第2話 誤差
緑色の巨人が、棍棒を振り上げた。
太い丸太を、そのまま削ったような武器だ。
朝日に照らされた棍棒の先から、昨日踏みつぶしたらしい獣の血が落ちる。
「話が違うぞ」
俺は隣にいるバイロンを見た。
「ゴブリンを三匹狩る試験じゃなかったのか」
「あれもゴブリンの仲間だ」
「ずいぶん育ちがいいな」
「オーガだ。ゴブリンの上位種だな」
「全然違うじゃないか!」
叫んだ瞬間、棍棒が落ちてきた。
「散れ!」
バイロンの号令で、四人が左右へ跳ぶ。
俺も地面を蹴った。
直後、さっきまで立っていた場所が爆発した。
土と小石が背中を叩く。
転がって衝撃を逃がし、すぐに立ち上がった。膝が笑っている。怖いからなのか、走ったからなのかは考えないことにした。
オーガが棍棒を引き抜く。
三メートルを超える巨体。腕は俺の胴より太い。
視界に数字が浮かんだ。
【オーガ】
【攻撃力:531】
【防御力:188】
【体力:742】
「ひどい数字だな」
俺の攻撃力は十九だ。
十九回殴っても、たぶんこいつのくしゃみ一回に負ける。
「ジン、足を止めろ! ココラは援護!」
バイロンが指示を飛ばす。
《白銀の牙》は、俺を含めて四人だった。
盾役のジンは、角刈り頭の大男だ。能力は《防御加算+30》。
弓使いのココラは小柄な少女で、《命中加算+20》を持つ。
そしてリーダーのバイロンは《倍化×2》。自分の攻撃力を二倍にできる。
数字だけを見れば、俺以外は立派な冒険者だ。
「来い、でかぶつ!」
ジンが盾を構える。
オーガの棍棒が横から襲いかかった。
「《防御加算》!」
盾が淡い光をまとう。
激突。
耳をつぶすような音が森に響いた。
ジンの両足が土を削り、二メートルほど後ろへ押される。それでも倒れなかった。
「今だ!」
ココラが矢を放つ。
一本、二本、三本。
矢はオーガの胸と肩へ刺さった。だが、分厚い筋肉に阻まれて浅い。
オーガが怒鳴る。
今度はバイロンが正面から駆けた。
「《倍化》!」
剣を包む光が膨れ上がる。
オーガが棍棒を振り下ろすより早く、バイロンの刃が脇腹を裂いた。
緑の血が噴き出す。
「グオオオオッ!」
「浅いか」
バイロンは舌打ちし、後ろへ跳んだ。
十分に強い。
三人の連携も悪くない。
俺がいなくても戦える。
いや、俺がいない方が動きやすいくらいだ。
「拓郎!」
ジンが怒鳴る。
「ぼさっとするな! 能力を使え!」
「どれを減らす!」
「攻撃力に決まってるだろ!」
分かっている。
分かっているが、531から一を引いたところで何になる。
それでも、今の俺に見える数字は三つだけだ。
「《減算》」
【対象:攻撃力】
【531 → 530】
オーガの体が一瞬だけ白く光った。
それだけだった。
「……終わりか?」
ジンが聞く。
「終わりだ」
「何が変わった?」
「攻撃力が一減った」
ココラが矢をつがえたまま、こちらを見た。
「ご、ごめん。今、笑うところ?」
「できれば泣いてくれ」
オーガが地面を蹴った。
速い。
狙いは俺だ。
能力を使った者が分かるのか。それとも、単に一番弱そうな獲物を選んだのか。
たぶん後者だ。腹が立つが、判断は正しい。
棍棒が迫る。
避けられない。
「伏せろ!」
バイロンが俺の襟をつかみ、地面へ引き倒した。
頭上を棍棒が通り抜ける。
風圧だけで頬が切れた。
「試験中に死ぬ馬鹿があるか!」
「助かった!」
「礼はあとだ。走れ!」
俺たちは左右へ分かれた。
一分経つまで、同じオーガには《減算》を使えない。
使えたとしても、攻撃力は529になるだけだ。
意味がない。
本当に?
