十六 余韻
**
またおなじ夢の余韻とともに、右作は目を覚ました。勝手に乱れた呼吸を落ち着け、天井の木目をじっと見つめる。ぐるぐると回っているように思える。いまにも吸い込まれてしまいそうに思える。いっそそれでもと、そんな考えが頭をよぎった瞬間に。がらりと大きな音が響いた。
その音ではっと引きもどされる。右作はすぐに身を起こし、障子を透かして差し込んでくる朝日の中で伸びをした。きょうは、早くに目が覚めたのにもういちど眠ってしまったせいで、少し寝坊をしたらしい。さきほどの音は、台所のほうから聞こえた。勝手口の戸を開けた音だろう。水瀬葉末がすでに起きている。朝餉の用意をしているのだ。
右作は急いで支度を済ませ、台所のほうへ向かった。米の炊けるあまやかな匂いと、味噌の香ばしさが混じってとどく。吸い込むと胸のつかえがおりる。右作は頬がゆるむのを感じた。
「水瀬さん。おはようございます」
台所に顔を出しながら声をかけると、竈の前にかがんでいた水瀬葉末が、ぱっと立って振り向いた。青柳色の絣にたすきをかけて、長い髪をきりりと束ねている。毎朝のことではあるのだが、すっきりとした顔をしていた。
「おはようございます、お師匠さん」
折り目正しく頭をさげて、水瀬葉末は挨拶をする。右作もぺこりとお辞儀をした。これもいつものことだった。右作は寝坊したことを謝り、朝餉の用意に加わった。
水瀬葉末がこの邸に来て、もう十日ほどが経っている。珍しく、しばらく依頼が入らず、ゆったりとした日々が流れていた。水瀬葉末の両の瞳は、夜ごとに赤く光っているが、ほかの霊障があらわれる兆候はない。そして右作の目のほうも、霊が煙のように視える状態が簡単に変わることはなかった。これは感情が薄くなっているためで、水瀬葉末の言うとおり、精神的な疲労のためだ。霊、つまり浮かばれない情念を視ることも、その話を聞くことも、それをこの世から消し去ることも。ときおり重く思われる。彼女は「情が薄い」という説明だけで、はじめからそれを見抜いていた。
適切にやすむことができるなら、徐々に回復するだろうと、彼女は橋の上でそう言った。そして、すべてを話した夜も。無理をしているのではないかと、炎のようにゆらぐ瞳でこちらをまっすぐ見つめて問うた。
心臓がぐっと締めつけられた。無理をしているつもりはないのに、内側がそうだとこたえた気がした。水瀬葉末は鋭敏なひとだ。鋭敏で、やわらかいひとだ。嘘をついていたと打ち明けても、こちらを責めるどころか笑って、協力しようと申し出てきた。胸の内の冷えて重くなったところを、ふわりと包まれる心地がした。こうして暮らすようになってからも、幾度もそう感じている。水瀬葉末はやわらかく、だがやはり、鋭いひとだった。
「お師匠さん、ゆうべはよく眠れましたか」
味噌汁の鍋をかき混ぜながら、水瀬葉末がふと聞いてくる。膳と茶碗を出していた右作は、思わず動きをとめてしまった。
「あまりよく、お眠りになれなかったのですか」
水瀬葉末は杓子を置いて、こちらに身体を向けてくる。赤くなくとも光る瞳から、逃れるすべを思いつかない。かわりになけなしの笑みをつくって、右作はうなずいた。
「ええ、まあ少し。そういうことも」
「そういうこともありますよね。でも、朝いらっしゃらないのは、珍しいと思いましたので」
水瀬葉末はそう言って、また味噌汁をひと混ぜした。小皿に少しだけよそって、右作のほうへ差し出してくる。
「どうぞ、お味見おねがいいたします」
「はい……」
右作は小皿を受けとり、湯気の立つそれに口をつけた。よく出汁がきいて塩気もちょうどいい。
「おいしいですね、ありがとうございます」
「いえ、それはよかったです」
水瀬葉末は静かにほほえみ、右作から皿を回収した。そしてその皿でみずからも味見し、満足そうに口もとをゆるめる。右作はそれを眺めていた。
「少し夢見がよくなかったんです────」
ふいになにを思ったか、そのようなことを口走っていた。水瀬葉末が見あげてくる。
「そうでしたか、夢見が」
深刻でも軽薄でもない、そっと受けとめるような相槌に、思わずうなずいてしまう。水瀬葉末はおなじ動作をすると、目をそらさずに問うてきた。
「いまはどうですか。ご気分は」
「いまは平気です。おかげさまで」
「わたくしなにもしておりませんが」
「じゃあ味噌汁のおかげです」
右作は言って、笑ってみせた。みせたというより、こみあげてきた。すると水瀬葉末もほころび、やっと右作から視線を外した。
「夢見がわるいと、朝からつらいですからね」
水瀬葉末は呟きながら、流し台の上の窓を開ける。硝子のはまった木戸が滑って、朝のさわやかな風とともに、蝉の声が吹き込んできた。右作は思わず、聞き返した。
「水瀬さんも、なにか夢を」
いいえ、と返事がかえってくる。
「今朝はとても元気です。でも、ときどき、ほんとうにたまに、夢を見るときがあるんです」
「どんな」
「えっと……、母の夢を」
水瀬葉末は恥ずかしそうにこたえた。右作が続きを待っていると、水瀬葉末は味噌汁をよそいつつ、やや早口になって話した。
「母はすでになくなっているのですが、ときどき夢に出てくるのです。だいじにしてくれた母なので、起きると少し、寂しくなります」
「そうでしたか……」
「はい……、すみません、こんな話」
水瀬葉末は肩をすぼめる。右作はゆっくりと首を振った。
「謝ることではありませんよ」
「そうでしょうか……」
「ええ、そうです」
水瀬葉末の肩のあたりから、すうと力が抜けるのがわかった。右作も幾分、安堵した。さあ、と言って手を叩く。
「それでは朝餉をいただきましょうか。きょうは依頼があるかもしれません」
「そうですね。お掃除をして待ちましょう」
水瀬葉末の生真面目なこたえに、右作は思わずふきだした。




