二十 部屋
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────穣さんとわたくしは家がとなりで、ちいさいころからよく遊びました。おままごとをしたりかくれんぼをしたり……、穣さんはちいさいときからとてももの知りでいらしたから、花や虫や鳥のなまえをたくさん教えてもらいましたね。わたくしはとりたててよいところのない、単なるこどもだったのですけれど、穣さんはよく飽きもせずに、わたくしとともにいてくださいました。それで、あんまりうまくいっていたもので、十歳になるころにはふたりで、結婚の約束をしたのですよ。それはもう、子どもの口約束ですけれど、お互いの両親もその気になって、よろこんでおりましたから、やがてほんとうの婚約になりました。子どものときの穣さんは、それはそれはもの知りで賢くて、けれどちょっぴり臆病で、でもそこがとてもかわいらしくてわたくしはだいすきだったのです。そう、ちょっぴり、いえ、かなり、臆病でいらしたんですよ……、暗いのはだめですし、こわい話ももちろんだめで、ちょっと物音がしただけで、びくっとなってしまわれるんです。でも、あるとき穣さんと、ふたりで遊んでおりましたら、野良犬が向こうからやってきて……そう、ほんとうにおそろしい……目をぎらぎらとさせていて、涎を垂らしているような、おそろしい野良犬だったのですよ……、それでわたくしたちはふたりきりで、まわりにひともおりませんでしたから、どうしていいかわからなくって……、その野良犬が近づいてくるのを、待っているしかなかったのです……、それはほんとうに、こわかったのですよ、野良犬はわたくしたちのことを、獲物と見ているようでしたし……穣さんはもう怯えてしまって、腰が抜けてしまったのです、それでわたくしもほんとうに慌てて、もうどうすることもできない気分で、泣きだしそうになっていたのです、というより、泣いてしまいましてね、座り込んで泣いたのです。もうほんとうに救いがないと、そういうふうに思ったのですね……そうしましたら穣さんが、腰が抜けているはずの穣さんが、急に立ちあがって駆けだしたんです。そうしましたら野良犬が、穣さんを追いかけていって、わたくしのほうには目もくれず、穣さんのほうへ行ってしまったのです、穣さんはそれをわかっていて、ひとりで走りだしたんですね。そのあと穣さんはおとなに会って、野良犬を追い払ってもらったようですから、ほんとうによかったのですが。臆病なはずの穣さんが、身を挺してわたくしをたすけてくれて。そのときからわたくしは、穣さんについていこうと、そう、決めてしまったのですね。それはもう、ちいさいころの、いわゆる蛮勇のようなものでもなかったのですよ……、わたくしが女学校の三年生のころですけれど、家の近くで昼間から酔っぱらっている男のひとに絡まれたのです。それは難しいかたでして、なかなか離れてくださらずにひどく困っていたのです、それに大きなかたでしたから、なんだかとてもおそろしくって。そうしましたら、穣さんが通りかかって、わたくしをこう、つかまえて、わたしの婚約者になにか用ですかと、とてもはっきりおっしゃったのです。とても威厳のあるごようすで、それで男のひとは興が冷めたのか、どこかへ行ってしまわれました。そんなふうで、穣さんは、ふだんはおやさしくてこわがりだけれど、いざというときは心から、頼りになるおひとなのですよ……だから、穣さんのお嫁さんになれると、とてもとても、うれしくて、とてもとても、しあわせだったのです……、とても、ほんとうに夢のようで……、穣さんが学校を卒業されたら、その夢が現になってしまうと、信じられないくらいだったのです………。けれど、わたくしのほうが、病にかかってしまいましてね。あっけなく死んでしまったのです。穣さんのお嫁さんには、なることができませんでした。でも、なりたかったのです。穣さんと一緒になりたかった。ずっと一緒にいたかった。ふたりで生きていきたかったのです。それがかなわないことは、じゅうぶんにわかっているつもりでした。でも、こんな霊になってしまって。穣さんのそばを漂うことになって。情けないことこのうえありません。お祓いをしてもらうべきだと思いました。ですからわざと、苦しめて、お祓い屋さんへ行くように仕向けて……いいえ、わざとではありません。ただ、穣さんに気づいてほしかったのです。穣さんに気づいてもらって、ずっとそばにいたかったのです。ずっとわたくしのことばかり、思っていてほしかったのです。そのためなら苦しめてもよいと、どこかで信じていたのです。でも、もうやめにすることにしました。わたくしはもう、耐えられません。穣さんにはこれからずっと、しあわせでいてほしいのです。生前、そのようにお話もしました。きょう穣さんがここへ来てくださって、ほんとうによかったと思っています。でも、だけどひとつだけ、さいごにほんとうにひとつだけ、心のこりがありました……。その心のこりもちゃんと、穣さんが拭ってくださった。もう思いのこすことはありません、祓い屋さん、あら、身体がだんだん透けていきますね……見て、指先がもうないの……ああ、ありがとうございます……長い話を聞いてくださって、ありがとう、ありがとう穣さん……
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「一緒になったら、雛子ちゃんではなくて雛子と呼ぶ約束をしていたんです」
寺西雛子が消えたあと、吉﨑穣はふと呟いた。眼鏡を外して目を泣きはらし、背中をまるめて座るそのすがたは、身体の一部をなくしてしまったあとのように思われた。けれども声はくっきりとして、葉末の胸をやわらかく刺した。
「そうでしたか」
柳が応じる。柳の落ち着いた声音は、寺西雛子のいなくなった部屋の、どこかぬるい空気に深く響いた。吉﨑穣が顔をあげ、ほんのりと口もとをゆるめる。
「はい。さきほどふたりきりで、約束を果たすことができました」
「それは、よろしゅうございました」
柳のことばに、吉﨑穣はうなずき、そっと眼鏡をかけた。そしてちいさな声でこぼした。霊が憑いているのだとしたら寺西雛子かもしれないと、もしもそうならそのままで、ずっとそのままでかまわないと。そんなことを思っていた。
吉﨑穣は、寺西雛子としばらくふたりにしてくれと言った。それを聞いた柳と葉末は、となりの部屋へ移動した。途中で霊障がひどくなるなど、もしものことがあってはいけないので、あまり離れることはできなかったが。しかし、ふたりきりになりたいという、その気持ちは尊重したかった。となりの部屋へ移るというのは、それらを考えあわせたうえでの、柳の祓い屋としての判断だった。
すぐ横でなにが起こっているのか、葉末にはよくわからなかった。そもそも、吉﨑穣には、寺西雛子のすがたが視えない。声を聞くこともできないし、あの匂いをかぐこともできない。ふれあうこともかなわない。吉﨑穣からすれば、ひとりで部屋にいるのとおなじことだ。それでも彼はふたりきりになることを望んだ。さいごの心のこりを消した。ふたりはだれにも邪魔されず結ばれ、きっと名を呼びあったのだろう。葉末はきっとそうだと信じた。
「祓い屋さん、お弟子さん、どうもありがとうございます。僕たちをたすけてくださって。雛子を、僕の妻の雛子を、楽にしてやって、くださって────」
吉﨑穣は声を詰まらせ、口を覆って肩をふるわせた。柳がその背にそっと手をあて、葉末は茶を淹れてこようと立ちあがった。柳がきのう買ってきた、羊羹も切ってこようと決めた。




