↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Ipomoea  作者: Tanahituzi


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/24

第18章 署名の外の頁

 承認書の下には、ニルの名があった。マレナが卓へ置いた紙は、上の題と日付、途中の数行、それから署名欄を一枚へ収めていた。綴じ穴のある側が切れている。ニルは日付を読み、自分の名の最後へ伸びた線を見た。筆を引く途中で紙の傷に先が掛かり、最後だけ線が二つに分かれている。何を書いた時のものか、そこを見れば思い出せた。


 紙に添えられた今朝の新聞には、導路再建試験の承認者として、ニルの名が挙げられていた。王立セレド総合魔法研究院で立案し、現在はエヴァンで患者の解析を担当している者。記事は、過去に本人が指揮した試験を、自分で調べているのではないかと問うていた。カイの名はなかったが、右腕に人工の導路がある患者という記載はあった。ニルは新聞を戻し、切り取られた書類へ指を置いた。


「これは、僕が書いたものです。でも、人に使う試験ではありません」


 言うと、マレナは羽ペンを取った。


「この紙だけで、どこまで分かる」

「植物から切り出した試片を繋ぐ計画です。戻り側の条件を変えて、硝子板の上で測りました。承認したのは、その手順と、使う量です。対象は別紙にあります」

「別紙は、これにはない」

「ええ。ここにも、別紙の試験計画による、と残っています」


 ニルは細い字を示した。紙には確かにあった。けれど、その言葉から辿る頁は、卓のどこにも置かれていなかった。


 セリュシアが退所時の契約を持ってきた朝から、二日が経っていた。成果の権利はルーヴェ薬剤研究社へ譲渡され、同社は現在、ヴェルク医薬工業の系列にある。登録の写しはマレナにも渡したが、実際に引き渡された作業記録の範囲は、まだ回答を待っていた。院の外へ調査を広げるところへ、ニル自身が試験を承認したという紙が戻ってきた。


「どこから出たんですか」

「新聞は、資料の提供を受けたと書いている。差出人は明かしていないわ。こちらの受付にも、同じ写しが届いた」


 マレナが見せた封筒にも、差出人はなかった。


「今朝、所長と確認した。調査が済むまで、あなたの事件関連資料の閲覧を一時制限します」


 ニルは封筒の口を見たまま、手を動かさなかった。


「僕の観察記録もですか」

「案件の綴りへ入ったものは、同じ扱いになる。原本と照会で受け取った資料は、保管の担当を分けるわ」

「記録を直すつもりはありません。今ある値を、別の条件で計算し直したいだけです」

「それを、あなたの判断だけで続けられないようにするの」


 マレナは先ほどの紙を伏せた。


「あなたを疑っていると言っているんじゃない。手続き。私が説明に納得しただけで、調査を終わらせることはできない」


 ニルは頷いた。原本の所在や、持ち帰った写しと下書きの区別を聞かれれば、答えられる。


「分かっています。調査なら、仕方ありませんね」


 口元を緩めると、マレナの目が紙から戻った。「大丈夫です」と続けた声も、いつも通り出た。いま取り戻せと言っているわけではないと、伝わるはずだった。


「あなたの所属を外す話ではないわ。通常の研究は続けていい。カイの処置も、医師と研究班が引き継ぐ。薬を急に変えることはしません」


 ニルは最後の言葉へ先に頷いた。昨夕の値では、戻る側の反応が、二度目の測定だけ少し遅れていた。今朝、比較しようと思っていたところだった。


「その遅れを、トーマさんにも見てもらわないと。片の位置だけで補正すると、幅が狭くなりすぎます」

「書いて渡して。患者のところで今朝変えたものはある?」

「ありません。昨夜の配置のままです」


 マレナはその返事を記し、別の用紙を手前へ寄せた。


「まず、この承認書について、当時何を承認したか、覚えている範囲を書いてください。原本と別紙は、研究院へ正式に取り寄せる。記憶だけで全部を埋めなくていい」


 ニルは紙を受け取った。署名を否定する必要はない。作った橋は短い時間しか保てず、人体へ使う計画を自分が承認したこともない。その二つを書けばよかった。日付を写すために承認書を表へ返すと、切れていた左端に、研究費の申請番号が残っていた。


