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Ipomoea  作者: Tanahituzi


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14/18

第14章 隣の戸

 研究院から届いた追加資料には、支援者の一覧が一枚添えられていた。ニルは居間の卓で包みをほどき、日誌の写し二冊を並べてから、その紙を開いた。帰り際にエヴァンの受付で受け取ったもので、送付表には、前回出されなかった別綴からの抜粋とある。試料名と測定日を先に確かめ、紙の下半分へ目を移すと、研究の時期ごとに、資金を出した者の名が記されていた。ディモス・カーヴァン伯。その一行だけが、ほかより濃く刷られているように見えた。


 指を置いていた折り目へ、薄くしわが寄った。ニルは紙を少しずらしたが、指の形は変わらず、折ったところをもう一度押した。台所では少年が水差しを置き、アルバに何か尋ねている。鍋の蓋を持ち上げる音がして、豆がまだ硬いという返事が聞こえた。ニルは一覧の次の行へ目を下ろした。支援の期間と、対応する記録番号。自分が院を離れたあとの日付ではない。送付表へ受け取った枚数を書き、日誌の表紙にある番号と、一覧の番号を照合した。


「これ、どかせる?」


 少年が卓の横へ来ていた。ニルは顔を上げ、手に持っている三本の匙を見た。


「ああ。食事ですね」


 一覧を日誌の下へ戻し、二冊を重ねる。少年は空いた場所へ匙を置いたが、一本だけ、紙の端に掛かった。


「そっちも」

「今、寄せます」


 ニルが鞄を床へ下ろすと、少年は独楽を窓側へ移した。紐は、前よりも巻き終わりの端を長く残してあった。


 居間に紙を広げたまま、アルバに付き添われて自室へ戻った夜から、五日が経っていた。翌朝には、いつも窓を開ける時刻を過ぎて眠っており、階下に置いた帳面を取りに行ったのは昼近くだった。そのあとは、研究所へ通い、食事をして、自分の部屋で眠っている。カイの腕は片の調整を続けていたが、今日まで、あの朝と同じ噴き出しは起きていない。日誌が届けば、昨日までに比べた値へ足せる記録がある。ニルは上の一冊を開き、必要な頁の間へ細い紙を挟んだ。


 アルバが盆を持って入ってきた。


「そこ、置けるか」


 椀の底を卓へ近づける前に聞かれ、ニルは帳面をもう少し遠ざけた。「はい」と返事をしてから、盆の方へ手を出しかけたが、アルバは先に自分で椀を下ろした。袖も、指も、ニルには触れなかった。この数日、狭いところを通る時にも、先に声を掛けられることがある。あの夜のことで、余計な手間を掛けさせているのだと思うと、何か言った方がよい気がした。けれど、大丈夫です、と付け加える前に、少年が自分の椀を引き寄せた。


「また、朝顔のやつ?」


 少年は日誌の角から出た図を見て言った。


「前に測ったものです。今の記録と比べます」

「前のを、何で今読むの」

「手元になかったので。全部を持って出てきたわけではありませんから」


 ニルは匙を取り、煮込みの豆を一つ掬った。まだ少し歯に残るところがある。


「硬いですね」

「だから言った」と少年が答えた。


 アルバは鍋を見たまま、「次はもう少し煮る」と言った。今日はそのために待つつもりはないらしく、三人とも匙を止めなかった。


 


 食べ終えた椀を流しへ運ぶと、ニルは自分の分と、卓に残っていた水の器を洗った。水差しは少年が運んだばかりで、半分以上入っている。器を伏せてから居間へ戻ると、卓の上で独楽が回っていた。少年が手を離し、少し傾くたびに身体を同じ方へ寄せている。ニルは帳面を持ち上げたまま、その尖った先を見た。欠けた胴が同じ位置を通ると、回る音が一度だけ低くなる。「そこ、少し削れば」と言いかけると、少年は独楽へ手を被せた。


「削らない」

「まだ、何を削るか言っていませんよ」

「僕のだし」


 ニルは残った言葉を止め、帳面を自分の側へ戻した。


 少年がもう一度回す間に、ニルは日誌の数字を写した。以前の試料では、戻り側の反応を落とす順番が、今日の腕とは違う。条件を揃えても、その差までは消えなかった。紙の端へ測定時刻を足し、別の頁で試料の量を確かめる。余白には費用の記載もあったが、計算に使う値と混ぜずに写した。支援者の一覧を取り出した時も、まず記録番号を探した。名前へ戻らなければならないのは、その番号を読み違えていないか確かめる一度だけだった。


