二十六 松林
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電車に乗り、どこへ行くのかと思えばたどり着いたのは海だった。雲が切れ、すっきりと晴れた空の下、悠々と広がる海はきらめき、寄せては返す波の音があたりを包み込んでいた。柳の髪や袖をゆらすさわやかな風は磯の香りで、吸い込むたびになぜだかきゅっと胸の奥底が締めつけられる。葉末はやわらかい砂浜から少し離れた、松林の陰の中を、柳について歩いていた。このあたりは砂が固めで、下駄でも楽に歩くことができた。
葉末はそっと柳から目をそらし、海のほうへ目をやった。波打ち際では、数人のひとが海と戯れているらしい。遠くのほうでは工場の煙がもくもくとあがっているのが見える。もっと遠くには船が浮かんで、ゆっくりと海を進んでいた。
「ああ、きょうはいい天気ですねえ」
柳がふいに言って、伸びをした。葉末は、ほんとうにとうなずいた。
「ほんとうに、海も空も、こんなにとってもきれいです」
「そうですね。こんなに、とっても青い」
柳はさりげなく口真似をして、葉末のほうを振り向いた。葉末はわざと、眉根を寄せてみせた。
「もう、なんですかお師匠さん」
「すみません」
まいったなあというふうに、柳は肩をすぼめて笑う。葉末は威厳を保とうとしたが、こらえきれずつられて笑ってしまった。海猫が高く鳴きながら、頭の上を飛んでいく。
「かなり散歩しましたから、ちょっとこのあたりで座りましょうか」
柳のことばに葉末は賛成し、近くの松の木の根もとにふたりで座ることになった。柳は松の根に手拭いを広げて、葉末の座る場所をつくってくれた。いくら遠慮しても聞きとどけられないので、葉末はとうとうあきらめて、白に赤い斑点模様の入った柳の手拭いの上に、腰をおろすことにしてしまった。座ってみると、心地よい疲労にふっと身体が包まれた。
「夏の海は、生き生きして見えますね」
柳がふと呟いた。その声は普段より低く、ひとりごとのように思われた。葉末は少し間をおいてから、ひとりごつように、ほんとうにとこたえた。それからしばらくのあいだは、ふたり黙って海を見ていた。白い波が幾度も砂浜を撫で、引いては撫でて均していった。歓声が飛沫のようにあがって、波の音はそれにこたえるようで、浜風はその波によく似て潮の気配を連れてくる。きらきらと降り注ぐ日差しも、潮の匂いも松の枝葉を透かしてやわらかく、やさしい。なんとものどやかな心地で、葉末は松の下に座っていた。ずっといつまでもここにいられる。そうすれば眠ってしまう気がした。葉末はなにも言わなかった。となりに座っている柳も、なにも言うことがなかった。それでも、どこかあたたかかった。夏の気温のせいだろうか、さすがに夏の昼さがりだ、木陰でもそれなりに暑い気がする──そんなことをぼんやり思っていると、ふいに柳がことばをこぼした。
「あの……水瀬さん」
ためらいがちな声で呼ばれて、葉末はとっさに身体を向けた。
「はい、なんでしょうお師匠さん」
「いえ」
柳は目をそらした。
「たいしたことではないんです。でも……」
海のほうへ視線を投げて、柳はいっとき唇を噛んだ。葉末はおなじ方向を見た。内容はわからないけれど、柳がなにかを言おうとしている。そして、そのことはおそらく、じっと目を見合ってというよりは、おなじ景色を見ながらのほうが話しやすいことなのだ。葉末は遠くの船を見ながら、柳のことばの続きを待った。柳が息を吸うのがわかった。
「水瀬さんに、聞いてほしくて」
みなせさん、の言いかたが、包んで渡すように丁寧だった。とくんと、また心臓が跳ねて、葉末はそっと胸を押さえた。
「はい。わたくしでよければ」
