十五 水甕
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前ぶれもなく目が覚めた。葉末はゆっくり起きあがり、訳もなく部屋を見回した。となりで寝ていたはずの寿々は、いつのまにかいなくなっている。寿々が横になっていた場所には、なんの痕跡も残っていない。しわにもひだにもなっていない、その場所を葉末はしばらく見つめた。そっと名前を呼んでみるが、返事はない。寝ているあいだに、どこかへ行ってしまったらしい。
なんだか、少し喉が渇いた。葉末はのそのそと立ちあがり、布団を軽くたたんで部屋を出た。静かな夜半に響かないようやわらかく戸を閉めてから、つやつやとした長い廊下を、音を忍んで歩いていく。奥のほうにある台所には、大きな水甕が置かれている。井戸から汲みあげた水を溜めているのだ。甕を目指して進んでいると、ふいにことりと、音が聞こえた。葉末はいちど立ちどまり、壁の陰からようすをうかがう。水甕のそばに、影があった。もしや、霊がいるのだろうか。
文吉と寿々に出会ったために、こわいという気持ちはほとんどなくなっていた。それに、霊が視えはじめたときから、こちらに害をなそうとはせず、たださまよっている霊たちに対しさほどのおそれは抱いていなかった。どちらさまですか、と聞こうとした葉末は、直前ではたと気がついた。霊のいる空気ではないのだ。霊がいるときは空気が冷たく、どんよりと重くなってくる。それがないなら。
「あの、お師匠さん?」
葉末は壁から離れて呼んだ。肩をゆらして振り向いたのは、やはり柳だった。
「どうしたんです、水瀬さん」
柳は目をまるくしている。葉末は思わずふきだした。
「すみません、少し喉が渇いてしまって。お水をいただこうとして来たのです」
「そうでしたか、わたしもです」
柳は言って朗らかに笑うと、柄杓で水を注いだ湯呑をふたつ持ってやってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
だいじに湯呑を受けとって、柳が口をつけるのを待ってこくりとひとくち水を飲み込む。ひんやりとしてまろやかな水は、寿々の空気に少しだけ似ていた。
「おいしいです、ありがとうございます」
柳を見あげて、もういちど礼を言う。けれども、反応がなかった。柳はどこかべつのところをぼんやり眺めているらしかった。目が覚めきっていないのだろうか。言わなかったことにしようとしたとき、柳があっと声をあげた。
「水瀬さん」
「はい」
「いまなにか」
「いいえ、そんな、たいしたことでは」
「そうですか……?」
じっと目を見てくる。ただ聞き逃しただけなのに、やけに真摯な瞳をしている。葉末は一瞬たじろいで、つい半歩だけうしろへさがった。すると柳は、頭を振って、葉末の顔から視線をそらした。
「いえ……すみません……話があるのは……」
言わなきゃならないことがあるのは、ほんとうはわたしのほうなんです、と。柳は低まった声で呟いた。葉末は思わず目をしばたいた。
「言わなきゃならないことですか……?」
「はい」
柳はうなずくと、ふたたび葉末の瞳をとらえた。まっすぐ、動きを封じられたように、葉末はその場に固まった。
「なんでしょうか、お師匠さん」
柳は湯呑を握りしめていた。つられて両手に力をこめる。静かに息を吸った柳は、葉末に告げた。
「水瀬さん。わたしはあなたを都合よく利用しようとしていました」
互いをいわば、利用し合うことは、はじめからわかっているつもりだった。だから葉末は柳の告白に、さほどおどろくことはなかった。しかし柳は深刻な表情で、自身の「卑劣さ」を語った。なんでも、瞳が赤くなるのは霊障のためなのだという。それなのに詳細な説明をせず、ごまかしていたと柳は言った。
「霊障は現状が維持されることもありますが、悪化してしまう場合もあります、ほうっておくことは危険なんです」
玉田家からの帰り道でも、それは聞いたことだった。葉末は幾度もまばたきをして、追いついた理解のほどを口にした。
「つまり、わたくしのこの赤い目も、なんらかの悪化をすることがあると……?」
「そうです。身体がだるくなってしまったり、月方家のお嬢さんのように、発熱してしまったりするかもしれません。だからはやくそれを説明して、霊を祓わなければなりませんでした」
「でもお師匠さん、わたくしに憑いているその霊のかたも、あまりお視えにならないのでしょう、祓うことは難しいのでは……? いいえ、それに……、それならわたくしにも、その霊が視えるはずなのですが。なにも視えてはおりませんし、す────そう、文吉さんも、なにもおっしゃっていませんでした」
「霊どうしでもお互いに、視えないことが多いんです。それに霊視には、感情が大きくかかわります」
柳はきっぱりとそう言った。
「おそらく水瀬さんには、その霊を視ることを妨げるなんらかの強い感情があります」
「なんらかの強い感情ですか?」
「ええ、詳しくはわかりませんが。でも、その霊を祓うことは、できないことではありません。わたしもまったく視えないわけではありませんし────」
「でもやはり、難しいのでは……」
柳には文吉の声が、断片的にしか聞こえていないようだった。すがたも煙のように視えるという。その状態で祓うのは、いくらなんでも困難だろう。しかし柳は言い張った。
「ですが、やろうと思えばできます。ひとを危険に晒しながら、利用するなどというのは、してはならないことでした」
