第94話 夜が明けるまで歩く
崖下から街道に戻った時には、すっかり陽も落ちていた。クライム中に見た沈む夕陽はとても美しく、いつまでも眺めていたかった。
しかし、フレイアにやめろと言われた。
400mの崖の途中に張り付いて、のんびりと夕陽を眺める神経に耐えられないと言われた。高所が怖いからやめろではない。頭がおかしくて怖いからやめろだ。酷い……。
〈酷くなんかありません。おかしいのはあなたです。指先と爪先が岩にちょっと掛かってるだけの状態で、ああ、沈む夕陽が美しい……じゃありません〉
でも、本当に綺麗だったんだよね。地球でも同じように毎日陽が沈むはず。けれど視界を遮るビルのせいなのか、あまり見た記憶がなかった。
そして今は陽も落ちて黒い森に包まれた街道に立っていた。青黒く道を照らされている。なかなかホラーな雰囲気ではある。
「そういえば聞いたことないけど、ハルモニアってお化けとか出ないの?」
真っ暗な森へ入っていく街道を歩く。昔なら恐怖で足が震えたかもしれない。
〈さっき襲われていたじゃありませんか〉
「いや、そういうモンスター的なものでなく、恨めしや〜系のやつよ」
〈ありませんね。恨みを持って亡くなる人がいません〉
凄い話だな……。
「じゃあ、ベッドの下に怪物がいて足を掴む的なお化けは?」
〈それはありますね、生物として持つ根源的な恐怖みたいなものは同じなのかもしれません。ただ数は多くありません。おそらく地球の死生観や宗教などの違いが〉
フレイアの声をBGMに聴きながら、闇の中を進んでいた。気温が下がり吐く息は白い。都市や街にいると気がつきにくいけど、ハルモニアの自然は本来人間が快適に暮らせるものではない。
〈という理由で、わたしは母のベッドに潜り込んで寝ることが多かったです〉
ちびフレイア可愛いな。
〈マサトさんはどうだったのですか?妖怪に攫われる恐怖に震えて眠れない幼少期の話を聞かせて下さい〉
まったく記憶にない。ハイヒューマンと違ってヒューマンはそこまで正確に何もかも記憶することができない。俺が馬鹿なのを差し引いても。
〈ありますよ、幼い頃の記憶。わたしが取り出してきましょうか?〉
「やめなさい。あまり思い出したくないから、忘れているんだよ」
フレイアが、俺の記憶の糸を解こうとする。嫌がるのがわかっているのだろうに、なぜか楽しそうだ。
〈では、やめておきます〉
基本的に素直な監査官。
「フレイア、蒼汐までの距離はどのくらいかな」
〈80km程度ですね。この山を下り、もうひとつ山を越えた先になります。このままの速度を維持するなら、9:00前後に到着します〉
のんびり街道を歩くのも悪くない。会社に帰ったら怒られるのが確定している今は特にだ。
〈明日、カトエラ様にお願いして、嘆願書を作成してあげます。結果的に夜爪豹も大丈夫そうでしたし〉
嘆願書だと?それは助かるな。こないだ、フロラに唆されてヘリを壊したばかりだ。めっちゃ怒られる未来が確定している。それに部長の胃に穴が空いても困る。
〈叔父さん、いえアルダ部長の胃がその程度で、どうにかなるとは思いませんけどね。それとあの件はフロラさんより、マサトさんの方が──〉
「フレイア監査官、俺はこのまま蒼汐を目指して進む。監査官は休んでくれ。到着予定時刻にまた会おう」
ヘリを壊した一件が俺のせいだと口にし始めるフレイアを止める。夜も更けてきた。あとは淡々と街道を歩くだけだ。
〈お断りします。マサト探査員はまったく信用できません。ついさっきも下にちらっと見えた街道に、飛び降りたら近道じゃね?とか考えてました。夜なんですよ?川を街道と誤認して飛び込みそうです〉
確かに考えてた。だって近道じゃん。
「あれ、川だったの?街道だったよね」
〈さあ、どちらでしたかね。忘れてしまいました〉
忘れるわけないだろうに、何が楽しいのか笑っている。
途中で風裂兎の小さな群れに襲われたが、丁寧に対応しておいた。勝ち目がないだろうに、最後の一頭になっても襲ってきた。Ⅰ種は好戦的で困る。
〈それで、プリンセスはりんごを手にして、何と言ったのですか?〉
「貴様の悪行はこの七人の手下が見ていた!こうなった以上は殺し合いだ。互いにこのリンゴを齧る、中にひとつあるポイズンアポーを手にした方が負けだ」
今はホワイトスノープリンセスのお話をしている。
〈まぁ……恐ろしい。毒林檎のロシアンルーレットですね。スノープリンセスに勝てる算段はあるのですか?〉
「ふっ、馬鹿な事を言うなフレイア。勝つさ。必ず!」
正義のスノープリンセスが負けるわけがないだろう。そもそも俺が作っている話だ。
「ひとつ、またひとつと木箱からリンゴを取り出して互いに齧っていく。数が減っていくにつれ脂汗をかき始める王子。スノープリンセスは逆に涼しい顔だ。まるで氷のようにクールな女だ。そして、残すはあと三つになった」
