第10章 椀を置く場所
測定片が少年の手首に触れる前に、袖が下りてきた。ニルは片を持つ手を止め、卓の上に置いた水の器へ目を戻した。
「触れなくても測れます。近づけるだけで。熱を測ったのとは別のものです」
少年は袖口を握ったまま、細い片の表と裏を見た。
「何をするの」
「身体に流れている魔力を、外から見ます。こちらから流し込むことはありません」
そこまで聞くと、袖が指二本分だけ戻された。ニルは露出した皮膚から少し離れた位置へ片を寄せ、反応が落ち着くのを待った。
セリュシアが来た翌朝だった。少年を倉庫から連れて帰って、四日が経っている。昨日、書き終えた届けの控えを居間の棚へ置いた時、姉に、身体の具合も一度確かめるよう言われた。ニルはそのつもりでいたと答えたが、いつするのかと聞かれるまで、研究所から借りる器具を決めていなかった。今朝は朝顔の記録を済ませ、熱を測るものと測定片、清潔な布を居間へ運んだ。少年が階下へ来ると、痛むところや傷を確かめたいと説明し、今ここでするか尋ねた。少年は台所を見てから、「飯のあと」と答えた。
食べた椀を自分で洗い、少年は窓に近い椅子へ座った。ニルが向かいへ帳面を置くと、椅子が少し引かれたので、器具を取る時に膝を寄せなくてもよい位置へ座り直した。アルバは戸口の脇にいて、緩んだ椅子の脚へ細い木片を打ち込んでいた。槌の音を出す前に一度こちらを見たが、少年の手首の反応を読み取っているところだったので、ニルは少し待ってもらった。
熱はなく、呼吸も落ち着いていた。足の踵に擦れたところはあったが、赤みは狭く、歩く時に痛むか聞くと、靴が当たる時だけだという。ニルは布の端を水で湿らせ、そこを拭いてから、乾いた布を渡した。腕には最近できたらしい浅い擦り傷が二つある。腫れてはいない。指を曲げ伸ばししてもらうと、少年は握った拳を卓の下へ戻し、「もういい?」と聞いた。
「背中も、見せてもらえますか。倉庫では服が裂けていたので、そこに新しい傷がないか」
少年の手が襟へ行き、止まった。
「血、取るの」
「今日は採りません」と答えると、少年はアルバを見た。アルバは槌を床へ置き、椅子を横倒しにする方へ身体を向けた。
少年は上着を脱ぎ、胸の前へ抱えたまま、ニルへ背を向けた。倉庫で見えた痕は、肩甲骨の外側から脇腹へ続いていた。皮膚の表面を切っただけの傷なら、こういう幅にはならない。周囲の筋肉のつき方も、肩から腕へ続くものとは少し違い、上着を押さえるために肘が動くと、痕の上の皮膚も一緒に引かれた。ニルは片を置き、身を寄せかけてから、まず目で見える範囲を確かめた。表面は塞がっている。熱を持つ部分もなさそうだった。
「この辺り、痛むことはありますか」
「今はない」
「腕を上げる時は」
「ないって」
少年は半分振り向き、上着の縁を脇へ引いた。ニルが位置を示すと、「そこも」と付け加える。いつ失ったのか、その時の痕が今の動きにどう影響するのか、問いが浮かんだが、少年はもう正面へ向き直ろうとしていた。ニルは新しく裂けた傷は見当たらないと伝え、帳面の身体図へ、確認した範囲だけを書いた。
正面を向いた身体には、臍がなかった。少年の腹には、痩せた肋骨の下から、途切れない皮膚が続いている。帳簿にもそう書かれていたが、ニルは図の中央へ点を打ちかけ、羽ペンを浮かせた。「何」と少年が言ったので、顔へ目を戻す。
「お腹に、臍がないんですね」
「ずっとない」
「そうですか」
その下へ書き足す言葉は、いくつも思いついた。どれも、今の返事だけでは確かめられなかった。
ニルは上着を着てもらう前に、肩の近くでも片を寄せてよいか聞いた。少年は手首に当てたものと同じ片だと確かめ、頷いた。胸元の反応を取り、首の付け根から肩へ位置を移す。人間の導路なら、ここから腕の内側へ、深さを変えながら続くはずだった。ところが、肩を越えたところで、片の端に薄い反応が残った。ニルが片を少し傾けると、腕に向かう明るさは弱まり、その脇に別の反応が返る。皮膚からの距離を変えても、同じ位置では揃わなかった。
