十九 境目
────だから、だからわたくしはもう……もう、お別れしなくては……
寺西雛子は声を詰まらせ、細い指先でなみだを拭った。それでもつぎからつぎにこぼれる。あまい香りがさらに濃くなり、葉末はただ呆然として寺西雛子のすがたをみつめた。このひとはもう、この世のものではない。でも、まちがいなくこの世に、捨てきれぬ思いをのこしているのだ。その無念が、泣きぬれるすがたや声から、濃密な香りから伝わってきて、葉末は動けなくなっていた。
「水瀬さん」
ふいに呼ばれて、葉末はようやく身じろぎをした。声のしたほうに顔を向けると、柳は落ち着いたようすで問うた。
「寺西さまは、なんと」
まっすぐなまなざしに射抜かれて、葉末は背筋を伸ばしこたえた。
「はいっ、寺西さまはお別れしなければならないと。ごじぶんがここにいることで、吉﨑さまを『困らせる』と」
「待って、待ってください」
引き留めるように言ったのは、吉﨑穣だった。
「そこに霊がいるのですよね。僕に憑いていた霊が……」
吉﨑穣は声をふるわせ、寺西雛子のいるほうを指差す。寺西雛子は顔をそむけて、強く胸のあたりを押さえた。まだ話を聞いておらずわからないが、吉﨑穣に「霊」として扱われるのは、心が軋むことなのかもしれない。葉末は吉﨑穣にこたえた。
「はい。こちらにいらっしゃいます。辛子色の袷をお召しの、おきれいな娘さんです。おなまえは寺西雛子さま」
「雛子ちゃん」
吉﨑穣が呟く。喉から空気を洩らすように、ひなこちゃん、ひなこちゃんとくり返し、やがてがっくりと額を押さえた。
「やはり雛子ちゃん、だったんですね……、僕を、抱え込んでいたんですね……」
「はい……」
葉末は少しだけ戸惑いながら彼に応じた。吉﨑穣の態度からは、寺西雛子への感情がどのようなものか、判然としなかった。しかし、大きな感情であることはまちがいないと言えそうだ。吉﨑穣は力なく首を振り、そろそろと胸もとに手を当てた。寺西雛子とおなじように。葉末は彼にそっとたずねた。
「吉﨑さまは、寺西さまをご存知なのでしょうか?」
すると吉﨑穣は顔をあげた。唇を噛んだその表情は、いまにも泣きだしそうにも見えた。
「はい。雛子ちゃんのことは、知っています。よく知っています。ほんとうによく────」
「さようでございますか……」
「幼なじみなんです」
吉﨑穣は絞り出すように言った。葉末は息を飲み込んだ。
「吉﨑さまと、寺西さまは、幼なじみでいらしたのですね」
柳が静かに確認する。吉﨑穣と寺西雛子が、ふたり同時に首肯した。柳はわかりましたとうなずき返し、じぶんから離れた吉﨑穣と向き合うような位置をとった。
「それでは、吉﨑さまのほうに、いくつかおうかがいしたいことがあります。よろしいでしょうか」
「はい……」
「さきに申しあげておきますが、吉﨑さまの咳や悪寒は、霊障によるものです」
「ええ」
「霊障はほうっておくと、その霊障を引き起こす霊の思いにかかわらず、悪化する危険があります。ですから霊障を起こす霊は、祓うことが望ましいということになります」
柳の淡々としたことばに、吉﨑穣の口もとが引き攣る。寺西雛子はじっとうなだれ、なにも言わずに聞いていた。柳は静謐な口調で続ける。
「ですので、これからする質問は、寺西雛子さまを祓うための質問です。こたえたからといってすぐに祓われるものではありませんが……」
「僕は、なにも知りません」
柳が言いきらないうちに、吉﨑穣が断言した。
「僕はなにも知りません」
強い語調でくり返す。葉末はことばをなくしてしまった。さきほどは、よく知っていると言ったのに。つまり、吉﨑穣は拒んだ。柳が、寺西雛子を祓うためにすると言った質問を、断固として拒む姿勢を見せた。寺西雛子についての祓いを、拒否しているということだ。
「なぜ」
柳がたずねると、吉﨑穣は首を横に振った。
「平気なのです。咳も寒気も、たいしたことではありません。お祓いはもう結構です。これでおいとまいたします」
吉﨑穣は立ちあがる。柳がかけた羽織を脱いで、たたんでから柳の横に置いた。
吉﨑穣は、霊に怯えていた。霊障に困ってここに来た。祓いを望んでいたのだろう。けれどもその霊の正体が、幼なじみの寺西雛子であると知ったとたんに。祓いを拒み帰ろうと言う。それだけ、寺西雛子の存在が、吉﨑穣の心の中では大きなものだということなのか。葉末はなにも言うことができず、部屋をあとにしようとする吉﨑穣のすがたを見つめた。その手が襖にかけられたとき、か細い声が葉末の耳にとどいた。
────穣さん、待ってください……
葉末ははっとして、立ちあがった。振り向いた吉﨑穣に、寺西雛子のことばを伝える。
「穣さん、待ってくださいと」
寺西さまがおっしゃっています。言ったとたんに、吉﨑穣は眉をひそめた。
「ほんとうですか」