 上へ行くと言った少年に返事をし、次の比較を終えると、ニルはインク瓶に蓋をした。普段なら眠る支度をする時刻だった。まだ読んでいない頁はあるが、今夜、患者のところで変えるものではない。二冊を鞄へ収め、一覧も送付表と一緒に入れた。アルバは居間の向かいで、革帯の留め具に通した細い紐を引いていた。「終わりか」と聞かれ、「今日は、ここまでにします」と答える。彼は頷いただけで、鞄を取ろうとはしなかった。


 自室へ戻ると、窓辺の朝顔は暗い方へ葉を重ねていた。留め金を確かめ、明朝使う帳面を机に置く。図鑑のある棚の下段には、今夜の鞄が収まる場所を空けてある。ニルはそこへ包みごと置き、髪の紐を外した。指はもう、折り目を押していた時ほど冷たくなかった。寝間着に替えて灯を消すと、部屋の外で金具が小さく鳴った。アルバはまだ起きている。寝台に横になり、いつもの向きへ肩を戻すまで、その音は二度、間を置いて続いた。


     *


 扉が閉まる音を、ニルは卓の前で聞いた。鞄を置く場所がなく、膝に載せている。紙には見覚えのある研究名があったが、読もうとすると、署名の欄だけが手前へ来た。まだ書いていないはずの名前が、もうそこにある。頁を戻すために指を掛けると、向こう側から別の手が重なり、紙は動かなくなった。扉の取っ手は右にあった。椅子を引けば届くはずなのに、引いた脚の先にも同じ卓が続き、床へ下ろす場所が見つからない。


 誰かが名前を呼んだ。顔を上げなければならないと思い、先に口元を緩める。相手の顔は、窓の明かりを背にして見えなかった。腿へ手が置かれ、薄い布を隔てても、その指の幅だけがはっきり分かった。動けば離れるのか、動かない方が早く終わるのか、決める前に膝が閉じた。紙を擦る音が、すぐ近くで続いている。書かれた名前を読もうとした時、扉がもう一度鳴り、ニルは、どちらの音から逃れればよいのか分からなくなった。


 目を開けても、口は笑う形に引かれていた。ニルは唇を閉じ、寝台の上で身体を起こした。自分の窓が見える。朝顔の支柱、その隣に、椅子へ掛けた上着の肩。卓も契約の紙もここにはない。腿にあった重みは、自分の手だった。寝間着の布を指の間へ握り込み、膝を引き上げていた。指を一本ずつ伸ばして布を離すと、そこに手がなくなったことは分かったが、触れていた場所だけは、まだほかの皮膚と違う感じがした。


 寝台の縁へ足を下ろした。床は冷たく、その冷たさなら、足の裏のどこにあるかを確かめられる。ニルは両足を置き直し、机へ手を伸ばした。暗いところで水の器を取るのはやめ、先に灯を点ける。火打石の火花は、最初の一度では火口へ移らず、二度目で小さく燃えた。それを芯へ移し、炎が落ち着くまで見ていると、机の縁に押しつけた指が痛くなった。手を離し、水差しを取った。


 水は、寝る前に運んだものだった。器へ注ぐ音が、自分の動かす手に合わせて止まる。ニルは一口飲み、喉へ水が落ちたあとも、もう一口分を口に含んだ。冷たさが舌に残る。飲み込んでから息を吐くと、次に吸おうとした息が胸の途中で止まった。水のせいではなかった。器を机へ戻し、窓の留め金へ目を向けた。ここは二階で、庭はその下にある。戸の内側には何も掛けていない。


 息を吸い直すより、先に吐けばよかった。ニルは口を少し開き、肩を下ろそうとした。長く吐いたつもりでも、胸の内側にはまだ空気が残り、次の息をどこへ入れればよいか分からない。片手を机へ置くと、掌の下に、今朝ついた細い傷があった。紙を切る時に刃の先を当てた木の傷だ。それも自分で覚えている。指で端を辿り、そこへ戻るたびに息を一つ数えたが、五つ目には、何を数えていたかが抜けた。


