第2章 煤の残る夜
翌日の午後、工房の窓が内側から白く光り、通りへ噴き出していた炎が、一瞬だけ風に逆らって引き戻された。アルバが馬を降りると、次の明滅が窓枠に残った硝子を割り、熱い破片が石畳に散った。桶を持った男たちが腕で顔を庇い、水を運ぶ列が止まる。二階の軒からは黒い煙が出ていたが、白い光は一階の奥にある。木が燃えているだけなら、あんな光り方はしなかった。
背後でグラントが馬から兵を下ろしていた。アルバは手綱を渡し、通りの端に寄せられた荷車を越えて、工房の前へ出た。昼下がりの日射しはまだ強く、煙に隠れた建物のすぐ隣では、洗濯物が火の粉を受けて揺れている。屋根を渡る風は北から南へ流れ、正面の入口と、その前に集まった人間へ煙を押しつけていた。向かいの軒下に座らされている女が咳をするたび、付き添った男が顔を上げた。
「責任者は」
煤で眉の見えなくなった男が、桶の列から出てきた。右手を布で巻いているが、服の印と腰に下げた鍵は、周りの職人と同じだった。
「ここの工房主です。研磨中に結晶が割れて、受け台から外れました。火を落としても、奥が止まらなくて」
アルバは男の指す先を見た。入口から続く作業場には、倒れた台と、白く発光する欠片が見える。床の一部が焦げ、その上を火が走るたび、壁に打ちつけた金具が細かく鳴った。
「中に何人いる」
「三人です。十二人いて、九人は出ました。奥の仕上げ場に」
男が入口へ足を向けたので、アルバは肩の前へ手を出して止めた。建物の二階には材料置き場があるらしく、開いた窓の奥に板の端が積み重なっている。東寄りの柱はまだ立っていたが、その上の横木が下へ弓なりになっていた。入口から入れば、白い光のすぐ脇を通らなければ奥へ行けない。結晶の残る一帯へ力を叩き込んで流出を押さえることはできても、欠片がどこまで散ったか分からず、その下に人がいれば巻き込む。炎を一度消したところで、荷の重さに耐えられなくなった横木は戻らないだろう。
「奥の部屋は、どっちへ開く」と聞くと、工房主は建物の中を指した。
「通路は東です。西にも荷出し口がありますが、普段は内側から――」
「西だ」
グラントが建物の横を指した。工房と隣の染物場の間に、荷車一台を押すには狭すぎる隙間がある。
「あの先が裏庭です。西側から回す方が早い。昔、ここへ荷を入れたことがある」
アルバは隙間の上を見た。西の軒は煙を被っているが、瓦はまだ揃っていた。隣家の壁へ寄れば、落下物を避けて奥まで行ける。
「採用だ。キース、先行。サーラ、西壁」
キースは返事の代わりに頷き、身を横にして隙間へ入った。サーラは工房の壁を見上げながら後を追い、荷車の取っ手が道を塞いでいるところで、そばの兵へ「これ、外へ」と指示した。アルバはグラントに向き直った。
「通りを空けろ。北の角から人を入れるな。消火の連中は東の隣家へ回せ。こっちへ水を掛けるのは待て」
「承知。エド、裏へ」
グラントの声が飛ぶと、桶の列が分かれ、二人の兵が向かいの軒下で立ち止まっていた見物人を動かし始めた。工房主はまだアルバのそばにいたので、九人全員をエドに見せてから、裏の出口へ来るように言った。
隙間の途中には、空の染料樽が二つあった。アルバが一つを壁際へ倒すと、煤を含んだ水が靴の先に飛んだ。背後の二人にも樽を避けるよう合図し、キースの立つ荷出し口へ進む。木戸の上枠は歪み、隙間から煙が漏れていた。キースは戸の下へ細い鉄棒を入れ、少し開いたところで止めている。
「内側に棚。声は二つ、もう一人は見えません」
戸の向こうから、何かが床を引っ掻く音がした。
サーラが壁へ手を添えると、頭上に薄い障壁が張られた。直後に軒から落ちた瓦がその面で砕け、破片だけが道の端へ滑った。
「壁はまだもちます。中の天井までは見えない」
アルバは頷き、濡らした布を口元に巻いた。戸の隙間へ膝をついて覗くと、低いところにはまだ空気が残っている。奥で男が咳き込み、別の声が何度も同じ名を呼んでいた。
「戸から離れろ」
