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Ipomoea  作者: Tanahituzi


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第13章 向かいの椅子

 小温室には、正門の灯を落とす前から人がいた。アルバが警備の交代を確かめて実験棟へ回ると、硝子の内側で、ニルが窓際の鉢へ細い片を寄せていた。花はまだ開き切っていない。片を外して帳面へ何か書き、また同じ位置へ戻す手は、戸を押す音でも止まらなかった。声を掛けると、ようやく顔が上がる。「早いですね」と言われ、アルバは棚の間へ入った。


「お前もだ」

「僕は、いつもこのくらいです」


 ニルは鉢札を裏返し、もう一つの蕾へ片を移した。


 家でも、ニルが窓を開ける音は早かった。アルバが帰ってから短く眠り、起きる頃には、庭へ出ていることもある。夜中まで帳面を見ている日が続く男ではなかった。今朝も襟は整い、髪は後ろで結ばれている。アルバは通路へ置かれた空箱を避け、乾いた台に持ってきた用紙を載せた。カイが温室へ来て、五週目に入っていた。本人の話から照会先は増えたが、論文を渡した女の名も、ユアンの行き先も、まだ紙の上にはなかった。


「今日も、話を聞くんですか」とニルが尋ねた。

「医師がいいと言えばだ。先に、昨日の記録を取る」

「昨夕の分なら、医療区画に。腕を曲げた位置も書いてあります」


 ニルは帳面を閉じかけ、花へ目を戻した。


「ここを終えたら行きます。あと二つなので」


 アルバが頷くと、すぐ測定へ戻った。窓の向こうが明るくなるにつれ、萎んで見えていた花の縁が離れていく。アルバには片の明るさが変わるのは見えても、ニルが何度も向きを直す理由までは分からなかった。


 台へ置いた紙を折り直していると、廊下で足音が速くなった。来た職員は戸を大きく開かず、ニルの名を呼んだ。


「カイさんの腕が。今の片の位置では、反応が下がらなくなっています」


 ニルの羽ペンが止まり、片が布の上へ置かれた。


「いつからですか」

「少し前です。医師が来てほしいと」


 ニルは帳面を鞄へ戻さず、腕に抱えた。アルバが戸口を空けると、その脇を抜けていった。棚には、まだ札を裏返していない鉢が二つ残っていた。


 医療区画へ入る手前で、器の割れる音がした。アルバが扉を押さえると、ニルは戸口から右腕を見て、「上の片を強くしないでください」と言った。寝台の脇には水が広がり、職員が割れた器を布へ集めている。カイは背を寝台へつけたまま、左手で掛布を握っていた。右腕の指だけが開き、閉じるたび、枠の金具が短く鳴った。皮膚の下の光は、昨日まで細く見えていたところでも、二本が重なっているように濃かった。


「今朝の薬は使ってる」と医師が言った。

「角度も昨夜と同じだ。先に掌へ溜まった」

「時刻と、その前の値を」


 ニルは帳面を乾いた卓へ置き、枠の反対側へ回った。測定片を肘の脇へ寄せると、カイの肩が上がった。


「動かしてねえぞ」

「分かっています。腕は、そのままで」


 ニルが答えたところで、指先の光が白くなった。医師は職員に肩を支えさせ、ニルは浅い方の遮断片だけを少し返した。光は一度弱くなり、すぐ、肘へ近い線に戻った。


 アルバは寝台へ寄りかけ、止まった。力を掛ければ、飛んでくる物は受けられる。腕の中でどちらを閉じてよいかは、ここに立っていても分からない。戸口へ来た警備兵に廊下の人を退けさせ、床に置かれた水桶を壁際へ動かした。カイが息を吸おうとして喉を鳴らすと、医師が顔を覗き込んだ。ニルは片を持つ指を動かさず、「この位置で、もう一度」と職員へ数を読ませた。返ってきた数を聞く間だけ、口が閉じた。


