第12章 名前と一緒に
カイが水を求めた時、ニルはまだ、腕の測定値を持つ職員の方を向いていた。息に混じった声は低く、戸の外で鳴る車輪の音より聞き取りにくかったが、もう一度、同じ言葉が続いた。寝台へ顔を戻すと、カイの目が水差しのある卓を見ていた。右腕を支える枠へ肩が近づき、二枚の遮断片の間で、細い反応が揺れる。ニルは紙を置き、器へ水を少し注いだ。「起こしていいですか」と当直医へ聞くと、背に布を足す間だけ待つよう言われた。
研究院へ行ってから三日目だった。カイは昨日も短く目を開け、呼びかけに指を動かしたが、場所を説明し終える前に眠りへ戻った。今朝、小温室へ来た職員は、今度は自分で名前を言い、医師へ質問したと知らせた。ニルは開花後の記録をハルドに預け、帳面を持ったまま医療区画へ来ていた。窓は半分だけ開けられ、外の空気が、洗った布の掛けてある棒をゆっくり揺らしていた。
枕が高くなっても、カイはすぐには器へ手を出さなかった。枠の外にある左手を開き、閉じてから、ニルの持つ水を見た。
「何か入ってるか」
「水だけです」
器を近づけると、手が伸びた。自分で持ちたいのだと分かり、ニルは底を支える位置へ指を移した。縁が唇へ届くまでに水は一度揺れたが、飲み込む音がした。カイは二口でやめ、左手を掛布へ戻した。
「ここ、どこだ」
「王立エヴァン植物医術研究所です。温室から、こちらへ運びました」
「まだ、そこか」
ニルが頷くと、カイは窓、それから戸口を見た。
廊下には軍の兵がいた。開いた戸から見えるのは肩だけだったが、カイの目はそこに留まった。「俺を連れてくのか」と聞かれ、ニルは医師へ顔を向けかけて、先に答えた。
「温室へ追ってきた人を調べています。ここへ入る人も、確かめてもらっています」
「来たんだな」
「二人、搬入口で警備の人と揉めました。あなたを渡してはいません」
カイの左手が布を握った。右腕の反応が少し強くなり、医師が片の角度を確かめたが、カイはそちらを見なかった。
「家には」
声が途切れたので、ニルは器を置いて待った。
「母さんと、妹。何て言った」
「今ここで治療を受けていると。お二人とも、面会に来られました」
「俺、喋ったか」
「その時は、まだ」
ニルは卓の診療記録を見た。面会した日に、返事があったという記載はない。
「目が覚めたことは、これから知らせます」
カイは唇を湿らせ、掛布を握っていた手を緩めた。水を足すか尋ねると、器へ目を向けてから、小さく頷いた。
マレナが入ってきた時、ニルは腕の枠の下へ帳面を広げようとしていた。彼女は先に医師の話を聞き、寝台から少し離れた椅子へ座った。
「今朝は、どのくらい話せますか」
「短く区切って。途中で眠くなるかもしれません」
医師が答えると、マレナはニルの帳面を、器の置いてある卓へ移した。カイはその表紙を見て、「また測るのか」と言った。「今は、体調を確かめる分です」とニルは答えた。
「これまで、どんな薬を使ったか聞ければ、処置を考える助けになります。でも、先に――」
「あんた、止め方は分かったのか」
ニルは口を閉じた。温室で倒れる前にも、同じことを求められた。いまの腕を傷めずに流れを落とせる幅は、あの夜より分かっている。薬から分けた成分も、台の上で組み直した橋も、記録になっていた。
「噴き出す量は抑えられています。ですが、後からできた導路を、全部安全に止める方法は、まだ見つかっていません」
「作ったのに」
「基礎の式は僕が書きました。あなたに処置をしたのは、別の人です。僕の研究は、これほど長く身体に残す段階まで進んでいませんでした」
カイは右腕を見た。片の間にある線は、消えずに続いていた。
「じゃあ、紙に書いた奴に聞いても、駄目だったのか」
ニルは、違うと言いかけた。公開した式と一致する箇所があり、未公開の補正も使われている。それを知っていることは、止め方を探す役に立つはずだった。けれど、ここへ来れば止まると思っていた人へ、役に立つ部分の説明だけを返すわけにはいかなかった。「まだ、止められていません」と言い直すと、カイは目を閉じた。眠ったのかと思ったが、次の息のあとで、「分かった」と返ってきた。