「もう一度、今の向きへ腕を」と言いかけると、少年は上着を取るために肘を曲げた。それだけで、端の反応が薄れた。ニルは片を下げ、今見た位置を帳面へ写した。腕を動かしたからなのか、肩の後ろにある構造が違うからなのか。これまで見た人間の身体図へ線を重ねても、どちらの説明にも収まり切らない。指の先で片を返し、別の深さまで測れるものを研究所に置いてきたことが、急に惜しくなった。
「もう少し詳しく調べたいんですが」
ニルは少年へ向き直った。
「今の片では、肩のところがうまく分けられません。もっと細かく測れば、腕を動かす前と後で、どこが変わったか見られます。背中の痕の下にも、今は見えていないものが――」
「嫌」
少年は上着へ片腕を通した。ニルは説明を止め、まだ見えている肩と、手元の片を見た。持ってくる器具の名を二つ考えていた。片方なら、いま残った反応を追えるはずだったが、少年は反対の袖へも手を入れ、襟を引き上げていた。
「そうですか。分かりました」
ニルは片を布の上へ置き、帳面に引いた線の先を空けたまま、筆に蓋をした。詳しい図が一枚あれば、翼痕の位置と導路の反応を比べられる。残念ではあったが、今日はそこまでだった。少年の袖に布が捩れているのを見つけ、指で示すと、自分で肘を引いて直した。ニルは足に当てる布をもう一枚渡し、「赤いところが広がったり、歩かなくても痛くなったら、教えてください」と言った。
少年は布を受け取っても立たず、測定片が包まれるまで見ていた。
「それ、片づけるの」
「ええ。もう使いません」
「背中も?」
「今日は終わりです」
片を収めた小箱へ蓋をすると、少年は椅子から下りた。戸のそばに箒があり、手を伸ばしかけて、アルバの横に落ちた木屑を見る。アルバが椅子を起こし、脚を押して確かめた。
「こっちはまだだ。踏むな」
少年は手を引き、布を握ったまま台所へ入っていった。
「もういいのか」とアルバが聞いた。ニルは水の器を盆へ戻した。
「今、診る必要のある傷は、あの踵くらいです。熱もありません」
「さっきのは」
「導路ですか。そちらは、まだ分かりません。人間のものとは反応の出る位置が違うので」
ニルが帳面を持ち上げると、アルバは空いた線の先を見た。
「調べたいんだろ」
「ええ。ですが、嫌だそうなので」
アルバは顔を上げ、ニルを見た。何かまだ聞かれるのかと思って待ったが、彼は椅子を窓の方へ戻し、片づけた小箱の上へ木屑が飛ばない位置で、床を払った。
台所では、少年が竈の脇に立っていた。朝食の残りはまだ鍋にあり、蓋を開けず、その取っ手を見ている。ニルが盆を流しへ置くと、「昼も、これ?」と聞いた。
「温めれば食べられます。パンもありますよ」
少年は戸棚を開け、残っている量を見た。後ろから来たアルバが鍋を確かめ、「昼は豆を足す」と言ったので、ニルは自分の湯を沸かす場所を空けた。少年がそのまま戸棚の前にいるあいだ、誰も検査の話を戻さなかった。
*
翌々日の午後、アルバに頼まれた布を探していると、階下で少年の声が強くなった。ニルは棚から出した端切れを持ち、台所へ下りた。卓には脱いだ上着が広げられ、裂けた背へ、針に通した糸が置かれている。少年は代わりに着たアルバの古いシャツの袖を折り返し、卓の手前で両手を握っていた。床にはパンが一つ落ちている。アルバがそれを拾うために腰を屈めると、少年は先に足を出して踏みそうになった。
「踏むな。潰れる」
アルバが言った。少年は足を止めたが、すぐには退かなかった。
「僕の」
「取らん」
アルバは横から手を入れ、パンを拾って卓へ置いた。上着の裂け目から出たものらしく、袖の付け根にも細かい屑がついている。ニルは端切れを渡し、背の穴へ当てる幅を確かめた。少年は布の方を見ず、卓に戻ったパンへ手を置いた。
