二十七 鏡台
**
ふたりで海へ行ってから、ひと月ほど経った夜だった。風はさらに涼やかになり、どこかものがなしく澄んだ、虫たちの声を運んでくるようになっていた。葉末は柳と囲炉裏の前で、あたたかい茶を飲んでいた。お供は柳が贔屓にしている甘味処の栗入り饅頭だ。
囲炉裏にちらちらと燃える火が、やさしいぬくもりを伝えてくる。手の中のぽってりとした湯呑は、ほの白い湯気をくゆらせており、見つめているとなんだか海を前にしたように落ち着いた。その湯気の向こうでは、柳が茶を啜っている。そんなおだやかなようすを見ると、葉末はいっそう安心する。だからしばらく眺めていると、柳に気づかれてしまった。どうしましたとたずねられ、急いで首を横に振る。
「いいえ、なんでもありません」
「そうでしたか」
柳はうなずき、茶をもうひとくち、こくりと飲んだ。それから饅頭を手に取り、ぱくりとひとくちで食べてしまう。見ているとやはり、余計な力が抜ける。葉末はほっと息をついた。
きょうも依頼人がやってきた。年配の男のひとで、近頃尋常ではない寒気がするのだと言って、ひどく霊をおそれていた。霊は、確かにそのひとに憑いていた。葉末には、そのひとのすぐそばにたたずんでいる、青白い顔の男のひとが視えた。その霊はもともと、依頼人とおなじ店で働いており、問題を起こして辞職に追いやられた。そのあと病にかかってしまい、急になくなってしまった。仕事をなくした心労も病にかかわっていただろう。ほんとうは、問題を起こしたのは、依頼人のほうだったのだ。
依頼人は霊となったひとに、濡れ衣を着せて己は逃れた。いまもおなじ店で働いている。柳と葉末がその話を聞くと、霊は青白い顔色のまま、悔しそうに消えていった。依頼人は楽になったとよろこび、お代を置いてすぐに帰った。
葉末はなんだかやりきれなくて、しばらく客間から動けなかった。依頼人は、最初は葉末の赤い目を見てもなにも気にしないようすだったが、霊がいなくなってしまったあとには気味わるそうな態度を取った。ずっと気にかかっていたことが解決し、われに返ったのだろう。それは仕方のないことだが、葉末は消えていった霊のことが、心に引っかかっていた。
濡れ衣を着せられて店を追われ、霊にまでなってひとに憑いた。名誉が回復されることもなく、ただ霊として消えていった。依頼人の働く店へ行って、ほんとうのことを言うべきではないかと柳に相談もした。けれども、柳はうなずかなかった。
祓い屋の仕事は霊を祓うことであり、それ以外は領分ではない。生きている依頼人には、これからの暮らしがあるし、そもそも、祓い屋が話したところで店のひとは信じないかもしれない。祓いが終われば仕事は終わり。それ以上の深入りは、しないのだと柳はきっぱり言った。葉末も、そのとおりだろうと思った。歯にはさまったものが取れないような気分だったが、柳の提案で茶を飲むことになった。
いまは柳のすがたを見て、おだやかな気分になれている。葉末も柳を真似て、饅頭を取りあげた。ひとくち食べるとほっくりとして、やわらかなあまさが口に広がる。ますます心がほどけていく。それは柳もおなじだろうか。おなじであればいいのにと、葉末はこっそり柳を見つめる。
長い睫毛がまたたいて、のぞく瞳は囲炉裏の炎を映してほんのり赤く見える。ゆらゆら、生きている証のように、赤い光がゆらめいている。目の下にうっすらと落ちた影も、あまり暗くは思われない。そうであればいいのにと、葉末はそっと身を乗り出した。
「あの、お師匠さん」
「ん、なんですか」
柳がふわりと目をあげると、すぐにまなざしがつながった。葉末はちょっとたじろぎながら、なんでもない顔をして問うた。
「近頃はよく眠れていらっしゃいますか」
「ああ」
柳が口もとをほころばせる。
「そうですね、眠れています。夢を見る回数も減っているんです」
そしてなにかを飲み込むように、湯呑を傾けて喉を鳴らした。けれどそのあと、ちいさく洩らした。
「水瀬さんの、おかげです」
「そんな!」
葉末は幾度も首を横に振った。