「昨日より、戻る側が先に落ちています。下へ動かすと、こちらが残るので」


 説明しながら、ニルは帳面の図と、腕の内側を交互に見た。医師は片を強くするのをやめ、留め具の高さを変えた。二人の手が重ならないよう職員が灯を動かすと、壁の影も大きくずれた。カイの左手から掛布の端が抜け、指が寝台へ落ちたが、目は開いたままだった。


「また、駄目になったのか」


 問いが二度の息に分かれた。ニルはすぐには答えず、測定片を元の位置へ戻した。


「今、強くなったところを抑えています。なぜ変わったかは、まだ分かりません」


 そう言って、ニルはカイの顔を見た。


「一度に全部は止められません。腕は動かさずにいてください」

「止めてるつもりだよ」


 カイの声が強くなると、医師が呼吸の方へ戻った。アルバは卓を寝台から離し、倒れかけた水差しを置き直した。ニルの帳面も同じ卓にあったが、手元から見えなくなると困るので、そちらの端だけは残しておいた。


 片の角度が決まってからも、カイの指はすぐには静まらなかった。ニルが示した位置を医師が引き継ぎ、二度、職員が数を読み上げた。三度目には金具の音が止まり、掛布の上でカイの左手が開いた。水を少し飲ませる間、ニルは腕の先へ目を向けたまま、帳面へ時刻を加えていた。書いたあとで、医師に薬の量と、使った時刻をもう一度尋ねる。今朝までの記録とは別の紙へ、片の位置が描かれた。


「この範囲で、今は保てる」と医師が言った。

「次に強くなったら、どちらが先か見てから動かす。全体を落としすぎない」


 ニルは頷き、まだ反応が残る箇所を二つ示した。それから枠を離れたが、椅子へは座らず、卓の前で図を描き直した。アルバは廊下に残した兵へ、聞き取りは見合わせると伝えた。急変したことは軍にも届ける。原因については、ニルが分からないと言った以上の言葉を足さなかった。


 


 詰所で報告を渡し、午後に戻ると、ニルは隣の実験室にいた。窓際の台には硝子板が並び、腕の図は、片の角度ごとに別々の用紙へ写されている。ニルは一枚を灯へ透かし、細い溝へ片を寄せた。棚の上にパンの包みがあったが、紙の口は開いていなかった。「カイは」と尋ねると、台を見たまま、「眠っています」と返った。


「朝に決めた範囲で、調整を続けています。今、こちらで比べているのは、戻る側が塞がる順番です」

「治せるか」

「この板と同じだと決まったわけではありません。昨日までの値では、ここを先に弱めれば両方が下がるはずでした。でも、今朝は片方だけ残ったので」


 ニルは二枚を横へ並べ、入口と出口の位置を指した。


「薬の量が変わっていなくても、繋がっている部分の反応は変わります。どこまで今の調整で保てるか、先に確かめないと」


 アルバには、朝の枠で片を返した時に、光が別の線へ戻ったことが思い出された。板にある筋を辿っても、その先の計算までは読めなかった。


 医師が観察の紙を運んでくるたび、ニルは台の反応を止めて読んだ。眠っているカイを起こして動かさせた記録ではなく、同じ姿勢で測ったものだという。アルバは紙にある時刻だけを確かめた。人が替わっても、測る位置は変えていない。ニルは数を二つ書き足し、また板へ向いた。棚の包みへ手を伸ばしたので食うのかと思ったが、その下の乾いた布を取っただけだった。


