どこを」
左の脇を示すと、ニルの手から布の端が落ちた。
「座ってください」
医師へ測定位置を直させる時の声だった。アルバは靴を脱ぎ、上着を掛けようとしたが、袖を抜く途中で身体が傾いた。ニルが手を出しかけ、止める。
「袖を、持っていいですか」
「いい」
返事をすると、肩から布だけを引いて外した。
居間の卓には、植物の帳面が一冊あった。ニルはそれを閉じ、椅子を引いた。
「少年は」
「姉様の家です。ヴァレットと、夕方まで外へ出る予定だったので。食事も向こうで、と」
アルバは頷き、鞄を床へ置いた。ニルはその鞄を見ず、座るまで待ってから、シャツの裾を少し上げてよいか尋ねた。見せれば済むと思い、自分で持ち上げると、巻かれた布の端が出た。
「少し擦っただけだ。縫ってある」
ニルの指が、布へ触れる前に止まった。アルバはどこまで言えばよいか考え、傷は腹の中までは入っていないと付け加えた。すると、ニルは顔を上げた。
「それで、擦っただけと言っているんですか」
「今は塞がってる」
「どれくらい、切れたんです」
長さを指で示すと、ニルの口が一度開き、閉じた。いつものように笑ってから話を終える顔ではなかった。
「穴が開いているものを擦っただけとは言いません」
アルバはシャツを下ろしかけた。ニルが「まだ」と言うので、裾を持ったままにする。巻かれた布は、肋骨の下から腹の脇まで重なっていた。「死んでない」と答えると、ニルの眉間へはっきり線が寄った。
「基準がおかしいです」
返事が速く、アルバはその後に続ける言葉を失った。エドには何度も似たことを言われているが、ニルから、こちらへ向けられるとは思っていなかった。
「いつ切ったんです」
「一昨日」
「その日に、縫ってもらった」
「ああ」
「誰に」
「エド。軍医も見た」
ニルは布を解かず、巻き方を見た。
「今日も、診てもらいましたか」
アルバが答えるたび、次に尋ねられることが変わった。手当てをしてあると言えば終わるつもりだったが、今は、一つ答えても椅子を離れられなかった。
ニルは湯を入れた器を持ってきたが、卓へ置く時、底が強く鳴った。自分でもその音を聞いて驚いたように、器から指を離すのが遅れた。
「家には、知らせなかったんですね」
「軍で処置した」
「だから、こちらには必要ないと」
アルバは黙った。カイが治療院へ着いたことは知らせた。負傷の記録は別に出した。その二つを分ければ済むと思っていたが、ニルの目は、まだシャツの裾へ戻っていた。
「明日、普通に出るつもりだったんですか」
「医務室へ行く」
「その後は」
「命令を渡す」
ニルはその返事を聞いてから、上着を空いた椅子へ移した。アルバが拾うために屈まなくてよい位置だった。
「今日は、何をするなと言われました」
ニルが尋ねた。アルバはエドの言葉を繰り返した。走らない、荷を持たない、傷が開けば戻る。ニルは最後を聞いて顔を上げた。
「開くまで、何をしてもよいという意味ではありませんよ」
アルバは器を取った。こちらが言ってもいない答えまで退けられ、言い返そうとして、器の湯がまだ温かいことを先に感じた。ニルは立ったまま、器の脇へ指を添えていた。
風呂の水を廊下へ飛ばした時にも、こういう声で叱られた。けれど、あの夜は、言い返すうちにニルが笑った。今は口の端に力が入り、空いた手が、卓の縁へ何度も置かれる。怒っているのに、アルバが身を動かすと、話を止めて傷の方を見た。そのたびに続きを待つことになったが、早くやめろとは思わなかった。
「カイの前に出た。腕を引かれてた」
アルバは言った。傷をつけた理由なら伝えられる。ニルはすぐには答えず、卓の水差しへ目を下ろした。
「枠は、外れませんでしたか」
「外れてない。薬も、記録も渡した」
「そうですか」
息が長く出たあと、顔がこちらへ戻る。
「それで、あなたが切られたことまで、済んだ話になるんですか」
あの戸口へ誰が先に入れたか、今考えても自分だった。屋根からの一撃を受けなければ、中の寝台へ届いていた。アルバは傷の上から手を離した。
「前へ出る必要はあった」
「ええ。だから、何をされても構わないんですか」
ニルは声を少し落とした。
「帰ってきて話せるうちだけ、そう言っていられるんですよ」
アルバは器を卓へ戻し、指を取っ手へ残した。カイも、自分も、部下も生きている。ニルはその結果を聞いているのに、まだ怒っていた。傷を見せているだけで、ここまで顔を変える理由を、上手く扱えなかった。だが、早く話を終えたいとも思えず、シャツを下ろしてよいか尋ねた。ニルは頷き、裾が布へ引っ掛からないよう目で追った。
「何か食えるか」
アルバが聞くと、ニルは台所を見た。
「温めます。座っていてください」
鍋を取りに向かう足はまだ速かった。アルバが椅子を動かすと、戸口で振り返る。
「何を取りたいんです」
「匙」
「僕が持ってきます」
そう言われたので、アルバは椅子を戻した。軍ではエドに、家ではニルに同じことを言われる。器の湯をもう一口飲み、戻ってくる足音を待った。
煮込みは二人分より多く残っていた。ニルは先にアルバの椀を置き、自分の分をよそってから、向かいへ座った。帳面は閉じたまま、窓側へ寄せてある。「普通の研究は」と聞くと、ニルは匙を取る前に頷いた。
「続けています。承認書の別紙は、まだ返事を待っています」
アルバは椀の中を見た。待つものは、あちらにも残っていた。それでも、今夜ニルが先に確かめたのは、自分の傷だった。
少年を尋ねる者がいたことと、家の近くへ兵を置いたことを伝えると、ニルの匙が止まった。
「身体の特徴まで、知っていたんですか」
「倉庫の帳簿にあったものだ。住んでる場所まで知ってるかは、まだ分からん」
「姉様にも知らせないと」
「使いは出した」
アルバが答えると、ニルは頷きかけ、いま家の外へ出て確かめるつもりはないかと聞いた。「出ない」と返すと、匙はまた椀へ入った。
食べ終える前に、門の方で靴音が止まった。アルバが立とうとすると、ニルも椅子を引いた。
「座っていてください。外の方でしょう」
兵が戸の向こうで軍からの使いだと告げるのが聞こえ、ニルは玄関へ行った。戻ってきた手には、ローデンの印のある封筒があった。アルバは受け取り、器を遠ざけてから封を切った。
停止命令の全文と、受領した時刻を記した紙だった。ローデンは下の余白へ、明朝、署名と承認の経路を確かめる、と短く添えていた。アルバは本文より先に、その下の名前を読んだ。大佐の署名の横には、通達と記されている。
ニルが空いた封筒を押さえ、「今日来たものですか」と尋ねた。「捜査を止めろと」アルバは答え、上の承認欄へ指を移した。ローデンが普段命令を受ける司令官の名は、どこにもない。別の文書番号の下に、知らない署名があり、そこから大佐へ命令を下ろした形になっていた。ローデン自身も、この紙を受け取っている。アルバは端を持ち、灯へ近づけた。自分たちへ捜査を止めさせた署名は、いつも命令を受けている指揮系統の中にはなかった。




