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Ipomoea  作者: Tanahituzi


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第11章 名のある行

 門の内側へ足を入れると、ニルは敷石の継ぎ目を一つ越えたところで、鞄を持ち直した。王立セレド総合魔法研究院の正面には、左右へ広がる建物を繋いで、幅のある階段が続いている。雨の翌朝にも水の残らなかった石は、今日も乾いていた。上の扉が開き、白い襟の職員が紙束を抱えて下りてくる。ニルはその道を空けたが、足は、以前使っていた東側の入口へ向きかけた。「こっちか」と後ろからアルバに聞かれ、正面へ戻る。「今日は、受付を通るので」そう答えると、アルバはニルの歩き出した方へついてきた。


 研究地区から乗った馬車で、一時間ほど掛かった。カイが温室へ来てから、四週目に入っていた。今朝はエヴァンで記録を渡し、アルバと落ち合った。少年はセリュシアの迎えの馬車で、彼女の家へ行っている。ヴァレットがいると聞いて自分から靴を取りに上がり、独楽と食料の包みも内袋へ入れた。帰宅したら使いを出し、送ってもらう手筈だった。三人で夕食を食べた夜の翌朝、研究院から、指定の記録は来院のうえ相談したいという返事が届いた。先の二通では、保管を確認しているとの答えと、公刊論文の目録しか得られていなかった。


 階段を上がり、真鍮の取っ手を引く。扉は、動き始めるまでが重かった。肩で押せば開けられる内側の扉とは違う。開いたところへ腕を残して通ると、磨き油と、廊下の奥から来る乾いた紙の匂いがした。床には窓の形が映り、靴を置くたび、外より高い音が返った。ニルは入口の敷物を抜け、左の壁にある受付へ向かった。鞄の底を卓へ載せる前に、濡れていないかを指で確かめた。外で水に触れた覚えはなかった。


 受付の書記は、ニルの名を聞くと、届いていた紙を綴りから抜いた。来院者の欄へ二人の名を書き、アルバが出した軍の確認書と見比べる。


「植物魔法生理部門のハイン主任へお通しします。資料を受け取られましたら、受渡しの記録をこちらへ戻してください」


 ニルが頷くと、書記は小さな札を二枚渡した。札をつけてここを歩くのは初めてだった。上着に留め、今は自分で鍵を開ける部屋がないことを思い出してから、案内の職員が来るのを待った。


 廊下の途中で、昔、試料を運んでいた女の職員と行き合った。彼女はすれ違いかけて足を止め、「ニル?」と顔を覗いた。「お久しぶりです」と答えると、持っていた盆を腰の高さへ下げる。


「変わらないわね。向こうでも朝顔?」

「ええ。今は、傷をつけたあとの組織を比べています」

「こっちの棚にも、まだあるわよ。あなたの札がついた鉢」


 ニルは盆の上にある瓶を見た。抽出液の色は当時と少し違ったが、瓶の口へ布を掛ける留め方は同じだった。


「同じ株ですか」

「挿し芽で残した方。今日は見ていけるの?」


 案内の職員が先で待っていた。ニルは資料のことで来たのだと答え、また機会があればと言った。測定を続けているなら、どの株か確かめたかった。女がアルバにも会釈して離れると、ニルは廊下へ目を戻した。壁際の長椅子は替わっている。扉の並ぶ間隔と、奥で紙を裁つ音は、以前のままだった。


 