 


 この番号を、あの夕方にも控えていた。ニルは紙を押さえた親指をずらした。古い承認書に名を書く時、次の期に使う試料は揃っていなかった。申請の返事が遅れ、栽培係から、同じ条件の株を残すなら今週中に知らせてほしいと言われた。先に温室の場所だけを空けてもらい、主任の印を貰うために待った卓にも、この番号があった。


 夕刻、支援者の男へ会いに行った時には、承認書の控えを鞄へ入れていた。屋敷の窓は庭へ向き、部屋にはもう灯が入っている。男は図の戻り側へ指を置いた。「こちらが、今度の成果になるのかな」と聞かれ、ニルは、まだ比較する条件だと訂正した。測定の順番を説明すると、男は紙を卓へ戻し、「君の話は細かいね」と笑った。


 その笑い方で、研究の説明はそこまでなのだと分かった。ニルは残りの図を重ね、研究費の申請について尋ねた。男は返事を待たせて悪かったと言い、先ほどの紙から離れたところへ、自分の用紙を一枚出した。


「次の推薦状も要るだろう。いつまでだったかな」

「来週の初めです。費用の確認と、一緒に出すことになっています」

「なら、まだ間に合う」


 男は椅子の背へ身体を預けた。羽ペンは机の上にあるのに、用紙は白いままだった。


「今夜は、ここに泊まっていきなさい」


 ニルは鞄へ掛けていた指を止めた。明朝には測定があると答えると、早く帰れるように馬車を出そうと言われた。


「今夜のうちに、一度院へ戻れれば」

「そんなに急ぐのかい。私は君の仕事のために、ずいぶん時間を取っているのに」


 声は強くならなかった。男が手を伸ばし、ニルの膝へ置いた。服の上から指が動き、鞄を置いている方へ近づいたので、ニルは先に鞄を床へ下ろした。


 手を退けてほしいと言えば、理由を尋ねられる。嫌だと言えば、署名してくれるかは分からない。揃えた株を失えば、また栽培の初めから待つことになる。器具を借りる期間も切れる。別の支援を探すには紹介が要り、頼める相手も、この男を知っている。ニルは膝で両手を重ねようとして、男の手へ触れかけた。置く場所を変え、指を椅子の縁へ揃えた。


「僕に会いに来るのは、そんなに嫌かな」


 男が尋ねた。ニルは顔を上げた。まだ返事をしていなかったのだと気づき、口元を緩めた。


「いえ。大丈夫です」

「研究を続けたいなら、支援してくれる者へ、もう少し親しくしてくれてもいいだろう」


 ニルは推薦状の白い面を見た。研究を止めたいわけではなかった。そのことは、何度聞かれても変わらない。明朝、温室へ戻れるなら、今夜の予定を変えれば済む。そう数え直すと、頷くために動かす首の幅も分かった。


 男に寝室へ呼ばれ、ニルは鞄を持とうとした。「それは、ここでいい」と言われて置いた。襟の釦へ掛けられた指に合わせ、自分でも次を外した。服の内側へ手が入ってきた時、窓の前の椅子へ目を留めた。掛布の端だけが斜めになっている。見続けていれば、それ以上、どこを見るか決めなくて済んだ。名前を呼ばれた時だけ返事をした。


 終わったあと、ニルは床からシャツを拾い、裏返った袖を引き出した。釦を留める順番を一つ飛ばし、襟の下からやり直す。鞄を取りに戻ると、承認書の控えはまだ卓にあった。男はその脇で推薦状を書き、乾くのを待つよう言った。ニルは立ったまま待ち、日付と宛先だけを確かめた。図の端へ触れた指に、汗で柔らかくなった紙が貼りついた。


 翌朝、研究室へ戻ると、試料は昨夕のまま蓋を掛けられていた。温室では、残してほしいと頼んだ朝顔の鉢が、通路の脇へ寄せてある。今週中に返事を出せると伝えると、栽培係に、こちらの棚でよいかと聞かれた。ニルは鉢札を確かめ、場所を指定した。今朝測れるものはあった。細片を花柄へ寄せると、花弁の開く前から反応が強くなっていた。