 夕刻、マレナが台の片側を空け、次の職員へ渡す記録をまとめさせた。ニルは、角度の幅がまだ狭いと言った。


「狭くても、交代する人が読めるようにして。あなたがここにいないと扱えない記録では困るでしょう」


 そう返され、板の図へ印を入れる。書き終えても次の用紙を取ったため、今夜はどこまで続けるのかと聞かれた。


「薬を使った後の値まで。そのあと、朝の分とも比べます」


 マレナは硝子板を見てから、パンのある棚へ目を移した。


 アルバはその夜、少年の迎えの連絡を自分で引き受けた。家へ送られてきた少年に食事を出し、ニルは研究所に残っていると伝えると、少年は、余った椀を卓へ置くのをやめた。いつ帰るかまでは答えられなかった。夜の使いが持ってきた短い紙には、カイの反応は調整の範囲に収まっているとあり、ニルは解析を続けていた。朝に持ってきていた帳面と、実験室で増えた紙の枚数を思い出し、アルバは寝る前に、翌朝の軍務の時刻を確かめ直した。


 昼を回って研究所へ行くと、ニルの上着は昨日と同じ椅子に掛かっていた。台には新しい板が二枚増え、棚の包みは開いていたが、パンは端が一口欠けただけだった。医療区画の職員が、夜も記録を取りに来たと教えてくれた。今朝の測定もニルが確かめたという。アルバは手元の紙を裏返していたニルへ、「寝たか」と聞いた。


「少し、座っていました」

「寝たか」

「目を閉じたと思います。次の値が来る前に」


 返事のあいだも、ニルは二つの列に線を引いていた。最後まで引けず、途中でペンを浮かせ、端を確かめてから続きを書く。昨日なら一度で済ませていた動きだった。マレナが来て、患者を囲む仕事は当直で続けられること、板の測定は交代させることを伝えた。ニルは首を上げ、「この計算だけ」と言ったが、次に示した紙はもう一枚下にあった。アルバは上着を椅子から取った。


「帰るぞ」


 ニルは紙を重ねかけ、そのうち二枚をまた抜いた。


     *


 馬車では、ニルは鞄を両膝に載せていた。家まで揺られるあいだ、目を閉じることはあったが、車輪が石を拾うたび、鞄の口を確かめる手が動いた。家の前で降りると、少年が窓の内側から二人を見て、すぐ姿を引いた。戸が開くまでの短い間に、ニルは庭の方へ顔を向けた。夕方には萎む花のあるところを探しているらしかったが、鞄の紐が門へ引っ掛かったのにも気づかなかった。アルバが木の先から紐を外すと、少し遅れて礼を言った。


 少年は居間の卓で独楽の紐を巻いていた。ニルが鞄を下ろし、紙を二つに分けると、独楽が卓の手前へ寄せられた。


「また、それやるの」

「計算の続きです。上の机より、広いので」


 ニルは答え、二冊の帳面を開いた。少年は紐を巻いた独楽を持ち上げ、空いている端へ置く。


「ここは使う」

「ええ。そちらは、空けます」


 言った通り最初の一枚は遠ざけたが、次に抜いた図が独楽の方へ重なり、少年が指で押し戻した。


 アルバは台所へ行き、鍋へ水を足した。昨日煮た豆と根菜が底へ寄っている。火を入れ直し、パンを切っていると、居間で独楽の回る音がした。すぐに止まり、少年が何か言ったが、返事は聞こえなかった。もう一度呼ばれてから、ニルが「うん」と答える。アルバが椀を持って戻ると、ニルは片方の紙を半分だけめくり、下の数字を読んでいた。椀を置くために端を空けさせると、図はまた独楽へ近づいた。


「食え」


 アルバが匙を置いた。


「先に。紙はそのあとだ」

「はい。あと、この列だけ」


 ニルは羽ペンを持ち替え、右の頁へ小さく書いた。少年は独楽を内袋へ入れ、台所で食べると言った。卓の端へ椀を置く場所は残っていたが、紙を濡らさないよう端まで寄せなければならない。アルバも自分の椀を持ち、台所へ戻った。ニルの分から上がる湯気だけが、居間の灯の向こうへ残った。