 エゼル・ハインは、机の後ろから立ち上がった。


「ニル、よく来た。手紙だけでは、必要なものが分かりにくくてね」


 手を差し出す代わりに、エゼルは椅子の方を示した。ニルは挨拶を返し、アルバを紹介した。主任は軍の確認書を一読し、机の右側へ置く。


「患者の件は、照会状で読んだよ。こちらにも、院内の確認を頼んでいる。君が移ってからのことだから、まず時期を分けなければならない」


 ニルは頷いた。窓の近くにある作業卓には、すでに数冊の帳面と、薄い論文の束が並べられていた。


 茶が運ばれるあいだに、ニルは鞄から抜き書きを出した。エゼルの椅子は以前と同じ位置にあり、卓の端に掛かった光を背にしていた。


「今の研究所には慣れたかい」

「小温室が使いやすいです。栽培の条件を揃えてもらえるので」

「そうか。君はいつも、次に測るものが決まっていたからな」


 エゼルは少し笑い、運ばれた器を卓の手前へ置かせた。


「我々は君の才能をずっと評価していた」


 ニルは帳面を開く手を止めたが、すぐに、最初の頁へ挟まった目録を抜いた。


「そうですか」


 目録にある日付は、求めた時期に収まっていた。ニルは器へ手を伸ばし、一口飲んだ。薄いと思った茶は、飲み込むと舌の奥に苦さが残った。エゼルが論文を一枚ずつ作業卓へ広げ、対応する帳面を隣へ置く。アルバは立ったまま、題と、その下の著者欄を見た。「これは、お前の式か」と聞かれ、ニルは紙を回した。


「合流部の基礎は、これです。次の報告で、戻る位置を直しました」

「書いたのは」

「本文と図は僕です。測定は、部門の人にも手伝ってもらいました」


 アルバの視線は図へ下りず、題の下に残った。


「先の名は、あんたか」


 エゼルへ向けた問いに、主任は首を傾けるほどでもなく頷いた。


「責任者だったからね。申請も、発表も、部門の名で行った」


 ニルは二枚目を取っていた手を止めた。アルバがこちらを見る。


「お前は、後ろにある」

「昔はよくありました」


 笑って答え、ニルは二枚を並べた。先に出た論文の図だけでは、カイの腕に使われた補正は説明できない。今日、比べたいのはその先だった。


「若い君一人の名では予算が取れなかった」とエゼルが言った。

「設備を使い、試料を揃えて、助手をつける。式だけあれば発表できるわけではないだろう。当時の君には、そういう手続きへ時間を割かせたくなかった」


 ニルは紙の角を揃えた。


「予算が必要だったことは分かります。でも、最初の原稿では、順番が違いましたよね」

「最終稿で調整した。君にも見せたはずだ」

「見ました。直した図を、そのあとで一枚足しましたから」


 言ってから、ニルは図の番号を示した。印刷された最後の一枚には、余白の少ないところへ、短い補足が詰められている。


 エゼルはその番号を見るより先に、アルバへ向き直った。


「複数の人間が関わった研究で、誰の名前を最初に置くかは、単純な作業量だけでは決められません。軍でも、現場にいた者だけが報告の責任を持つわけではないでしょう」


 アルバは返事をせず、ニルへ目を戻した。何か答えを待たれているのかと思い、ニルは二枚目の論文を指した。


「こちらには、発表後に直した条件もありません。必要なのは、日誌の方です」


 エゼルが帳面を一冊、手前へ寄せた。ニルも笑みを戻し、その表紙にある保管番号を書き取った。


     *


 作業卓を使わせてもらい、ニルは日誌の最初から日付を追った。エゼルは自分の机へ戻っていたが、職員が持ち込む紙へ署名するあいだも、こちらの会話が途切れると顔を上げた。窓の外では、鉢を載せた荷車が中庭を横切っている。車輪が石を拾う音は、硝子を閉めていても聞こえた。ニルは二年前の欄を読み、採取した茎の太さに小さな差があるのを見つけて、持参した抜き書きと比べた。この時はまだ、戻り側に流れが残る理由を分けられていない。


 数頁先には、よく知っている字があった。数字の七だけが欄の外へ長く伸び、同じ位置に置けなかった片の角度を、図の下へ細かく加えている。ニルはそこへ指を添えた。ずっと同じ測定をしていたつもりだったが、日付を見ると途中に五日の間がある。器具を借りられず、別の試片で確かめた時期だ。その前後で補正の取り方も変えていた。今の帳面へ必要な値を写すと、当時、どちらを先に直したかが、手元の二行よりはっきり分かった。


「これが、腕に使われた方か」


 アルバが聞いた。ニルは線を指していた手を下ろした。


「この頁のあとです。ここまでは、まだ、入口と出口の幅だけで揃えています」

「あともあるか」

「あるはずです。同じ試料を使った続きを、まとめたので」


 頁をめくると、次に現れたのは別の植物の測定だった。細い紙を挟んで仕切られ、端に新しい番号がある。前の頁の下には、別綴参照という字と、小さな数字が書かれていた。ニルは表紙へ戻り、持ち込まれた三冊の番号を確かめた。


