第3話 一万キロの岩
《SUBTRACT/減算》の制限が、一部解除されます。
白い文字は、三秒ほどで消えた。
「いや、どの制限だよ」
岩は答えない。
重さも変わらない。正確には三キロ軽くなったが、見た目は同じだ。
試しに手で押した。
「ふんっ!」
動かない。
「知ってた」
俺は岩へ背を預けた。
今の表示で分かったことは二つある。
一つ。能力値以外の数字を初めて減らしたことで、《減算》が成長した。
二つ。何が変わったのかは教えてくれない。
不親切にもほどがある。
使って確かめろということらしい。
一分が過ぎるのを待ち、もう一度、岩へ意識を向ける。
「《減算》」
【対象:重量】
【9997 → 9996】
発動した。
待ち時間は変わっていない。
見える数字も探してみる。
岩の耐久値。見える。
岩の高さ。見えない。
道幅。見えない。
俺と岩の距離。
見えない。
「重量が見えるようになっただけか?」
だとしたら、ずいぶん地味な成長だ。
だが、昨日まで見えなかった数字が見えた。
そこは大きい。
俺は欠けた剣を岩の脇へ差し込み、柄を押した。
びくともしない。
岩の向こう側へ回ろうにも、左右は急な斜面だ。草をつかんで登ろうとすれば、そのまま谷底へ転がるだろう。
引き返すか。
一瞬だけ考えた。
頭にバイロンの顔が浮かぶ。
お前の能力なんて、誤差だ。
「……やめた」
ここで戻れば、あの言葉を認めることになる。
俺は岩の前へ座り直した。
一分に一キロ。
一時間で六十キロ。
一日休まず続けても千四百四十キロ。
人が押せる重さまで減らすには、少なくとも数日かかる。
水は半日分。パンは三つ。
普通に考えれば無理だ。
「普通なら、な」
俺は水筒を持ち上げた。
【水量:620】
数字が見える。
単位は表示されていないが、おそらくミリリットルだ。
水分量を減らしても意味はない。
疲労度は減らせる。一分ごとに自分へ使えば、眠らずに続けられるかもしれない。
いや、同じ対象への使用は一分に一度だ。岩と自分は別の対象。交互に使える。
「岩を一キロ。疲れを一。岩を一キロ。疲れを一……」
口にすると、とてつもなく地味だ。
冒険譚の一ページ目としては最低だろう。
それでも、ほかに道はない。
「《減算》」
【9996 → 9995】
俺は、一万キロの岩との戦いを始めた。
◇
百回目。
【9901 → 9900】
岩は動かない。
二百回目。
【9801 → 9800】
夕日が空を赤く染めた。
三百回目。
【9701 → 9700】
腹が鳴ったので、二つ目のパンを食べた。
四百回目。
【9601 → 9600】
日はとっくに沈んでいた。
月明かりの下、俺は岩へ手を置く。
「《減算》」
何度唱えても、光は同じだった。
派手な音もない。
岩の形も変わらない。
数字だけが一つ減る。
疲労度へ《減算》を使っても、完全には追いつかなかった。歩いた疲れ、空腹、眠気。人間の体には、俺がまだ見つけていない数字がいくつもあるらしい。
真夜中を過ぎた頃、とうとう目を開けていられなくなった。
「くそ……」
俺は岩にもたれたまま眠った。
◇
「死んでるのか?」
「縁起でもないことを言うな。棒で突いてみろ」
「お前がやれよ」
話し声で目を覚ました。
岩の向こう側だ。
「生きてる!」
声を張ると、向こうで何かが落ちる音がした。
「うわっ、しゃべった!」
「人だよ!」
立ち上がり、岩の端へ顔を寄せる。わずかな隙間の向こうに、荷馬車が三台並んでいた。
崖崩れに足止めされた商人たちらしい。
「そっちから岩をどかせないか?」
「無茶言うな。十頭で引いても動かなかったぞ」
ひげ面の商人が答えた。
「役人へ知らせた。撤去隊が来るのは五日後だ」
「五日……」
「兄ちゃんも町へ戻れ。ここにいても干からびるだけだぞ」
「戻れない事情がある」
「借金か?」
「似たようなものだ」
追放された翌日に帰るくらいなら、借金取りに追われる方がまだ格好がつく。
「岩を軽くしてる。何日かあれば動かせるかもしれない」
向こう側が静かになった。
やがて、別の男が聞いた。
「兄ちゃん、頭を打ったのか?」
「俺もそう思う」
笑い声が起きた。
腹は立たなかった。説明しても信じてもらえないだろう。
「食い物はあるか?」
「パンが一つ」
「五日も持たんな」
しばらくして、岩の上から布袋が落ちてきた。
受け止める。中には干し肉と小さなチーズが入っていた。
「水も投げるぞ!」
「助かる!」
「岩に潰されるなよ。寝覚めが悪い」
俺は笑い、食事を口へ詰め込んだ。
腹が満ちれば、また引ける。
【9558 → 9557】
【9557 → 9556】
【9556 → 9555】
俺が《減算》を使うたび、岩の向こうで商人が数を数えた。
「四百四十三!」
「四百四十四!」
「おい、今のは本当に軽くなったのか?」
「なった!」
「見た目が変わらんぞ!」
「俺にも変わって見えない!」
「駄目じゃねえか!」
笑い声が響く。
一人で続けるより、少しだけ楽だった。
◇
三日目。
【重量:7412kg】
まだ重い。
だが、変化はあった。
地面に深く食い込んでいた岩の底に、わずかな隙間ができたのだ。
重量が減り、沈み込みが浅くなったらしい。
俺は剣を差し込んだ。
柄を押す。
「動け……!」
岩は小さく揺れ、止まった。
「動いたぞ!」
商人たちが騒ぐ。
俺の手にも感触があった。
初めて、数字以外の変化が起きた。
「縄はあるか!」
「いくらでもある!」
荷馬車の縄を岩へ回し、馬十頭へつなぐ。俺は反対側から剣を差し込んで、てこにした。
「まだ無理だ」
岩は七トン以上ある。
だが、この斜面なら、重心を少しずらせば転がせるかもしれない。
問題は剣だ。
すでに刃が曲がっている。力をかければ折れる。
視界へ二つの数字が出た。
【岩の重量:7412】
【剣の耐久値:3】
岩を一キロ軽くするか。
剣の耐久値を二にするか。
どちらも意味がない。
何か見落としている。
俺は剣を握り直した。
てこの力が足りないなら、人を増やす?