声の主が這って下がったのを見てから、アルバは木戸の根元に力を当てた。内側の棚ごと吹き飛ばせば、その向こうの人間も潰す。歪んだ戸を下から押し上げ、留め金の側だけを外へ引くと、キースが隙間へ鉄棒を差し直した。上枠が裂け、戸は斜めに外れた。アルバは煙が流れ出るのを待たず、空いたところへ身を滑り込ませた。
足元には紙と小さな木箱が散っていた。仕上げ場の棚が通路を半分塞ぎ、その下で若い職人が脚を押さえている。年嵩の男が棚を持ち上げようとしていたが、手を離すたびに、角が同じ場所へ戻った。壁際には女が横たわり、片方の腕を床に投げ出している。男が名前を呼んでいた相手は彼女らしい。アルバは先に女の顔を見た。口元に煤がついているが、胸は浅く動いていた。
「そっちを出せ。頭を低く」
入ってきた二人の兵が女を抱え、戸口へ戻った。アルバは倒れた棚の脇へしゃがみ、下にある脚と、棚の向こうへ伸びる紐を確かめた。若い職人の前掛けが壊れた金具に引っかかっている。棚を浮かせても、紐が引っかかったままでは身体を引き出せない。短剣を抜いて紐を切り、年嵩の男に職人の肩を持たせてから、棚の底へ腕を入れた。持ち上がった重みが左腕へ偏ったが、脚は抜けた。
男が職人を引きずる間に、東の通路が白く光った。熱が床を這い、戸口から入ってきた風を押し返す。頭上で太いものが鳴ったので、アルバは棚を下ろさずに天井を見た。二階の床を支える横木が、壁の付け根から外れかけている。逃げる職人と年嵩の男の上へ落ちれば、出口までまとめて塞ぐ位置だった。アルバは棚から手を抜き、横木の下へ障壁を押し上げた。重みが掛かった途端、靴底が床を軋ませた。
「出ろ」と言うと、年嵩の男はアルバの頭上を見た。
「あんたは――」
「先に出ろ」
男が職人の腕を肩へ回し、戸口へ進んだ。片脚を引きずる身体が途中で傾くと、戻ってきた兵が腰を支えた。アルバは二人が通れる高さを残して横木を受け、空いた右手で通路に転がっていた箱を退けた。箱の釘が袖に掛かったが、振りほどく方を優先する。頭上の荷は一つずつ崩れ、板の束が障壁の外側へ滑っていった。
外からキースの声がした。
「三人、出ました」
アルバは最後の兵を戸口へ押し出し、横木を受けたまま一歩下がった。崩れる方へ身体を残すつもりはなかったが、ここで力を切れば、西の出口まで床板に巻き込まれる。横木の端を内側へずらし、壁から離れる角度を見て、もう一度押した。焦げた木が割れ、重みが東へ傾く。その隙に戸を抜けた時、左の袖が破れ、遅れて熱い痛みが走った。
サーラの障壁が背後で鳴った。アルバが隣家の壁際へ出ると、キースが低く身を伏せ、上を指した。西の軒から瓦がまとまって滑り、さっきまで立っていた足元に破片が積み重なる。サーラは障壁を斜めに傾け、落ちるものを工房の側へ寄せた。
「戻らないでください、もう支えきれません」
アルバは戸口の向こうを一度見て、声がないことを確かめた。
「全員、裏へ。壁から離れろ」
裏庭にはエドとグラントがいた。女は運び込まれた戸板の上に寝かされ、若い職人は脚を動かさないように布を当てられている。年嵩の男が屈んで咳をしていたので、アルバはその背を支える兵へ、座らせるように言った。工房主が三人の顔を順に見て、「これで十二人です」と言った時、奥で二階の床が落ちた。土煙が戸口から吹き出し、サーラの張った面に当たって上へ流れる。工房主はその音に肩を竦めたが、今度は建物へ足を向けなかった。
アルバは裏庭の井戸と、隣家の屋根を見た。人がいなくなれば、火元を囲む幅を取れる。サーラに障壁を外側へ張り直させ、残った兵を北と南へ分けた。自分は、崩れた床の下でまだ光る一帯へ力を掛ける。生きている柱を避ける必要はもうなく、広く押さえた面の内側で、白い明滅が次第に間遠になった。木材の炎は残るが、石や金具を弾くような噴き出しは止まる。消火係が水を運び直し、グラントがその先へ兵をつけた。
濡れた屋根から蒸気が立ち始める頃には、アルバの口の中も乾いていた。布を外すと、縁に黒い筋がついている。隣家に飛んだ火は消え、通りの向こうで荷車がまた動き始めたが、建物のまわりに張った縄の中へ戻ろうとする職人はまだいた。グラントが一人ずつ止め、残った道具を取りに入れる時刻は自分たちにも分からないと説明していた。
「隊長、左腕」
