二十五 財布
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柳と喫茶店を出て、葉末はほわほわとした余韻とともに町の中を歩いていた。柳邸に帰る前に、散歩をしようということになり、かなりの遠回りをしている。雲が力を増して日が少し陰り、歩きやすい午後だった。少し前を行く柳が、振り返って葉末に言った。
「お嬢さんにお会いできて、よかったですね」
「はい、それはもう……」
葉末は大きくうなずいた。鞠子嬢の病が治ったことは、柳から聞いて知っていた。それをこの目で、目の前で、確かめることができたのだ。
「お嬢さまがお元気そうで、ほんとうによかったです……」
「そうですね」
「それに、ぷでぃんぐもおいしかったです……」
「気に入りましたか」
「もちろん」
「よかった」
柳はふっとやわらかくほほえみ、そして前に向きなおった。葉末はついて歩きながら、柳のうしろすがたに視線を注いだ。
背中がやはり、大きく広い。しゃんと伸ばされ、凛々しく思える。ほんのりとぬるい午後の風に、黒髪がさらりさらりとゆれる。葉末はほっと息をついた。見たところ、柳も元気そうだ。昨夜はずいぶん苦しげだったので、ずっとひそかに心配していた。けれども、柳は調子がわるくてもそれをおもてに出すひとではない。これまで一緒にいた期間で、そういうことがわかってきた。だからいまもほんとうは、ひどく疲れていてもおかしくない。
「お師匠さん……」
呼んだとき、前から笑い声が聞こえた。見れば、ちいさな男の子が、たのしそうに駆けてくる。どうしてか前ばかり見ており、足もとがおろそかになっているようすだ。あ、と思った瞬間に、その子は葉末の目の前で、つまずいて転んでしまった。
「だいじょうぶですか?」
葉末はすぐさま駆け寄った。静かになってしまった男の子を、とっさに抱え起こそうとしたとき、上からひょいと腕が伸びてくる。男の子はその腕に、かるがると抱きあげられてしまった。
「だいじょうぶか、坊や」
男の子を片腕に抱えて、ゆらしながら柳が問うた。葉末はそのようすを眩しく見あげた。男の子はすぐにうなずき、ぼくつよいもんと主張する。
「そうか。偉いな」
柳はうなずき返し、男の子の膝や手に怪我がないことを確認すると、そっと地面の上におろした。おかあさん、と男の子は叫び、先のほうにいて振り向いている女人のほうへ走っていった。女人は柳と葉末に会釈し、駆けてきた男の子を受けとめていた。葉末がそのようすを見守っていると、ふいに上から声がした。
「だいじょうぶですか、水瀬さん」
「はい……」
慌てて立とうとすると、大きな手が差し伸べられた。断ってしまうこともできずに、葉末はその手に手をかさねた。
「ありがとうございます」
やはりひんやりと冷たい手だった。けれども、昨夜よりはなんだかぬくもりを感じられる気がする。夏の陽気と、ぷでぃんぐのおかげだろう。葉末は柳に手を引かれ、その場に立ちあがった。指先が離れたそのときに、耳がふわっと熱くなる。とくとくと、己の鼓動が聞こえて、葉末は耳を押さえたくなった。でも、なにをしているのかと聞かれてもこたえられないので、ぐっとこらえた。
「水瀬さん」
「はいっ」
呼びかけられて、葉末は急いで返事をした。するとなにかを渡された。色褪せた布張りの四角いもの。母の形見の財布だった。
「落としましたよ」
柳が言う。葉末はおどろいて受けとった。
「ありがとうございます……!」
さきほど、男の子を抱きあげようとしたときに懐から落としてしまったのだろう。財布はやはり手になじむ、どこかたおやかな手ざわりがした。柳は気づいていないらしいが、柳の書いた「赤瞳募集」の紙もちいさくたたんで入れてある。
「粋なものをお持ちなんですね」
ふたたび歩きだしながら、柳がそよ風のように言った。葉末はなんだかうれしくなって、あとに続きながらこたえた。
「はい、母のものなんです。男のかたが使うものですが、使いやすいからいいと言って」
