五 硝子
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茶漬けは、葉末の身体の内にちいさな火を灯してくれた。そのあと風呂場まで貸し与えられ、葉末はすっかりすっきりとして、さきほど案内されたばかりの部屋の中に落ち着いていた。
この部屋には、引き出しのたくさんついた立派な鏡台も置いてあり、押し入れの中にはふっかりとした布団がひと揃い備えられていた。なんでも好きに使ってよいと柳がかろやかに言ったので、ありがたく、さっそく押し入れの中の布団を出してきて敷いている。
「弟子」として来たばかりなのに、あまりによくしてもらっている。申し訳ないと思いながらも、葉末はすべてを受けとっていた。茶漬けも風呂場もこの部屋も、柳の持つやわらかな空気に包まれてとどけられるから、心苦しさがふしぎと軽く、とかされてしまい、たいへんなのだ。断るということができない。葉末は柳に運んでもらった風呂敷包みにそっと手をふれ、どうしようかと身ぶるいをした。これは明日から、懸命になって掃除を遂行するほかなかろう。
ひとり静かに決意を固め、葉末は大きくうなずいた。そして荷物を解くことにした。先刻きつくつくった結び目を、ゆっくりとほどいていく。はらりと風呂敷を広げると、月方邸の匂いがした。
つんと、鼻の奥が痛くなる。けれど、これでよかったのだ。柳もそう言ってくれた。この赤い目は、鞠子嬢を病に陥れ苦しめたのだ。仮に、鞠子嬢が病などでなくとも、妙な目を持つ女中がいれば月方家の名誉にかかわるのだ。だから離れるのがいちばんよかった。柳は、原因が離れれば、赤い目による霊障に似た症状も治まると言っていた。それなら、鞠子嬢はいまごろ、楽になっているだろうか。どうか、治っていますようにと。葉末は手を合わせ、目を閉じた。
まぶたの裏に闇がにじんだ。奥のほうから、湧き出るように思い出されるすがたがあった。長い黒髪をおさげにして、濃緑のリボンを結んでいる。萌黄の矢絣に紺の袴をまとい、ちいさな足にパンプスを履き、羽衣のようなショールをはおったハイカラで気品あふれるすがた。頬や唇は桜花のように、ほんのりと淡く色づいている。鶯のさえずるような声音で、葉末の名を呼ぶ。うつくしいひと。どうか、治っていますようにと。葉末はひとり祈り続ける。
じきに、指先が冷えてくる。吸う息が少し重くなり、かすかな胸苦しさを覚える。座った畳と脚の境目をそろりと、風が舐めていく。窓も戸も閉めたままなのに、部屋の中の空気が動く。ゆるり、ゆるりとなめくじのように、葉末の周囲を巡り始める。
葉末は、ぎゅっと目を閉じた。なにが起こったかわからなかった。合わせた両手を握りしめ、浅く呼吸をくり返す。それでも息苦しさは消えない。空気がいっそう冷え、重くなり、ずしりと肩にのしかかる。そこで葉末はやっと気づいた。いるのだ。これは、霊の気配だ。
邸に入ってきたときは、霊の気配などしなかったのに。柳も、ここに霊はいないと、なぜだかいないと笑っていたのに。けれども、柳はいま霊を感じにくくなっている状態だ。柳が気づいていない霊が、邸にいてもおかしくはない。きっとそうだと、葉末は悟った。この部屋には、じつは霊がいるのだ。まぶたをあげればこの赤い目は、その霊を映すことだろう。
まわりを巡る冷えた空気が、徐々にちいさくなる円のように近づいてくる。近づいてくる。背筋がぞくりと粟立って、葉末はさらに固く目を閉じた。組み合わせた手がふるえ始める。
この霊は、ひとに害なすのだろうか、ふとそんなことが頭をよぎる。そのあたりをさまよっている霊のことを、こんなにおそろしく感じたことはない。これほど不気味なこの霊は、もしや害のあるものなのでは。それなら、祓わねばならないのでは。だが葉末にできるのは、霊を視ることだけである。祓うことは、やりかたも知らない。祓える柳を呼ぼうにも、喉が塞がって声が出せない。ぬるりと冷たい気配が迫り、ふれそうになる。たすけて。はらって。そう思ったとき、胸が痛んだ。混乱した頭の隅で、ふいに気がついてしまったのだ。
まだ、この霊を視ていない。単に気配を感じただけだ。それなのに、勝手にいままでとちがう、おそろしいと思っただけで、害あるものだと決めつけている。祓うべきものだと決め込んでいる。それはいやだと、心のかけらがちいさく声をあげていた。いやだ。己も心細かった。鞠子嬢が病になってから、おまえのせいではないのかと、責める視線にさらされ続けているのは、ひどく寂しいことだった。葉末の場合はほんとうに、この赤い目のせいだったのだが。
でも今回は、わからない。柳が言うには、赤い目の者も、五感で霊をとらえられる。ただ目に映せるだけではないのだ。それなら目で視て、ことばをかわして、そのあと決めてもよいではないか。心の声が大きくなって、同時に、ふうと鼻先をかすめる。どこかせつなげなお香の匂い。いままでこの部屋になかった匂いだ。葉末は、ぐっとこぶしを握った。そして唇を引き結び、怖気づくまぶたをこじ開けた。
とたんに、あ、と声がこぼれる。部屋の片隅に、たたずんでいる。お人形のような、ひとりの少女。透けた真っ白な柔肌に、ぱつりと切り下げた肩までの黒髪。淡紫の縮緬の着物は袂が畳につくほど長く、きらきらとしたとりどりの糸で蝶の刺繍がほどこされている。まっさらな足袋をつけた足が、すっと、片方こちらへ滑る。
葉末は、その場を動かなかった。潤んだ硝子玉のような、かなしげな目をみつめていた。長い睫毛がふるりとゆらぎ、色の薄い唇がひらいた。
