六 井戸
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つぎの朝、葉末は早起きをして台所へ向かったが、そこにはすでに柳がおり、ご飯の炊けるあまい香りが湯気と一緒に漂っていた。湯気の中でこちらに背中を向け、漬物を小気味よく切っていた柳は、葉末に気づくと振り返り、朝からさわやかな笑みを見せた。
「おはようございます、水瀬さん。ゆうべはよく眠れましたか」
ついついあっけにとられた葉末は、慌てて腰を折ってお辞儀した。
「おはようございます、お師匠さん! おかげさまで、よく眠れました!」
硝子玉の瞳がちらりとよぎる。あれから、寿々は現れなかった。葉末は鞠子嬢のことを思いつつ、眠れぬ夜を過ごしたのだが、それを柳に言う必要はない。
「お気遣い痛み入ります、お師匠さん……!」
「そうか。『お師匠さん』でしたね、わたしは」
柳はおかしそうに肩をすぼめて、竈のほうを指差した。
「味噌汁をつくってるんです。味噌をといてくれますか、そこの壺に入っています」
「はいっ」
葉末は、柳が示した棚のほうへ駆け寄った。そこには大小さまざまな色とりどりの壺が置いてある。葉末はその中でいちばん大きく、ぽってりしたものを手に取った。
「こちらでしょうか、お師匠さん」
「ええ、そちらです。おねがいします」
柳が杓子を手渡してくる。葉末はうやうやしくそれを受けとり、味噌壺の蓋をそっと開けた。
味噌汁はいつもつくっていたので、味の加減には慣れている。けれども、この家の味噌を使うのはきょうがはじめてのことである。どのくらいかと聞こうとすると、柳は漬物を小皿に盛りつつ言った。
「水瀬さんにお任せします」
「そんなっ」
葉末が悲鳴をあげると、柳はくすくす笑いながら、杓子一杯ほどと教えてくれた。言われたとおりに味噌をとかすと、香ばしい湯気に包まれる。かたちの揃った豆腐をくずさないよう、ゆっくりとかき混ぜれば、なんだか心がなごんでくる。けれども、己は寝坊したのだ。「お師匠さん」より遅く起きてきた。葉末は腹に力をこめた。
「お師匠さんは、いつ起きられたのですか?」
竈の火を見るために、かがんだ柳に聞いてみる。顔をあげたその目もとへ、黒い髪がさらりとかかった。
「さっきですよ、いつもどおりです。気にすることはありませんよ」
柳は気楽そうに言って、立ちあがった。やはり背が高い。たすきをかけてよく見える腕も、葉末のものより太くたくましい。昨夜この腕を掴んだことを思い出し、葉末は恥ずかしくなった。「弟子」として失礼なことしかしていない。
「膳を用意しましょうか。ひとりじゃないのはひさしぶりです」
恥じ入る葉末とは裏腹に、柳は歌うような言いかたをした。土間から囲炉裏を備えた一間へあがると、かわいらしい箱膳をふたつ出してきてそこへ並べた。
「いつも、朝餉の支度をしても立ったまま食べてしまうんです。でもきょうからは座りましょうか」
「わたくしも、立ったままでいただけます!」
「それは、やめてくださいよ」
慌ただしすぎる光景になりますと、柳は眉をさげて笑った。
「せっかく『お弟子』が来たんですから、これくらい用意させてください。あ、味噌汁が沸きますよ」
「ああっ申し訳ありません!」
「つぎはめざしを焼いてください。そこに七輪がありますから」
「はいっ、かしこまりました!」
葉末が腹から返事をすると、柳は楽しげに肩をゆらした。つっかい棒で開けた窓から、白い朝日が差し込んでいた。
向かい合って朝餉を食べながら、きょうの予定について話した。依頼は入っていないらしく、柳は月方男爵邸へ鞠子嬢のようすを見に行くと言った。
昨夜の提案のとおり、祓い屋がなにか視えると言えば入れてもらえるだろうということだ。実際、霊障のような症状をもたらす赤い目の者がいたのだから、それを小耳に挟んだと言えばきっと中に入ることができる。入れずとも、鞠子嬢の容態は聞きだしてくると柳は言った。葉末はいまいちど頭をさげて、柳が留守にしているあいだ、この邸の掃除を請け負う旨を伝えた。
朝餉の片づけが済み、しばらく新聞など読んだあと、柳は町へ出かけていった。きのうとおなじ着流しではなく、袴を履いて髪を整えた柳を、葉末は玄関まで見送った。
残された葉末はさっそく、井戸へ行って水を汲む。掃除することが許されたので、せいいっぱいに努めるのである。はたきや雑巾、盥など、道具の在り処は教わっている。葉末はゆるんでいないたすきをかけ直ししてきつめに結んだ。
探しだした盥を抱えて勝手口から外へ出ていくと、涼やかな風が頬をひと撫で、静かに通り過ぎていった。絹にふれたときのような心地だ。鞠子嬢のハンカチに似ている。花のような笑みがふとよぎり、葉末は盥を抱きしめた。いまごろ、治っているならいい。どうか治っていますようにと、また祈る。けれどいつまでも、そうしていることもできない。葉末は大きく頭を振って、目を開けた。
屋根のついた井戸のまわりには、少しばかり草が生えていた。ちいさな花を咲かせているものもあり、雑多な印象は抱かせない。わざとそのままにしているのかもしれない。井筒のほうへ歩み寄ると、緑の飛蝗がぴょんぴょん跳ねた。
葉末はやはり祈りながら、井戸の水を汲みあげた。建物の陰で涼しいとはいえ、幾度か釣瓶縄をたぐっていると、うっすら汗がにじんでくる。盥に水をあけるたび、散る水しぶきが裾を控えめに濡らした。あたりは静寂に包まれていた。
しばらくして水を汲み終わり、葉末は盥のそばにかがんだ。水面に映る己の顔を、ちらりと見れば、目は黒い。いまは朝であり明るいので、目は赤くならず、霊は視えない。そのため、寿々のすがたも視えず、ことばを交わすこともできない。もしかして近くにいるのだろうかと、あたりをそっと見回してみる。
「ごめんください」
声がした。葉末は、はっと立ちあがった。大戸口のほうから聞こえたので、だれかがやってきたらしい。もしや、お祓いの依頼だろうか。葉末はぴんと背筋を伸ばし、声を張って返事をした。