柳の話したい気持ちにこたえたくて、葉末は腹に力を入れて、しっかりとした声で応じた。柳はゆっくりと座り直し、ふたたび息を吸い込んだ。
「さっき、水瀬さんに聞かれたことです」
柳は確かめるように言った。
「忘れられないひとのこと」
「はい……」
静かな風が渡った。波打ち際の笑い声が、少し遠のいたように思った。柳が、くしゃりと髪を掻き回す。
「ああ……こんなにちゃんとした……重々しい話じゃないんですよ、だから気楽に……聞いてください……」
ちらりととなりに目をやると、柳は乱した髪の隙から上目遣いに葉末を見ていた。それがなんだか子どもっぽくて、思わずくすりと笑ってしまう。
「わかりました、お師匠さん。どうぞお気を楽にお話しください」
そう言って、視線を遠くへ飛ばす。さきほどより日差しが強まっただろうか。海の青が目に眩しい。
「ありがとうございます。水瀬さん」
柳がほっとしたように言った。その声を聞いて、葉末も安堵した。柳はなぜだかふっと笑って、それからだいじな話を始めた。
「わたしも、忘れられないひとがいるんです。幼なじみなんですが」
「幼なじみのかた」
「はい。家は遠かったんですが、遊ぶ場所が一緒だったので。よく遊ぶようになったんです」
「そうでしたか」
「ええ。その子は、すずというなまえの女の子で」
葉末は一瞬、息をとめた。柳はゆったりとした口調で続けた。
「おない年の子だったんですが。十五年前、八歳のときに、なくなってしまったんです」
葉末は静かにうなずいた。どこか寂しげな、硝子玉の瞳がよぎり、思わず目を閉じた。
「そのすずという子とは、いつも川辺で遊んでいました。待ちあわせるのも川辺でした。魚を捕まえたり、きれいな石を探したり、水を掛け合ったりして遊びました。冬にも氷を集めたりなんかして、一年じゅう一緒でした。でも、その川には、流れのはやいところがあって。いつもはそういうところには、行かないようにしていたんですが」
柳の長い指が、袴を握りしめるのがわかった。ぎゅっと、胸を掴まれた気がした。
「なぜかそのときだけ、そちらのほうへ行ってしまったようなんです。わたしが川に着く前でした。なにか取ろうとしたのかもしれません、それで、川に、溺れてしまって」
葉末は袖を絞るように掴んだ。ひとの笑い声がまた遠かった。
「死んでしまったんです。その子の草履を、わたしが拾いました。ひとつだけ。それは親御さんに渡しましたが……わたしが無事で、一緒に溺れなくて、よかったと言ってくださったんです」
かすかに呼吸が浅くなり、柳は咳払いをした。深く息を吸い、話そうとする。葉末は握りしめられたその手を見た。強い力がこめられて、節が白っぽくなっている。その手に手をかさねかけ、葉末は迷いに襲われた。そんなことをしてもよいのだろうか。
「でも……すずちゃんは死んでしまったのに」
柳はくっきりした声音で言った。
「よかったなんてことはありません」
「そんな……」
「それで、そのころから、夢を見るようになったんです」
それを聞いて、葉末ははっとした。昨夜の苦しそうなすがたと、いまのすがたがかさなった。
「たすけなきゃと、思うんです。たすけなきゃいけないと思って、いつも急いで走るんです。でも、いつも間にあわなくて、草履だけ落ちていて拾うんです。どうしても、それがいやだから、だから」
柳が袴から手を離す。その手が宙に浮いたように見え、なぜだか葉末はぞっとした。背筋に走った悪寒に任せ、葉末は両手を伸ばしていた。空中に迷った柳の両手を、いっぱいに手を広げて掴んだ。
「お師匠さん……」
指の長さが足りない。風のようにそっと包み込みたいのに、柳の手のほうが大きすぎて、ぎゅうぎゅうと握るだけになってしまう。それでも葉末は懸命に、柳の手を己につなぎとめた。やはり、鋭く冷えている。さっきは、あたたまったと思ったのに。ぬくもりも伝えたくて握りしめる。