職員が薄い粥を運んできた。医師に少しずつ食べるよう言われ、カイは左手で匙を取った。椀の縁に柄が掛かり、持ち直すまでに粥が少し落ちた。ニルは椀を寄せかけ、指が触れる前に、カイが自分で手前へ引いたのを見て止めた。マレナは午前の聞き取りをここまでにし、軍へ知らせを出すと言った。ニルの帳面には、まだ薬の名も量もなかったが、カイが二匙目を飲み込む間は、羽ペンを取らずに待っていた。
*
昼過ぎに戻ると、粥の椀は片づけられ、カイは枕を背へ入れて座っていた。肩まで上がっていた掛布は腰へ下がり、右腕だけが寝台の脇の枠へ残っている。アルバは戸口から入って、寝台までの幅を確かめたあと、卓の端に薄い包みを置いた。中には軍で預かった所持品の記録、論文の写しと、封じた小さな袋があった。ニルの持参した腕の図を見て、「先に、話せる分を聞く」と言い、椅子を引いた。
カイは軍服を見ていた。アルバが名を告げ、家族のところへ行ったことを話すと、目が顔へ戻った。
「妹、何か言ってたか」
「帰ったら靴の紐を買うと」
カイの左手が膝の上で止まった。
「あれ、まだ捨ててないのか」
アルバは左右とも窓の下にあったと答えた。カイは片方に結び目が三つあると言い、少しだけ口の端を上げた。
「あいつ、自分の靴より覚えてる」
声の最後が掠れたので、ニルは水を注ぎ足した。今度はカイが持てるところへ器を置き、卓へ広げる図を少し遠ざけた。
施設へ行った日は、診療所の窓口で馬車を待ったという。紹介の紙を出し、荷物は足元へ置かされた。「道は見たか」とアルバが聞くと、カイは首を振った。
「窓の覆いは下りてた。眠くもなった。着いたら、もう夕方で」
どれほど乗っていたかは分からない。荷役へ行く時なら川と橋で方角が分かったが、その日は降りた場所にも知らない塀が続いていた。ニルは道順を書くために空けた欄へ、カイの言ったままを入れた。アルバは時刻を言い直させず、施設へ入ってから誰に会ったかを聞いた。
「最初は、腕を測る人。次が、薬を渡す人。寝る所へ連れてく奴は、また別だった」
カイは戸の向こうで職員が通るのを見て、声を落とした。
「ここでも、一人じゃないんだな」
「測定と治療で、担当が違います。何をしたかは記録してあります」とニルが答えると、「向こうも、書いてた」と返った。朝、腕を見せる。決まった位置へ片を当てられ、指を動かす。薬を使い、もう一度測る。午後にも呼ばれる日があった。熱が高ければ寝台の上で、起きられれば廊下の先の部屋で、同じ数字を読み上げられた。
同じ部屋には寝台が四つあった。最初から全部埋まっていたわけではなく、空いたところへ別の者が来ると、掛けてある札も替わった。ほかの部屋から測定へ出る人と、廊下ですれ違うこともあったという。「腕だけの人ですか」とニルが聞くと、カイは自分の脚へ目を落とした。
「歩き方がおかしいのもいた。何が悪いかは知らねえ。廊下で長く話してると、戻れって言われたし」
「部屋にいる四人は」
「喋った。飯もそこで食ったから」
カイは水を飲み、器を左膝へ置いたまま、もう一方の膝で掛布を持ち上げた。
「飯より、薬が先だった」
ニルは記入を止めた。
「朝ですか」
「まだ暗い時。廊下で番号を呼ぶんだ。寝てても起こされた」
「毎日、同じ時刻に」
「分かんねえ。時計はなかった。でも、飲んで測ってるうちに、窓が明るくなる。終わった奴から飯をもらってた」
ニルは手元の観察表へ目を移した。こちらで処置を続けている時刻とは、必ずしも同じではない。施設の薬が何をどれほど含んでいたか、毎回同じものだったかも、まだ確かめられなかった。
カイは硝子の封を切り、少ない水へ混ぜて飲んだと話した。味は舌の奥に残り、その後でもらう粥を早く食べたくなったという。ニルは朝の欄へ、夜明け前と書いた。家でも温室でも、朝顔は花弁が開くより先に反応を強める。いま出た時刻を、腕に使われたものの性質と結びつけたくなったが、薬の作用を待って測る都合だった可能性もあった。