 少年は煮込みの豆を先に掬い、途中からパンを食べた。独楽の紐がほどけにくくなったと見せてきたので、アルバは匙を置いて端を確かめた。


「ここを巻き込んでる」

「直る?」

「外せばいい。無理に引くな」


 結び目を緩めると、少年は自分で続きを解き、今度は端を残して巻き直した。食事が終わってもすぐ上へ行かず、卓に置いた独楽が倒れないか見ている。居間から、紙を重ねる音がした。


「ニルの飯は」と少年が尋ねた。

「置いた」


 アルバが答えると、戸口から顔だけ出して確かめた。「冷めるぞ」と声を掛け、戻って自分の椀を洗った。ニルの返事は、今食べます、だった。アルバも流しへ椀を運び、鍋の残りに蓋をした。食卓には三人分を同時に置ける幅がある。今日は二つを使ったあとで、居間へ残した一つを見に行くことになった。


 椀の表面には薄い膜ができていた。匙の位置も、アルバが置いた時と同じだった。ニルはペンの先を拭っているところで、隣の瓶へインクを足した。


「食ってないな」

「もう少しで、この時刻の分が終わります」

「何時の分だ」

「今朝の。その前の値と並べれば、どこから差が出たか」


 アルバが黙って椀を持ち上げると、ニルは顔を上げた。


「すみません。温めるのは、自分で」

「座ってろ」


 アルバは台所へ運び、紙を揃えようとする音を背後で聞いた。


 椀を温め直している間に、少年が水差しを持ってきた。居間の方にも置いた方がよいかと聞かれ、アルバは自分が運ぶと答えた。少年は両手で持っていたものを流しへ置き、まだ洗っていない匙を見た。


「僕、先に上へ行ってもいい?」

「行け」

「これ、残ってるけど」

「後で洗う」


 少年は水差しから手を離し、内袋にある独楽の位置を押した。階段の音が止まってから、アルバは椀と水を同じ盆へ載せた。


 ニルは椅子へ座ったまま、片足だけを脚の横へ出していた。盆が紙の上に置かれないよう、先に図を寄せる。アルバが二度目の椀を手元へ戻すと、今度は匙を取った。ひと口を飲み込むまでに時間が掛かったが、そのあいだは羽ペンを持たなかった。二口目の後に水を飲み、「昨日の夜には、戻る側も下がっていたんです」と言った。説明の先を聞けば、また匙が置かれる。「食ってからだ」と返すと、ニルは口を閉じ、椀へ目を下ろした。


 半分ほどで手が止まった。ニルは冷めたからではないと言い、これ以上はあとで食べると椀を脇へ寄せた。アルバはその時だけ、頷いた。研究所にいた間も、同じように誰かが飯を置いたはずだった。枠の前に一人で残されたわけではなく、薬も、測定も、別の人間が続けている。それでもニルは、これだけの紙を持って帰ってきた。アルバが次の用紙へ置かれた手を見ると、ニルは「患者のところで、今夜変えるものではありません」と言った。


「なら明日にしろ」

「朝の記録が来る前に、揃えておきたいので」

「朝も来るんだろ」

「ええ」


 ニルは答え、ペン先を取った。アルバは椀を下げた。自分が現場に残る時には、交代する者へ引き継げと言われても、あと一箇所を見てからだと返すことがあった。今は、あと一列と言った男が、次の頁を開いている。使いかけのインクを蓋ごと取り上げれば止まるだろうが、アルバは卓の端にある水の器だけを、倒れない位置へ動かした。


 


 少年の部屋で戸が閉じられた。しばらく、椅子を動かす細い音がして、それも止まった。アルバは台所を片づけ、居間へ自分の帯を持ってきた。昨日、擦れた留め具の裏を拭く用事が残っていた。向かいへ座っているあいだ、ニルは二度、頁を戻った。一度目は数を書き直し、二度目には同じ行へ指を置いたまま、動かなかった。アルバが名前を呼ぶと、「ここは、もう比べました」と答えた。呼ばれた理由を確かめず、紙の角を揃え直す。