〈…………。〉
「どうした?王子、貴方の番だ。ここで降りても良いんだよ。ただし、その場合は、寝ている隙に不同意行為に及ぶような卑劣な王子だったと国中に喧伝してもらおう」
〈っ!〉
しかし、王子はりんごを手に取った!寝ている女子の唇を舐めるような陰キャではあったが、腐っても一国の王子。国中に自身の性癖を知られるよりは死を選ぶ誇り高き男だった。
りんごを齧ろうとしたまさにその時!彼の手をスノープリンセスが掴む。
そして彼の手からりんごを取ると、七人の部下へと渡す。ひとりにりんごを齧るように合図をした。齧った部下は、途端に胸を押さえもがき苦しむ。ついには顔を紫にしてこと切れてしまう。王子が手にしたりんごがポイズンアポーだったんだ……
「君の覚悟は見せてもらったよ王子。失態を知られ、国を混乱に叩き落とすくらいならば死をもって国を守る。その覚悟を。次の王は君だ、私も陰ながら君を支えよう」
森の小さな東屋で、ふたりは互いを堅く抱きしめ合った。傍には6人の部下の姿があったという。
めでたしめでたし。
〈……。マサトさん、ホワイトスノープリンセスのお話しはわかりましたけど、白雪姫の原典はどうなっているんですか?記憶にありません〉
元から知らねぇよ。白雪姫なんか。あれは女の子向けの童話だ。リンゴと小人と王子が出てくる程度しか知識はない。
なのに白雪姫の話をしてくれと言ったのはお前だ。
〈なんか思っていたのと違いました。もっとロマンチックな王子様とお姫様のお話しなのかと……〉
「めちゃくちゃロマンチックだったろ。王子は国を守り、女は陰ながらもその国を手に入れた。全ての女子が憧れるサクセスストーリーと自負している」
得意げに胸を張るが、山頂へと向かう坂が急で少し息が上がっていた。
〈女の子ってそんなに野心溢れるものじゃないと思うんですけど……〉
そこらへんは一度、シマと話し合ってもらおうか。奴は小さいなりだが、そういった男女間の機微にはなかなか詳しい。専門家といえる。
「まあ、フレイアには少し難しかったかな。大人になればわかるさ」
〈マサトさんよりは歳下ですけど、わたしは立派な大人です。アルマさんよりも歳上なんですよ?〉
判断基準がアルマという段階でダメダメだ。あいつは大学生にもなって、蜥蜴に乗って棒を振り回しているんだ。
〈やはり、タートルライダー・ウラシマンの公開が……〉
フレイアがぶつぶつ言ってる。
東の空が白みかけてきた。青黒い山が色を取り戻す。良いことを思いついた!走る速度を少し上げる。山頂まではあと少しだ。
〈フヮァ〜〉
眠いのか欠伸なんかしている。だから寝てろって言ったんだ。けど、頑張って起きてたから良いものを見られるぞ!
山頂に着いた。おあつらえ向きに東方向は開けている。麓に広がる森には唸るように大河が這う。そして、群青色の巨大なアズール・ホエムが空いっぱいに広がっていた。
間に合ったな。夜明け前のハルモニアは、凍える気温に下がっていた。しかし、何度見てもこの光景は、そんな事を忘れさせる。
「フレイア起きろっ!良いもの見せてやるぞ」
空を白くしていた恒星が、アズール・ホエムを真っ黒な影にしていく。もう少しだ。見てろよ〜。
あと少し……。
「どうだ、フレイア監査官!」
彼の視界を通し日蝕を見ている。日蝕なんて単なる日常に過ぎない。なのに、なぜこんなに。
「綺麗だろ。俺はハルモニアに来たとき、この日蝕に心を奪われたんだ。突然、異世界に放り込まれて、夜通し歩いて」
〈お願いします。少し黙って下さい〉
彼の心に溢れる美しい光景への感情が流れ込む。強烈なダウンバースト。吹き荒れる嵐をものともしない。真っ直ぐ立って、わたしにサファイアブルーの冠を見せてくれている。
感情がコントロールできなくなりそう。
怖くなって目を開けた。視覚を取り戻すために。
しかし、見慣れたはずの斎女課の部屋は青く光り輝いていた。モニターいっぱいに映し出されているアズール・ホエムの日蝕はアルカディアからのものではない。
山頂にいる彼の視覚を映したものだ。
「イツキ……なんで彼の視覚を……」
「とても美しいと思ったからですよフレイア。瞳を開くなんてとんでもない。あなたは斎女です。マサト探査員の見たもの感じたことを知るのが役割です」
モニターに映し出される風景と、彼の感情が伝わる。蒼く輝く暗い部屋から逃げたくて瞳を閉じる。マサトさんの見ている風景が彼の感情と共に溢れてくる。感応を閉じてしまえばいい。わかっているのだけど、なぜだろう、それはできない。
もう駄目だった。
わたしの瞳から溢れるものは、どんな感情がもたらしたものなのだろうか。
瞳を強く閉じたけど、涙が零れ落ちるだけだった。




