二十一 羊羹
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羊羹を食べた吉﨑穣は、やわらかな笑みを浮かべていた。彼が帰ってしまったあと、なんとなく力が抜けた葉末は台所の流し台の前に立っていた。外はすでに暗くなっており、鏡のようになった硝子窓に己のすがたが映っている。目立つのはやはり赤い瞳で、血だまりのようにゆらめき、光っている。この目のことを柳は、火に似ていると言ったけれど。よくよく見れば、そんなふうに思えないこともないかもしれない。
葉末は硝子に映る己からそっと視線を外し、湯呑を拭いて片づけてしまった。手を伸ばし、細く窓を開けると涼やかな夜風が吹き込んでくる。さらさらとして香りがなく、なんだかものたりなく感じられた。つい先刻まで、あのあまやかな香りに包まれていたからだろうか。そんなことを思っていると、うしろから柳の声がした。
「水瀬さん。お風呂が沸きましたよ」
その声は、さきほどまでの冷静な祓い屋のものとは少しちがう。朗らかでやわらかな、春風に似たもの。葉末は柳を振り返り、ありがとうございますと笑ってみせた。
「それからこれ、水瀬さん」
柳が歩み寄ってくる。その手には羊羹がひと切れのった皿があった。さきほどまで、調理台に置いてあったものだ。柳は見つけてしまったらしい。
「ひとつ余ってしまったんでしょう。どうぞ、水瀬さんが食べてください」
そう言って葉末に皿を差し出す。葉末は両手をうしろへ組んで、首を横に振った。
「いいえ、これはお師匠さんが。手もとが狂ってなんだかちいさく切ってしまったものですけれど。お師匠さんがお召しあがりください」
すると柳は目をまるくして、葉末をまねるようにかぶりを振った。
「いいえ、ここは水瀬さんが」
「いいえ、お師匠さんが」
「水瀬さんが」
「お師匠さんが」
葉末はじりりとあとずさった。
「お師匠さんが召しあがってください。あまいものがおすきなのでしょう」
柳は甘味を切らすことがない。饅頭や団子や羊羹など、あまいものをいつも買ってきて、台所の棚に置いてある。食べているときは表情がやわらぎ、なんだかほくほくとしあわせそうに見える。しかし柳は否定した。
「いや、そんなことはありません。それに水瀬さんのほうが、あまいものがすきでしょう」
柳は皿を葉末のほうへ突き出し、そんなことを言いだした。
「饅頭や団子を食べているとき、とてもしあわせそうに見えますよ」
あまいものがだいすきなんでしょう、でもわたしがなにも言わなかったら、気を遣って食べないでしょうと、おおまじめな顔でつけ加える。葉末は慌てて言い返した。
「そんなことありませんし、お師匠さんだって、そうです。あまいものを召しあがっているとき、おしあわせそうに見えますよ」
「しあわせですよ」
柳が言った。その声がやけに響いたとき、細く開けておいた窓からひゅうと風が滑り込んできた。思いのほか強かったその風は、流し台の中に置いていた桶を動かし、からりと音を立てた。思わずふたりして黙り込み、桶のほうを見やってしまう。そしてほんの短いあいだ、風の流れる音だけを聞いた。葉末はちらりと柳を見た。
桶のほうに視線を向ける目もとが、少しだけ、陰っているように思えた。長い睫毛がふわ、とまたたき、黒い瞳が葉末をとらえる。はっとして、葉末は背筋を伸ばした。柳がなにかを言おうとする。こちらへ一歩寄ってくる。葉末は確かに甘味がすきだ。でも、この羊羹だけは、なぜだか譲られたくなかった。葉末も柳のほうへ踏み出し、皿をその胸に押しつけた。
「お師匠さんが召しあがってください。わたくしはもう、おなかいっぱいです」
「おなかいっぱい? 夕餉もまだですよ」
「胸がいっぱいになったんです」
嘘にならない。ほんとうのことだ。幼いころから愛し合ったふたりの、再会と別れに立ち会った。涙のあとがまだのこっている。霊が消えてしまったあとの、柳の横顔も目を閉じれば、鮮明によみがえってくる。影が頬あたりにうっすら差して、どこか疲れてやつれて見えた。そんなようすはすぐに掻き消え、柳は吉﨑穣を気遣っていたけれど。霊が消えてしまうのを見とどけることは、葉末にとって重いことだった。いくら祓い屋を続けているとはいえ、柳もおなじなのかもしれない。そんなことを、ふと思った。
「胸がいっぱいで食べられません。ですからお師匠さん、どうぞ」
柳もいっぱいかもしれないだろうとか、甘味を好むとはいってもいつでもほしいわけではなかろうとか、なぜこんなに意地を張るのだろうとか、いろいろ思うところはあったが、もうこうなったら引っ込みがつかない。葉末は皿にのっていた黒文字の串を手にとって、羊羹に突き刺した。それを柳の口へ運ぼうと、かまえたときだった。柳の手が、串を持った葉末の手にかさねられた。