 この番号は、どこにもなかった。エゼルへ伝えると、主任は机から離れ、日誌の末尾を覗いた。


「そちらは、整理の時に分けたのだろう。記録庫へ聞かせる」


 ニルがその数字を書こうとすると、「出納の紙に載っているから、担当に渡すよ」と、帳面を一度取り上げられた。指を外し、空いた場所へ自分の抜き書きを置く。紙がなくなれば、そこだけ卓に光が当たった。アルバはエゼルの持つ日誌を見ていたが、ニルが次の一冊を開くと、同じ頁を見られる位置へ少し寄った。


 呼ばれた若い記録係は、かつて同じ作業室にいた男だった。入口でニルに気づき、目を丸くしてから、先に主任の用を聞いた。渡された日誌と出納簿を見比べ、「本日の閲覧に入っているのは、この三冊です」と言う。「別綴の方も必要なんです」とニルが付け加えると、男は保管番号を紙へ写した。


「指定にはありませんでしたので」

「帳面の名前と時期は書きました。ここの続きですから、その中に入ると思います」

「場所を確かめます。ここでお待ちいただけますか」


 男が出ていくと、ニルは二冊目の表紙を開いた。最初のものより日付が古く、切断した導路の両端へ、短い橋を渡している。手順の横に、試料の担当者と、観察した者の名が別々にあった。


「ここは、僕だけではありません。こっちの測定は、さっきの人が取っています」


 アルバに示すと、彼は名前を読み、それから、ニルの計算が続く頁まで目を動かした。


「論文にも載ってるか」

「謝辞には。この試験の分担は、日誌の方が詳しいです」


 アルバは何も言わず、頁を戻した。名前を確かめる間は、図の説明を続けても読まれないらしかった。


 記録係が戻るまでに、ニルは持参した紙の裏まで使った。アルバが茶を飲むために椅子を離れると、その側へも帳面を広げたが、器が戻る前に端を寄せ直した。


「要るところは写したか」

「あと二頁です」

「持ち帰る分は」

「こちらの二冊は、写しを作ってもらえます。原本は持ち出せません」


 今ここで書いておけば、紙が届くまでに計算できることはあった。


 戻った記録係は日誌だけを置き、別綴は今日のうちに出せないと言った。ニルは手を止めた。


「見つからないんですか」

「保管はあります。ただ、関連する資料と一緒になっていまして。どこまでお見せできるか確認が必要です」


 隣からエゼルが説明を足した。


「別の研究の測定や、資金に関する記載が混じっている。院外へ見せる前に分けなければならないんだ。君の書いた部分だけを抜けば足りるとも限らない」

「ですから、その条件で使った試料と、測定した値が欲しいんです。費用の帳面を持ち帰りたいわけではありません」


 エゼルは出納の紙へ目を落とし、「それも含めて確認する」と答えた。ニルは帳面を閉じなかった。


「写しができるのは、いつですか」

「今ここでは言えない。整理の担当と相談して返事をする」


 最初の照会へ返ってきた文と、よく似ていた。ニルはその答えを書くために、一度ペン先を拭った。


「今日見られなかったものとして、番号を控えます」


 笑って言うと、エゼルはすぐ頷いた。アルバは、紙へ戻したニルの手を見たあと、主任へ顔を向けた。


「出せない理由も、書いてくれ」


 必要な範囲を決めるための確認だと、エゼルは繰り返した。軍の確認書へ添える記録なら作れるという。ニルは待っている別綴の番号に加え、照会状の最後にあった権利記録の項を示した。机の横には、研究成果権利台帳と表紙に記された厚い冊子があったが、作業卓へは運ばれていない。


「こちらも、見せてもらえますか。研究名に対応する番号を確かめたいので」


 エゼルは記録係を見てから、自分でその冊子を取った。


 開かれた見開きには、研究名、登録日、担当部門が並んでいた。ニルの覚えている長い題は、途中を略した形で一行に収められている。論文の刊行日よりも先の日付があり、隣の番号は、日誌の保管番号とは別だった。ニルが紙を寄せると、エゼルは該当の行へ細い札を置いた。


