二 筆跡
風がするりと吹き抜けて、葉擦れが鮮やかに耳にとどいた。葉末は、少し離れたところに立った若者の切れ長の目が、大きくみひらかれるのをみとめた。その唇がかすかに動き、そして一音だけを洩らした。
「────ど」
「ど?」
「どうして、そんな──」
葉末は思わず目をまるくした。若者の発したその声が、見事なほど裏返っていたので。月影に浮かび静穏なまなざしをこちらに注いでいた若者が、いまや幾度もまばたきをして、すっかりうろたえてしまっている。なんというか、非常にわかりやすい。葉末は口を開けて、閉じた。若者の変わりように、つい戸惑ってしまったのだ。
若者はしばらく目を泳がせていたが、ほどなく葉末に視線を据えた。さきほどよりも熱を感じる、黒い瞳とつながった。若者はしゃんと背筋を伸ばした。
「いかにも、柳右作ですが。どうしてご存じなのですか……あ」
ふたたび一音こぼし、若者──柳右作は、一歩だけ間を詰めてきた。葉末は少し力を抜いた。
やはり、柳右作だった。ふくらんだ予感はあたっていたのだ。けれども、その柳右作は、なぜか申し訳なさそうな顔をしている。葉末を覗き見て、問うてくる。
「もしかして、わたしをご存知なのは、もしかしてあの紙のせいですか」
あの紙、と柳はくり返し、両の手で四角をつくってみせる。葉末は慌ててこくこくうなずき、風呂敷包みを抱え直した。懐にしまってある紙を、そっと取り出して広げてみせる。黄ばんでざらついたその紙には、大きな字で「赤瞳募集」とある。その横に添えるようにして、この帝都の一角の住所と、「柳右作」という名前がしっかりと記入されていた。そして力を借りる代わりに、衣食住を保障するとある。
「先日、こちらを拾いまして、お宅にお邪魔しようとしておりました。夜分遅くのことであり、たいへんご迷惑とは思いましたが……」
「待って」
柳は両手を突き出し、葉末のことばをさえぎった。
「あなたのようなお嬢さんが、こんな夜更けにひとりでですか? そんな怪しい紙を見て?」
「少し怪しくはありましたが、誠実な筆跡とお見受けしました」
「筆跡で判断したんですか……」
「それよりなぜ、赤い目をお求めですか。わたくしのような者で、もしや合っていますでしょうか」
「それより、そんなことよりどうしてあなたのようなお嬢さんが……」
「わたくしは、お嬢さんではありません」
「待って」
柳はもういちど、葉末が言うのをさえぎった。今度はこめかみを揉んでみたり、腕を組んでみたりとせわしげだ。そうしてひとしきり動いたあと、柳は葉末をひたと見据えた。
「わかりました。落ち着きましょう。いろいろと整理するために、わたしが喋ってかまいませんか」
もちろん、葉末に異論はなかった。はいと言ってうなずいてみせると、柳は少しほっとしたように頬をゆるめてうなずき返した。
「ではまず、わたしはあなたのおっしゃる通り、柳右作と申します。よければあなたのお名前も。うかがってかまいませんか」
「はい。申し遅れました。水瀬葉末と申します」
「ありがとうございます、水瀬さん。それでは、まずはその紙のことですが」
柳は、葉末が手にした紙を長い指で示しながら言った。
「確かにわたしが書いたものです」
橋のまんなかと、橋の手前。距離を保ったままだった。柳の声はそれほど大きく張りあげられたものではなく、それでも涼やかによく通った。葉末は、紙に目を落とした。少し右上がりの癖がある、けれど流麗な字で記されている。赤瞳募集という文言は、それを道端で見つけたときから葉末の心をとらえていた。柳は葉末の両の目を、赤い瞳をとらえて続けた。
「じつは、赤い瞳のひとを、近頃さがしていたんです……」
「なぜ……」
「あなたは、『視える』ひとですよね」
それは問いではなく、確認だった。葉末はなにがと聞くこともなく、いかにもそうですと首肯した。柳はやわくほほえんだ。
「そうですね、赤い瞳ですから。昔から赤い瞳のひとは、霊を視ることができるんです。というよりは、突然赤い瞳になって、霊が視えるようになるということが、稀にですがあるんです」