葉末は財布を懐にしまい、着物の上からそっとふれた。柳がちいさく笑ったのがわかる。
「格好いいおかあさまですね」
「はい、母はそういうところがあったと思います、ほんとうに」
柳にも言ったことがあるが、もういない母の話だ。けれど柳は気にするふうではなく、そうですか、とやわらかく応じてくれた。それで心が軽くなり、葉末は少し足をはやめた。柳の横顔を見あげると、目が合った。きれいな黒だと、ふいに思った。黒であるのに澄んでいる。
「────母は、母の家が代々、月方家にお仕えしていたのですが……、だから母も月方男爵邸でちいさいころから働いていて……、とても働き者だったのです。それに、とてもやさしくて……、どんなに忙しいときでも、わたくしのほんのちょっとした、長いみみずを見つけたとかいうつまらない話をよく聞いて、笑ってくれていたのです」
澄んだ艶黒に誘われるように、葉末は母の話をしていた。
「でも、厳しいときは厳しくて。わたくしがひどいため息をついたり、よくないことばを使ったりすると、叱るのです。ひとさまも己も、よい気持ちにならないのだからやめなさいと言って……、それからきちんと片づけなかったり、ご挨拶をしなかったりしても、叱ります。そのときはこわくって」
話しているうちに身体のどこかが、ゆっくりとほどけていく心地がした。同時におなじところが少し、ほんの少しだけ痛む気がした。
「それから母は、母がいたから、わたくしはお嬢さまにお会いできたのです。お嬢さまのようなかたに、お仕えすることができるようになって、わたくしはほんとうに、しあわせ者です」
そんな母は、葉末が七つのときに病にかかりなくなった。長年の無理が祟ったらしい。月方男爵や奥方が、医者を呼んだり薬を探したり、いろいろと手を尽くしてくれたが、その甲斐もなくかえらぬひととなった。
「もういちど会いたいなと、思うことがときどきあります────」
言ってしまってから、葉末ははっと息を飲み込んだ。それはだれにも言ったことのないことばだった。そんなことを柳に聞かせて、どうしようというのだろう。葉末は恥じ入ってうつむいた。そもそも、じぶんばかり話しすぎてしまった。
「申し訳ありません、お師匠さん……」
「いいえ」
深い声音が降ってくる。葉末はゆっくり顔をあげた。柳はゆるやかにほほえんでいた。あたたかな風に吹かれた気がして、とくり、と心臓がふるえる。
「謝ることはなにもありません。そんなすてきなおかあさまから、それを受け継がれたんですね」
思わず押さえていた衿もとを、柳は静かに指で示した。葉末はなにも考えず、ただただこくんとうなずいていた。そのときにふと、思い出された。硝子玉に似た潤んだ瞳と、少し寂しげな澄んだ声。忘れられないひと、いる? そう問われ、寿々にも母の話をした。
「お師匠さん……」
葉末は呼んだ。話に夢中になっており、いままで気づいていなかった。柳は葉末の歩調に合わせて、ずいぶんゆっくりと歩いてくれていた。そのことにまた胸を高鳴らせながら、葉末はひとつ、柳に問いかけた。
「お師匠さんにもいらっしゃいますか、忘れられない────」
忘れられないひとが。
最後までたずねる前に、葉末ははっと口をつぐんだ。こちらを見おろす柳の瞳に、ちらりと、濃い影がよぎった気がして。それは街路樹やガス灯や、空を飛ぶ鳥の影だっただろうか。すぐに見えなくなってしまった。けれど葉末は、己の問いを最後まで言いきることができなかった。
「すみません、あの、いまのはなんでも……」
「水瀬さん」
かさねるように、柳に呼ばれた。彼は前を指差していた。そちらのほうには、煉瓦づくりの大きな建物が見える。多くのひとが往来しており、雑多な都会のにおいがした。もうすぐ駅につきますね、と柳は葉末のほうを見た。
「もうちょっとだけ、遠くへ行ってみますか」
そう言って、柳はにやりと笑った。葉末はすぐに、はいとこたえた。