 棚から図鑑を取った。下段の同じ場所に置いてある本なのに、背を掴む手が隣の鞄へ触れ、紙の包みが小さく鳴った。ニルはそちらを押し戻さず、本だけを抜いて寝台へ運んだ。表紙の布は擦り切れ、角には丸く潰れたところがある。そこを持つと、紙ではなく布の感触が指へ返った。開いた頁に、鉛筆の丸が残っていた。葉の小さい草が二つ、同じ丸の中に入っている。父と花の絵を見比べた頁だった。


 前後の頁をめくり、図の下の名を読む。ナズナ、ハコベ、カタバミ。ニルは本を見ずに続きを挙げた。オオバコ、ヨモギ、ツユクサ。家の庭にあるもの、道端で見たもの、研究所で札をつけたもの。名前を一つ思い浮かべ、その植物の葉を出してから、次へ進む。いつもなら、花がない株でも、見分けるところが二つか三つは並んだ。今はハコベの葉を思い出している途中の視界に卓の上の紙が入り込んだ。ニルは最初の頁へ戻し、鉛筆の丸の縁を指で押さえた。


 この本は研究院から持ち帰ったものではない。入る前から持っていた。父が開いてくれた厚い方の頁も、まだ綴じられている。ニルは両手で本を支え直し、小さい時には自分の指で押さえ切れなかった重みを確かめた。今なら持てる。けれど、次の草の名を読むために目を動かすと、さっき開いた一覧の一行まで、同じように読めてしまった。書かれていないはずの場所へ視線が戻り、呼吸を数える方も止まった。


 本を開いたまま膝へ置き、窓を見る。朝顔の葉は動いていなかった。眠る前に留め金を確かめたことも覚えている。ニルは寝台へ肩を戻そうとしたが、枕が頭の下へ来る前に、腰を起こした。身体を横にすると、どちらへ足を下ろせるかが急に分からなくなる。灯を置いた机も、窓も見えているのに、掛布の内側だけが、先ほどの椅子と同じ狭さになった。もう一度水を飲み、今度は器を膝の上へ持ってきた。


 飲み終えても、戸の方へ顔が向いた。閉めたのは自分だ。開けて廊下へ出れば、階段へも、台所へも行ける。ニルは器を置き、本を持ったまま立った。机から灯を取り、戸を細く開けると、廊下の窓は暗く、少年の部屋からは物音がしなかった。その先に、アルバの戸がある。下に見える灯は細く、耳を澄ますと、向こうで一度、木へ何かを置く音がした。


 


 ニルは自分の戸口に残り、図鑑の背を持ち直した。アルバへ話す用事なら、明日渡す記録がある。追加資料の番号も、軍へ伝えなければならない。だが、それを聞いてもらってから、また部屋へ戻ればよいのか。自分の机を見ると、水の器があり、鞄の包みも棚に収まっていた。どれも、寝る前の位置から少ししか変わっていない。しかし今からその場所へ一人で戻ることはできなかった。


 灯を机へ戻し、図鑑だけを抱えて廊下へ出た。裸足では床板を踏む音は小さかったが、アルバの戸へ近づくほど、その小ささが気になった。聞こえなければ、来たことも分からない。戸へ指を曲げたところで止まり、何と頼むのかをもう一度考えた。少し話せば済むのか、座らせてもらえば戻れるのか、それも分からなかった。ニルは戸の木へ数度、指の節を当てた。


「起きていますか」


 声が思ったより小さくなった。返事を待つ間に、もう少しはっきり言い直そうとすると、「起きてる」と聞こえた。椅子が動き、戸が開く。アルバは寝る時のシャツを着ていて、革帯も短剣もつけていなかった。先に顔を見られ、次に、胸へ抱えた本へ目が下りた。


「どうした」


 ニルは表紙の角へ指を入れた。


「すみません。今、少し」


 その先に、持ってきた理由を続けられず、開いた隙間の奥を見た。


 アルバの部屋には、小さな机と、椅子が一脚あった。机に油灯、乾いた布、その上に留め具が載っている。ニルの机のように、端まで紙を広げてはいなかった。寝台の足元には、少年の部屋から移した荷箱があり、蓋は閉じられている。ここへ入ったことは、まだなかった。「夢を見て」と言うと、アルバの目が本から戻った。ニルは笑おうとして、口の端がうまく動かないのを感じた。


