十八 両腕
「だいじょうぶですか」
葉末は慌てて腰を浮かせた。吉﨑穣は前のめりになり、胸もとをおさえて咳をしている。けれども葉末のほうを見て、だいじょうぶと口を動かした。白い腕がさらに絡みつき、かぐわしい香りを醸しはじめる。寿々と似ているようで、異なる。寿々よりもあまく粘度があって、花の蜜を思わせる香りだ。
「水瀬さん。霊のようすは」
吉﨑穣の背をさすりつつ、柳が静かに問うてくる。葉末はすとんと腰を落ち着け、腕のほうに意識を集中させた。細くたおやかな両腕は、吉﨑穣にすがりつき、ぎゅうぎゅうと締めつけているようだった。
「白い、きれいな女人の腕が、吉﨑さまをうしろからしっかりと抱きしめています」
葉末は柳にそう伝えた。
「腕」
柳はくり返し、ようやく咳がおさまった吉﨑穣をなだめている。吉﨑穣は大きく息をつき、みずからを抱え込むようにした。
「さむい……」
うしろを振り向きながら、吉﨑穣は不安げに呟く。あたりまえのことながら、彼には白い腕が視えていない。腕は少し力をゆるめながらも、離れるようすを少しも見せない。葉末はさらに目を凝らした。文吉のときのように、全体が視えればよいのだが。
「なにか、声をかけてみてください」
柳が吉﨑穣にじぶんの羽織をかけながら言う。霊障の寒さは布をかけてもやわらぐことはないのだろう。いままでの柳の話から、葉末はそのように推測した。しかし羽織で包まれると、気持ちが楽になるかもしれない。葉末はふるえる吉﨑穣に、ひとつ大きくうなずいてみせた。
「いまからうしろにいるかたに、ご挨拶をいたしますね、吉﨑さま」
「はい、はい、おねがいします……」
返事を受けとり、息を吸い込む。やはり濃厚な、あまやかな香りが胸の奥のほうまでを満たす。それを吐き出すようにして、葉末は華奢な腕に声をかけた。
「こんばんは。わたくしは水瀬葉末と申します。よろしければ、あなたさまのおなまえを教えていただけませんでしょうか」
ほそやかな指に力がこもり、吉﨑穣の衿もとをたぐる。吉﨑穣はまた咳き込んで、さむいんです、と細く洩らした。
「近頃、ときどき咳が出て、寒気がするときが、あるんです」
切れ切れになりながら、吉﨑穣は柳に話す。
「医者などに、かかりましても、異常はないと言われるのです。それに寒さが、風邪のようなときと、少しちがうような気がしますので……」
「そうでしたか。わかりました」
柳は吉﨑穣にうなずき、背中をさすり続けている。葉末は両手を握りしめていた。腕はあいかわらず腕しか視えず、さきほどの挨拶への返答もない。もしやとどいていないのだろうか。葉末は大きく息を吸い込み、もういちど挨拶を試みた。
「こんばんは。水瀬葉末と申します。そちらのかた、よろしければ、おなまえを教えていただけませんか?」
言い終わるやいなや、腕がぎゅうっと吉﨑穣を抱きすくめ、そしていきなりほどけ離れて、消えた。いや、視えなくなった。
「お待ちください、おなまえを────」
────すみません
ちいさな声を拾った。葉末ははっと背筋を伸ばし、目の前の空気をじっと見つめた。祈る思いでみつめ続けた。すると、木切れから像を彫り出すように、徐々に明らかになるものがあった。
芥子色の袷に白い帯、臙脂色の帯締めを合わせた、十六、七に見える女人。西洋風の上げ巻きにしたつやのある黒い髪の毛に、うっすらさした紅のよく映える真白い肌を持っている。うつくしいひとでありながら、その目はなみだに濡れており、いまにもあふれ出しそうだった。葉末はなにも考えず、そのひとに膝を寄せていた。
「どうされたのです。なにかございましたか」
────いいえ
細いこたえが返る。
────名を、お聞きになりましたね
そう言われ、葉末はわれに返った。
「はい、おなまえを教えていただきたく……」
呼べないのでは、話せない。葉末は知らず知らずのうちに、両手を胸の前で組んでいた。
「わたくしは、水瀬葉末と申します」
もう幾度目かの名のりをすると、女人は薄くほほえんだ。
「わたくしは、寺西雛子と申します。葉末さん、こんばんは」
「こんばんは」
葉末はつい大きくこたえた。少しだけ身を乗り出してしまう。
「寺西さま。ここにおられる吉﨑さまにも……」
ご紹介してよろしいでしょうか。葉末がそのように言いさしたとき、ようすをじっと見ていた吉﨑穣が悲鳴のような声をあげた。
「寺西────?」
「ご存知なのですか」
葉末はおどろいてしまった。寺西雛子はうつむいて、肩をすぼめちいさくなってしまう。葉末はそんな寺西雛子と、吉﨑穣を見比べた。吉﨑穣は柳にすがり、唇を強く引き結んでいる。柳が落ち着いた口調で言った。
「水瀬さん。そこにおられるんですね。詳しいところを聞かせてください」
「はい、かしこまりました……寺西さま、よろしいでしょうか」
確認をとると、寺西雛子はこくりとしおれてうなずいた。葉末は少しためらったが、柳に彼女のようすを伝えた。柳は、今回は吉﨑穣のそばにいることを選んだらしく、なにも書き取らずに聞いていた。
「わかりました」
柳は言った。寺西雛子のいる場所を、まっすぐに見据え、そっと呼ぶ。
「寺西さま」
────はい
「お返事をしていらっしゃいます」
葉末が橋渡しすると、柳は少し口もとをゆるめる。そのまま、やわらかい口調でたずねる。
「寺西さま、あなたさまはいま、ごじぶんがどこにいるかおわかりですか」
────はい
寺西雛子は、消え入りそうな声でこたえる。葉末は柳に目くばせをして、静かにうなずいてみせた。柳はひとつうなずき返し、寺西雛子に向きなおって問う。
「どこにいらっしゃるか、お聞かせねがえますか」
────お祓い屋さんのお宅です
寺西雛子はうつむいたままだ。こめかみあたりにこぼれた髪が、頬に濃い影を投げかけている。葉末はそのままを柳に伝える。
「お祓い屋さんのお宅です、と」
「はい。そのとおりです。なぜなのかは、おわかりですか」
柳の問いかたはかろやかで、お手玉をふうわり投げるようだ。寺西雛子はうなだれながらも、ぽつり、ぽつりとちいさく返した。
────わたくしが霊だからです
「わたくしが霊だからです、と」
「ええ……」
────わたくしが霊で、霊だから、ここにいてはならないのです、それなのにいるから、いてしまうから、穣さんを困らせるから……
ほろりと、涙がこぼれて落ちた。畳にはぜたと思ったら、そこにはなにものこっていない。ぎゅっと心臓が締めつけられて、葉末は一瞬、通訳を忘れた。




