四 茶碗
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柳に案内されてたどり着いたのは、帝都の一角にひっそりたたずむ古い大きな邸だった。ぐるりと築地塀に囲まれており、屋根つきの門の向こう側に、つやめく瓦屋根が見えている。こちらですと振り向いて、柳はにこりと笑みを浮かべた。
「あの、申し訳ありません……」
葉末は柳に頭をさげた。途中で風呂敷包みの荷物をさっと預かられてしまったのだ。それからいくらなにを言っても、返却されることはなかった。迷惑なのかと問われてしまい、そういうわけではとこたえたのがおそらくいけなかったのだろう。ずっと荷物を持たせることになり、葉末はすっかり恐縮していた。それでも、諸々の詳しい事情を聞かれてこたえているあいだに、持たせていることを忘れてしまった。いま改めて謝ったのだが、とても失礼なことをしている。しかし柳は、笑みをくずさない。
「いえ、謝らないでください。お嬢さんに持たせられませんから」
「お嬢さんではないのですけれど────」
「わかりました、どうぞお入りください」
柳は木の門を開け、葉末に入るよう促した。葉末は一度礼をしてから、そっと柳家の門をくぐった。風にしんと重い冷たさがない。瞳が赤くなってからわかるようになってきた、霊の気配がないということだ。「祓い屋」の家に霊がいないことは当然なのかもしれない。だが、柳の話によれば、祓い屋によって祓われる霊は生きているひとに害なすものだけ、ただこの世をさまよっている霊は、ここへ来る道すがらにもたくさんいた。少しふしぎに思っていると、柳がうしろから声をかけてきた。
「どうされました、水瀬さん?」
「いえ……」
「ここに霊はいませんよ」
見透かしたように柳は言った。なかなか前に進めない葉末の先に立って行き、振り返る。
「なぜだかずっといないんです」
とぼけたような言いかたをして、また快活な笑みを見せる。葉末はつられてほほえみながら、門から続く石畳を慎重に歩いていった。その先には大戸口があって、家紋の透かしの入った引き戸が楚々と暗闇に浮かびあがった。柳は鼻歌でも出そうなようすで、戸に手をかけて、からりと開ける。葉末は戸から離れたところでいちど立ちどまり、背筋を伸ばした。
「水瀬さん?」
柳が目を丸めている。葉末は大きくうなずいてみせ、その場で深く頭をさげた。
「お邪魔いたします」
「いいえ、どうぞ」
柳はわざわざ葉末にこたえ、暗い家の中へ入っていった。葉末がまごついているうちに、内からぽっと明かりが灯る。柳が中でマッチをすって、ランプに火を入れたらしい。葉末はちいさく息を洩らした。あたたかな色がこぼれ出てきて、思いがけずほっとしたのだ。
「どうぞ」
柳がふたたび言って、戸の陰から顔を覗かせる。ランプの明かりに彩られ、どこかいたずらっぽいそのようすは、感情が薄くなっているひとのものとはとても思えなかった。葉末はちらと心配になり、なにか言いかけて口をつぐんだ。なんと言いだしてよいものか、すぐに決めることができなかった。
「それでは、失礼いたします」
代わりにそれだけ言ってお辞儀し、屋内に足を踏み入れる。ランプのゆらぎがふんわりと、天井を照らしだしていた。下を見れば、戸の内側にも石の畳が続いており、立派な沓脱石が据えてある。段をあがれば障子戸があり、左手には長くつややかな廊下がまっすぐに続いていた。葉末は縮こまりながら下駄を脱ぎ、柳に続いて廊を進んだ。軋むこともなくなめらかだった。比べるのはさもしいと思いながらも、月方男爵邸とおなじくらいの豪邸であると言えるだろう。ただ、ここには霊どころか、ほかのひとの気配すらない。
「お察しでしょうが、ひとり暮らしです」
柳は葉末の問いを先取りする。
「依頼のないときは掃除しています、なにしろ広いもんですから」
「どうぞお掃除させてください」
「もちろん、手伝っていただきますよ」
柳は愉快そうに応じると、つきあたりの襖に手をかけた。
「客間が開いていますから、ここを使うようにしてください」
柳はこともなげに言ったが、葉末は慌てて首を振った。
「いえ、わたくしは『弟子』ですから、お客さまのお部屋をいただくわけには」
「そうですか?」
柳は目をしばたき、いっとき思案してうなずいた。
「わかりました。ではこちらへどうぞ」
さらに奥へ進み、すらりと戸を引く。そこは六畳ほどの部屋であり、行李がひとつ置いてあるだけのすっきりとした場所だった。
「長らくだれも使っていません。荷物、置いておきますね」
「はい、どうもすみません……」
「ところで、夕飯は召しあがりました?」
「ええ、おかまいなく」
そうは言っても、これから居候することになるのだ。葉末が首をすくめていると、柳は笑い飛ばすように言った。
「わたし小腹がすいたので、茶漬けでも用意します。食べましょう」
その言いかたがあまりに屈託なく、葉末はついうなずいてしまった。
「その代わり、手伝ってくれますか? 『お弟子さん』」
さらりとそう呼ばれ、葉末はもちろんと奮い立った。
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柳邸は台所も広く、竈も囲炉裏も備えられていた。柳はまたマッチをすって、囲炉裏の炭の中へ火を入れた。そしてその上へ五徳を据えて、やかんを囲炉裏の火にかける。そのとき、横にかがんだ葉末を見やって、ふと呟いた。