「目は、覚めたんですが」


 アルバは戸をもう少し開け、椅子の方へ顎を向けた。


「座るか」


 ニルは頷いたが、戸口を越える前に、「入っても」と聞いた。「いい」と返してもらって、ようやく足を動かせた。椅子へ座って本を膝に置き、アルバが戸をどうするかを見た。彼は閉め切らず、手を離してから机の布を端へ寄せた。何を見たのか聞かれると思い、ニルは窓へ顔を向けた。こちらの窓には鉢がない。庭に面しているのは同じで、向かいの塀の上端だけが薄く見えた。


「水は」


 アルバに聞かれ、ニルは自分の机へ戻した器を思い出した。


「飲みました。二度」

「そうか」


 アルバは水差しを置いたまま、寝台の端へ腰を下ろした。椅子との間には一歩分ほどの幅があった。そこへ手を伸ばされなかったので、ニルは本の下に入れていた指を少し緩めた。息は、まだ普段より速かった。ここで速さを直せば、迷惑を掛けずに帰れるだろうかと考え、図鑑の頁を一枚開いた。


「一人で寝られそうか」


 問われたことへ頷きかけ、ニルは窓から顔を戻した。目を覚ますことはできた。水も飲み、何の本を持ってきたのかも分かっている。さっき寝台へ戻ろうとして、横になれなかったことだけが、その答えに入らなかった。


「分かりません」と言ってから、膝の本を見た。もう少しここへいれば、と足すつもりだったが、その少しがどれくらいかは決められなかった。


 アルバは机の灯を見て、枕の脇に置いていた布を取った。


「じゃあ、ここで寝るか」


 ニルは本の頁から顔を上げた。空いている方へ布が移され、寝台の端が少し広くなる。


「ここ、というのは」

「ここだ」


 アルバは自分が座っている寝台を示した。ニルが黙ったままでいると、掛布を半分だけ脇へ寄せ、それ以上は動かなかった。


 自分の部屋へ行けとは言われなかった。一緒にいれば、眠れるかもしれない。それはさっき、戸の前で考えても口にできなかったことだったが、寝台まで借りるつもりで来たわけではない。ニルは頁の隙間から指を抜き、図鑑を閉じた。頼んだことが何になるのか、まだ分かっていないのに、用意された場所だけが目の前にあった。


「いいんですか」


 尋ねると、アルバは布を一度畳み直した。


「寝るだけだ」


 その返事を聞いても、ニルはすぐには立たなかった。アルバの手は、折った布を押さえている。こちらの手首へ来るものではない。それでも、寝るために来たと伝えたあとで、ほかに何をすればよいのかを探してしまった。本のことなら話せる。植物のことも、明日の記録も。机の留め具を直すのであれば、手を貸せるかもしれない。ニルがそちらへ目を向けると、アルバは布の上に載せた金具を小箱へ収めた。今夜続ける仕事は、それでなくなった。


「灯は、つけとくか」


 アルバが尋ねた。ニルは一度頷き、明るさを見てから、「少しだけ」と答えた。自室の灯も点いたままだった。


「向こうにも、点けてきました」

「消してくるか」

「はい。すぐ」


 ニルは図鑑を椅子に残そうとして、置けずに持ち上げた。アルバは立たなかった。戸の外へ出ると、廊下はまだ同じ暗さで、自分の部屋の灯だけが、開けたところから床へ出ていた。


 机の火を消したあと、ニルは寝台へ目を向けた。掛布は、起き上がった時の形に寄っている。ここで眠れないことを証明し直す必要はないはずだったが、一人で寝る支度なら、全部揃っている。水を飲み、灯を点けた。その続きを自分で済ませられなかったから、隣の戸を叩いたのだ。ニルは水の器を奥へ置き、戻るために開けておいた戸を、そのままにして廊下へ出た。


 アルバは寝台の片側へ移っていた。枕は空いた側にあり、アルバが頭の下へ使うらしい布を、壁に近い方へ置いている。ニルが戸口へ戻ると、「本はどこへ置く」と聞いた。


「手元に、あれば」

「じゃあ、こっちだ」


 小さな台がニルの側へ寄せられた。水差しと器はもう載っていたので、その脇へ図鑑を置く。角がはみ出たが、落ちるほどではなかった。アルバは本へ触れず、台が傾かないよう脚の位置だけを確かめた。