確かに、視えるようになったのはある日突然のことだった。そんなことがあるとは知らず、毎日暢気に暮らしていた。葉末はいっとき唇を噛んだが、そんな場合ではないと奮い立つ。
「つまり、柳さまは霊が視える者をおさがしになっていたということですね」
「はい」
「それはなぜですか」
問うた一瞬、柳の目もとがほんとうにわずかばかり歪んだ。そのように、葉末には見えた。けれども、すぐにほほえみがもどる。影が揺らいだだけかもしれない、ぼんやりとそう思っていると、問いへのこたえが返された。
「仕事に必要だからです」
「仕事」
くり返したとたん、去来する。ほろほろとくずれ消えゆく霊に、このひとは話しかけているようだった。
「あなたも……」
「はい。霊が視えます」
柳はあっさりと言った。目は赤くありませんがと、つけ加えてから少し笑った。
「わたしはそういう血筋なんです。昼も夜も関係なく、霊が視えるし、感じられます。会話をすることもできます」
霊を感じて、意思疎通できる。葉末は思わず目をみひらいた。葉末は会話をしたことはないが、霊を五感でとらえられる。この柳右作は、己とおなじようなひと。はじめて見たときから察してはいたが、ことばで聞くと改めておどろく。そしてその特異なことは、血筋のためであるらしい。受け継がれてきたその血を生かして、仕事をしているということだろう。
「それでは、お仕事というのは……」
「ええ、霊を祓うことです」
柳はすぐにそうこたえた。
「霊というのは、なくなったひとの情念がこの世にのこったものなんです……」
「はい。それは存じあげております」
葉末が言うと、柳はうなずき、そうですか、と目もとをゆるめた。
「その、霊を祓うのが仕事です。祓うといっても、生きている者に都合のわるい霊だけですが」
「都合……?」
「ええ」
軽くこたえて、柳はふわ、と笑みを深める。
「水瀬さんも、視えていると思いますが。このあたりにも、たくさんの霊たちが歩いたり座ったりしているでしょう。でも、わたしたちになにもしません。ほとんどの霊がそうなんです。情の一部がこの世にのこって、たださまよっているんです」
ふと葉末から視線をそらし、柳は自身の背後を見やった。ちらりと透けた輪郭がゆらぎ、すぐに木陰に隠れてしまう。葉末は軽く唇を噛んだ。確かに、視えている霊たちから、なにか影響を受けたことはない。
「でも、強い情念が、こびりつくようにのこってしまうこともあります。そういう霊は生きている者に、よくない影響を与えますから……、そういうときがわたしのような、祓い屋の出番になるんです」
「祓い屋」
「はい。祓い屋です。昔からそう呼ばれています」
祓い屋というのは、葉末も聞いたことがある。けれども、世話になったことはない。ほんとうにいたのだと、感動する思いで柳を見る。柳は照れくさそうに笑った。
「十年前に祓い屋を継いで、いまはひとりなんですが……、依頼はそれなりに来るんですよ」
「それは、お忙しいのでしょうね」
「ええ、まあ。近頃はとくに、霊などいないという考えのひとも、少しずつ増えていますけど……そういうひとはなんというか……霊障を受けたことがないひとたちです」
いたずらっぽくつけ加えるので、葉末はつい笑ってしまった。そして知らず知らずのうちに、橋のほうへ一歩踏み出していた。
「柳さまが、お祓い屋さんだということはわかりました」
「はい」
「それでは、つぎはこちらについて詳しくお聞かせいただけますか」
「赤瞳募集」と記された、紙をそっと差し出してみせる。橋の架かる川を渡った風が、紙をふうわりなびかせた。
柳は、赤い瞳の者が「仕事に必要だ」と言った。確かに赤い瞳の葉末は霊のすがたを視ることができるが、それは夜だけのことである。昼夜問わず霊を視られるひとが、わざわざ赤い瞳の者を募る必要はあったのだろうか。葉末が疑問を浮かべていると、柳はすっと息を吸い込んだ。
「そちらが、本題ですからね……」
緊張を紛らわせるように、両手が握りしめられるのを見た。