攻撃力を一減らした。何も変わらなかった。
防御力を一減らしても同じだろう。体力も七百以上ある。
昨日の人形とは違う。
ゼロまで減らす時間などない。
オーガがバイロンへ棍棒を振り回す。
バイロンは避ける。反撃する。傷を増やす。
ジンが攻撃を受け止め、ココラが矢を射る。
俺だけが、森の端を走っていた。
悔しい。
だが、悔しがっても数字は減らない。
見るんだ。
オーガではなく、戦いそのものを。
棍棒が横へ振られる。
ジンが盾で受ける。
バイロンが斬り込む。
同じ流れが三度続いた。
四度目。オーガが棍棒を振った。
ジンが前へ出る。
その瞬間、俺は気づいた。
「待て! 受けるな!」
「何だと?」
「そいつ、狙ってる!」
ジンが反応するより先に、棍棒が盾へ当たった。
オーガは振り抜かなかった。
棍棒の先を盾へ押しつけ、そのまま体重をかける。
「ぐっ……!」
ジンの膝が沈む。
力比べになれば勝ち目はない。
オーガの口が歪んだ。
笑っている。
こいつは馬鹿じゃない。攻撃を三度受け止めたジンを、一番邪魔な相手だと理解した。
「離せ、このっ!」
ジンが盾を引こうとする。だが棍棒が食い込み、動かない。
オーガが空いた左手を振り上げた。
拳でジンの頭を潰す気だ。
「ココラ!」
「狙ってる!」
矢が飛ぶ。
オーガは顔を傾けてかわした。
バイロンが走る。間に合わない。
俺の視界に、ジンの数字が見えた。
【防御力:96】
違う。
それを減らしてどうする。
【体力:61】
違う。
増やせるなら助けられる。俺にできるのは引くことだけだ。
だったら、何を減らす?
攻撃力?
一では足りない。
俺はジンの全身を見た。
力んだ肩。食いしばった歯。震える腕。
額に浮かんだ汗。
そして数字。
【疲労度:100】
見つけた。
「《減算》!」
【対象:疲労度】
【100 → 99】
「一だけでも、動け!」
ジンの目が見開かれた。
限界を示していた数字が、限界の手前へ戻る。
ほんのわずかに、腕へ力が戻った。
ジンは盾を傾けた。
押しつけられていた棍棒が滑る。
オーガの体勢が崩れた。
「バイロン!」
「分かっている!」
銀色の影が駆け抜ける。
「《倍化》!」
バイロンの剣が、オーガの右膝へ深く食い込んだ。
巨体が傾く。
「ココラ、目だ!」
「任せて!」
放たれた矢が、オーガの左目を貫いた。
絶叫。
オーガは棍棒を放り出し、顔を押さえた。
ジンが盾を構え直す。
「今度は、俺の番だ!」
盾の縁が、傷ついた膝を打ち抜く。
オーガが地面へ倒れた。
バイロンは両手で剣を握り、むき出しになった首へ刃を振り下ろした。
一撃。
二撃。
三撃目で、巨人は動かなくなった。
森に静けさが戻る。
俺はその場へ座り込んだ。
「勝った……のか?」
「見れば分かるだろ」
バイロンが剣の血を払う。
息は切れているが、声は平然としていた。
格好をつける余力はあるらしい。
ジンが俺の前へ来た。
大きな手が肩に置かれる。
「拓郎」
「何だ」
「さっき、俺に何をした?」
「疲労度を一減らした」
「一?」
「百から九十九に」
「……ほとんど変わらないじゃないか」
「その一で盾を動かしたのは、お前だ」
ジンは黙った。
やがて、俺の肩を二度叩く。
「悪くなかった」
「褒めるなら、もう少し嬉しそうに言え」
「調子に乗るな。次は自分で避けろ」
ココラが笑った。
俺も笑った。
昨日より、前へ進めた。
それだけで十分だった。
このときの俺は、そう思っていた。
◇
《白銀の牙》へ入って三か月。
俺たちは二十七件の依頼を達成した。
ゴブリン討伐。薬草採取。隊商護衛。洞窟の調査。
バイロンは強かった。ジンは頼れた。ココラは百歩先のリンゴを射抜けた。
俺は荷物を運び、地図を読み、見張りをした。
戦闘では敵の攻撃力を一減らした。
七十を六十九に。
二百を百九十九に。
そのたび、変化はなかった。
疲労度が百になった仲間を救えたのも、最初の一度だけだ。普通は百になる前に休む。戦闘中に都合よく限界を迎える者などいない。
別の数字を探しても、見えるのは能力値ばかり。
試験の日に抱いた期待は、少しずつ削れていった。
皮肉なことに、俺の力を使わなくても。
そして二十八件目。
俺たちは、あの日より二回りも大きなオーガと対峙した。
【攻撃力:531】
奇しくも、最初のオーガと同じ数字だった。
違ったのは、一体ではなかったことだ。
森の奥から、二体目が現れた。
続いて三体目。
「依頼書には一体とあったぞ!」
ジンが叫ぶ。
「退く!」
バイロンが即座に判断した。
だが、背後からも地響きが近づいてくる。
四体目。
囲まれた。
「拓郎、何とかしろ!」
ココラの声が震えている。
視界は数字で埋まっていた。
攻撃力531。
防御力204。