断じると、柳は口を引き結ぶ。柳は、赤い瞳になるのが霊障によるにもかかわらず、それを伏せて祓い屋の仕事を手伝わせることに負い目を感じているらしい。そのことはよくわかったけれど、責める気持ちは湧いてこなかった。責めるどころか、なぜだかなにか、胸の奥のほうがくすぐったくなる。葉末は思わず言っていた。
「つまり、きっとお師匠さんは、嘘のつけないかたなのですね」
協力を約束して一日足らずで、ぜんぶ話してしまうのだから。それに玉田ミヨや文吉に対しても、まっすぐな説明をしていた。つまり、正直者なのだろう。しかし柳は、首を振る。
「そんなわけがありません。嘘のつけないひとだったなら、はじめて会ったときに祓って、水瀬さんを解放しました」
「解放?」
葉末が聞き返すと、柳は眉を寄せてうなずいた。
「霊に憑かれている状態から、赤い瞳から解放しました。それで霊や霊障について、必要なことを説明しました。なにかを隠したり、曖昧にしたりせず。そうしていれば、あなたはすぐに月方家にももどれたでしょう。でもわたしはそうしなかった」
それだけでなく、と柳は言いつのる。
「赤い瞳はしばらくすればもとにもどる、などと言いました。それは完全に偽りです」
「あら、そうでしたか」
「そうなんです。霊を祓わなければもどりません」
「はい、それは、わかりましたが……」
「わたしは卑劣なやりかたで、水瀬さんを利用しました。お詫びを受けとってくださるのなら、わたしにできることはなんでもします。月方邸にお邪魔して、わたしからご説明するというのは────」
「待ってお師匠さん、待ってください」
急速に話を進める柳を、葉末は慌てて押しとどめた。
「でも、それではお師匠さんが。お師匠さんが、霊が視えにくくなられて困っているのはほんとうなのでしょう?」
柳が軽く目を見張る。そしてゆっくりとかぶりを振った。
「それはどちらでもよいことです。水瀬さんがいるべき場所に一刻もはやく帰れるように、できることをさせてください」
「いいえ、だいじなことでしょう」
葉末は思わず言い返した。
「それにわたくし、そんなに急にお嬢さまのところへもどれません」
鞠子嬢が病にかかったのは、ほんとうにこの目のせいだったのだ。どのような顔をして、鞠子嬢のもとへ行けばよいのか。しばらくすれば呼びもどすと手紙に書かれていたけれども、それに従えるのかどうかはわからないと思っていた。ましてや柳の言うように、いますぐにでももどるなど、考えられないことである。
「だから、そんなことを言わないでください」
そう頼むのは、ここにおいてくれと駄々をこねているのとおなじことになる。柳に霊が視えにくくなっているのをいいことに、居場所を確保しようとしている。柳を利用しようとしている。だからお互いさまなのだ。
「お師匠さん」
葉末は呼んだ。
「わたくしたちはお互いさまですから、どうか、お邸にもどれるまで、こちらにおいていただけませんか。お師匠さんのお仕事を、お手伝いさせていただけませんか」
調理台に湯呑を置いて、改めて頭をさげる。柳が慌てる気配がした。
「いや、でも、水瀬さん……」
「どうぞよろしくおねがいします。あ、それとお師匠さん、赤い目の者がそばにいると、霊障に似た症状が出ることがあるとおっしゃいましたが……」
「それは、ほんとうのことです。似た症状というよりは、霊障の波及なのですが」
「それでは」
葉末は目をつりあげた。
「お師匠さんも危険ではないですか」
「だからわたしはだいじょうぶだと」
「だいじょうぶではありません」
葉末は頑固に言い張ってみせた。すると柳も眉をひそめて、一歩間を詰めてくる。
「ひとのことを言っている場合では」
「だから痛み分け、持ちつ持たれつです」
「はい?」
「あの、お師匠さん」
葉末も一歩距離を縮めて、柳の顔をひたと見あげた。
「お師匠さんは、少しご無理をなさっているのではありませんか?」
柳の表情が一瞬とまり、喉がゆっくりと動くのがわかった。葉末はこぶしを握りしめた。
「わたくしに明るく接してくださいますし、よく笑ってくださいますし、それに本調子ではないのにお仕事を続けなければなりません。やはりご負担がかかっているのでは……?」
ひとの中身をほじくるような、厚かましい迫りかただ。けれどもはじめから、気になっていた。目が合ったときの朗らかなこたえも、仕事中の落ち着き払った声も、どちらもなにかをかぶったか、削ったように見えることがある。ふいにのぞかせるほのかな笑みが、どこか疲れたふうに思える。
「だから……だからではないのです……、わたくし恥ずかしくて申し訳なくて、とてもすぐにはもどれませんのでどうぞこちらにおいてください。よろしくおねがいいたします」
葉末はひと息に申し込み、もういちど頭をさげた。しんと、あたりが静まりかえる。流し台からしずくが落ちる。ぱたりと、かすかな音を立てる。
「水瀬さん」
呼ばれて、葉末はうなずいた。声はずいぶん低かった。
「こちらこそ、よろしくおねがいします」
噛みしめるように紡がれたことばに、つい口もとがほころんでしまう。互いに、よろしくおねがいするのは、これで何度目のことだろう。そんなことを思いつつ顔をあげると、すぐにすんなりと目が合った。
注がれるまなざしは、あたたかくやんわりとしていたけれど。黒い湖面のような瞳に、ほんのわずかな影がちらつく。葉末はおぼえず目をそらし、両手で胸を押さえていた。先刻の帰り道とおなじだ。なぜだか鼓動がはやまってくる。
「水瀬さん?」
「なんでもありません、どうぞよろしくおねがいいたします」
心配そうに覗き込んでくる柳に、葉末は大急ぎでこたえた。