「夜には使わなかったんですか」
「使う日もあった。熱が上がった時。それが同じ薬かは、俺には分からねえ」
ニルは二つの欄を繋ぐ線を引かず、夜の分を別に書いた。
「最初は、前より痛くない日があった」
カイは右の指先を見た。
「物を持った時に、震えない日も。これなら帰ったら仕事へ行けるって思った。でも、そのうち、何もしなくても熱くなった。寝てても、腕だけ起きてるみたいで」
ニルには、皮膚の下の線から目を離せなかった最初の夜が戻った。何も持たず、魔法を使うつもりもない掌へ、流れが溜まっていた。
「それで、やめたいと話したんですか」
「治るまでに時間が掛かるって言われた。熱が出るのは紙にもある。俺も署名した。そこは、知ってたよ」
カイは器を卓へ戻そうとした。届く前に身体が枠の方へ寄ったので、アルバが卓を少し引いた。器が置かれ、背は枕へ戻る。ニルはペン先を拭い、次の頁を開いた。
「そのあとも、薬を続けるようにと」
「そうだ。もういいから家へ帰るって言ったら、今中止すると危険だって。ここで使う分を変えてるから、診療所の薬じゃ駄目なんだと」
「薬を持って帰る話は」
「聞いた。持ち帰って自分で飲めばいいだろって」
カイの声が少し強くなった。
「腕を測って、量を決めるから渡せない。具合が悪くなっても、外じゃ処置できない。待て、待て、そればっかりだった」
同意書には、担当者へ撤回を申し出ることと、そのあとに、いつでも撤回できるという一文があった。ニルは写しを出しかけたが、カイはその文をすでに読んだと続けた。
「俺が持ってった紙にもあるって言ったんだよ。そしたら、帰りたい気持ちは分かった、今は治療を続けようって」
ニルのペン先が、まだ濡れている行の上で止まった。気持ちを認められたあとも、起きる時刻も、差し出す腕も変わらなかった。ニルは余白へ続きを書こうとして、紙をもう少し手前へ引いた。
「隣の奴も、帰りたがってた。ユアンっていうんだ」
カイは空の椀があった場所を見た。
「俺より前に来てた。飯が冷める前に食えって、いつも言ってたくせに、自分は後で腕が痛くなって残す。俺が手伝うって言ったら、粥は左でも食えるだろって」
ニルは頁の上にユアンと書いた。カイの目は、文字ではなく、寝台の空いた側へ向いていた。
「帰れるようになったら何をするか、話したこともある。あいつは、仕事の話より、まず家へ戻りたいって言ってた」
ユアンが帰宅を申し出た時、カイは同じ部屋にいた。薬を運んできた職員へ言い、あとから来た医師へも繰り返した。声を荒らげたのではなく、今日は話を聞いてほしいと、食事の皿を脇へ寄せたという。
「すぐには、いなくならなかった。次の日もいた。その次、測る部屋へ行って」
カイは一度息を継いだ。
「戻らなかった。夜になっても」
「職員へ尋ねましたか」
「別の所へ移したって。ここの処置が合わなかったから、もっといい所へ。だったら、荷物も持ってったのかって聞いた。整理して送るって言われた」
カイはユアンが戻ると思っていたので、寝台の足元へ置かれた靴を、通る時に踏まないよう寄せた。その翌日には、靴も、薄い上着もなくなった。掛布が替えられ、札は外された。どこへ移ったのかを尋ねても、施設の名は教えられなかった。ニルが何か書くたびに、カイは紙へ顔を向け、また目を外した。
「転院した、と説明されたんですね」
確かめると、「そう言ってた」と返ってきた。ニルは、ユアンの行き先を示すところへ、それ以上の言葉を足さなかった。
アルバが卓の袋を示した。
「お前の服から出た札だ。見せる」
封を開けると、布の上へ、小さな金属片が置かれた。表には二十七とあり、裏の枠には名前がない。カイはそれを見て、左手を伸ばしたが、触れる前に止めた。
「それ、ユアンのだ」
「お前のではないのか」
「俺のは別だ。あいつの寝台の札にも、同じ数字があった。測る時にも、それで呼ばれてた」