パンの片側には、湿った跡があった。アルバはそれを裏返さず、「ほかにもあるか」と聞いた。返事がないので、上着を少年の手へ戻す。布の内側からもう一つ、小さく折った紙が出てきた。朝に切ったパンとは形が違う。硬くなった端を寄せて包んだものだった。
「部屋にも置いてるか」
少年は紙を握り、「あったら何」と聞いた。
「湿るところに置くと傷む。見せろ」
ニルが窓を見た時には、少年は包みを持って台所を出ていた。アルバは針を卓へ置き、後を追った。
ニルも布を持って二階へ上がった。少年は戸を大きく開けず、寝台の前へしゃがみ、床との隙間から包みを二つ引き出していた。どちらも寝台の脚より奥にあり、角へ埃がついている。壁際には、アルバが敷くように言った厚い布と掛布が残っていた。ニルが入ると、少年は包みを膝へ寄せ、「まだあるなんて言ってない」と言った。アルバは戸口に立ち、部屋のほかの場所を開けようとはしなかった。
「下は湿るぞ」
「ここ、濡れてない」
「雨が続けば冷える。紙だけでは足りん」
アルバは寝台の足元へ目を向けてから、少年の膝の包みを示した。
「開けられるか」
少年は一つだけ、折り目を少し広げた。乾いたパンが三切れあり、いちばん小さいものは、欠けたところへ屑が詰まっている。ニルは指で触れずに表面を見た。黴は見えなかったが、服に入っていた方は、汗を吸ったところから柔らかくなっていた。
「こちらは、今日食べた方がいいです」と言うと、少年の手が紙を閉じかけた。
「全部?」
「湿ったところがある方です。残すなら、もっと乾いたものを」
ニルは水で湿らせた布を思い出し、持っていた端切れを脇へ退けた。食べ物を包むには、繕いに使う古い布では足りない。アルバは何も受け取らず、「下へ持ってこい」とだけ言い、先に階段を下りた。少年は膝の上で二つとも包み直してから、片方を上着へ入れようとして、借りたシャツに内側の袋がないことに気づいたようだった。
台所へ戻ると、アルバは裏口の近くで小さな籠を洗っていた。ニルが空鉢を運ぶのに使っていたもので、底へ残った土を水で流している。日向へ出して水を切り、乾くまでに、戸棚から硬い焼きパンと干した果物を取り出した。二つを別々の紙へ包む。少年の持つ包みは卓の上に置かせたが、口は開かなかった。
「それ、鉢の籠ですよ」とニルが言うと、アルバは底を光へ透かした。
「洗った」
「鉢を戻す場所が」
「ほかにあるだろ」
確かに、空鉢を重ねる場所はあった。ニルは台所の棚を見回し、上に置いた試料用の空瓶を自分の部屋へ移すことにした。瓶を退けると、少年にも手の届く段が空いた。アルバは乾いた籠へ新しい布を敷き、さっき包んだものと、少年が持ってきた乾いたパンを、紙ごと並べた。少年は籠の取っ手を押さえ、「ここから取っていいの」と聞いた。
「そのために置く」
「部屋へ持ってっても?」
「濡らすな。傷んだら食うな」
「減ったら」
「足す」
アルバは籠を棚へ載せた。少年は動かなかったが、やがて干した果物の包みを一度持ち上げ、下にあるパンを見た。誰かに配る分を数えているようにも見えた。ニルは瓶を抱えて出る前に、その段には植え替えの土を置かないよう覚えておいた。
上着を繕う作業は、少年が籠の前を離れてから再開された。アルバは裂け目の両側を合わせ、布を下へ当てて、肩を動かしても引き攣らない位置で留めている。ニルが瓶を置いて戻ると、少年は湿ったパンを食べていた。
「服に入れるなら、袋をつけた方がいいですね」
ニルが言うと、アルバはまだ縫っていない脇を示した。
「要るか」
少年は口の中を飲み込み、布の残りを見た。
「そこなら、落ちない?」
「深くすれば」
「じゃあ、つけて」
ニルはもう一枚の端切れを卓へ置いた。少年はそれを自分の方へ引き、籠から取った干し果物の包みが入る幅へ折った。
*