 寝台に腰を下ろすと、敷布の下が少し沈んだ。自分の寝台とは違う位置で、木が低く鳴った。ニルは足を上げ、空けられた枕へ頭を置いたが、隣を見られる向きのまま、膝を曲げていた。アルバは灯を低くし、戸を閉めた。何かを掛ける音はしなかった。机の上は見えにくくなったが、戸の位置は分かった。掛布は足首に届いている。アルバが反対側から入ると、布の中央に斜めの皺ができた。ニルはその皺を避けるように身体を寄せ、敷布の端が、肩に当たるところまで動いた。


「落ちるぞ」


 声がして、ニルはアルバの方を見た。アルバの視線に従って肩越しを振り返ると、すぐ下には、もう寝台がなかった。


「そちらを、狭くしないように」

「そこまで寄るな」


 アルバはニルを引き戻さず、自分の肘を身体の脇へ戻した。二人の間には、手を置けるだけの敷布が見えた。ニルは床に近かった肩を戻し、その幅を見ながら横になった。掛布の端は、自分で引き上げた。


 アルバは仰向けになっていた。片手は腹の上、もう一方は枕代わりの布の近くにある。ニルはその手を見てから、自分の腕を胸の前へ揃えた。襟は留まっている。ほどいた髪が首の下に入り、引かれる感じがしたので、少し頭を上げて抜いた。これだけ動いても、隣から指は伸びてこなかった。


「狭いか」と聞かれ、ニルは敷布に残る幅を見た。

「いえ。落ちなければ」

「そうか」


 その声は低かった。ニルは頷き、顔を枕へ戻した。次に何か言われるまで、目を閉じない方がよい気がしたが、アルバはそれきり話さなかった。袖の布が擦れ、身体の重みが寝台の中央から少し遠ざかる。こちらへ向けて空けた場所は、ニルが使ったままだった。


 窓の外で、風が塀沿いの葉を動かした。自室から聞く音と、それほど違わない。戸の近くで木の軋む音がしても、誰かの足が続くわけではなかった。ニルは一度、膝を伸ばした。腿の布にできた皺がほどけ、まだ残っていた手の重みも薄くなる。触れていないのに気になることを、説明するための言葉は見つからなかった。


 ニルは台の図鑑へ指を伸ばし、角へ触れてから戻した。開かなくても、あの頁の鉛筆の丸は思い出せる。ハコベ、ナズナ、オオバコ。さっき並べた順番とは違ったが、今は一つの名前を思い浮かべると、次の植物まで間があった。葉の形を全部揃えなくても、先へ進めた。ツユクサ、カタバミ。そこまで数えたところで、アルバの袖が小さく鳴った。ニルは目を開けたが、手は腹の上にあり、動いたのは布の端だけだった。


 少しずつ、枕へ頭の重さを預けられるようになった。器の水を飲んだことも、灯を消すために自分の部屋へ戻ったことも、順番のある出来事として思い出せる。夢の紙はその間へ入ってきたが、続きを見る前に、隣の息が聞こえた。ヨモギ。その次に何を置こうか考えているうちに、葉の裏側ばかりが浮かんだ。ひっくり返して表を見ようとした時には、もう名前を挙げていることを忘れていた。


 


 遠くで戸が鳴り、ニルは短く目を開けた。部屋は暗く、灯の芯だけが小さく見える。身体を動かすと、隣の息がすぐに変わった。「水か」とアルバが言ったので、ニルは台を見るために上げかけた頭を戻した。


「いえ。起こしましたか」

「少し」


 返事のあと、アルバは窓へ顔を向けた。外がまだ暗いことを確かめたかのように、元の向きへ戻る。ニルが何の音だったか考えている間にも、こちらへ手を伸ばすことはなかった。


「もう、寝られそうです」


 ニルは声を落として言った。いま起きたのなら、その前には眠っていたのだ。アルバは「そうか」と答え、布へ頭を戻した。息はまた揃いかけたが、ニルが掛布を直すと、短く間ができた。これ以上動かないようにと思っても、眠る向きを決める間は布が擦れる。何も言われなかった。その音が止まったあとに、隣の息はまた同じ間隔へ戻った。


 ニルは目を閉じた。まだ、頼み方をちゃんと決めていなかった。何をどれだけ借りたのかも、明日、どう返すのかも考えていない。それを済ませる前に寝てよいか、もう一度聞こうとしたが、口を開くための息が、そのまま長く出ていった。ナズナ、ハコベ。次の名を思い浮かべる間に、敷布の縁を押さえていた指から力が抜けた。誰にも取られなかった腕は、胸の前で曲がったまま、掛布の下へ残っていた。