アルバは金属片を裏返してから、寝台へ近い側に布ごと寄せた。
「どうして、持ってた」
問いに、カイはすぐには答えなかった。左の指が、布の縁を押さえている。
「外へ歩いていい日があった。熱が下がって、脚は動くからって。廊下の先から、裏の庭へ出た」
枕へ預けた頭が少しずれた。
「廃棄場の桶に、古い布と、瓶の札が入ってた。その中に、これもあった。紐が切れてたけど、二十七は読めた」
ニルは金属片の穴を見た。最初の所持品記録にも、紐はないと書かれていた。穴の脇には細い擦れが残っているが、そこから先に何が起きたかは分からなかった。
「転院なら、向こうでも、誰か分かるようにするだろ。名前、書いてねえんだぞ」
カイは札から手を引いた。
「何で捨てたのか、聞かなかった。聞いたら、拾ったことも分かる。もう、帰してくれって言わない方がいいと思った」
ニルはユアンの名と番号を同じ行へ書き、発見場所を下へ加えた。移された先は、まだ空いていた。カイが持ってきたのは、自分を呼ぶ札ではなかった。制服を見て顔を上げた母親と妹は、息子が帰れるという知らせを待っていた。その隣で帰宅を求めた人の家には、何と伝えられたのだろう。
「それを見つけて、出ると決めたんですね」
「そうだ」
カイは答え、今度はニルを見た。
「もう一度頼んで、俺の寝台も空くより、先に出ようって。そのあとで、紙をもらった。あんたの名があるやつ」
アルバが論文を渡した者を尋ねると、女だったという。
「測る人じゃなかった。紙とか、薬の箱とかを持って、来ることがあった。ほかの奴がいない時に、上着の内側へ入れろって」
ニルは研究所までの行き先もその人から聞いたのかと尋ねた。カイは頷き、紙は袋に入れて隠したと話した。
「出る時は、止められたか」とアルバが聞いた。
「荷を運ぶ方から出た。人が来るのを待ってたら、戻れなくなると思って」
カイは膝の上で左手を返した。
「追ってきたのは、外の道まで出てからだ。大きい通りから外れて、何度か隠れた。紙にあった研究所の名で、道を聞いた」
どこで聞いたのかを続けようとすると、喉で息がつかえた。マレナが水の器を寄せ、しばらく横になるよう言った。
背の枕を減らす間、カイは右腕を自分へ寄せようとした。動かせないわけではないが、片と腕の位置は揃えなければならない。医師が枠の高さを変え、ニルは反応が戻るところを確かめた。さっきまで話を聞いていた時には気づかなかった汗が、襟の下にあった。「少し休みましょう」と言うと、カイは、布に置かれた札を見た。アルバはそれを隠さず、「調べる時も、ユアンの名と一緒に残す」と伝えてから包んだ。カイは返事をしなかったが、閉じた袋の行く方を見届けて、枕へ顔を戻した。
*
医療区画の廊下には、職員が記録を整理するための卓があった。寝台の側で書いた紙をそこへ運ぶと、腕を測った時刻と、薬を使った時刻が隣の綴りに並んでいた。今朝まで、カイについて読むのはほとんどそちらだった。ニルは昼の聞き取りを添え、同じ部屋にいた人数と、ユアンが戻らなかった日を読み直した。日付はまだ定まらない。カイが覚えていたのは、帰りたいと話した日の次にも、二人で食事をしたことだった。
アルバは隣で軍へ持ち帰る紙を折っていた。ニルが別の用紙を出し、薬を使ってから測るまでの間隔を書こうとすると、卓の端へパンが置かれた。
「食ったか」
「朝は」
「昼は」
「戻ってから、先にこちらへ」
アルバは紙包みを開き、その中の一切れを自分でも取った。ニルは羽ペンを置いた。こちらが席を外すまで待たれているわけではないと分かり、記録を閉じず、空いている方の手でパンを取る。乾いていたが、表面の種を噛むと少し油の味がした。
「今の薬なら、ここで作れるのか」
アルバが聞いた。ニルは頷きかけ、飲み込んでから答えた。
「持ってきた薬を調べて、結合を保つ成分を調製しています。全部を同じにしたわけではありません。腕の反応を見て、医師が量を決めています」
