第1章 傷のそばの道
窓の向こうがまだ夜の色を残しているうちに、ニルは目を覚ました。寝台の足元に置いた椅子も、その背に掛けた上着も、薄暗がりの中で輪郭だけを見せていたが、窓際の鉢の位置は見なくても分かる。掛布を脇へ寄せ、床に足を下ろしてから、昨日読みかけた記録帳を踏まないように椅子の横を通った。留め金を外して窓を押すと、夜のあいだに冷えた空気が頬に触れ、湿った土と、庭の石に残る水の匂いが入ってきた。
朝顔の蕾は、昨夕よりも先端を緩めていた。巻き込まれていた花弁の縁が細い隙間を作り、その奥に、開けば淡い紫になる色が濃く重なっている。ニルは窓台に片手をつき、鉢を持ち上げずに向きを変えた。葉の裏に指を添えると、表面についた冷たさとは別に、葉肉にはほどよい張りがある。土の色も、鉢の縁から中央へ向かってほぼ均一だった。表土だけが乾いて見えるからと水を足せば、底に余分な水が残る。細い木片を土へ差し入れ、引き抜いた先の湿りを確かめてから、窓の脇に吊るした小さな札を裏返した。
昨夜の記録は二行で終わっていた。土の状態、蕾の数、その下に今朝の日付を書き足す。羽ペンの先がまだ馴染んでおらず、最初の数字だけ線が掠れたので、ニルはインクを含ませ直した。花柄に寄せた測定用の細片には、かすかな明るさが滲んでいる。昨日の夕方には茎の側で強かった反応が、今は花に近い部分に移っていた。細片の位置を指一本分だけ戻して比較し、帳面の余白に小さな図を描く。一本目の蕾、二本目の蕾、いちばん遅れている小さな蕾を順に見ているうちに、遠くの屋根の縁が空から分かれてきた。
階下で椅子が床を擦った。続いて、重みのある足音が二つ、少し間を置いてもう一つ聞こえた。アルバだ、と考えるより先に分かって、ニルは細片を花柄から外した。昨夜も遅い時間に玄関の戸が閉まる音を聞いた気がする。眠りかけていたので時刻は覚えていないが、階段を上がる足音がなかったことだけは、今の音で思い出した。まだ寝ていないのか、いったん起きたのかは分からない。どちらでも、鉢の記録には関係がなかった。
ニルは寝間着を着替え、襟の片側を折り込んだまま髪を結びかけてから、鏡の前で手を止めた。結び紐を口に咥えて襟を直し、肩に掛かる髪をまとめる。机の上には今日持っていく帳面が二冊と、昨夕、研究所から借りた薄い資料綴りがある。資料の間に挟んだ紙を抜き出して日付を確かめ、別の帳面へ移したところで、台所から器の触れ合う音がした。湯を沸かすのは、もう少し後でよくなりそうだった。
朝顔に視線を戻すと、先ほど隙間だったところが、指先ほどの幅に開いていた。ニルはまた窓へ寄り、測定の細片を同じ位置へ当てた。花弁はまだ開き切らないのに、反応は先ほどよりはっきりしている。窓を開けてからの空気の変化もあるため、光だけの影響とは決められない。帳面にその旨を書き、鉢の番号を添えてから、ようやく羽ペンを置いた。庭でも同じ系統の株が咲いているはずだったが、全部を見ていれば出勤が遅れる。家の鉢は三つまで、と以前に決めた上限を、今朝は守ることにした。
階段を下りると、台所の戸口から油灯の明かりが細く廊下へ出ていた。外は明るくなり始めていたが、裏庭に面した台所にはまだ光が届かない。ニルは戸口の手前で足を止め、壁際の棚に置かれた空の花瓶を少し奥へ押した。通るたびに袖が触れる位置だった。花瓶を動かしても、台所の椅子はまだ動かなかったので、今度は持ってきた資料綴りを開いた。
同じ頁を二度読んだところで、中から声がした。
「入るのか」
ニルは顔を上げた。戸口から見えるアルバは、食卓の端に座っていた。上着は隣の椅子に掛けられ、卓上には皿と、半分ほど残ったパンがある。油灯の明かりでは目元が暗く、こちらを見ているのか、ただ顔を向けたのか判然としなかった。
「いえ。先にどうぞ」
「もう終わる」
返事を受けて、ニルは資料を閉じた。廊下には台所ほど椅子を置く余裕がなく、壁に背をつけると、階段の下から乾いた木の匂いがした。家が古いせいで、雨の翌日にはこの匂いが強くなる。今日はそれほどでもない。棚の花瓶の隣にある小箱は自分の物ではなく、中身を知らないまま九か月が過ぎていた。蓋の上に薄く埃があるのを見つけたが、花瓶の位置を直すのとは違う気がして、手は伸ばさなかった。