「この番号で、権利に関する記録を引ける」

「この頁で、全部ですか」

「ここは索引だよ。詳細は別の綴りになる」

「では、そちらの閲覧もお願いします。こちらの申請書には、その項も入れています」


 エゼルは札を置いたまま、申請書を読み直した。


「研究資料の提供は私の部門で扱えるが、権利関係の書類は事務方の承認が要る。私の判断でここへ持ってくることはできない」

「どこへ申請すればよいですか」

「受付から所管へ回せる。必要な範囲を書いてもらおう」


 ニルは、今朝持ってきた申請書にも同じことを書いたと答えかけた。エゼルが未提出資料の記録用紙を手前へ寄せたので、先に、その欄へ番号を加えてもらった。権利の項も、今日は見られない方へ入った。


 アルバが用紙を読み、欄の下を指した。


「原本があることは確認できたんだな」


 記録係は別綴の番号を確かめ、保管は確認できたと答えた。


「その分は残せ。見つからないものと、出すのを待ってるものを混ぜるな」


 


 ニルは自分の紙にも同じ区別を入れた。存在しないのなら別の記録を探すが、あるなら、受け取ってから試料ごとの値を比べられる。待つ理由まで揃えておくことは、今までは考えていなかった。


 エゼルは台帳を閉じ、卓から離した。


「今日見せたものには、人体に使う手順はない。君自身も、その段階へ進めていなかっただろう」


 ニルは二冊目の最後にある記録を見た。橋は短い時間なら保たれるが、長く置けば、繋いだ端から反応が落ちる。カイの腕が流れを保っている理由は、ここにはなかった。「この三冊だけでは、今の状態を説明できません」と答えた。


「ですから、続きを見たいんです」


 エゼルは、用意できるものは用意すると言った。それ以上の答えは出ず、ニルは論文を日付順へ重ねた。


 退出前に、記録係が写しの受渡し用紙を持ってきた。今日持ち帰れる論文二本、後日届く日誌の写し二冊、別途回答となる資料。ニルはそれぞれを確かめ、閲覧した日誌の原本三冊を卓へ残した。受領の欄に名を書くと、エゼルが今の研究について一つ尋ねた。損傷した茎の表面が塞がる前に、内側でどこまで通路が伸びるか。ニルは思わず帳面を開きかけたが、今の測定はここへ持ってきていない。


「株によって差があります。表面だけ見ても、まだ分けられません」


 答えると、主任は満足そうに頷いた。


「相変わらずだ。君とは、研究の話ならいくらでもできる」


 ニルは笑って、鞄の留め具を閉じた。自分の手で埋めた紙は、当時の図と同じように細かくなっていた。これだけ写せたことは、来た甲斐があったと思えた。受渡しの記録を受付へ戻し、外の扉を押すと、取っ手から手を離したあとも、掌に金属の形が残った。階段を下りるアルバの足音は、磨かれた床にいた時より低くなった。ニルも同じ速さで下りたが、最後の段を過ぎてから、長く息を吐いた。


     *


 家へ戻ると、ニルは鞄を居間へ置き、セリュシアへの使いを頼む紙を書いた。近くの使いの窓口へアルバが持っていき、帰ってくる頃には、やかんの水が温まり始めていた。馬車では細かい字を追うと気分が悪くなり、記録を鞄へ戻したが、ここなら二つの表を横へ並べられる。湯を待つあいだに、卓のいつもの側を拭いて、論文を広げた。


 アルバが流しで手を洗い、戸棚からパンを出した。


「昼は食ったか」

「馬車へ乗る前に、少し」

「少しって、どれくらいだ」

「朝、研究所で食べた残りです」


 答えると、皿が一枚、紙から離れたところへ置かれた。ニルは、昼と聞かれたのに朝の話をしたことに気づいたが、言い直してもパンが増えるわけではなかった。自分の器へ茶を注ぎ、匙を探しているアルバの前にも、もう一つの器を置いた。