 測定する位置は分かった。時刻を記し、昨日と同じ箇所で値を取る。鞄には、次の推薦状が入っている。これを申請の窓口へ出せば、借りる器具の話も先へ進む。ニルは花の下にある葉をよけ、細片の向きをもう一度直した。昨夜、何をされたかを一つずつ考え直すより、今の明るさがどこまで増すかを見ていたかった。研究ができなくなることだけは嫌だと思ったから、あの部屋でも頷いた。その通り、今朝はここへ戻っている。


「ニル、ここに書ける?」


 マレナの声で、手元の用紙へ目が戻った。日付のあとには、まだ何も続いていなかった。ニルは羽ペンを持ち直し、当時の試験対象は体外の試片であり、と書いた。最初の数文字だけ、紙へ落ちるインクが濃くなった。


「すみません。計画をまとめた順番を、思い出していました」

「覚えていないところは、覚えていないと書いて」


 ニルは頷いた。推薦状を受け取った翌朝のことは、ここへ書くものではなかった。


 研究室へ戻ると、書記が受渡しの一覧を持って待っていた。ニルは研究院から届いた綴り、別綴の抜粋、患者の観察表を、棚から順に出した。和解契約の原本も別の包みへ入れる。昨日まで、増えた紙を置く場所が足りなかった机が、表紙の番号を読まれるたびに空いていった。


 トーマが来て、今朝の比較を引き受けると言った。ニルは昨夕の遅れを説明し、必要な位置を小さな図にした。


「二度目だけ、戻り側の反応が遅れて」

「読んだ。先に補正するか、測定位置を分けて見るか、両方出す」


 トーマが受け取った図へ値を足そうとして、ニルは手を止めた。元の表は書記が抱えている。覚えていても、見ずに書いて渡すことはできなかった。


 イリスは、台へ残した試料の保管位置を確かめに来た。ニルが硝子板の並びを答えると、今日の測定から操作した者を分けて記録すると言った。


「使いかけの配合も、札を残してありますか」

「はい。量は、そちらに。ですが、その板の戻り側は、もう一度見たいので」

「測った分は、提出します」


 返事は正しかった。ニルが自分で見てよいという返事ではない。その違いを言い直すこともできず、彼女の持つ盆へ、まだ使っていない測定片を載せた。


 ニルは一覧に署名した。今日書く自分の名も、古い承認書の名と同じだった。一枚が手元へ戻り、もう一枚は資料と一緒に運ばれていった。戸が閉まってから、朝顔の帳面を取る。朝に測った二株の記録が残っていた。開いたのに、先ほど抜かれた表の続きを探してしまった。


     *


 翌朝の小温室では、昨日より少ない花が開いていた。棚へ置いた札を裏返し、ニルは夜の値からの変化を記した。カイの図を隣へ並べる用事はない。今朝取るのは、植物の損傷後にどこまで組織が伸びたかという、元から続けている研究だった。片を茎へ寄せ、傷の脇を通る反応を測る。葉は張り、土も乾きすぎていない。それだけのことを、今日は何度も確かめた。


 研究室へ戻って計算を始めると、昨日書いた申立ての控えが、帳面の下から出た。対象、承認した範囲、確認すべき原本。その三つを書いたのに、人体で行う試験には関わっていないという一行だけを、また読み直した。マレナへ渡した後から思い出した試料の呼び名があり、補足の紙を作る。間違いなく分かることを増やせば、制限が終わる時刻も近づくような気がしたが、書き終えても、返事を待つ相手は同じだった。


 共用の実験室へ行くと、トーマが通常の測定表を広げていた。イリスは隣で、瓶の底へ沈んだ層を分けている。事件の解析に使う方の台には別の札が掛かり、そちらの帳面は開かれていなかった。ニルはトーマの紙にある測定間隔を読み、「そこは、先に変化率を揃えた方が」と言った。トーマが顔を上げる。