器を洗う水音が止まり、アルバが上着を取った。近くで見るとニルよりずっと肩幅があり、戸口に立たれると、脇を抜けられるだけの幅が残っていても通りにくい。ニルは半歩下がった。アルバは廊下へ出て、階段の方に目を向けてから、「使え」とだけ言った。
「はい」
どこへ行くのかは聞かなかった。アルバも、ニルの資料や、着替えた服について何も言わずに階段を上がっていった。途中で一度、床板の軋む音が長く伸びる。あの段は端を踏むと鳴る、とニルは知っていたが、伝えるほど困ってはいなかった。
台所の食卓には、ニルの分の皿はなかった。流しにも使った器は残っていない。ニルは戸棚の左側から自分の茶葉を取り、やかんに水を入れた。火を起こす間にパンを切り、昨日買った果物を洗う。アルバがパンのほかに何を食べたかは、もう皿が片づいているので分からなかったが、同じまな板を使う前に洗い直す必要もなさそうだった。
湯が沸くまでのあいだ、ニルは卓上に資料を広げた。食べながら読むと紙の端に汚れがつくため、皿から離れた側へ置く。窓の外では庭の草が濡れていて、朝顔の花が、裏口から見える位置に二つ開いていた。薄い薬草茶を淹れ、パンを一口食べてから、資料に載った温度条件をもう一度確かめる。昨夕の測定値にあったばらつきは、室温で説明できる大きさではない。途中の補正か、測定の順番を見た方がよかった。
上で戸が閉まる音がした。アルバの部屋の方だったので、ニルは次に浴室を使う音がしないことだけを確かめ、茶を飲み切った。皿を洗い、茶葉の容器を戸棚へ戻す。台所を出る時には、油灯を消しても棚の位置が見えるほど明るくなっていた。
玄関で靴を履く前に、ニルは資料の枚数を数えた。帳面は二冊、借りた綴りは一つ、途中の計算を書いた紙が三枚。すべて鞄に入っている。階上に声をかける用事はなく、戸を閉めると、家の中の音はすぐに聞こえなくなった。
*
研究所へ着いた頃には、街路の石の表面が乾き始めていた。王立エヴァン植物医術研究所の門を抜けると、建物の陰に残っていた朝の涼しさに、温室から運ばれてきた湿った空気が混じった。中庭を横切る栽培用の荷車には空の鉢が重ねられ、その縁が揺れるたびに軽い音を立てている。ニルは荷車を避けて実験棟へ入り、自分の研究室に鞄を置いてから、昨夕の測定記録を取りに隣室へ向かった。
トーマはすでに机についていた。窓から斜めに入る光を避けるように紙を重ね、上の一枚だけを少し手前へ引いている。ニルが戸を叩くと、顔を上げずに「開いてる」と言い、数を一つ書き終えてからペン先を浮かせた。
「昨日の三列目の値を見せてもらえますか」
「右の綴り。まだ清書してないから、消してある方を読まないでくれ」
ニルは言われた綴りを取り、立ったまま二頁をめくった。測定値はそろっていた。葉の面積による差を引き、茎の太さで揃えた数も、途中までは昨夕に見たものと同じだった。問題はその次で、測定間隔の違う二組を同じ幅で扱っている。ニルは紙を机へ置き直し、トーマの計算を覗いた。
「これ、二回目だけ間隔が長いですよね」
「ああ。先にそっちを揃えてる」
「別に揃えなくても、変化率を出せば一度で済みます」
「最後に両方を比べるんだ。誤差の出方が――」
「そこ、僕がやります」
空いていた紙を引き寄せ、卓上の予備の筆を取ると、必要な値はもう目の前にあった。ニルは三つの数を順に書き、測定間隔を添えて割り直した。途中で一度、綴りを戻して最初の値を確かめる。そのまま次の列も処理し、最後の差を括ってから、トーマの前へ紙を押した。
「これなら、四列目の補正を先に入れても結果は変わりません。あとはここの値を使えば――」
「やるじゃなくて、もうやっただろ」
トーマの筆が、紙の上ではなく机に置かれた。ニルはその音で言葉を止めた。渡した紙に間違いがあるのかと思って見直したが、計算は合っている。
「すぐ終わったので」
「勝手に進めるな。俺が何を確かめてたか聞いたか?」
「測定間隔の誤差ですよね。だったら、こちらの方が」
「こちらの方が速いのは見れば分かる。二通りで出して、どの段階で差が広がるかを見るつもりだったんだ」
ニルはトーマの手元に残った紙を見た。途中式の横に、小さな印がいくつも書かれている。結果を出すだけなら不要なものだったが、トーマはそれを消さず、一枚ずつ重ねる順番を直していた。