エドが救護鞄を肩へ掛け直しながら、アルバの袖を指した。アルバは通りに立つ兵を数え終えてから、自分の腕を見た。袖の裂け目より下まで赤黒く湿っている。
「擦っただけだ」
「その『だけ』を、見るのは俺です」
エドは返事を待たず、空いた箱を足で引き寄せた。
「座って。袖、上がりますか」
「動く」
「腕ではなく、袖の話です」
裂けた布は皮膚に貼りついていた。エドが水で湿らせて剥がす間、アルバは北側の兵に向かって、光が戻ったらすぐ知らせろと指示した。エドは腕を離さず、「指示は聞こえますから、こっちを向いて」と言った。傷は左の前腕を斜めに擦っている。深くはなかったが、煤と細かい木屑が入っていた。汚れが洗い流されると、思ったより広い範囲が擦れているのが分かった。指を曲げても力は入るので、手当てが済めば問題はない。
「隊長、先に死ぬ競争じゃないんですがね」
グラントが空の水桶を置き、箱の隣へしゃがんだ。アルバは腕をエドに預けたまま、工房へ目を向けた。
「まだ死んでない」
「勝ってから教えていただいても困りますよ」
グラントは笑い、兵から受け取った水筒を差し出した。
「三人とも生きてる。こっちの人数も減ってない。次は、あんたの上着まで無事だと助かる」
アルバが水を飲むと、エドは傷の端を確かめて布を巻いた。グラントはそれを横から覗き、「袖代を治療費に足してやれ」と、今度はエドに言った。
*
基地へ戻った時には、厩の柱に灯が入っていた。馬を引き渡し、濡れた外套を掛けると、袖に残っていた煤が床へ落ちる。詰所ではキースが工房地区の見取り図を広げ、消火係へ引き継いだ区画に印をつけていた。サーラは卓上の水差しを取ったところで、アルバの腕を見た。
「それ、使うなとは言われなかった?」
アルバが「問題ない」と答えると、彼女は自分の喉へ水を流し込み、器を置いてから「そういう意味じゃない」と言った。
帰った兵の名を確かめ、交代で食事と洗い場へ行かせた。現場へ残した監視は別の班に引き継がれ、結晶の明滅が戻ったという報告はない。アルバは工房主から聞いた人数と、運ばれた三人の状態を用紙へ書いた。女は意識が戻り、脚を挟まれた職人は診療所で診察を受ける。年嵩の男も煙を吸っているため、そのまま同行した。十二人のうち治療が必要だった者を別に書き出すと、下の欄には隊の損耗を書く場所があった。
「そこ、一名です」
エドが背後を通り、空欄を指した。アルバは記入の手を止めた。
「勤務はできる」
「勤務できる負傷者、一名」
エドは隣の机へ救護記録を置き、鞄の留め金を閉じた。
「書かないなら、そっちと数が合いません」
アルバは軽傷一名と書き、左の袖を引き下ろした。包帯が内側で引っかかったが、書くのに支障はなかった。
グラントは遅い食事を卓の端へ持ってきた。パンをちぎり、椀から豆と肉を掬いながら、横に広げられた見取り図を眺めている。
「西の戸が、あんなに歪んでるとは思わなかったな。前に荷を入れた時は、もっと広かった」
アルバは記録から目を上げた。
「前はいつだ」
「十年ほど前。娘がまだ、荷車の車輪ほどの背でね。近くの店へ連れてきたから覚えてる」
「次は時期も言え」
「はいはい。十年前の道を覚えてる軍曹の話を、若い隊長が採用してくれるうちは働けますよ」
アルバは西の隙間を見取り図へ書き足した。入口が歪んでいても、裏へ抜ける道が残っていたのは助かった。グラントの覚えている道は、軍で配られた図より細かいことがある。皿を置く場所がないので紙を寄せると、グラントは残ったパンをアルバの手元へ置いた。
「先に食ってください。これ以上遅いと、厨房に叱られるのは運んだ俺です」
アルバは用紙を汚さない側へパンを置き直してから、椀を取った。
報告を持ってローデン大佐の執務室へ行ったのは、その食事が終わってからだった。大佐は上着を脱いでいたが、机にはまだ何通も書類が残り、窓の向こうの訓練場は見えなくなっていた。アルバが用紙を出すと、ローデンは先に負傷者の欄を読み、それから配置図へ移った。筆の先で西の隙間を辿り、「隣の工房を残したのはよかった」と言った。
「屋根まで渡れば、この風では二棟目で止まらなかった。工房の十二人、全員確認。隊に軽傷一。消火後の監視も引き継ぎ済みだな」