どきりとする。この部屋で、寺西雛子のことばがとどいているのは己だけだ。柳はぼんやりとわかるようだが、すべてを把握できるわけではない。嘘をつくことも容易なのだ。無理やり祓いをするために、寺西雛子のことばと偽り吉﨑穣を引き留める。そのようなこともできてしまう。疑いの目を向けられても、仕方のないことなのだ。
葉末は呼吸をとめた。ほんとうです、と言うのは簡単だ。けれども、吉﨑穣はそれで納得することはできないだろう。どうすればよいと、迷ったそのとき、寺西雛子が手を伸ばした。
葉末はとっさにそちらをみる。寺西雛子は葉末の袖を握り、潤んだ瞳でささやいた。
────わたくしたち、ほんとうは、一緒になるはずだったのです……
「待って」
葉末は思わず大声を出した。祓うことは、霊が霊となったわけに耳を傾けることだと知った。霊がみずからについて語ると、その霊は消えていってしまう。だから柳は、寺西雛子ではなく、さきに吉﨑穣に話を聞こうとしたのだ。
「お待ちください、寺西さま」
葉末は寺西雛子の前に座り、しっかりと目を合わせようとした。けれども寺西雛子のほうは、慎ましくうなだれたままだ。もしやと思ったときだった。柳が横から彼女に問うた。
「寺西さま。あなたさまは、霊の祓いかたをご存知なのでしょうか」
しばらくの間があいたのち、寺西雛子はちいさくうなずいた。葉末は思わず口を覆った。
────生きておりましたとき、家の者が祓い屋さんに依頼をしたことがございます。そのときにお聞きしたのです……
寺西雛子はそう言った。葉末はそれを柳に伝えた。柳はいっとき、痛ましげに眉を寄せたが、すぐに冷静な表情にもどった。
「さようでございましたか。ではなぜ、お話しくださろうとしたのですか」
柳の問いに、寺西雛子はしっかりと顔をあげてこたえた。
────わたくしが未練がましくおりますことで、穣さんを苦しめることは、もうこれ以上、できません
もうこれ以上できません、と目を伏せながらくり返す。葉末はちいさく息を吐き出した。交錯してゆくふたりの思いに、絡めとられるようだった。
「雛子ちゃんは、なんと……?」
吉﨑穣が聞いてくる。見れば、彼は眼鏡を外していた。目を細め、寺西雛子のすがたを映そうとしているようだ。葉末はすぐに彼女のことばを伝えた。疑っている相手に頼らざるをえない、吉﨑穣の置かれた状況がせつない。
「つまり、それは雛子ちゃんは、僕のために祓われようと……?」
吉﨑穣の苦しげな声に、寺西雛子が反応する。
────穣さんのためではありません、わたくしがこれ以上、だめなのです……もう、耐えられないのです……
「穣さんのためではないと。わたくしがこれ以上だめで、耐えられないとおっしゃっています」
葉末は懸命に伝えた。吉﨑穣は眼鏡を握りしめ、いっとき迷うようすを見せた。しかしほどなく、きっぱりと言った。
「いけません。どちらにしろ、僕はだいじょうぶなんですから、お祓いはもう、結構です。ありがとうございました、おいとまします……」
────だめ!
寺西雛子の大きな声に、葉末は思わずびくりとした。大声に慣れていないらしい、高く裏返った声だった。それでも、そんな声をあげても。空気がゆれることさえもない。そのはずなのになにか感じたか、吉﨑穣が動きをとめた。寺西雛子は目に涙をためて、幾度も首を横に振った。
────だめです、帰らないで穣さん……
寺西雛子は立ちあがり、部屋を出ようとする吉﨑穣におそるおそる近づいていく。あまい香りが尾を引いていく。ほんの一瞬、吊りランプのぼやけた明かりが点滅した。
────穣さん、言ってくれたでしょう、いつまでも一緒にいようって、死んでしまうまでいようって……わたくしはもう、死んだのよ……。
寺西雛子は白い手を、吉﨑穣に差し伸べた。ふれるとふれないとの境目に、ふたりの指先はあった。けれども、ふれていたのだとしても、彼は感じることができない。
────いままでほんとうに、ごめんなさい。離れがたくて、離れかたも、じぶんではよくわからなかったの。だからお祓いしてもらおうと、思って。さっきもごめんなさいね、勝手にお別れをしようとしたの。だって穣さん、わたくし言ったでしょう、もしもどちらかがさきに逝ったらって、そういうお話したときよ。
手を離し、寺西雛子はふわりとやわらかにほほえんだ。いっぱいにたまっていた涙が、そのまなじりから頬を伝った。
────寂しくて、かなしくて苦しいけれど、笑って生きていきましょうねって、それを見守っていましょうねって、ねえ、わたくし言ったでしょう……? 穣さん、そうだねって、あのとき笑ってくれたでしょう……?
葉末は、感情をこめないように、彼女のことばを彼にとどけた。
「そう……そう、そうでした……」
吉﨑穣の唇がふるえ、その目から涙が一筋こぼれた。
「しばらく、ふたりにしてくれませんか」
吉﨑穣のそのことばに、柳がすぐにはいと応じた。葉末はいつの間にかかすんでいた視界を、はっきりさせてからうなずいた。




