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赤い瞳とお祓い屋  作者: 相宮祐紀
第三章 幼恋の痕
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二十二 感触

 忘れられないひと、と、葉末《はずえ》は胸の内にくり返した。目の前にある寿々(すず)の瞳を、おぼえずじっとみつめ返した。黒い硝子玉を思わせる瞳は、湯気の向こうで潤んでいた。長い睫毛がふいにまたたき、しおれたように伏せられる。

「ごめんなさい、なんでもないわ……」

「いいえ!」

 慌てて手を突き出すと、湯が波打って寿々にかかった。着物をまとったままのすがたに葉末はいっそう慌てたが、寿々は平気な顔をしている。よく見れば寿々の着物も髪も、少しも湿っていなかった。やはり、寿々は濡れないようだ。葉末はそっと唇を噛んだ。

「どうしたのよ、葉末」

 寿々がそうたずねてくるので、葉末は急いで笑みをつくった。

「すみません、なんでもありません……」

 さきほど寿々が言ったのと、おなじようなことを言ってしまう。葉末が目をまるくすると、寿々も大きな目をみひらいており、思わずふたりでふきだしてしまった。葉末は外に聞こえないように、くすくすと声をひそめて笑った。

「もう葉末、いつまで笑っているのよ」

 寿々が肩をぽんとたたいてくる。ひやりとした感触がして、湯の中の身体に心地よかった。

「すみません、なんだかうれしくて」

 寿々とおなじような顔になっていたことが、なぜだか無性によろこばしかった。葉末が息を整えていると、寿々はこてんと首をかしげる。

「葉末ったら、へんてこね」

「ええ、葉末はへんてこです」

「ところで」

 寿々は浴槽のふちからおりると、葉末の向かい側に立った。

「さっき、いいえと言っていたけれど。葉末も忘れられないひと、いるの?」

 いたずらっぽい笑みを浮かべて、寿々は葉末に問うてくる。葉末はそっとうなずいてみせた。すると、寿々は潤んだ瞳を星が飛ぶようにかがやかせた。

「ほんとう? ねえ、聞いてもいい?」

 身を乗り出してくるのを見ると、ちょっぴり申し訳なくなる。葉末の忘れられないひとは、おそらく寿々が想像しているのとは少しちがうひとだからだ。期待がつのらないように、はやめに言っておくのがよい。葉末はもちろんですと応じた。

「ええと、母なのですけれど」

「おかあさま!」

 寿々は両手を組み合わせ、さらに瞳をきらきらとさせる。葉末はすっかりおどろいてしまった。

「すてき! でも、忘れられないって、ことは……」

 みるみる寿々の瞳が曇る。うなだれそうになってしまったので、葉末は急いで両手を振った。

「ええ寿々さま、確かに母はもうなくなっておりますが、だいじょうぶです、かなしまないで」

「かなしまないでって、葉末……、それは難しいことだけれど」

 寿々はちいさく口を曲げ、それでも、いいえと首を横に振った。

「わたしがめそめそするのはへんね。ほんとうに、すてきだと思うわ葉末」

「ありがとうございます。寿々さま」

 なんだか胸の奥がじんとして、葉末は寿々に頭をさげた。てっきり、寿々は恋い慕うひとを想像していると思っていたのだ。己の了見が狭かったと、葉末はひっそり反省をする。

「ところで」

 ふたたび寿々が言った。

「おかあさまのお話、聞いていいかしら? どんなかただったの? 教えてくれる?」

 やわらかな声で寿々は問う。葉末は寿々のほうへ身を寄せた。母は、と口に出してみると、つきんと身体のどこかが痛む。それは胸のあたりのようで、どこかわからないようでもあった。

