13 おかえり、ローザ
「エルローザは、死んだのです。ずっと昔に、死んで、ここにいるのは、エルベルトじゃなきゃ‥‥。」
エルローザだって、分かっている。自分がエルベルトではないことを1番よく知っている。そうなりたくなくても、胸は膨らみ、男性とは違う身体の曲線ができあがり、毎月1週間の憂鬱がある。この身体は、女性のものだ。それはすなわち、エルローザなのだった。
けれど。それでも。自分だけは、エルローザが死んでエルベルトが生きているのだと思い続けなければいけなかった。思い続けなければいけないと、それが自分の役目だと、エルローザは生きてきたのだ。今更、エルローザである自分を受け入れるなど。そんなことはエルベルトが死んでしまったと認めるようなものだ。いや、知っている。エルベルトはもういない。いや、でも。
でも、嬉しくて苦しいと思ったあの感情は、間違いなく‥‥。
「し、しょ」
「なんだ」
「わた、し‥エル、ローザ、です。」
「知っているよ。」
「エルベルトじゃ、なかったのです。」
「ああ。」
「ローザが、死ぬはずだったのに、生きているのは私、だったのです。」
「そうか。」
「だから、私、エルベルトになって、生きなきゃって、ずっと。」
「頑張ったな。」
イリスがエルローザの手を握った。ボロボロとエルローザの瞳から涙が溢れて、テーブルにシミを作る。
「頑張ったな、エルベルト。」
嗚咽が漏れた。エルローザはイリスの手を強く握り返し、何度も何度も頷いた。
「だからもう、頑張らなくていい。ゆっくりおやすみ、エルベルト。薬草好きな、私の弟子。」
イリスは席を立ち、エルローザの座る椅子の隣へ回り込んだ。イリスが隣に来ると、エルローザは座ったまま、イリスに抱き着いた。腰にしがみ付いたエルローザの頭を、イリスは優しく撫ぜた。
「エルローザ。ローザ。」
それは、これまで聞いたどんな声よりも。
「おかえり、ローザ。剣好きでお転婆な、私の弟子。」
胸を熱くするものだった。
イリスの言葉だけで、エルローザには十分だった。泣き止むまでの数分間、頭を撫でる手は変わらぬ速度でローザの帰還を祝った。
「すみません、師匠。」
「たくさん泣いたか?」
「はい。たくさん。」
「そうか。それでいい。全部出して、出し切って、そうしたらまた少し顔を上げてみればいいだけだ。」
「はい。師匠、ありがとうございます。」
「普段は全然甘えてこない愛弟子の頭を、思う存分撫でられたんだ。それでチャラさ。」
「‥‥師匠、あの‥」
「ん?」
「私、師匠の事、大好きです。あなたに出会えて、本当に幸せです。」
「知っているさ、そんなこと。」
口ではそう言いながらも、イリスは破顔した。その嬉しそうな顔を見て、エルローザもまた同じ顔ではにかんだ。
* * * * *
2年前。イリスは、自分を熊から助けてくれた少年を弟子にすると決めた。その少年が、17歳の女性であることを知ったのはその日の夜だった。弟子の話が決まりかけた時に、エルローザが「実は、女なのです。」と言ったのだ。
イリスにとって、弟子が男だろうが女だろうが、些事だった。しかし、いずれは伯爵家と薬師としての地位を継ぐ者となるのだから、大まかな事情は知っておく必要があった。
男装していることを告げたエルローザに、イリスは簡単でいいから事情を話すようにと促した。勿論、この後しっかりと伯爵家による調査が入るが、その前に本人の口から聞いておきたいと思ったのだ。エルローザがどういう人物なのか、見極める必要もあった。
そういった事情で、イリスはエルローザの経緯を知っていた。イリスの目には、必死にエルベルトとして生きてきたエルローザがとても不安定なもののように映った。
だから、イリスはエルローザの事を「エル」と呼んだのだ。
それは、エルローザでもあり、エルベルトでもあった。エルベルトとして生きようとする彼女が、いつかエルローザを認めることが出来る日が来たのなら。その時がきっと、「ローザ」と呼ぶべき時のはずだ。イリスはずっとそんな思いを抱いていた。
冷静で控えめで、どちらかといえば大人しい"エル"は、きっとエルベルトなのだろう。自分の知識を弟子に教えながら、イリスはそう感じていた。本来のエルローザはどんな人間だろうか。薬学も、最初はエルベルトの方が興味を持ったことなのかもしれない。エルローザは何が好きだったのか。
"エル"と過ごす日々で、イリスはエルローザの鱗片を探していた。
皇太子を助けた。と弟子から聞いた頃だった。その頃からイリスの弟子は少しずつ、"エルローザ"を見せるようになっていた。本人はきっと無意識だ。
薬を調合しながら鼻歌を歌っていたり、楽しげに愛馬の世話をしていたり。柔らかな笑顔を浮かべているときが増えた。イリスは男装したエルローザは少年のようだと思っていたが、間違えなく女性の表情を浮かべる時もあった。
理由は知っている。弟子のその変化は、サジテール侯爵家の跡継ぎであるセヴランに剣を師事してからだ。休日は大体セヴランと剣を合わせているようで、イリスにその話をする"エル"は確かにエルローザだった。
恋、と呼ぶには未熟だが、きっと近いうちにその感情を知ることになるのだろう。
イリスは、「ローザ」と呼べる日を心待ちにしていたのだった。




