二十三 悪夢
風呂からあがれば部屋にもどって眠る。葉末は寿々とともに部屋への廊下を歩いていた。開け放たれた硝子戸から吹き込む涼しい夜風が、火照った身体に心地よい。さらさらと撫でられながら、長い廊下を歩いていく。
「ああ、気持ちがよかったわねえ」
寿々が伸びをしながら言った。葉末はくすりと笑って、気持ちがよかったですねとこたえた。少し長風呂をしてしまったが、のぼせてしまうほどではなかった。身体がまんべんなくあたたまり、ほかほかとしてよい気分だ。
「きょうもよく眠れそうです」
「そう、それはよかったわ」
寿々がたのしそうにぴょこんと跳ねる。
「ねえ、一緒に寝ていいかしら?」
「もちろんです。寿々さまがいてくださると、もっとよく眠れる気がします」
「ちょっぴりひんやりするからね。夏にはちょうどいいと思うわ」
「もう……寿々さまったら……」
こういうとき、ちらりと寂しくなる。寿々はほんとうに霊なのだ。こうしてなにげなく会話していても、そばで生きているひとではないのだ。それでも、すがたを視て感じて、話すことができるのだから、瞳が赤くなってよかったかもしれない。そんなことをふと思えた。となりをとことこと歩くちいさな寿々がいとおしくなり、思わず抱きあげたくなってしまう。寿々の中身は子どもではないし、姉のように見守ってくれているのに。それでも手を伸ばしかけたとき、なにか、低い音が聞こえた。
「あら……」
手をとめ、あたりを見回す。
「葉末?」
寿々が見あげてくる。葉末は寿々と目を合わせ、なんでもありませんと言った。そのとき、また音が聞こえた。音、というより声だった。声。低くうめくような。
「だれ……」
葉末は身構えた。寿々を背にかばい、また周囲を見渡す。よく磨かれた廊下と、開いた硝子戸、そこから見える中庭の石。すべてを月のほのかな光が包み、異常は見当たらない。そこで意識を集中させる。もしや、霊がいるのかもしれない。空気は涼やかなままで、なにも変わっていないけれど。
「葉末……」
ふわ、と寝巻の袂がゆれて、寿々に引っ張られたとわかった。葉末は大きくうなずいてみせた。
「だいじょうぶです。寿々さまのことは、わたくしがお守りいたします」
「ちがうの」
「ちがう?」
「ねえ、あっちから……」
寿々はうしろを指差している。それを見て、葉末ははっとした。寿々が示す方向には、柳の部屋があるのだった。寿々は葉末を見あげて言った。
「右作の声かもしれないわ」
え、とおぼえず葉末は洩らした。二度も聞こえた声はずいぶん低く、柳のもののようではなかった。けれども、うめきのように思えた。葉末ははっと息を飲んだ。もしかしてなにか、あったのだろうか。急病で苦しんでいるのだろうか。
「わかりました!」
思わず大声を出し、葉末は柳の部屋のほうへ駆けだした。そこへは、この邸に来てからいちども入ったことがない。場所だけは知っているのだが、戸を開けたこともない部屋だ。でも、いまはおそらく緊急事態でそのようなこと言っていられない。葉末は失礼しますと叫び、部屋の襖を開け放った。
すぱん、と勢いのよい音がする。葉末は遠慮もなにもなく、即刻部屋に滑り込む。暗い。明かりは消えており、部屋の中は暗かった。背後からうっすらと差す光で、葉末は部屋のようすをざっと確かめた。畳の上にはほぼものがなく、開けたままになった窓の向かいに、文机がひとつ置いてあるだけだ。そしてその文机に、柳が突っ伏しているのが見えた。まるまった背中がぴくりと動き、声にならない声がこぼれる。葉末は即座に駆け寄った。
「お師匠さん!」
赤い着流しの肩を揺さぶる。
「お師匠さんっ、どうされました?」
返事はなく、柳はいやいやをするように首を横に振っている。机の上で両手が握りしめられ、喉の奥からうめきが洩れた。ぞっとして、葉末はその背にすがった。
「お師匠さんっ! 起きてくださいっ」
柳の背中は広く大きく、それなのにひどく頼りなく思える。
「お師匠さん! お師匠さんっ」
幾度も呼ぶ声が裏返る。そのとき、柳の背から力が抜けた。
「お師匠さん……?」
葉末は背中に張りついたまま、おそるおそるもういちど呼んだ。さらりとした麻の肌ざわりの向こうから、どくどくと激しい音が聞こえる。それが柳の心音だと気づくのに、やけに長い時間を要した。
「お師匠さん────」
「水瀬さん……?」
かすれた声に名前を呼ばれ、葉末ははいと返事をした。
「はい、水瀬です、お師匠さん──どうされました、どこか具合が……」
「いいえ……」