「こちらでよければ、湯はあります」

「茶か」

「薄い方です」


 アルバは頷き、容器を取るニルの手が戻るまで待った。


 パンを食べながら見ると、日誌から写した数値には、一箇所、採取位置が抜けていた。ニルは思い出せるうちに加え、紙の端へ落ちた屑を皿の上へ払った。腕の図は上の部屋にある。取りに行こうと腰を浮かせると、アルバが論文の方を見たまま、「嫌だったのか」と聞いた。ニルは座り直した。


「何がです?」


 アルバは顔を上げた。


「名の話だ。あいつが先にある」


 ニルは題の下を見た。エゼルの名、その後に、自分の名。刊行した時から変わっていなかった。


「最初の原稿と違ったことなら、当時も言いました。図を作って、式をまとめたのは僕ですから」

「替わらなかった」

「ええ。あの順で出ました」


 ニルは器の取っ手へ指を入れた。温かさは分かったが、飲むまで持ち上げずに、卓へ戻す。


「今回欲しいのは、発表したあとの記録です。論文は、ここに書いてある条件を確かめるために――」

「欲しい資料は聞いた」


 アルバの声は、研究院で主任へ向けた時より低かった。


「お前が、どうだったかを聞いてる」


 ニルは、さっき自分が何と答えたかを考えた。順番を変えてほしいと言ったことも、変わらなかったことも伝えた。それ以上に、どの記録を足せばよいのだろう。図と本文を誰が書いたかなら、日誌を見れば確かめられる。エゼルが試料を一つも用意しなかったわけではないし、予算の申請をしたのも事実だった。だからといって、論文の内容まで主任が作ったことにはならない。


「成果の扱いがおかしかった、ということなら、そうだと思います」


 答えてから、ニルは少し笑った。


「今の研究所では、誰が何をしたか、書くように言われますし」


 アルバは頷かなかった。ニルの顔に残っていた視線が、やがて、卓へ広げた紙へ下りた。「そこで笑うのか」と言われ、ニルは口元の力を少し抜いた。


「何も、困っていませんよ。今日は、持っていない記録を写せましたから」

「出なかったものもある」

「それは、返事を待ちます。軍にも、理由を書いた紙を回してもらえます」


 鞄から受渡しの用紙を出すと、アルバは受け取ったが、すぐには読まなかった。ニルは茶を飲み、「大丈夫です」と付け加えた。


 やかんの底で、小さく水が鳴った。火を落とし忘れていたので、ニルは立って竈の端へ移した。戻ると、アルバは未提出資料の欄を見ていた。


「この紙は、俺が預かる。お前の分は写せ」

「分かりました」


 ニルは空いた紙を一枚取り、番号と、提供を待つ理由を書き写した。アルバが座っているために卓の幅は半分になっていたが、二冊の帳面を斜めに置けば読めた。彼は途中で椅子を離れず、茶を飲み終えても器を紙の方へ寄せなかった。


 


 少年が帰ってきたのは、窓の向こうの石が暗くなり始めた頃だった。門から来る足音を聞き、ニルは玄関へ行った。少年は靴を脱ぐと、居間の卓を覗いた。


「今日、また紙ばっかり?」

「前の研究院でもらってきたものです」

「こっちも研究するとこだろ」


 上の部屋を指され、ニルは自分の机にも広げてきた紙を思い出した。二枚目を一枚目の下へ重ねると、少年は内袋から独楽を出しかけ、卓を見て戻した。


 アルバが台所へ鍋を運ぶと、少年もついていった。今日はヴァレットと庭の虫を探したが、「違うのしかいなかった」という。ニルは何がいたのか聞き返し、緑で、脚が多かったという答えを受け取った。それだけでは分けられないので、葉の形も覚えてきてもらおうかと思ったが、台所に椀が置かれると話は止まった。


 鞄の脇を畳み、ニルは上へ運ぶ紙をまとめた。写しが届けば、カイの腕の記録ともう一度比べる。別綴も、権利の書類も、いつ来るかは分からない。窓を閉めようと立つと、台所から戻ったアルバが、卓の前に止まった。


 彼が取ったのは、受渡しの用紙ではなかった。重ねてあった旧論文の一枚目を持ち上げ、折れていた角を指で伸ばす。ニルは窓の留め金に手を掛けたまま、その紙を見た。図は下の方にあるのに、アルバの目は、さっきも読んだ題の下で止まっていた。ニルの名は、その二番目にあった。


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