二十二 感触
忘れられないひと、と、葉末は胸の内にくり返した。目の前にある寿々の瞳を、おぼえずじっとみつめ返した。黒い硝子玉を思わせる瞳は、湯気の向こうで潤んでいた。長い睫毛がふいにまたたき、しおれたように伏せられる。
「ごめんなさい、なんでもないわ……」
「いいえ!」
慌てて手を突き出すと、湯が波打って寿々にかかった。着物をまとったままのすがたに葉末はいっそう慌てたが、寿々は平気な顔をしている。よく見れば寿々の着物も髪も、少しも湿っていなかった。やはり、寿々は濡れないようだ。葉末はそっと唇を噛んだ。
「どうしたのよ、葉末」
寿々がそうたずねてくるので、葉末は急いで笑みをつくった。
「すみません、なんでもありません……」
さきほど寿々が言ったのと、おなじようなことを言ってしまう。葉末が目をまるくすると、寿々も大きな目をみひらいており、思わずふたりでふきだしてしまった。葉末は外に聞こえないように、くすくすと声をひそめて笑った。
「もう葉末、いつまで笑っているのよ」
寿々が肩をぽんとたたいてくる。ひやりとした感触がして、湯の中の身体に心地よかった。
「すみません、なんだかうれしくて」
寿々とおなじような顔になっていたことが、なぜだか無性によろこばしかった。葉末が息を整えていると、寿々はこてんと首をかしげる。
「葉末ったら、へんてこね」
「ええ、葉末はへんてこです」
「ところで」
寿々は浴槽のふちからおりると、葉末の向かい側に立った。
「さっき、いいえと言っていたけれど。葉末も忘れられないひと、いるの?」
いたずらっぽい笑みを浮かべて、寿々は葉末に問うてくる。葉末はそっとうなずいてみせた。すると、寿々は潤んだ瞳を星が飛ぶようにかがやかせた。
「ほんとう? ねえ、聞いてもいい?」
身を乗り出してくるのを見ると、ちょっぴり申し訳なくなる。葉末の忘れられないひとは、おそらく寿々が想像しているのとは少しちがうひとだからだ。期待がつのらないように、はやめに言っておくのがよい。葉末はもちろんですと応じた。
「ええと、母なのですけれど」
「おかあさま!」
寿々は両手を組み合わせ、さらに瞳をきらきらとさせる。葉末はすっかりおどろいてしまった。
「すてき! でも、忘れられないって、ことは……」
みるみる寿々の瞳が曇る。うなだれそうになってしまったので、葉末は急いで両手を振った。
「ええ寿々さま、確かに母はもうなくなっておりますが、だいじょうぶです、かなしまないで」
「かなしまないでって、葉末……、それは難しいことだけれど」
寿々はちいさく口を曲げ、それでも、いいえと首を横に振った。
「わたしがめそめそするのはへんね。ほんとうに、すてきだと思うわ葉末」
「ありがとうございます。寿々さま」
なんだか胸の奥がじんとして、葉末は寿々に頭をさげた。てっきり、寿々は恋い慕うひとを想像していると思っていたのだ。己の了見が狭かったと、葉末はひっそり反省をする。
「ところで」
ふたたび寿々が言った。
「おかあさまのお話、聞いていいかしら? どんなかただったの? 教えてくれる?」
やわらかな声で寿々は問う。葉末は寿々のほうへ身を寄せた。母は、と口に出してみると、つきんと身体のどこかが痛む。それは胸のあたりのようで、どこかわからないようでもあった。
「とても、やさしいひとでした。わたくしのことをほんとうに、たいじに育ててくれたひとです。それからとてもだいじなひとと、出会わせてくれたひとでもあります」
「そう……」
「はい……。ほんとうは、じつの母ではないのですけれど……。わたくしは捨て子でしたから」
「そうなの」
「でも、ほんとうの娘のように、わたくしにやさしく、厳しくしてくれて……。なにか言われたことはないのですけれど、そう思ってくれていたと、わたくしは少なくともそれだけは、自信を持って言うことができます」
「やっぱり、すてきなおかあさまだわ。でも葉末、葉末はそれだけじゃなく、自信を持っていいと思うわよ」
寿々は人差し指を立て、ぴしりと葉末の鼻先に突きつけた。
「葉末だってとてもやさしいもの。きっとおかあさまに似たんだわ」
「そんな……」
ほんとうよ、と寿々は頬を膨らませる。
「葉末は話しかたからやさしい。顔つきも声もやさしいわ。霊のわたしともお話してくれるけれど、これって奇特なことだと思うの」
「奇特?」
思わず聞き返すと、寿々は大きくうなずいた。両手を腰にあて、胸を張る。
「そうよ。だってたいていのひとが、霊なんて避けたいものでしょう。視えたり感じたりするひとって稀だから、そもそも気づいてももらえないし。だけどたまたま視えたって、死んだはずのひとのすがたが透けてふわふわ現れるなんて、えたいが知れなくてこわいでしょう? お近づきになんてなりたくないわ。わたしも生きているときそうだったもの」
「そう、そうでしょうか……そうなのかもしれません……」
葉末は正直にこたえた。いまでこそ親しく話しているが、最初に寿々が現れたときには、その空気がおそろしかった。霊だと悟ってぞっとした。それに、確かに多くのひとびとが、霊という存在をこわがっている。
「そうよ……そうだっていうのに葉末は、わたしのこと拒まなかったでしょう。目を開けて、わたしを視てくれたでしょう。視えますって、言ってくれたでしょう」
「はい……」
「こわがっていたのに。そうやって、受けいれようとしてくれたわ。やさしいなって思ったの。それに勇気があるなって」
寿々はにこりと華やぐように笑った。湯気の向こうのその笑顔に、葉末はことばが出なくなった。そんなふうに思われていたとは、まったく考えていなかったのだ。寿々は笑みを深めてうなずき、それからちょんと淡紫の袖を、ちいさな口にあてがった。
「それから、ちょっとへんてこだなって」
「寿々さま……」
なんだか力が抜ける。葉末はくたりと浴槽にもたれた。木のすべらかな感触がした。その向こう側で、寿々がたのしそうに笑っている。
「ぜんぶ冗談じゃあないわよ。ほんとうにそう思ったの」
「はい、それはわかりますが……ええと、ありがとうございます……?」
「はい、どういたしまして。それにそうよ、右作だって、おなじように思ってるはずよ」
お師匠さんが。葉末は顔をあげた。
「そう、でしょうか……」
こたえる声が弱々しくなって、じぶんでもおどろいてしまう。寿々がきょとりと目をまるめ、あいらしい手を差し伸べてくる。
「そうよ、葉末。どうしたの?」
寿々は浴槽のふちに手をかけ、下から目をのぞき込んできた。どうしたの、と聞かれてはじめて、葉末は気づいた。左の手で、右の手の甲を押さえていた。先刻、柳にふれられたところ。
とても大きくて、冷たい手だった。寿々のふしぎな感じのする、ふよふよとした冷たさとはちがう。かたく凍ってしまいそうな、どこか鋭い冷えだった。思い出すと、胸がぎゅっとする。それなのに耳のあたりには、なぜだか熱がのぼってくる。寿々と長湯をしているので、のぼせてしまったのだろうか。葉末は強く首を振った。
「えっと、なんでもありません! 寿々さま、わたくしもう出ますね!」
勢いよく伝えると、寿々は目をしばたかせながらも、それがいいわとこたえてくれた。