柳は首を振りつつ、文机から顔をあげた。葉末はその背中から離れ、向き合う位置に移動した。すぐには目が合わなかった。柳はここがどこか確かめるように、視線をさまよわせていた。髪を片手で掻き乱しながら、浅い呼吸をくり返している。そのすがたを見て、ようやく気がついた。きっとこれは、急病ではない。なにか夢を見ていたのだ。葉末は駆け込んできたことを恥じた。そもそも、急病でも悪夢でも、このように取り乱すべきではなかった。
「お師匠さん……」
いま謝るのも自己満足だ。葉末は少しうしろへさがり、柳が落ち着くのを待つことにした。ほどなく、柳は大きく息をして、葉末に身体ごと向けてきた。
「水瀬さん、おどろかせましたね。すみませんでした」
柳は葉末に頭をさげる。葉末は慌てて腰を浮かせた。
「いいえ、お師匠さん、とんでもない! わたくしが勝手に大騒ぎして────」
「いいえ。来てくれてよかったです」
柳は薄闇の中でほほえんだ。
「じつは夢をみていたんです。あまりよくないほうの夢……」
「ああ……」
葉末は両手を握りしめながら、今朝のことを思い出した。柳がめずらしく、なかなか起きてこなかったのだ。夢見がよくなかったからと、少し疲れたように笑っていた。
「水瀬さんが起こしてくれて、たすかりました。……ありがとう」
柳は咳払いをして、声のかすれを取り急ぎ治した。葉末は幾度も首を振った。うめき声が聞こえたからといって、部屋の中にまで踏み込んでしまった。それはしかたがなかったとしても、もっと静かな起こしかたをすべきだった。
「お師匠さん、申し訳ありません」
やはり、謝罪をするしかない。葉末はかくりとうなだれた。するとすぐに頭の上で、ふっと笑う声がした。それはずいぶんとやわらかだった。
「たすかったんですよ、水瀬さん。あのまま夢の中にいたら、ますます気分がわるくなっていました」
悪夢のあとひとりで目が覚めるのだって、心地よいことじゃないですし、と柳は聞き逃しそうなほど、なめらかにそんなことを言う。気分がわるい、悪夢、というようなことばを、柳の口から聞いたことはなかった。ついさきほどまで、苦しい世界に閉じ込められていたのだろう。それがどんなところなのかは、少しもわからないけれど。葉末は胸の痛みを覚えた。
「お騒がせしてしまいましたね。すみません……そうだ、水瀬さん」
柳は机を手で軽く打ち、なにかを思いついたらしい。
「あすなんですが。水瀬さん、お休みということにしましょうか。近頃ずっと掃除に祓いに、がんばってくれているでしょう。ほんとうにたすかっているんです。明日くらいは羽を伸ばして、町にでも出かけてきてください」
「え……」
「おいしい甘味処を教えますよ」
柳は乱れた髪を整え、すっかり平気そうにべつの話をしている。葉末は軽く唇を噛んだ。確かに葉末はここに来てから、休みをもらったことはない。けれども働き詰めというわけではないし、休みがほしいわけでもなかった。それに、もし休むのであれば、柳もそうするべきだと思う。休みというものがなかったのは、柳だっておなじだからだ。
葉末は敢然と顔をあげ、柳の目をひたと見据えた。闇をとかした黒い瞳が、おどろいたようにわずかゆらいだ。
「お師匠さん。それではその甘味処に、お連れいただきたく存じます」
葉末はきっぱりと言い、柳に深く頭をさげた。
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右作は水瀬葉末の圧に押され、あすを休みにして水瀬葉末を甘味処に連れていくことにした。なぜか水瀬葉末が張り切ってきれいにしつらえた布団の中で、右作はひとりため息をついた。
またおなじ夢を見ていたのだ。幼いころから幾度も幾度も、ほぼ毎日のように見る夢だ。夢の中ではいつもいつも、懸命になって走っている。身体がからっぽみたいに軽く、飛ぶように走れるときもあれば、底なし沼にはまったように、重く進めないときもある。今度は重いほうだった。しかしどちらにしろ、よい夢ではない。軽くても重くても必死に駆けて、息せき切ってたどり着くのは、いつも流れのはやい川のほとり。そこには、ひとつのちいさな草履がのこされている。それを拾って握りしめ、川に飛び込むところで目が覚める。しかし、今夜はちがっていた。
祓いのときに使っている手帳を整理しておこうと、作業をしているうちにいつの間にか机に伏して眠ってしまった。そしてまたおなじ夢を見た。身体全体を引きずるように、泥沼をかき分けるように駆けていた。草履を拾いあげ、ぐっと握って、川に身を投げようとした。そのとき、うしろから引きとめられた。あたたかななにかに抱え込まれて、夢の中から引きあげられた。
どくどくと強く伝わってきたのは、心音だったといまごろ気づいた。右作は片手で目もとを覆い、そっとまぶたをおろしてみた。まぶたの裏に、川辺の景色がまたも広がることはなかった。