「とても、やさしいひとでした。わたくしのことをほんとうに、たいじに育ててくれたひとです。それからとてもだいじなひとと、出会わせてくれたひとでもあります」

「そう……」

「はい……。ほんとうは、じつの母ではないのですけれど……。わたくしは捨て子でしたから」

「そうなの」

「でも、ほんとうの娘のように、わたくしにやさしく、厳しくしてくれて……。なにか言われたことはないのですけれど、そう思ってくれていたと、わたくしは少なくともそれだけは、自信を持って言うことができます」

「やっぱり、すてきなおかあさまだわ。でも葉末、葉末はそれだけじゃなく、自信を持っていいと思うわよ」

 寿々は人差し指を立て、ぴしりと葉末の鼻先に突きつけた。

「葉末だってとてもやさしいもの。きっとおかあさまに似たんだわ」

「そんな……」

 ほんとうよ、と寿々は頬を膨らませる。

「葉末は話しかたからやさしい。顔つきも声もやさしいわ。霊のわたしともお話してくれるけれど、これって奇特なことだと思うの」

「奇特?」

 思わず聞き返すと、寿々は大きくうなずいた。両手を腰にあて、胸を張る。

「そうよ。だってたいていのひとが、霊なんて避けたいものでしょう。視えたり感じたりするひとって稀だから、そもそも気づいてももらえないし。だけどたまたま視えたって、死んだはずのひとのすがたが透けてふわふわ現れるなんて、えたいが知れなくてこわいでしょう? お近づきになんてなりたくないわ。わたしも生きているときそうだったもの」

「そう、そうでしょうか……そうなのかもしれません……」

 葉末は正直にこたえた。いまでこそ親しく話しているが、最初に寿々が現れたときには、その空気がおそろしかった。霊だと悟ってぞっとした。それに、確かに多くのひとびとが、霊という存在をこわがっている。

「そうよ……そうだっていうのに葉末は、わたしのこと拒まなかったでしょう。目を開けて、わたしを視てくれたでしょう。視えますって、言ってくれたでしょう」

「はい……」

「こわがっていたのに。そうやって、受けいれようとしてくれたわ。やさしいなって思ったの。それに勇気があるなって」

 寿々はにこりと華やぐように笑った。湯気の向こうのその笑顔に、葉末はことばが出なくなった。そんなふうに思われていたとは、まったく考えていなかったのだ。寿々は笑みを深めてうなずき、それからちょんと淡紫の袖を、ちいさな口にあてがった。

「それから、ちょっとへんてこだなって」

「寿々さま……」

 なんだか力が抜ける。葉末はくたりと浴槽にもたれた。木のすべらかな感触がした。その向こう側で、寿々がたのしそうに笑っている。

「ぜんぶ冗談じゃあないわよ。ほんとうにそう思ったの」

「はい、それはわかりますが……ええと、ありがとうございます……?」

「はい、どういたしまして。それにそうよ、右作《ゆうさく》だって、おなじように思ってるはずよ」

 お師匠さんが。葉末は顔をあげた。

「そう、でしょうか……」

 こたえる声が弱々しくなって、じぶんでもおどろいてしまう。寿々がきょとりと目をまるめ、あいらしい手を差し伸べてくる。

「そうよ、葉末。どうしたの?」

 寿々は浴槽のふちに手をかけ、下から目をのぞき込んできた。どうしたの、と聞かれてはじめて、葉末は気づいた。左の手で、右の手の甲を押さえていた。先刻、柳《やなぎ》にふれられたところ。

 とても大きくて、冷たい手だった。寿々のふしぎな感じのする、ふよふよとした冷たさとはちがう。かたく凍ってしまいそうな、どこか鋭い冷えだった。思い出すと、胸がぎゅっとする。それなのに耳のあたりには、なぜだか熱がのぼってくる。寿々と長湯をしているので、のぼせてしまったのだろうか。葉末は強く首を振った。

「えっと、なんでもありません! 寿々さま、わたくしもう出ますね!」

 勢いよく伝えると、寿々は目をしばたかせながらも、それがいいわとこたえてくれた。

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