「ちがいます! わたくしはなにも」
「いいえ」
柳も首を振る。
「話を聞いてくれたでしょう。なんだか、このあたりが軽くなって、ずいぶん楽になったんですよ」
柳は胸に手をあてて言う。葉末は、否定しようとしたが、なぜだかこくりとうなずいていた。頬にじわじわと熱がのぼってきて、よい反応を思いつかない。
「それは、とても、よかったですが……」
ほとんどしどろもどろで言うと、柳はやわらかにほほえんだ。
海辺で、柳の話を聞いた。あのあと、柳がほとんど毎日見るという悪夢の内容も聞いたのだ。必死になって川に駆けつけ、草履を片方だけ拾い、そして水の中へ飛び込む。いちど寝坊をしたときも、葉末が慌てて起こしたときも、おなじ夢を見ていたのだ。幾度も幾度もくり返す夢が、近頃減っていると柳は言った。それはよろこばしいことだ。夢を見ているときの柳は、ほんとうにつらそうだった。でも、だけどと葉末は思う。夢を完全に見なくなることも、柳にとって苦しいことなのではないか。
幼なじみがなくなった。そのときのような夢をくり返し見る。だから夢がなくなることは、幼なじみを忘れることのようだと、柳は思ってしまわないだろうか。葉末も母の夢を見ることがある。それがまったくなくなってしまうと、きっと寂しく思われるだろう。そう考えれば、はやく悪夢が消えるといいですねと、軽々しく言うことはできなかった。葉末はそっと唇を噛んだ。
「水瀬さん? 饅頭、はやく食べないと取られますよ?」
柳の声でわれに返る。見れば、柳が葉末の皿をまっすぐに指差していた。葉末は慌てて皿の上の饅頭を手で覆った。
「だめです。これは、いけません」
「そうでしょう。どうぞ、食べてください」
葉末がふたくちめを頬張ると、柳はなにやら満足そうにそのようすを眺めていた。
**
饅頭を食べ終えて部屋にもどると、いつものように布団が敷かれていた。そしてその横に、淡紫の振袖すがたの寿々がちょこんと、かわいらしく座っていた。葉末は頬がゆるむのを感じた。
「寿々さま、きょうもありがとうございます」
「いいえ」
寿々は澄ました顔でこたえる。
「簡単なことよ。気にしなくていいわ」
「そうですか? とてもありがたいです」
葉末は寿々の向かいに座り、にこりと笑いかけた。すると寿々は顔をそらし、それはよかったわと呟いた。そして話を変えてしまった。
「それにしても、きょうのお客はろくでもなかったわね、葉末」
「ろくでもない、というか」
葉末はことばに詰まってしまった。あの依頼人には、あのひとなりの事情がある。あの霊が話したことが、すべてというわけでもないだろう。でも、やはり葉末は複雑な気分だったので、寿々が明瞭に言ってくれて少しすっきりしてしまった。
「じゅうぶんあれはろくでもないわよ。霊に憑かれても仕方ないわね」
寿々は断じて、うなずいている。葉末は鏡台の前に座った。
「だけど、霊に憑かれて仕方がないひとばかりじゃないからね」
寿々はふわりと浮かびあがり、鏡台の鏡の上に立つ。最初は落ちないか心配だったけれど、寿々はふわふわと浮いているのだし、落ちるなどというへまはしない。葉末は鏡台の引き出しを開け、つげの櫛を取り出した。
「だからそういうときはなおさら、霊を祓ってあげなきゃならないわ」
寿々は鏡の上から飛んで、葉末の肩におり立った。鏡に映る少女のすがたは、目で視るよりもうっすらと、羽衣のようにはかなく思える。鏡ごしに目を合わせると、寿々は静かな笑みをにじませた。そのまま、葉末とちいさく呼ぶ。
「はい、寿々さま。なんでしょう……」
なにかあらたまった空気を感じ、葉末は直に目を合わせようとした。けれど、寿々が肩からおりるようすがないので、背筋をぴんと伸ばすにとどめた。寿々の笑みが深まった。それは少女の笑顔というより、妙齢の女人のほほえみだった。
「あのね、葉末。聞いてくれる?」
「はい……」
「わたしほんとうは、こういうすがたをしていたのではないのよ。葉末」
「ええ……」
寿々がなにを言ったのか、すぐに理解することができなかった。