「視えるの」
ほんのちいさな声が、畳の上に涙のように、落ちる。葉末はうなずいた。
「視えます」
幾度もうなずいてみせる。
「視えます。あなたが視えています」
「そう」
少女は淡くほほえんだ。十にも満たないほどであろうに、その寂然としたたたずまいは妙齢の女人のもののようである。少女はゆっくりとその場に座ると、小鳥のように首をかしげた。
「あのね。わたし、寿々というの。寿ふたつで寿々ね。長らくこのお邸に棲みついている、いわゆる霊というものよ」
「長らく?」
「ええ……、十年以上ね」
「そんな……」
「おなまえ教えてちょうだい」
寿々となのった少女に問われ、葉末は慌ててかしこまった。
「はい、はじめまして。わたくしは、水瀬葉末と申します」
床に手をついて頭をさげる。少女のあどけないすがたと、それに見合わぬ寂しげなようすに、おそれはすっかり吹き飛んでいた。冷たく重い気配も立ち消え、静かな空気をまとう少女がただ目の前に座っているだけ。しかもこの少女は十年以上も、この邸に住んでいるという。葉末は、ここにいるわけについて、説明せねばという思いに駆られた。
「突然お邪魔いたしまして、申し訳ございません。いろいろなことがありまして、こちらのご主人さまに拾っていただき、お部屋もお貸しいただいて────」
「いいのよ、そんなの」
少女、寿々はこともなげに言って肩をすくめた。
「それよりこちらのご主人さまって、それは右作のことかしら」
寿々のことばに、葉末は思わず幾度か目をしばたいた。そして右作というのが、柳の名だったと思い出す。
「はいっ、さようにございます。柳さまに拾っていただいたのです」
「どうして、こんなお嬢さんを? 右作はなにをやっているの?」
寿々が目を三角にするので、葉末は慌ててこれまでのことを話した。お嬢さんではないとも言った。眉をひそめて聞いていた寿々は、やがてちいさなため息を洩らした。
「わかったわ、それならしかたないわね……。葉末はここでゆっくりするといいわ」
「ありがとうございます……」
葉末はもういちど頭をさげた。そのとき空気がふっと動いて、清楚な香りもともにゆらいだ。それからこめかみあたりになにか、ひんやりしたものがやさしくふれた。
「いいのよ。そんなにかしこまらなくて。ここは広いけど広いだけだもの。お城や華族のお邸じゃないのよ。右作とわたししかいないのだし、気を張ることなんてなんにもないわ」
かわいらしいふっくらとした手に、頭を撫でられていると気がつく。その感触は、生きているひとほどくっきりとしてはいないけれども、確かに感じられるものだった。はじめての経験に、胸がどきどきと音を立てている。葉末が動けないままいると、でもね、と寿々は手を離した。
「ひとつだけ、約束してほしいの」
「はい……」
寿々の真剣な声に、葉末はすぐに顔をあげた。寿々は葉末の目の前に座り、硝子玉の目でみつめてくる。
「あのね。じつは右作には、わたしが視えていないのよ」
「え……?」
いま視えにくくなっているのではなく、視えていない、と寿々は言いきった。確かに柳は、この家には霊がいないと葉末に伝えた。嘘だったとしても責める気はないが、葉末にはそうとは思えない。ほんとうに、霊がいないと思っているのだ。寿々は十年以上、ここにいるのに。
「霊視には、情が大きく作用するから。どうしても、というときは、視えたり視えなかったりするのですって。わたし、聞いたことがあるの」
「どうしても、というときは」。葉末は考えを巡らせた。柳家の血筋をもってしても、どうしても視たくないときは、霊が視えないということか。あるいは、どうしても視たいとき。
「とにかく、右作にはわたしが視えないの。はじめからそうだし、いまは調子がわるくてなおさらよ。でもわたしは、それでいいと思っているから、わたしのことを右作には、言わないで。約束してくれる?」
寿々の目はやはり、潤んでいる。いつのときにも雫をたたえ、笑っていてもかなしげなのだ。
柳に寿々が視えないのはなぜか、寿々の生前はどうであったのか。「右作」と呼んでいるからには、親しい間柄だったのか。気になることはいろいろとあるが、押しかけてきたばかりの居候が詮索すべきことではない。
「じぶんで言うのもなんだけど、わたしはここにいるだけなのよ。霊障かなにかを起こしたら、さすがに右作も気づくと思うけれど。なんにもやっていないのよ……、だから、祓う必要もないわ」
己を嗤う言いかたに聞こえた。なぜかと問うことはできずに、葉末はただ、大きくうなずいた。
「わかりました。柳さまには、寿々さまのことを申しあげません」
「ありがとう」
寿々はにこりと笑う。雫がこぼれそうに思った。
「あのね、葉末。もうひとつ。ときどき、わたしとお話ししてくれる?」
切り下げた髪が扇のようにゆれる。寿々は上目遣いになって、葉末を覗き込んでいた。胸の奥がきゅんとして、葉末はつい即座にこたえた。
「はい、もちろんでございます、寿々さま。ぜひにお話をさせてください」
すると、寿々は目をみひらいて、照れくさそうに肩をすくめて笑った。光が舞い飛ぶようで、葉末は思わず目を細めた。
「それじゃあ、また今度ね、葉末。今夜はよく休むのよ」
それからその目、いい色ね。声はやわらかく反響し、寿々はおもむろに立ちあがる。そのすがたは襖の向こうへ、とけこむように視えなくなった。楚々とした香りがくゆって、引いた。