「どこだ」

「最後の二列です。途中の時刻がずれていますから。僕が一度、計算すれば」


 言いながら手を出すと、トーマはまだ書きかけの紙を押さえた。


「俺が出してる。今は葉の面積の方を合わせてるんだ」


 ニルは指を止めた。分かる計算だった。ここへ座れば、午前中に全部終えられる。患者の表がなくても、数字を読めなくなったわけではなかった。


「こちらを、先に済ませた方が早いです」

「何を先にする予定かも、まだ聞いてないだろ」


 トーマは別の紙を示した。測定の終わっていない株があり、その列だけは、あとから加える予定になっていた。


 ニルは空欄を見て、手を引いた。


「では、後で」


 答えた声は少し高くなった。イリスが瓶を置き、「ニル、この札の時刻を見てもらえますか」と呼んだので、そちらへ移った。一枚だけ数字が抜けていた。


「この一の前に、もう一つあったはずです。栽培記録を見れば」

「取ってきます」


 イリスが戸口へ向かうと、ニルは代わりに器具を取ろうとした。彼女が戻るまでに二本は終わる。匙へ触れたところで、トーマが「それ、誰の分だ」と聞いた。瓶の操作担当者の欄には、イリスの名がある。


「まだ、始めていません」

「なら、聞いてからだ」


 ニルは匙を戻した。できるのにと思い、今度は声に出さなかった。


 


 昼前にマレナへ補足を渡しても、閲覧を再開してよいとは言われなかった。承認書と別紙は研究院へ照会し、返事を待っている。


「僕が行けば、書いた部分を分けてもらえるかもしれません」

「同じ紙を、別の窓口からあなた一人で受け取れば、それも確認することになるわ」


 ニルは頷いた。行かない方が手続きは短くなる。その理由も理解できた。


 午後、窓際の植物を記録している時にも、廊下を紙束が通ると顔を上げた。自分の部屋へ来るものではないと分かれば、また葉へ戻る。鉢札を読むために持ち上げた葉を、一度、折り曲げかけた。指を抜き、傷がついていないか確かめる。研究を続けてよいと言われている日に、育てているものまで自分で傷つける必要はなかった。日が窓の縁へ届く前に、ニルは帳面を閉じた。続きを急ぐ患者の表はここにない。今日は、この記録を持って帰れた。


     *


 家へ着くと、裏口の近くに、洗った布が掛けられていた。浴室で使う厚い二枚は離してある。先の夜には、アルバがそこまで水を飛ばしたと、笑いながら廊下を拭いていた。ニルは乾いたものを二枚取り込んだ。居間には少年の独楽と紐があり、階上で椅子を動かす音がした。布を抱えたまま、いつも帳面を置く方へ鞄を下ろした。


 アルバが帰ったのは、ニルが鉢の記録を三度読み直したあとだった。玄関で革帯の金具が鳴り、靴の泥を落とす音が続いた。ニルが顔を上げると、軍服の肩が戸口へ入ってきた。「写しは、軍にも来た」と言われ、新聞のことかと確かめた。


「承認書と、お前の資料閲覧を制限したという連絡だ。どこまでだ」

「事件に関係するものです。院から受け取った日誌と、患者の観察記録も。普通の研究はできます」


 アルバは卓の帳面へ目を落としたが、開かれた頁を取ろうとはしなかった。


「では、夕方の記録は、トーマさんからそちらへ届きます。僕からは、今朝の補足をマレナさんに」


 説明を続けると、アルバは上着を脱ぐ手を止めた。


「それは聞いた。顔を上げろ」

「手続きですから、仕方ありません」


 ニルは顔を上げて笑った。


「大丈夫です」


 アルバの指が、上着の留め具へ残った。視線が口元から、卓に置いたニルの手へ下りる。いつの間にか、帳面の端を強く押さえていた。


 アルバは上着を廊下へ掛け、台所へ行った。ニルは帳面から手を離した。署名が本物だということも、聞かれれば説明できる。けれど、先ほど見られたのは卓の資料ではなかった。台所で鍋の蓋が鳴るあいだに、布を浴室の棚へ運んだ。