「お師匠さん」
ことばが出ない。ただ、お師匠さんお師匠さんと、くり返すばかりになってしまう。葉末は柳の目を見つめた。ゆらゆらと頼りなくゆれて、硝子玉めいて澄んでいた。きれいな瞳だ。胸が痛むほど。葉末は握りしめた手に、己の額を押しつけた。
「水瀬さん……」
柳の声がゆらぐ。戸惑っても、それは当然のことだ。けれども、葉末は離れなかった。絡まった手に額をあてたまま、念を送り続けるようにそのまま、どれくらい経っただろうか。ふと、頭上で笑い声が洩れた。
おどろいて顔をあげると、柳がおだやかにほほえんでいた。少しだけ目もとが赤く染まって、なんだか照れくさそうでもあった。葉末はまじまじとその顔を見つめた。
「水瀬さん、そんなに見ないでください」
それでも、両手はかさなったまま。おもむろに柳が、手を組みかえる。今度は柳の大きな手に、葉末の両手が包まれていた。
「ありがとうございます。水瀬さん」
「お師匠さん」
「聞いてくださって。なんだか、楽になりました」
そう言いながら衿もとに手をやり、どこかが軋んだような顔をする。おなじなのかもしれないと、葉末は勝手な想像をした。母の話をしたとき、葉末はほどけていくような心地とともにちいさな痛みも感じたのだ。柳もおなじなのかもしれない。もういないだれかを思うときは、そうなってしまうのかもしれない。
「あの、お師匠さん」
葉末は、己の手をくるんでしまった柳の手の冷たさを、内からあたためたいとねがった。
「もう少し、お散歩しませんか」
手をつないで、と言いかけて、わっと顔じゅうが熱くなる。そんな子どもじみたこと、するわけがないに決まっている。
「いいですね、散歩。……水瀬さん?」
覗き込んでくる柳から、葉末は急いで顔をそむけた。海猫がからかうように鳴いた。手はまだふれあったままだった。
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ふれあった手を離す一瞬、なぜだかひどく惜しく感じた。あたたかかったてのひらを、さらりと潮風が撫でていく。右作は少し前を行く水瀬葉末を眺めていた。きりりと束ねた長い黒髪と、青柳色の袖が、遊ぶようにゆれている。そのまだ黒いまなざしは、海へ向けられ、おだやかだった。うっすらとほほえんでいるようにも見えた。どこを見ているのだろうかと、右作も海へ視線を移す。それでも目の端に、水瀬葉末のうしろすがたが映っていた。
海へ来たのは、水瀬葉末に気分転換をさせるためだった。ちょっと喫茶店に行っただけでは、もの足りないだろうと思ったのだ。それが海の気にあてられたように、いきなり幼なじみの話を始めてしまった。もうもどれない。
勝手に喋り始めたくせに勝手にのめり込んでしまい、悪夢の影を追うようにして、妄想の川に飛び込みかけた。また、水瀬葉末に引きとめられた。ちいさな手で右作の手を握り、包もうとしているのが伝わってきた。その黒い瞳を見つめていると、ふいに、炎のようだと思った。瞳が炎を連想させるのは、赤いからだと思っていたのだが。もしかすると、ちがうのかもしれない。
「はい、お師匠さん」
水瀬葉末が振り向く。そのとき、心臓がとくりと動いた。水瀬葉末は目をまるくした。
「あら、お呼びではありませんでしたか」
「ああ……えっと」
声に出して呼んだわけではないが、おぼえもなくじっと眺めていた。呼び続けていたようなものだと、気づいて挙動が不審になる。
「呼んだ、わけじゃないですが……」
歯切れのわるい返答に、水瀬葉末は小首をかしげ、そうでしたかとほほえんだ。
「申し訳ありません、勘ちがいしたようです……」
そしていそいそと歩きだす。右作は己の鼓動を感じながら、そのほそやかな背を追った。