 留め具の汚れが落ちても、ペンの音は続いた。外の通りを行く馬車はなくなり、庭の塀越しに聞こえていた声も遠ざかった。アルバは一度上へ行き、少年の戸を細く開けて呼吸を確かめた。壁際へ敷いた布の上で、掛布が肩まで上がっている。靴はすぐ届くところへ揃えられ、独楽の紐だけが椅子の座面から垂れていた。戸を元どおりに閉めて戻ると、居間では、新しい紙が一枚、椀のあった場所まで広げられていた。


     *


 油灯の芯が短くなり、ニルが紙を明かりへ寄せた。アルバは革帯を畳み、壁の鉤へ戻した。灯を足してやれば、まだ続ける。「いつから起きてる」と聞くと、ニルは帳面の端を見た。


「昨日の朝です」

「夜は」

「さっきも言いましたが、座っている間に、少し」

「それだけか」


 ニルは頷いた。それから、時間を数えられる前に説明するように、「最初から、ずっと測っていたわけではありません。待つ時間もありましたから」と付け加えた。


 アルバは壁の灯へ顔を向けた。昨朝、小温室で見た襟は、今は片側が内へ折れ、結んだ髪から短い束が頬へ落ちている。ニルはそれを耳へ戻そうとして、インクのついた指を途中で止めた。布を探し、卓にあるのに、鞄の脇へ手を伸ばす。アルバが布を寄せると、礼を言いながら取った。「寝ろ」と言った時にも、ニルは指のインクを拭う方を見ていた。


「もう少しで終わります」

「それは夕方も聞いた」

「最後の分だけ、机へ戻しておけば。明日の朝、最初から探さなくて済むので」


 ニルはインク瓶に蓋をした。終わるのかと思うと、帳面の下から別の図を抜き、立ち上がった。椅子の脚へ片足が触れ、身体が横へ傾く。卓へ手をついて止まったが、空いた椅子は床を擦って動いた。ニルはそれを戻そうと屈み、今度は膝を伸ばす途中で止まった。


 アルバは椅子を支えた。


「座れ」


 ニルが腰を下ろすと、手に持っていた図が一枚、床へ落ちた。拾うために身を曲げかけたので、アルバが先に取った。紙を卓へ戻すと、ニルは顔を上げて笑った。


「大丈夫です。少し、立つのが早かっただけで」


 その笑い方は、研究院から戻った日に、昔の著者名を話していた時と似ていた。何も困っていないと言い、その後にも、大丈夫です、と付け加えた顔だった。


「寝ろ。もうやめろ」

「はい。上へ戻したら、寝ます」


 ニルはまた立とうとした。紙をまとめる方の手はまだ卓へあり、どれを上へ運ぶか選び始めている。


「紙は明日でいい」


 アルバはその左手首を取った。寝室へ連れていき、灯を消させるつもりだった。指の骨が分かるほど細い手首だったが、強く締めたつもりはなかった。「来い」と言って、階段の方へ一歩動いた。


 ニルの足が、椅子の前から離れなかった。掴んだ腕だけが急に硬くなり、肘を曲げる向きにも、伸ばす向きにもついてこない。アルバは椅子に服が掛かったのかと思い、足元を見た。何もない。顔を戻すと、ニルは閉じた居間の戸を見ていた。口がわずかに開いているのに、息を吸う音がしない。肩の位置も、立ちかけた時のまま上がっていた。


「おい」


 呼んだ途端、ニルの顔が変わった。眉間にあった力が抜け、口元へ、さっきより柔らかい笑みが戻った。「はい」と答え、椅子から立つ。今度はアルバが引くより先に、こちらへ寄った。掴まれた左腕は硬いままなのに、右手が自分の襟へ上がり、釦を一つ外した。アルバが口を開きかけると、その手が、今度はアルバの上着の合わせ目へ触れた。