     *


 窓の縁が見える頃、ニルは目を覚ました。最初に探した朝顔の葉がなく、顔を少し上げてから、どの部屋にいるのか思い出した。台には閉じた図鑑と、水の器がある。自分の手は掛布の内側で、片方を開くと、指の間へ入っていた布が離れた。肩も、手首も、動かすための幅があった。隣ではアルバが、頭の下へ敷いた布の端を押さえている。ニルが身を起こしかけると、その目が開いた。


「起きるか」

「はい」


 ニルは窓を見た。外の塀はまだ日を受けていない。


「いつも、このくらいなので」


 言いながら足を下ろすと、床の冷たさが昨夜よりはっきり分かった。身体を起こしても、ふらつかなかった。アルバはそれを見てから、布へ顔を戻した。深く眠っているところを起こしたのではないのかもしれない。夜に一度声を返されたことを思い出し、ニルは膝の上で両手を重ねた。


「あまり、眠れませんでしたか」と尋ねると、アルバは片目を開けた。

「寝た」

「でも、僕が動くたびに」

「少しだ」


 彼は肩の下の敷布を直し、また目を閉じた。ニルは、それ以上は聞かずに、台から本を取った。水の器へ触れないよう持ち上げても、表紙の角が木を擦った。アルバの指が布から離れたので、起こしてしまったかと思ったが、声はしなかった。


 


 廊下で、少年の戸が開いた。足音は階段へ向かいかけ、途中で止まった。


「アルバ、起きてる?」と呼ばれると、隣から「起きた」と返事があった。戸の外へ来た少年が、もう一度、同じ名を呼ぶ。「開けていい」とアルバが言ったので、取っ手が動いた。隙間から覗いた顔は、寝台を見たところで止まった。ニルは本を持ったまま顔を上げ、少年も、こちらの顔と、まだ横になっているアルバを見比べた。

「何で、そっちにいるの」


 問いのあとで、少年は廊下の奥へ顔を向けた。ニルの部屋の戸は開いている。


「そっち、何か壊れた?」

「いえ。眠れなかったので、こちらで寝かせてもらいました」


 答えると、少年の眉が寄った。


「あっちで寝られなくて、こっちなら寝られるの」

「今夜は、眠れました」


 ニルは言ってから、もう朝だと思い、窓へ目を移した。少年は鼻の脇に皺を寄せ、もう一度、二人の間にある布を見た。


「変なの」


 そう言って戸をもう少し開き、アルバへ顔を向けた。


「飯、まだ?」

「腹減ったか」

「うん。昨日の、残ってたろ」

「残ってる。下りる」


 返事を聞くと、少年は寝台から目を外した。廊下を戻る足音は、今度は階段まで続いた。ニルは戸を開けたままにしてよいか尋ね、アルバが頷くのを見てから立った。昨夜は、ここを出たら自分の部屋へ戻るしかなかったが、今は着替えるために戻ればよかった。


「ありがとうございました」


 ニルが言うと、アルバは寝台の端へ足を下ろした。


「寝られたか」

「はい」


 それは答えられた。夜の途中で目を覚ましたあとにも、もう一度眠っている。どうして眠れたのかを全部説明しなくても、今はその返事だけで、アルバは立ち上がった。ニルは図鑑を胸の前へ抱え、彼が通る幅を空けた。手首にも、本を持つ手にも、何も触れなかった。


 階段の軋む音がした。少年が下で何か言い、アルバの声が低く返る。ニルは自分の部屋へ向かい、戸口で一度足を止めた。窓辺には昨日と同じ鉢があり、机の水差しも、棚の鞄もそのままだった。一覧の入った包みは、図鑑を戻す場所の隣にある。あの一行がなくなったわけではない。ニルは本を棚へ押し込み、背の布が見える位置で手を離した。


 着替えを取る前に、廊下へ目を戻した。アルバの戸は開いていて、今は誰もいない寝台の端が見えた。九か月、用がなければ通り過ぎていた戸だった。木の色も、取っ手の高さも、自分の部屋までの距離も変わっていない。階下で器を置く音を聞きながら、ニルはもう一度、その戸を見た。昨日までと同じ家の中で、そこだけが、少し違って見えた。

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