「足りるか」
「今使う分は。ただ、薬を要らなくする方法とは、別です」
アルバはパンを食べ終え、包みの屑を折り込んだ。ニルの分はまだ半分残っていたので、紙を閉じるのを待った。聞き取りの続きを確かめたくなったが、ニルはもう一口食べ、水差しのある棚へ行った。
マレナが医師と廊下へ出てきた。カイは少し眠り、今は目を開けているという。家族への使いは出た。もう少し体調が落ち着いてから、改めて面会の時刻を伝えることになっていた。ニルは薬を使ったあとに測っていた位置を尋ねたいと言い、マレナに、今日は名前も量も覚えていないと本人が話したでしょう、と返された。
「腕のどこかは、分かるかもしれません」
「そうね。でも、一度に全部聞けば、分からない分まで埋まるわけじゃない」
ニルは朝と夜を分けた欄を見た。聞くつもりだった位置だけ余白へ書き、帳面を閉じた。
部屋へ戻ると、夕方に使う薬が盆へ載せられていた。小さな容器の脇に、水の器と、量を記した札がある。カイは肘を少し曲げ、枠の布へ指をつけていた。医師が曲げた位置の反応を確かめてから、薬を飲む時刻だと伝えた。「これは、どっちだ」と聞かれ、ニルは盆を見た。
「導路の結合を保つ方です。眠くなる薬とは分けています」
「まだ飲むのか」
「ええ。今は」
ニルが答えると、カイの指が布から離れた。
「あれから、どれだけ寝てた」
「温室へ来てから、四週目に入っています」
「そんなにか」
カイは窓へ顔を向けた。昼には壁の上にあった光が、今は寝台の脚へ届いている。
「寝てる間も使ったんだな」
「医師が、必要な処置を続けています」
ニルは薬の札を読み、説明する位置を探すように、腕の分岐へ目を戻した。
「薬は急に止めないでください。新しい方の導路が保てなくなると、流れが偏ります。元の損傷したところへ負担が掛かるので」
カイはニルを見た。その目で、言ったばかりの言葉が、図を説明するものではなくなった。
「向こうと同じこと、言うんだな」
ニルは口を開いた。ここで使っている配合と、施設で使ったものには違いがある。測定も、新しい処置を試すためのものと、今の状態を確かめるものとを分けていた。けれど、今日の薬をやめれば危険だという部分は違わない。カイは盆へ視線を移し、「逃げても薬が要るなら、自由じゃねえだろ」と言った。
用意しかけた説明は、口に出なかった。薬を使わず、枠から腕を外し、家へ帰れるようにする。そう求められても、今のニルにはできない。危険なのは本当だった。それを伝える言葉も、待つよう求める理由も見つかるのに、カイが言ったことへ返せる言葉がなかった。廊下で足音が止まり、別の部屋の戸が開いた。ニルはその音の終わるまで、腕にも、紙にも目を移せずにいた。
カイは左手を出し、薬の容器を受け取った。水へ混ぜる手つきを見てから、ニルは枠の留め具を確かめ、測定片には触れずに離れた。医師が飲んだ時刻を記し、次に様子を見る職員へ引き継いだ。空の器を盆へ戻すと、カイの舌が唇の内側を一度擦った。粥を早く食べたくなると言っていた味が、今の薬にもあるのかもしれない。ニルは水を足したが、尋ねなかった。
アルバが卓に残った紙をまとめる間、ニルは軍から来た論文の写しを持ち上げた。自分が基礎式を公表した頃のものだった。図の脇には、入口と出口の幅があり、今日聞いた夜明け前の時刻も、ユアンの名もない。カイの身体へ使うまでに、誰かがその続きを作った。この紙を渡した人は、ここにない部分を、どれほど知っていたのだろう。
「これをくれた女性は、止められると言ったんですか」
ニルが尋ねると、カイは紙の図へ目を向けた。
「この人に見せろって。温室へ行けば、朝顔を見てる。髪を結んだ、若い男だって言ってた」
倒れる前、自分の顔を確かめていた理由が、ようやく分かった。ニルは写しを低くし、「名前は聞きましたか」と尋ねた。カイは首を振り、それから、寝台の左側へ手を置いた。
「でも、論文をくれた女、あんたのこと知ってるみたいだった」