「では、比較には僕の方を使えます」
「そういう話をしてるんじゃない」
ニルは少し考えた。計算を終えてしまったのが不都合なら、元の途中式は残っているので続けられる。新しい紙を勝手に綴じたわけでもない。ただ、今そう言えば、トーマはまた同じ返事をしそうだった。
「三列目の記録だけ、借りてもいいですか」
「持っていけ。昼までに戻してくれ」
「分かりました」
ニルは綴りを取り、計算を書いた紙も持ち上げかけたが、トーマが指で端を押さえたので置いていった。戸を閉める時、室内で筆が再び紙を擦り始めた。怒らせたらしいとは分かったものの、時間を節約できたことまでなかったことにはならない。研究室へ戻る廊下で借りた記録を開き、昨夕のばらつきが三列目だけに出ているのを確かめると、そちらの方が気になった。
共用の実験室には、イリスがいた。作業台に並べた小瓶を一つずつ明るい方へ透かし、中の液を同じ大きさの受け皿へ移そうとしている。袖は肘まで上げられていたが、手首に近いところへ液がついたらしく、片方の手首にだけ布を巻いていた。ニルは入口から台の様子を見て、足を止めた。
「その液、沈殿はまだ分けていませんか」
「今からです。上の方を先に取って、それから」
「取るなら、この瓶だけもう少し待った方がいいです。底に残っている粒が細かいので、同じ時間では分かれません」
イリスは瓶を目の高さまで持ち上げた。ニルの立つ位置からも、底の近くに薄い濁りが残っているのが見える。昨日用意した抽出液だった。瓶の札には同じ処理時刻が書いてあるが、葉を採った株が違うので、すべて同じように沈むとは限らない。
「でも、量を揃えて測るなら、時間も揃えた方がよくありませんか」
「沈殿が混じると、液の量が同じでも測っているものが変わります。昨日の表にも、ここだけ濁りが残ると書きました」
「読みました。だから、先に一度やってみて――」
イリスが瓶を傾けた。ニルは受け皿の位置をずらし、台に置かれていた細い管を取った。液面の少し下へ管の先を入れ、底の層を動かさないように必要な分だけ移す。この取り方なら、あとで濁りを除く作業を省ける。二本目も同じように処理してから、量を確かめるため受け皿を並べた。
「こちらを使ってください。残りは、もう少し置けば分かれます」
返事がなかったので顔を上げると、イリスは空になった手を腰の高さで握っていた。視線は受け皿に落ちたままで、唇の端に力が入っている。
「何か違いましたか」
「自分でやりたかったんです」
「やっても、この取り方なら結果は同じです。器具の扱いによる差は、まだ比べる段階では」
「結果の話じゃありません」
イリスは言い終えてから、巻いた布の端を指で押し込んだ。その間、ニルは管を持ったまま待った。彼女はいつも分からないことがあると質問するし、説明の途中で別の疑問を挟むこともある。今日はどこまで説明すればよいのか分からなかった。
「昨日から準備したんです。うまく取れないなら、それも自分で確かめるつもりでした」
「それは、今の液でも確かめられますよ。残った分を使えば」
「測る分はもう取ってしまいましたよね」
ニルは並べられた受け皿を見た。確かに必要な分は取れていた。イリスが手を動かすより速く終えたのだから、その点は間違いない。管を洗う容器へ置くと、背後で戸口の床が鳴った。
「ニル、ちょうどいいわ」
マレナが帳面を一冊、脇に抱えて立っていた。イリスと受け皿を順に見てから、ニルへ視線を戻す。朝から廊下を行き来しているらしく、上着の袖には紙の細い切れ端がついていたが、本人は気づいていないようだった。
「トーマのところに行った?」
「記録を借りに」
「それだけ?」
「計算も少し」
「でしょうね。今すれ違った時、ずいぶん機嫌がよかったから」
ニルは戸口の向こうを見たが、トーマはいなかった。マレナの言い方からすると、よくなかったのだろう。イリスは受け皿に蓋をし始めていて、陶器の端が一度だけ強く触れ合った。
「あなたは一人で仕事をすると最高、共同研究では最低」
マレナは作業台の、液が置かれていない端に帳面を置いた。ニルは借りた綴りを胸の前で持ち直した。
「でも間違っていたので」
「何が?」
「このまま移すと沈殿が混じります。トーマさんの方も、結果までならもっと短くできます」