翌日、ニルが自室で持ち帰った測定表を読み終える頃には、庭の石から日が外れ始めていた。昼に戻った時、少年は裏口のそばで靴を履いていたが、庭の塵を捨てるのだろうと思い、声を掛けなかった。午後に一度、戸の鳴る音を聞いた気もする。それが裏口だったか、アルバの帰宅だったかは、紙を重ねてからでは思い出せなかった。ニルは階下へ下り、台所と庭を見た。空の塵取りは壁へ戻されている。低い木の根元に、ヴァレットが置いた石だけが残っていた。
アルバは居間で腰の革帯を直していた。少年を見たか尋ねると、手が止まった。
「昼からは」
「今、部屋にもいませんでした」
「靴は」
ニルが玄関へ行くより先に、アルバは廊下へ出た。壁際に、少年の靴はなかった。部屋へ靴を持っていくこともあるので、ニルはそこも見たと伝えた。アルバは門の方へ顔を向け、帯を置きに戻った。
「出たのはいつだ」
「昼には、まだいました。裏口で。どこへ行くかは、聞いていません」
「その後、見てないのか」
「ええ」
ニルは階段を見た。あの部屋を使わなくなれば、今夜、少年はどこで眠るのだろう。元の測定記録まで戻って読んでいた間に、少年の足音を聞いた覚えはない。昨日作った籠は棚にあり、干した果物の包みが一つ減っていた。それだけを見ても、近所へ出たのか、もっと遠くへ行ったのかは決められなかった。
アルバは靴を履き、短剣を革帯へ戻した。
「河岸まで見る」
「あの倉庫ですか」
「道を知ってる。ほかに行く先は聞いてない」
ニルは出しかけた帳面を棚へ戻した。倉庫で少年を渡せと言った男たちは、軍に預けられている。あの通りで、ほかに誰が少年を知っているかは分からない。「僕も行きます」と言うと、アルバは戸を開けたまま待った。ニルは裏口を閉め、庭の門も確かめて、鍵を取った。
大通りで辻馬車を拾うまで、二人は家の近くの角を順に見た。少年ほどの背なら隠れられる隙間は、ニルが思っていたより多かった。荷車の陰に人がいるのか、布が掛かっているだけなのか、歩きながらではすぐに分からない。馬車が動き始めると、ニルは窓の外を見続けた。昼に行き先を聞いていれば、道を一つに絞れたはずだった。
河岸では荷を下ろす車が道を塞ぎ、二人は手前で降りた。倉庫の正面は閉まっていた。前に開いた戸にも荷揚げ口にも、今は人の出入りがない。アルバは戸へ寄らず、川沿いの細い道を裏へ回った。ニルが壁の角を越えた時、木の張り出した段の下から、灰褐色の頭が出てきた。少年は片膝についた泥を手で払い、こちらを見て止まった。新しく当てた布のある背が、段の影へ半分戻る。
アルバは数歩先で足を止めた。短剣には手を置かなかった。少年も動かず、片手を腹へ押しつけている。ニルは追いついたが、声を掛ける前に、少年の手の間に小さな木のものがあると気づいた。細い紐が指から垂れ、先は泥に触れていた。
「帰るか」
アルバが聞いた。
少年は倉庫の戸を見て、それから二人の後ろの道へ目を向けた。ニルには、その間にどこを確かめたのか分からなかった。アルバは返事を待っていたが、少年へ近づいて袖を取ることはしなかった。やがて少年が段の下から出た。木のものを縫ってもらった内袋へ入れ、紐の端まで押し込む。アルバが道へ向き直ると、少年は数歩遅れて歩き始めた。ニルもその横から壁を離れた。
家へ着いた頃には、台所に灯が要る暗さになっていた。少年は敷居の外で靴の泥を落とし、紐をほどいた。ニルが水差しを取りに入ると、後ろから同じ部屋へ来る。卓へ置かれたのは、小さな木の独楽だった。下の尖った部分は擦れて丸くなり、胴の縁も一箇所欠けている。「これを、取りに行ったんですか」と聞くと、少年は独楽を掌で覆った。
「あの段の奥。置いといた」
「倉庫にあったものですか」
「僕の」
ニルは顔を上げた。少年は同じことをもう一度言い、紐を指に巻いた。
「これだけ。ほかには置いてない」