体力810。
どれも大きい。
どれを一減らしても、何も変わらない。
それでもやるしかない。
「《減算》!」
【対象:攻撃力】
【531 → 530】
オーガの棍棒が、ジンの盾を打ち砕いた。
ジンが吹き飛ぶ。
ココラが悲鳴を上げた。
バイロンがオーガの腕を斬り、退路を作る。
「走れ!」
俺たちは逃げた。
振り返らなかった。
◇
町へ戻った夜、バイロンに呼び出された。
場所はギルドの裏にある倉庫だった。
ジンとココラもいる。
誰も目を合わせない。
嫌な予感はした。
「拓郎」
バイロンが俺の冒険者証を差し出した。
「今日で《白銀の牙》を抜けてもらう」
「理由は?」
「聞かなければ分からないか」
「お前の口から聞きたい」
バイロンの眉が動いた。
「お前を守るために、俺たちの動きが遅れる。お前の能力は戦闘で役に立たない。今日、ジンが死にかけた」
「俺が攻撃力を一減らしたから、盾が壊れたのか?」
「そういう話じゃない」
「なら、依頼の情報が間違っていたからだ。オーガは一体じゃなかった」
「それでも対応するのが冒険者だ」
「俺を追い出せば対応できるのか」
「少なくとも、お前を守る必要はなくなる」
言い返そうとして、やめた。
正しい。
悔しいが、正しい部分はある。
俺はあの場で何もできなかった。
「最初から分かっていただろ。俺は-1だ」
「可能性があると思った」
バイロンは俺の冒険者証を見た。
「だが、三か月見ても何も変わらなかった」
「変わった。前より多くの数字が見える」
「減らして意味のある数字は見つかったのか?」
答えられなかった。
沈黙が答えになった。
「お前の能力なんて、誤差だ」
静かな声だった。
笑いも、怒りもない。
だからこそ、胸の奥まで刺さった。
「ジン。お前も同じ意見か?」
ジンは拳を握った。
「命を助けてもらった恩は忘れない。だが、パーティーの判断なら……従う」
「ココラは?」
「ごめん」
それだけだった。
俺は冒険者証を受け取った。
端に、新しい刻印が押されている。
《所属パーティー:なし》
《暫定評価:冒険者不適格》
「ずいぶん仕事が早いな」
「ギルドには話を通した」
「そうか」
証を懐へしまう。
「世話になった」
「待て」
背を向けた俺を、バイロンが呼び止めた。
「町に残るなら仕事を紹介する。荷運びなら――」
「いらない」
「意地を張るな」
「意地くらい張らせろ。今、ほかに持っているものがない」
誰も追ってこなかった。
◇
翌朝、俺は町の西門を出た。
持ち物は古い剣、水筒、固いパンが三つ。
財布には銅貨が十二枚。
立派な追放者だ。
「で、どこへ行くんだ?」
門番に聞かれた。
「決めてない」
「昨日、北の街道にオーガが出たぞ」
「北には行かない」
「東は盗賊、西は崖崩れだ」
「南は?」
「何もない」
「南にする」
「死ぬなよ」
「努力する」
町を出て、一時間ほど歩いた。
晴れた空。乾いた道。左右には草原が広がっている。
悪くない旅立ちだ。
ただし、道の真ん中にあるものを除けば。
「嘘だろ」
巨大な岩が、街道を完全に塞いでいた。
高さは家ほどもある。昨夜の崖崩れで転がってきたらしい。
北へ戻ればオーガ。
東へ回れば盗賊。
町へ帰れば、バイロンたちと顔を合わせる。
「……絶対に嫌だ」
俺は岩へ手を当てた。
押す。
動かない。
蹴る。
足が痛い。
剣で削る。
刃が欠けた。
「最悪だ」
岩にもたれ、空を見上げた。
そのとき、視界の端で数字が揺れた。
【巨岩】
【重量:10000kg】
俺は目を見開いた。
これまで、重さなど見えたことはない。
能力値ではない数字。
なぜ今になって見えた?
岩へ触れたからか。動かそうとしたからか。それとも、重いと理解したからか。
分からない。
だが、試すことは一つだった。
「《減算》」
【対象:重量】
【10000 → 9999】
岩は動かなかった。
当然だ。
一キロ軽くなったところで、九千九百九十九キロもある。
笑い声が頭の奥によみがえる。
誤差。
その通りだ。
俺の力は、どこまでいっても誤差でしかない。
「だったら」
俺は岩の前へ座った。
次に使えるまで一分。
水筒をひと口飲む。
「誤差じゃなくなるまで、引いてやる」
一分後。
「《減算》」
【9999 → 9998】
岩は動かない。
さらに一分後。
【9998 → 9997】
まだ動かない。
それでも俺は、三度目の《減算》を構えた。
その瞬間、視界に初めて見る表示が現れた。
《未減算の数値を認識しました》
《成長条件を達成》
《SUBTRACT/減算》の制限が、一部解除されます。
「……制限?」
俺は知らなかった。
世界最弱の《-1》には、まだ先がある。
そして、その扉を開く鍵は――敵を倒すことではなかった。