「部屋で、ですよね」


 ニルは低く言った。廊下へ向かう幅はあるのに、そこで身体を近づけ、アルバの手元を見る。顔は笑っていた。襟を外した指の先だけが震え、布へ触れても、掴む位置を決められない。アルバは動けずにその手を見た。眠いだけなら、腕までこんなに張るはずがない。ふらついた身体を支えようとして寄るのとも違った。ニルの右手は、体重を預ける場所ではなく、上着の釦を探っていた。


 アルバは手首を離した。ニルの左手が下へ落ち、卓の角へ触れかける。こちらへ上がっていた右手は、合わせ目に残ったままだった。


「違う。何もしない」


 アルバは言い、半歩下がった。ニルの指が布を離れた。


「寝ろって言っただけだ」


 声が強く出たので、そこで止めた。ニルは右手を自分の襟へ戻したが、外した釦に掛けるまでに、二度、違う位置を触った。


「……すみません」


 釦が留まってから、ニルは言った。笑みはもう薄くなっていたが、アルバへ向けた顔を下げようとはしなかった。


「勘違いしました。僕が、勝手に」

「座れ」と言うと、ニルはすぐ椅子へ戻った。アルバはその速さを見て、次の言葉を飲み込んだ。さっき、座れと言った時も、同じように座った。それで済んだはずだったのに、自分は手首まで取って、来いと言った。


 卓の向こうには、水の器があった。アルバはそれをニルの側へ寄せようとして、先に手の位置を見られた。さっきと同じ右手だった。器を持ち上げず、卓の上で滑らせる。ニルは「ありがとうございます」と言ったが、手を出さなかった。左の袖を右手で下ろし、手首を隠すほど深く引く。布が肩で張っても、そのままにしていた。


「痛かったか」


 アルバが尋ねた。ニルは自分の袖を見て、それから顔を上げる。


「いえ。強くは、掴まれていません」

「手は」

「痛くありません。転んだわけでもないので」


 そう答える声には、研究の説明をする時の調子が少し戻った。


「僕が、ちゃんと聞かなかったんです。寝るようにと言われたのに。前のことと、混じって」


 最後の言葉が小さくなり、ニルは水を取った。持ち上げた器の表面が、細かく揺れた。


 何と混じったのか聞けば、答えるのかもしれなかった。廊下に誰かがいるわけでも、少年が起きているわけでもない。アルバは閉じた戸を見た。寝台へ行けと言い、手首を取った。それだけで、ニルは息を止めたあと、笑いながら服へ手を掛けた。誰にそうしたのかは知らない。だが、今夜アルバが言ったことを聞き違えただけでは、あの硬くなった腕の説明がつかなかった。


「すみません。昔の、癖です」


 ニルが言った。


「もう、しませんから」


 器を置き、卓の紙を揃えようとする。すぐに元へ戻せるものとして扱う手つきだったが、上下の違う図を重ねていた。アルバが黙っていると、ニルは紙を置いて見上げた。


「怒って、いますか」

「怒ってない」


 返事の後でも、ニルの手は紙へ戻らなかった。アルバは卓を回らず、向かい側の椅子を引いた。腰を下ろせば、立っている時より顔の高さが近くなる。


「俺が掴んだ」と言うと、ニルは首を振った。

「連れて行ってくださろうとしたんですよね。分かっています」

「先に言えばよかった」

「言っていました。寝ろ、と」


 アルバは返せなくなった。ニルはそこで、また少し笑った。言葉が足りなかったことにすれば済むと思ったが、命令は聞いていたという。それを聞いて立ち、服へ手を伸ばしている。「お前が謝ることじゃない」とだけ言った。ニルは頷き、膝の上へ両手を置いた。


 