ニルは水を注ぎ、独楽から離れたところへ器を置いた。昨日まで、食べ物の包みと着ている服のほかに、少年の持ち物を見ていなかった。部屋へ移したのは、家にもともとあった寝具だけだった。「では、部屋に置いておけますね」と言うと、少年は器を取った。アルバが台所へ入り、竈に残る灰を寄せる。少年は一口飲んでから、「戸、開いてた」と言った。
「庭の門ですか」
「出ていいと思った」
ニルは水差しを戻し、「出る時に、どこへ行くか教えてもらえると」と言いかけた。アルバが薪を一本入れ、「遠くへ行くなら、先に言え」と続けた。
「言ったら、止めた?」
少年はアルバを見た。
「一緒に行けた」
返事は短かった。少年は器へ目を落とし、紐を巻いた指を解いた。出るなとは言われていない。ニルはさっき見た川沿いの段を思い出し、次に出かける用事があるなら、上の部屋で記録を読んでいる時でも呼んでほしいと付け加えた。少年は返事をせず、独楽についた泥を、濡らした指で擦った。
鍋には昼の煮込みが残っていた。アルバが水を足し、竈へ掛け直すと、豆と玉葱の匂いが温まってきた。ニルは湯を沸かそうとして、同じ竈へやかんを載せる余地がないと分かり、先に器を出した。少年も独楽を卓の端へ置き、棚から自分の椀を取る。アルバがパンを切る間に、ニルは匙を二本並べ、彼の手が三つ目の椀を取ったのを見て、もう一本足した。
「そこ、紙を置くんじゃないの」と少年が聞いた。ニルはいつも帳面を広げる側を見た。今日は出る前に棚へ戻してある。
「今はありません」
答えて椅子を引くと、アルバはその前へ椀を置いた。自分が座るところへ置かれるのを見たのは、初めてだった。少年は戸の見える側へ座り、アルバは鍋の蓋を戻してから、向かいの椅子へ腰を下ろした。ニルは自分の茶の容器を取りに立ちかけたが、椀から上がる湯気で匙の柄が温かくなり、先に一口掬った。
豆の皮は口に残らず、玉葱は形が崩れるほど柔らかかった。昼より塩が薄い気がして言うと、アルバは水を足したからだと答えた。
「でも、豆はこっちの方が柔らかいです」
「二度煮た」
「最初から、もう少し長く煮れば」
「腹が減った時に合わせてる」
ニルは鍋へ目を向けた。棚の豆が煮込みになるまでの時間を、これまでほとんど考えたことがなかった。少年は話の途中でパンを汁へ浸し、柔らかくなった端から食べていた。
「そっちは、味がなくなるぞ」とアルバが言うと、少年はパンを椀から上げた。
「何が」
「浸しっぱなしでは崩れる」
「崩れたら、匙で食う」
そう言ってもう一口齧り、汁の落ちるところを椀の上へ戻す。ニルは自分のパンでも試し、すぐ取り出すと、皮の内側だけが汁を吸っていた。三人とも同じ鍋から食べているのに、パンの減る速さは違った。少年の手が次の一切れへ伸び、途中で棚の籠を見た。アルバは皿を少し寄せただけで、残してある包みについては聞かなかった。
卓の端で独楽が倒れた。少年が肘で触れたらしく、紐の先を引いて立て直す。ニルは欠けた胴の形を見たが、どこで手に入れたのかは尋ねなかった。少年も何も話さず、独楽を椀の向こうへ移した。上着の内袋には、籠から取った包みの角がまだ見えている。
ニルが椀を空にすると、アルバは鍋の方へ顎を向けた。
「まだある」
残りを確かめるために立つと、少年も椀を持ち上げかけた。ニルはその椀を受け取って一緒に注ぎ、卓へ戻した。アルバの分も鍋にあったので、置いてある椀を示して尋ねると、頷かれた。量を揃える必要はなく、少年の分には豆を多く入れた。三つを戻す場所だけが少し足りず、パンの皿を真ん中へ寄せる。独楽は少年の手で、灯から離れた端へ動かされた。
窓の外を馬車が通り、車輪の音が遠ざかった。明日は誰がこの時刻にいるのか、ニルはまだ知らなかった。確かめる前に少年が追加の豆を口へ運び、アルバも自分の匙を取ったので、ニルは棚へ戻した帳面をそのままにして、もう一度、椀を両手で持ち上げた。