アルバが「はい」と答えると、ローデンは書類を机へ置き、アルバの左腕を見た。服は別のものへ替えたが、包帯の分だけ膨らんでいる。
「お前か」
「勤務に支障はありません」
「それはエドが決めることだろう」
アルバが黙ると、大佐は報告書の端を揃えた。
「隊はよく動いた。グラントの進路変更も早い。お前の入り方も、今日の現場では必要だったんだろう」
そこで声を切り、椅子の背へ身体を預けた。
「だが、自分を使い潰すな」
アルバは大佐を見た。擦り傷一つで潰れるほどではないが、そう言えば、先ほどのエドと同じ話になる。「了解しました」と答えると、ローデンは机の脇に積まれた書類から、翌日の当直表を抜いた。
「今夜の残りは別の隊に回す。お前のところは帰していい。装備の点検だけ終えておけ」
アルバは当直表を確かめ、追加の命令がないことを聞いてから退室した。
詰所へ戻ると、椀は片づけられ、卓の上には乾いた装備が並び始めていた。濡れた革の留め具を締め直す兵のそばで、グラントが火を被った手袋を裏返している。アルバはサーラに翌朝の点検時刻を告げ、キースの記録を受け取った。西の荷出し口から裏庭までの幅と、通りで避難者を置いた場所が書き込まれている。読むべきところを読み、報告書へ添えたあとも、交換する留め金や傷んだ装具をまとめる仕事が残った。全員を帰した頃には、詰所の外で鳴っていた足音がまばらになっていた。
*
住宅地区の道へ入ると、家々の窓はほとんど暗くなっていた。近くの厩へ馬を預けて歩く間に、夜気で冷えた襟の下だけ、遅れて汗が乾く。工房地区の焦げた匂いはもう届かないが、洗い切れなかった髪や爪のきわには残っていた。アルバは家の戸の前で靴底の土を落とし、鍵を回す時に、戸が内側の床を擦らないよう少し持ち上げた。
玄関にはニルの靴があった。二階に灯はなく、物を動かす音もしない。今の時刻なら、あの学者は眠っているはずだった。アルバが帰る頃には寝ていて、起きた時には窓を開けて何かを見ている。何をしているかは知らないが、外へ出る時も台所を使う時も、わざわざこちらを呼ばないので困ることはなかった。
上着を脱ぐと、包帯で厚みの出た腕が引っかかった。アルバは腕を抜き直し、上着を廊下の鉤へ掛け、台所で小さな油灯を点けた。水を飲んでから、食卓の端に布を敷き、短剣を鞘ごと置く。卓上に紙はなく、流しの器も片づいていた。戸棚の左側には、蓋に小さな札をつけた容器が並んでいる。ニルが使うものなので開けず、右側から自分の手入れ油を取った。
短剣の刃には、前掛けの紐を切った時の繊維が薄く残っていた。切っ先に欠けはなく、根元に入り込んだ煤を拭うと、油灯の光が細く返る。鞘の口も汚れていたので、布の端を折って内側を拭いた。昼の熱で革が硬くなったところへ少し油を馴染ませ、留め具の裏を指で押す。左腕を曲げた時に傷が突っ張ったが、柄はいつもと同じように握れた。
布を替え、刃の両面を順に拭いていると、外の通りで馬車が一台、ゆっくり家の前を過ぎた。車輪が石の継ぎ目を拾う音は、曲がり角まで続いてから消えた。アルバは短剣を鞘へ収め、卓の上に落ちた煤を残りの布で拭き取った。水の入った器に布を沈めると、表面が黒く濁る。洗ってもすぐには落ちなかったので、自分の使う桶へ移し、朝まで置くことにした。
油の容器を戻し、水を飲んだ器を洗う。油灯を持って廊下へ出ると、棚の花瓶の横に、自分の小箱が見えた。留め具の予備を入れてあるが、今日使った分は詰所で補ったので開ける用事はない。靴が通る場所を塞いでいないことだけ確かめ、灯を消してから階段へ向かった。家に入ってから誰とも話していないことも、明日の朝にニルがいつ出るか分からないことも、いつもと同じだった。
軋む段の端を踏むと、静かな家では思ったより大きく鳴った。アルバは次の段へ体重を移し、踊り場まで上がった。裏庭に面した小窓からは、建物の張り出した部分にあるニルの窓が斜めに見える。部屋の中は暗く、窓台から伸びた朝顔の葉だけが、夜空を背に重なっていた。前に見た時より、支柱の上の方まで緑が詰まっている。
また増えたな、とアルバは思った。