こちら側にいるのは俺一人だ。
剣が短いなら、長くする?
俺の能力では増やせない。
岩を押すには、もっと大きな力が必要だ。
いや。
本当に押す必要があるのか?
岩は完全な球ではない。底が尖り、地面へ刺さっている。商人たちが引いたときも、岩は前ではなく、わずかに横へ揺れた。
力が足りないのではない。
動こうとする力を、地面が邪魔している。
岩の底へ意識を集中する。
土。
石。
擦れ合う面。
数字を探す。
額の奥が熱くなった。
見えない。
「分かれ」
歯を食いしばる。
岩の重さは分かった。
なら、岩が動かない理由にも数字があるはずだ。
「数字で見せろ!」
視界が白く弾けた。
【接地摩擦:86】
「見つけた」
すぐに《減算》を使おうとして、手を止める。
八十六から八十五。
また誤差だ。
それでも、重量を七千回以上減らすより早い。
「《減算》」
【接地摩擦:86 → 85】
岩が、音を立てて揺れた。
重量を一減らしたときとは違う。明らかに動きが大きい。
「今のは何だ!」
「地面との引っかかりを減らした!」
「そんなものまで減らせるのか?」
「今、できるようになった!」
俺は笑った。
一分後、もう一度。
【85 → 84】
岩が揺れる。
さらに一分。
【84 → 83】
隙間から砂がこぼれた。
「もう一度、馬を引かせろ!」
「まだ七トンあるぞ!」
「今度は重さと戦うんじゃない。滑らせる!」
それから八十三分。
商人たちは馬を休ませ、俺は一分ごとに摩擦を引いた。
【50 → 49】
岩の下から砂が流れる。
【20 → 19】
指で押しただけでも、岩がかすかに揺れた。
【2 → 1】
商人たちが縄を握る。
十頭の馬が脚を踏ん張った。
俺は曲がった剣を岩の底へ差し込む。
「これで最後だ」
「《減算》!」
【接地摩擦:1 → 0】
巨岩が、氷の上に置かれたように横へ滑った。
「引けえええっ!」
十頭の馬が駆けた。
岩がゆっくりと倒れる。
地面が震えた。
次の瞬間、巨岩は街道を外れ、斜面を転がり落ちていった。
木々をなぎ倒す音が遠ざかる。
道が開いた。
商人たちが歓声を上げた。
「やったぞ!」
「本当に動かしやがった!」
「兄ちゃん、名前は?」
「吉田拓郎!」
「変な名前だな!」
「放っておけ!」
俺は地面へ大の字になった。
笑いが止まらなかった。
一万キロの岩を、一で動かした。
正確には、何千回もの一だ。
誤差だって、積み重ねれば道を開ける。
商人たちが荷馬車を進める。先頭のひげ面が、俺へ手を差し出した。
「南の町まで乗っていけ。飯も出す」
「助かる」
手を取ろうとしたとき、頭の奥に鋭い痛みが走った。
視界がぐらつく。
三日間、ろくに眠らず能力を使い続けた反動だ。
疲労を減らしても、空腹も眠気も消せなかった。
膝から力が抜けた。
「おい、兄ちゃん!」
倒れる寸前、誰かが俺の背中を支えた。
「まったく。道の真ん中で倒れるなんて、迷惑な人ね」
若い女の声だった。
銀色の髪が、朝の光を反射している。
彼女が俺の額へ手を当てた。
「体力、あと一しかないじゃない」
「一なら……まだある」
「強がる元気はあるのね」
少女の指先が光った。
「《加算》」
【体力:1 → 2】
初めて見る、俺とは逆向きの数式。
少女は俺を抱えたまま、にやりと笑った。
「ほら。これで倒れても、一回分は平気よ」
「一しか増えてないぞ」
「助けてもらって最初に言うことが、それ?」
世界最弱の《-1》が道を開いた日。
俺は、世界で二番目に弱い少女と出会った。