「二人が自分で続けるより、あなたがやる方が速かったのね」
「はい」
「それで、明日もあなたがやるの?」
ニルは答える前に、台の瓶を見た。明日の分まで自分が処理する必要はない。今日説明した取り方を使えば、イリスにも同じようにできるはずだった。
「手順が分かれば、できます」
「手順を説明する前に、代わりにやったでしょう」
「実際にやった方が分かりやすいので」
「ニル」
名前を呼ぶ声が低くなった。マレナは怒鳴らなかったが、その調子になると、別の話へ移れないことをニルは知っている。
「他人に失敗させるのも仕事よ」
「失敗すると分かっているのに?」
「危険な失敗をさせろとは言ってないわ。今日の液は取り直せる。どこまで傾けたら混じるか、自分の手で確かめることもあるでしょう」
「それは先に説明できます」
「あなたにはできるでしょうね」
マレナは帳面を開き、イリスへ向けて置いた。
「続けて。今日、実際に誰が何をしたかも書いておいて」
イリスは「はい」と返事をし、ニルの取った液の札を書き換えた。自分の名前がある欄の横へニルの名前が加わるのを、ニルは見ていた。混同を避けるには正しい処理だった。マレナは帳面から手を離すと、今度はニルの持っている綴りを指さした。
「その記録を確認したら、小温室へ。ハルドが待ってる」
「朝顔ですか」
「ええ。そちらはあなたの仕事」
ニルは頷いて実験室を出た。戸口を抜ける際に、イリスが管を取っているのが見えたので、残りの瓶は底の沈殿が動きやすいと言いかけたが、マレナがまだそこに立っていたため、言葉を飲み込んだ。廊下へ出てから、借りた綴りの角を揃える。二人とも、もっと早く終わる方法があるのを喜ばなかった。計算も、液の取り方も正しかったのに、そのほかに何を渡すべきだったのかは、はっきりしなかった。
*
小温室の扉を開けると、乾いた廊下よりも濃い土の匂いがした。葉が重なって光を遮る棚の奥はまだ涼しく、通路に近い鉢だけが朝日を受けている。ハルドは窓を少し開け、外気が直接当たりすぎないように布を留めていた。ニルを見つけると、留め具を口から外して「遅かったな」と言った。
「開花前の記録は取りましたか」
「そこにある。こっちは水もまだ足してない」
ハルドが指した棚には、昨日までより手前に寄せられた朝顔の鉢が並んでいた。葉は大きく、支柱に巻きついた蔓の間から、淡い紫の花がいくつも開いている。ニルは綴りを乾いた台へ置き、鉢札を順に読んだ。家の株と同じ系統でも、温室の方が蕾の数は多い。花だけ見れば同じに思える株にも、茎の太さや葉の向きに違いがあった。
「この株、昨日より葉が垂れていますね」
「根元を見てみろ」
ニルが鉢へ手を伸ばすと、ハルドは棚の下から木片を一本渡した。表土は乾いて見えたが、少し深く差し入れると湿りがついた。
「上だけ乾いてる。ここで水を足すと、午後にまた垂れるぞ」
「底に残っていますか」
「今朝、鉢を持った時の重さが違った。こいつだけ土の詰まり方が少し悪い」
ニルは木片の先を見てから、鉢の側面に指を置いた。持ち上げるつもりで手を添えたが、すぐに離す。鉢を動かすと、花柄に固定した測定片の位置がずれる。
「水は任せます。測定が終わるまでは、ここから動かさないでください」
「ああ。終わったら呼んでくれ」
ハルドは余分な木片を片づけ、窓の布をもう一度確かめて隣の棚へ移った。ニルは測定片の反応を帳面の記録と比べた。日の出前の値には大きな差がないが、花が開き始める頃から、花弁に近い側だけが急に強くなっている。茎の下部の値まで一緒に増えているわけではなかった。通る量が増えたのか、流れの配分が変わったのかを分けるには、途中の箇所も見なければならない。
手元の細片を葉柄へ寄せ、次に節と節の間へ移す。測定のたびに位置を帳面へ描き込んだ。花の内側には小さな虫が一匹いて、ニルの手が近づくと縁まで這い上がり、そのまま飛び去った。空いた花はもう少し開き、薄くなった花弁を光が透かしたが、測定片の反応は、虫が動いても変わらなかった。
「家の方も、同じでした」
ニルが言うと、ハルドは隣の棚から顔を出した。
「何が?」
「開き切るより先に、花の側で反応が強くなります。全部の蕾が同じ速さではありませんけど、遅い蕾でも、今朝の上がり方は近いんです」
