一 青柳
赤い、血だまりじみた瞳の女がこちらを凝視している。ランプがぼかす暗闇の中、畳の上に座した葉末は女をじっと睨めつけていた。
青柳色の褪せた絣をきっちり着込んだ女である。髪をひとつにきつくひっつめ、青白いような顔をしている。唇を真一文字に結び、眉を頑固そうに吊りあげ、女は葉末を睨めつけていた。葉末が向かい合っているのは、それは古びた鏡台だった。
鏡に映る己の顔を、瞳を、葉末は凝視している。熟れきって裂けた果実にも似て、赤く毒々しく光る双眸。葉末は、両手を握りしめた。てのひらに爪が食い込むほどに、強く、つよく握りしめた。
背後には、風呂敷を広げてあった。のせているのは替えの着物と櫛、それから紅板と財布。櫛はこの邸の主の奥方、奥さまと呼んで慕ってきたひとが譲ってくれたものであり、梅の透かし彫りが入っている。なめらかな象牙の紅板は、お嬢さまと呼び仕えてきたひとが昨年贈ってくれたものだ。財布は古いが品のある布製、なくなった母の形見であった。
葉末は鏡の中の己を心の内で罵ってから、風呂敷のほうを振り向いた。ゆっくりと中の荷物を包み、きゅっとちいさく結び目をつくる。生まれたときから心より仕えた、この月方男爵家邸を、いまこれからひっそりと去るのだ。
葉末はランプの明かりを消すと、包みを抱え立ちあがった。白い襖の前に立ち、とくべつに与えられていた、十八年ほど過ごした部屋のすべてに深く頭をさげた。それから音を立てないように、注意を払って部屋を出た。
静まり返った廊下を歩き、階段をおりて台所のほうにひらかれている裏口を目指す。葉末が夜に台所へ行くのはさして珍しいことではないので、もしも音に気づかれたとしても、怪しまれることはないだろう。葉末は大きな竈のある、よく片づいた台所にも、腰を折ってお辞儀をした。そして裏口の戸を開けて、すっかり暗い外へ出た。寂しいように涼やかな風が、すうと足もとを滑っていった。葉末はもういちど頭を垂れると、心をこめて戸を閉めた。だれかに見られることはなかった。
ひとつ息をつき、空を見あげる。墨が滲んだような夜闇だ。月は薄雲に隠れている。葉末は風呂敷包みを抱きしめ、邸の広い敷地から出た。よくよく手入れされた芝生が、足の裏にやわらかかった。慣れ親しんだその感触とも、もう、これでお別れだ。
手紙だけは残してきた。葉末は邸に背中を向けると、ひとりきりで歩きだした。からり、ころりと下駄が控えめに地面を鳴らすのを聞きながら。ふと目のあたりが熱くなり、急いできつく唇を噛む。葉末は、道の先を睨んだ。月光が差していなくとも、この目は夜道に困らない。この、赤い瞳には、夜の景色が昼間のようにくっきりと映り込んでいるのだ。そして、この世ならざるものも。
ふいに、冬の風のような、しんと冷たく重い気配が足首に絡みついてくる。目の前をすっと横切ったのは、髷を結った女のひと。けれど、ふつうのひとではない。身体の色がうっすらとして、明かりを透かしてしまっているのだ。向こうのガス灯の影には、襤褸を着た子どもが立っている。それからもっと先の角には、老爺が座り込んでいる。みんな、身体が透けている。みんなこの世のものではないのだ。霊。葉末の赤い瞳は、霊を映してしまうのだった。
瞳がこのようであるのは、生まれつきのことではない。近頃急に、夜になると、赤く光るようになったのだ。それと同じころ、仕えていた月方家の令嬢が原因不明の病に罹った。葉末は、己の不吉な瞳が災いを呼び込んでいると思った。
令嬢──だいじな鞠子嬢は、葉末の赤い瞳を知ったうえで、気にするなと笑ってくれていた。だが、葉末はおそろしかった。万にひとつ、己のせいで鞠子嬢にもしものことがあったら。己を責めても責めきれない。よって葉末は、ひっそりと、邸を出ることを決意したのだ。