 戻ると、食卓へ椀が二つ置かれていた。鍋にはまだ残りがあり、ニルの皿にはパンが一切れ載っている。座る前に帳面を持ち上げると、「そっちは広げるか」と聞かれた。


「見直すところは、終わりました」

「なら、置け」


 ニルは閉じたまま端へ寄せた。アルバは向かいへ座り、匙を取った。研究院で使った紙のことも、署名した理由も、その間には尋ねられなかった。


 一口を飲み込むと、口の中に残っていた乾きが薄れた。今日の煮込みは、豆より切った根菜の方が多い。柔らかいところを先に掬っていると、アルバが「何か、今すぐ出せと言われたのか」と聞いた。


「説明を書きました。当時の試験について。あの紙は僕のものですが、人に使う計画ではなかったので」

「それは、別紙にある」

「ええ。こちらから取り寄せることになっています」


 アルバは頷き、パンを割った。


「待つのか」

「待つしかありません」


 待っている間に、研究費の期限が切れたことがあった。器具を借りる返事だけが来ず、測定を組み直したこともあった。今回は期限が切れると告げられてはいない。それでも、次に何を用意すれば、また机を使えるかという問いだけが、食べている途中にも続いた。


「仕事はあるんです。自分の植物を測れますし、共用室の方にも。でも、それを終えても、こっちは」


 ニルは帳面へ顔を向けた。そこに患者の図はない。示そうとしていた指を、椀の縁へ戻した。


「昔も、研究を止めると言われたことがあるのか」


 アルバが尋ねた。ニルはすぐに首を振りかけた。全部を止めるとは、必ずしも言われなかった。次の推薦、次の費用、貸す器具。なくなれば、その先を続けられないものが、一つずつ相手の机へ置かれていた。「推薦状が、必要だったんです」と答えると、アルバの匙が止まった。誰に、何のためにと、続けて聞かれると思った。ニルはパンを両手へ持ち替え、割る位置を探した。


「今も要るのか」

「いえ。今の所属には。それは、もう」


 言葉が途切れたあと、アルバは少し待ち、「そうか」と言った。ニルは顔を上げた。向こうの目はまだこちらへあったが、続きを話すようには言われなかった。アルバは椀の底に残った根菜を掬い、台所の鍋へ顎を向けた。


「まだ食えるか」


 ニルは手の中のパンを見た。割っていなかった。「少し、いただきます」答えると、アルバは立ち上がり、空いていた小皿へ残りをよそった。


 ニルは椀を寄せ、小皿の場所を空けた。アルバはそこへ置き、向かいへ座り直した。明朝、資料を返してもらえるかは分からない。それでも、いま食べる分へ何かを付け足して返すことは求められなかった。ニルは皿から一つ取って、今度は、柔らかさが分かるまで噛んだ。


 食事を終えると、ニルは二人分の器を洗った。アルバは鍋へ蓋をし、戸棚の下段にある保存食の籠へ、包みを一つ足した。ニルは器を伏せ、台を拭く。一人で住むために覚えた仕事だった。今日もできる。アルバが居間へ戻ってからも、濡れたところが残っていないか、もう一度確かめた。


 


 鞄を持って二階へ上がる時、アルバはどこまで仕事を続けるか尋ねた。


「朝の帳面を、机へ置くだけです」


 そう答えると、頷かれた。階段を上がると、少年が戸の隙間から手を出し、廊下の独楽を拾っていた。ニルは自分の部屋へ入った。窓辺の鉢も、棚の植物図鑑も同じ場所にある。灯を点ければ、机には帳面一冊を置く以上の幅があった。


 ニルは椅子へ座り、今日の記録を開いた。図も、値も、間違っていなかった。通常の研究は続けてよい。所属を外す話ではない。マレナの言葉を、順番に思い出せた。それでも、事件資料の受渡し一覧を鞄から出すと、どの頁がどこへ運ばれたかを、また確かめたくなった。所在は書いてある。自分で開けられないということだけが、読むたびに残った。


 今夜は、何をすれば返してもらえるのか。問いが浮かんでから、そんな条件は出されていないと気づいた。明日の朝、研究所へ行き、許された仕事をして、返事を待つ。それで足りると聞いたはずだった。ニルは一覧を畳んだ。誰もいない部屋では、笑う顔を作る必要もなかったが、口元から力を抜くと、息が途中で細くなった。紙の上にない言葉だけが、あの夕方から少しも変わらず、まだ残っていた。


 研究ができなくなることだけは、嫌だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。