「窓の向きは?」
「こちらより、光が入るのが少し遅いです」
「じゃあ、明るさだけで揃ってるわけじゃないな」
「ええ。明日も、同じ位置で取ります」
ニルは家の記録を開き、温室の帳面と横に並べた。数字の幅が違うので、そのまま重ねると同じ変化が見えなくなる。昨夜の値からの増え方だけを抜き出し、細い線を引いて繋いでいくと、どちらも夜明けの近くで傾きが急になった。今朝、トーマに渡した計算を使えばこちらも早く終わる。ニルは筆を持ち替え、家の三株と温室の株の差を余白へまとめた。
ハルドが土の入った桶を持って通りかかった時にも、ニルは同じ姿勢で書いていた。「先に傷を入れた方を見るんじゃなかったか」と言われて、ようやく顔を上げる。花が開く前後の記録を見ていると、当初の用事を後へ回してしまう。筆を置いて立ち、棚の端にある別の鉢へ移った。
その株の茎には、以前つけた小さな傷があった。損傷の位置を示す糸は緩く結ばれ、傷を覆わないように下へずらしてある。葉は萎れていない。上の花も、ほかの株と同じように開いていた。ニルは糸をほどき、茎を支柱から離しすぎない位置で支えた。傷の表面は乾き、縁にわずかな盛り上がりができている。
「ここ、厚くなっていますね」
「昨日の夕方よりは分かる。けど、伸びたのは傷のところだけじゃないぞ」
ハルドは葉を一枚よけ、茎の反対側を見せた。傷を入れた面から少しずれた位置に、細い筋が続いている。肉眼では表面の凹凸に紛れてしまうほど小さかったが、拡大用の硝子を当てると、上下の無傷の部分へ繋がっているのが見えた。
ニルは息をゆっくり吐き、硝子の角度を変えた。傷の直上と直下を比べる。表面が塞がっただけなのか、内側に変化があるのかは、このままでは決められない。観察用に用意してあった同条件の茎から、すでに薄く切り出されていた標本を取り、窓際の台へ運んだ。鉢の株を今切れば、その後の変化を見られなくなる。ハルドが残しておいた方を使うのがよかった。
薄片を硝子の上で広げると、光の中に繊維の並びが浮かんだ。切断された部分の両端は、まだ元のまま綺麗に繋がってはいない。その脇に、より細い組織が寄っている。ニルは観察器の焦点を合わせ、途中の層を順に追った。最初は傷の縁に集まっているだけに見えた線が、角度を変えると、上側の維管束へ戻っていた。
台の横に置いた測定片を使い、損傷株の傷より下、傷の横、さらに上で反応を比べる。真上へ進む流れが損傷で途切れる箇所に、横から続く弱い反応がある。ニルは三箇所を繰り返し測った。位置を少しずらすと横の反応は薄くなり、元へ戻すとまた現れる。
「傷が埋まったわけじゃないんだな」
ハルドが硝子越しに標本を見て言った。
「ええ。少なくとも、この部分はまだ切れたままです。表面が塞がるのと、中の通り道が繋がるのは別なので」
「上の葉は、今朝も張ってたぞ」
「こちらへ回っているんだと思います。ただ、どのくらいの量を通せるかは、まだ」
ニルは言葉を止め、帳面を手前へ寄せた。傷を正面から見た図だけでは分かりにくい。裏側へ回り込む線も描き足し、観察した組織と、測定で反応が出た位置を別の印で示す。線を太くしすぎると、実際より立派な構造があるように見えてしまうので、一度書いたところを細く削った。
ハルドはしばらく隣で見てから、鉢の置き場所を確かめた。
「昼の光が強くなる前に、遮る布を足す。測るなら先に言ってくれ」
「分かりました。この株は、明日も残してください」
「切る方には印をつけておいてくれよ」
ニルは鉢札の裏に観察継続の印を入れた。ハルドが桶を持って離れると、棚の葉が一度揺れ、それから温室は筆の音と、外で荷車を押す音だけになった。
傷のある朝顔をもう一度見る。上の葉には水が届き、花弁へ向かう魔力の反応も残っていた。傷そのものを見ている時には分からなかった細い筋が、いったん見つけてしまえば、茎のわずかな膨らみからも追えた。ニルはその筋を潰さないよう、支えていた指を外した。蔓は支柱に巻きついたまま、元の位置へ少し戻った。
「壊れた場所を避けて、別の道を作るんですね」
声に出してから、ニルは硝子の下の薄片へ目を戻した。小さな迂回路は、傷の脇を通り、まだ途切れていない組織の中へ続いていた。