「なんだか、火に似ていますね。目が」
囲炉裏の中でゆらゆらと、生きているようにゆらめく炎。その色が柳の横顔の線をやわらかくなぞり浮かばせていた。葉末は一瞬ことばに詰まり、そうでしょうかと口の中で言った。そうですね、と柳はこたえた。ほんのりと笑んでいるようだった。
そんな柳が言うことには、彼は柳家のひとり息子で、両親をはやくになくしている。邸にはかつて使用人がいたものの、祓い屋という仕事のために気味わるがられ、もともとの数が少なかった。それでも仕えていた最後のひとりが、昨年なくなったのだという。柳は新しいひとを雇わず、ひとりで身の回りのことをしながら祓い屋を続けてきたようだ。気楽だし家事は苦にならないと、柳は軽快な調子で言った。そして葉末を覗き込んでくる。
「ところで、水瀬さんのその目なんですが。水瀬さんの言うとおり、お邸のお嬢さんの病にかかわりがあるかもしれません。赤い目のひとがいた場合、周囲に霊障に似た症状があらわれることがあるんです」
どくりと、心臓が収縮し、葉末は思わず胸を押さえた。それならやはり、鞠子嬢の病はこの赤い目のせいだった。ほかのひとたちは平気だったが、邸の中でともに長い時を過ごしていたのは鞠子嬢だ。額に冷や汗がにじんでくる。目の前がくらりとゆれたとき、柳がだから、と強く言った。
「だから水瀬さんのしたことは、正解だったということです。原因が離れてしまえば、霊障は消えてしまいますから。お嬢さんはきっといまごろ、よくなられていると思いますよ」
「ほんとうですか」
かぶせるように問う。知らずのうちに、襷をかけてあらわになった柳の腕を掴んでいた。はっとして謝罪しようとすると、柳が静かに背中をかがめる。目線を合わせ、うなずいた。
「ええ、きっと、だいじょうぶです」
そのことばは、ふわりとかろやかで、それでいて力強くあたたかかった。葉末はぎゅっと両手を握りしめ、うなずき返した。だいじょうぶ。心の中でくり返す。そのうちにわかに、思い至った。葉末はぞっとして叫んだ。
「柳さま!」
「どうされました?」
「それでは、赤い目の者とともにいると、柳さまにもわるい影響が……」
近くにいれば、柳までもが病にかかってしまうのではないか。立ちあがり離れようとしたとき、いいえと、大声でとめられた。
「わたしは平気です。祓い屋ですから。それに祓い屋じゃなくたって、影響を受けないひともいますし」
「でも、柳さまはいまお疲れで……」
「平気なんです。いまだって、横にいてもなんともないでしょう。いちおうまだ、霊を祓う力だってちゃんとあることはあるんですよ、だいじょうぶです。気にしないで」
確かに、橋のそばで会ったとき、柳は霊に話しかけていた。
「まったく感じられないわけじゃないんです。骨が折れるから、たすけがほしかったんですが」
柳は口の端を持ちあげた。やや自嘲気味の表情に見え、葉末の胸はちくりと痛む。睫毛の影が頬にゆれている。そうなのですね、平気なら、と、葉末はもごもごそれだけ言った。すると柳がふっと笑った。
「でも……だいじなお嬢さんなんですね」
これには、はいもちろんですと。奥の底からこぼれ出ててくる。鞠子嬢は葉末にとって、だいじに守りたい花なのだ。
「おそれおおいことではあるのですが、幼いころからともに育った幼なじみのようなおひとでもあるので……」
そうでしたか、と柳は応じる。火にかけたやかんの蓋を開けようとして、あちっ、とおどけたように離した。葉末は思わず笑ってしまった。
「明日くらい、ようすを見に行ってみますか」
「え?」
「お嬢さんのごようすを」
葉末は幾度も首を振った。また近づけば、鞠子嬢がまた苦しむことになるのではないか。そんなことはどうしても避けたい。
「では、見に行ってきましょうか」
柳が、今度は手拭いごしに蓋を開けながら問うてきた。
「祓い屋がなにか視えたと言って、お邸に入れてもらいましょう。確かめられるかわかりませんが、行ってみる価値はありそうです」
「はい……」
「それでは、決まりですね」
柳はさっと決めてしまうと、棚から茶碗をふたつ出してきた。卓に置いてある米櫃を示し、よそってくださいと茶碗を渡してくる。葉末は両手でそっと受けとった。
「ありがとうございます……」
「いいえ?」
「それでは……、それではわたくしはお留守のあいだ、お掃除をさせていただいてもよろしゅうございますか、柳さま」
「それ」
柳が肩をすくめる。ちょっぴり困った顔をしていた。
「柳さまっていうのはちょっと、やたら背筋が伸びますから」
言われて、葉末は少し考えた。柳は、だれかひとがいるときは「師匠」と呼べと言っていた。だからいまは柳さまと呼んでいたのだが、それでは居心地がわるいらしい。
「では、『お師匠さん』」
「あ、そうですね……、それくらいしかありませんよね」
柳は軽く息をつくと、じゃあ「お師匠」でとうなずいた。葉末が量を確かめながらよそった茶碗のご飯の上に、粒の大きな梅干しをのせていましがた沸いた湯を注ぎ入れた。ふわっと湯気がたちのぼり、あたりをやわくかすませた。
「じゃあ、食べましょうか。それじゃあ明日、掃除、よろしくおねがいしますね水瀬さん。お嬢さんもきっと、治っていますよ」
柳の口から出てくると、ふしぎとそうだと思えてしまう。葉末はまるで幼子のように、こくりとひとつうなずいていた。運ぼうとふれた茶漬けの椀は、いつの間に冷えていた指先に沁みるくらいにあたたかかった。