 しばらく、どちらも紙を見なかった。灯の芯の端で小さく火が揺れ、台所の竈に残ったものが鳴った。アルバはもう一度、何もしないと言うべきか考えた。ニルは今、こちらから次に言われることを待つように、手を膝へ揃えている。何を言っても、その通りにしようとするかもしれない。アルバは椅子の背から身体を離し、「水は飲めるか」と聞いた。ニルは器へ目を向け、頷いて取った。今度は、両手で持った。


 この家でニルと初めて顔を合わせた日にも、鞄を胸の前へ抱え直す間があった。アルバはそれを、今になって思い出した。知らない靴を見て台所へ来た男に、家主からここを使ってよいと言われていることを伝えた。駄目なら別を探すと言うと、構いません、という返事だった。鞄を置くまでに時間が掛かったが、自分の部屋へ何を運ぶか考えているのだろうと思った。返事を聞き、それ以上は尋ねず、荷を残した。


 数か月後にセリュシアが来た時も、大丈夫だとニルは言った。同居を知らなかった姉に、困っていることはないと答えたので、アルバも、嫌なら言え、と言った。嫌だとは言っていません。その返事を覚えていた。言われた通り、嫌だとは聞いていなかった。今夜も、紙を拾って戻した時に、大丈夫です、と聞いた。そう言う顔を見て、手首を取っても構わないと思ったのではないか。


 ニルが器を置き、立つために足を引いた。アルバも立ちかけ、手を出す前に止めた。


「歩けるか」

「はい。今度は、ゆっくり立ちます」


 ニルは卓へ片手をつき、椅子を押さえて腰を上げた。さっきのように足は引っ掛からなかったが、顔を上げた時に、身体が少し後ろへ戻った。アルバは距離を空けたまま、「支えるか」と聞いた。ニルはその手を見て、廊下の方へ目を移した。


「手摺が、ありますから」

「分かった」


 アルバは先に居間の戸を開けた。握っていた手を開いて、取っ手から離す。ニルは通る前に卓を見返したが、帳面は取らなかった。「上まで行く。戸の外までだ」と伝えると、こちらを見てから、廊下へ出た。階段では一段ずつ足を置き、同じ側の手摺を使った。アルバはすぐ後ろへつかず、足が止まった時だけ、下の段で待った。途中の軋む板も、今夜はニルの軽い足で鳴った。


 自室の戸を開けたところで、ニルは振り返った。


「紙、広げたままですみません」

「そのままでいい」

「朝、片づけます」

「今は寝ろ」


 言ってから、アルバは戸の横へ退いた。ニルは中へ入り、何かを言いかけたが、結局、ありがとうございます、とだけ言った。戸を閉める手は、まだ袖の中へ半分隠れていた。掛布を動かす音がするまで、アルバは廊下に立ち、それから自分も階下へ戻った。


 居間には、途中の計算が残っていた。紙を畳めば、朝、また順番を探すことになる。アルバは水の器を下げ、拾った一枚だけを卓の端へ寄せた。灯を消す前に、自分の右手が光に入った。指にインクはなく、爪のきわも洗ってある。手首を握っていた部分を、親指で一度擦った。赤くなっていたか、袖の下へ引かれてからは確かめられなかった。痛くないと答えたことも、そのまま記憶に残っていた。


 自分の部屋へ戻って靴下を脱ぎ、寝台の端へ座っても、横になる気になれなかった。いつもなら、これくらいの時刻にはまだ起きていられる。今日は眠れるだけの時間が残っているのに、灯へかざした右手を下ろす場所が決まらなかった。手を取れば、こちらが歩く方へ連れていける。そのつもりで使った指が、ニルの腕を硬くし、あの笑みを出させた。


 廊下の向こうでは、戸を開ける音がしなかった。少年の部屋も静かだった。アルバは親指を手のひらへ折り、ほかの指を重ねてから、また開いた。いつもと同じ動きで、同じだけ力が入る。灯を低くすると掌の線だけが薄れていったが、アルバはまだ、その手を見ていた。隣の部屋の物音がなくなって久しくなっても、眠りは来なかった。

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