静かな高級住宅街にたたずむ霊たちはいずれも、葉末に気がついているようだった。しかし近づいてくることはない。ちらりと視線を寄越してくるか、まったく無視するかのどちらかで、さして興味がなさそうである。
霊より、生きているひとたちのほうが騒がしい挙動をするはずだ。夜闇に光る赤い瞳はさぞや不気味なことだろう。葉末はそう考えたので、ひとけのない道を選んでいた。月方男爵家の邸から、えたいの知れぬ赤い瞳のお化けが出たとの噂が立ち、名誉が傷ついてはたまらない。葉末はガス灯のない細道へ折れ、素知らぬ顔で進んでいった。
行くあてがないわけではなかった。そっと胸もとを押さえてみる。そこには一枚の黄ばんだ紙を、丁寧にたたんで入れてある。数日前、買い出しの途中に拾った。その紙にはある家の住所が几帳面な字で記してあり、ひとを募集しているのだった。葉末は書かれてあるその住所を、一字一句暗記していた。
やがて、さやさやと憂いを含んだ葉擦れの音が聞こえてきた。町を流れる川にかかった、太鼓橋まで行き着いたのだ。川辺には柳の木が立ち並び、長くしなやかな枝や葉を、ゆったりとゆらしていた。葉末は下駄を鳴らしながら、橋を渡ろうとして、足をとめた。ひそめた声が、聞こえてきたのだ。
見れば、橋のまんなかあたりに、すらりと高いなにかの影。その横には、透けてぼんやり浮かぶ、ひとのかたちをしたものがある。葉末は思わず息を飲んだ。見たところ、ひとと、霊である。ひとが霊のほうへ顔を近づけ、なにか話しかけているらしい。声の低さ、影の大きさからして、ひとのほうは男であるようだった。
あのひとは、霊が視えるのだろうか。霊と会話ができるのだろうか。葉末は風呂敷包みを抱きしめ、その場に突っ立って眺めていた。眺めるうちに、どくん、どくんと胸の鼓動が強まっていく。
酔っ払ったひとか巡査か、はたまた霊の類いよりほかは、出歩かないようなこの夜更けに。橋の上で霊に、話しかけている。上背のある男のひと。かかわるべきではないかもしれない。ここを離れるべきかもしれない。けれど、葉末の胸の内には、ひとつの予感が生まれていた。脈がはやまっていくごとに、どんどんふくらむように思った。そのせいで、葉末は立ち尽くしたまま、その場を少しも動けなかった。
そのうち、霊のすがたがうすらぎ、上からだんだんと消えていった。透明な砂からなる山が、くずれて風にとけるようだった。そして、薄墨の雲が流れる。青ざめた月の影がまっすぐ、橋のまんなかへさやかに落ちる。そこに立っているひとのすがたを、夜半の闇の中浮き彫りにする。
葉末より少し年嵩くらいの、若者であるようだった。深く静かな赤の着流し、衿もとが少しゆるんでいる。裸足に下駄を履いており、何心もなくたたずんでいる。結えないほどに短い髪はさらりさらりと夜風になびき、涼しく整うおもてにかかって陰影を醸し出していた。
髪の隙からのぞく目は、鋭いほどに切れ長だった。光を吸い込むような瞳が、ひたりとこちらに向けられていた。黒く静謐なそのまなざしは、葉末の動きを封じてしまう。けれども、それでいいと思った。若者は赤く怪しく光る葉末の瞳を目にしても、騒ぐことも尻込みすることもない。大きくふくらんでいた予感が、そのまま確信に変わっていた。葉末は風呂敷を胸に押しつけ、じっとそのひとを見つめ返した。ゆっくりと、確かに息を吸い込み、一歩を踏み出しながら尋ねた。
「つかぬことをうかがいますが。柳右作さまでいらっしゃいますか。赤い目の者を募っていらした」