その手の大きさと冷たさに、おどろき、おぼえず動きがとまる。その隙に柳はそっと葉末の手を押さえた。すると、串がなめらかに滑り、先がこつんと皿にあたった。なにが起きたかすぐにわからず、葉末はまじまじと柳の顔を見つめた。柳は、得意げに笑った。
「半分にしましょうか。水瀬さん」
はっとして羊羹を見てみれば、きれいに半分に切れている。とっさにことばが出てこずに、葉末はつやめく羊羹と、柳の顔を見比べた。柳はくしゃりと、おかしそうに破顔する。
「半分どうぞ。それでわたしは、もう半分をいただくことにします」
そう言って、手が離れていった。葉末はまるで幼子のように、こっくりとうなずいていた。
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柳邸は、風呂も立派だ。さわやかな香りのする木の浴槽と、石を敷き詰めた洗い場がある。縦面格子のはまった窓からは、夜闇の中の竹林が見える。葉末はあたたかい湯に浸かり、ほわほわと白い湯気に包まれていた。
結局、羊羹は半分こということになった。柳行きつけの甘味処の羊羹は、なめらかであまさに品があり、やはりたいへん美味だった。吉﨑穣と一緒にも食べたが、涙をこらえた味がして、あまりおいしさがわからなかったのだ。吉﨑穣もそうだっただろうと、ちいさなひとかけを転がしながら胸が締めつけられたりもした。
葉末はほうとため息をつき、浴槽のふちに両腕をかけた。その上に頭を預け、斜めの目線で天井を見あげる。肩までが湯にくるまれて、また奥底からため息が出る。葉末はそっと目を閉じた。さきほどの祓いの光景が、やはり鮮やかにまぶたの裏に、映る。
「ねえ、ねえ葉末?」
突然降ってきた声に、仰天し、浴槽の中で滑る。溺れかけてなんとかふちにつかまり、ことなきを得て、息を飲んだ。いまの声は、だれのものか知っている。
「寿々さま?」
すっとんきょうな音が出て、葉末は急いで口を塞いだ。しばらくようすをうかがったが、柳が気づいたようすはない。葉末はほっと力を抜いて、それからあたりを見回した。すると、すぐに目に入る。窓の桟に、竹林を背にして振袖すがたの少女が座っていた。葉末は声をひそめて呼んだ。
「寿々さま、どうなさったのですか?」
寿々はひょいと肩をすくめて、どうなさったもこうなさったもと、おかしそうに言った。
「なにもないけれど、来てみたの。女どうしだからいいでしょう?」
「ええ、かまいませんけれど、おどろきました」
寿々が部屋に来て、話すということはよくあった。けれど風呂場までやってくるのは、これがはじめてのことだったのだ。寿々は淡紫の袖を口もとにあてて、くすくす笑った。
「そうでしょう、ちょっとおどろかせてみようかなと思ったのよ」
「もう……寿々さま……」
葉末が首まで湯に沈めると、寿々はいっそう機嫌よさそうに笑い声をあげはじめた。そんなようすを見ていると、なんだか毒気を抜かれてしまう。寿々はほどなく笑うのをやめ、すとんと床におりてきた。濡れた石床が足袋に染みないか、聞こうとしたが、不要のようだった。引きずるような長い裾も、まったく濡れるようすがない。
「きょうもおつかれさまだったわね」
寿々は、浴槽のふちに飛び乗ってきた。座って、足をぶらぶらさせながら葉末の顔を覗き込んでくる。葉末は湯の中で居住まいを正した。
「いいえ、そんなことはありません……」
「でも、ちょっと泣きそうな顔をしていた」
寿々は眉間にしわを寄せ、いっしょうけんめいなようすで葉末の顔を見つめている。そのようすがかわいらしくて、葉末は知らず笑顔になった。
「確かに、少し泣きました。でも、もうだいじょうぶです」
「ほんとう?」
「はい。ほんとうです」
「それならいいけれど。無理しちゃだめよ」
寿々は姉か母のように言う。葉末は素直にうなずいた。
「はい。ありがとうございます、寿々さま」
「よろしい」
寿々は葉末に横顔を向けた。ほんのりと透けた真っ白な肌は、蒸し暑いともいえる風呂場にいても赤く染まることはない。そう思うと胸に影が差す気分で、葉末は思わずその横顔から視線をそらしてしまった。そのとき、寿々がぽつりと呟いた。
「あのひと、きっと忘れないわね」
「────え?」
「きょうお祓いをしたひと。あの霊のこと、きっとずっと、忘れられないんじゃないかしら」
すぐにこたえが出なかった。寿々はどこかで、吉﨑穣の祓いを見聞きしていたらしい。葉末は気づいていなかった。
「耳を澄ませて聞いていたのよ。お行儀がわるいことだけれど、なんだか気になってしまってね」
寿々はふっと息を洩らすと、ふたたび葉末を覗き込んできた。
「葉末は、忘れられないひと、いる?」




