十三 帰路
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文吉の身体は徐々に透け、砂の山がくずれるようにさらさら、さらさらと消えていった。文吉は笑みを浮かべながら、あそびたかったとくり返し、くり返し伝えてくれた。葉末は幾度も、幾度もうなずき、柳と玉田ミヨに伝言をした。
最後のひとひらがなくなったのは、いつのことなのかわからなかった。葉末はしばらくのあいだ、文吉がいたところを見つめて動けなかった。あたりの空気の冷えや重さは、嘘だったようにかき消えていた。そして夜の風がしっとりと、障子戸から吹き込み流れていった。
文吉は消えてしまったので、霊祓いは完了ということになった。玉田ミヨが熱い茶を淹れて持ってきた。それを飲みながら少し話して、柳と葉末は玉田家をあとにした。玉田ミヨは身体のだるさがなくなり、肩も凝っていないと言うが、もしもまたなにかあったときには連絡をするようにと柳が伝えた。玉田ミヨは凛然としてうなずき、門前まで祓い屋を見送った。
ふたりして夜空の下を歩く。玉田ミヨが提灯を貸すと言ったが、ふたりとも夜目がきくので断った。柳は霊が視えにくくなったのと同時に、前より暗闇に弱くなったというが、そばに「弟子」が歩いているので問題はない。それに、今夜は星も月もつつましいながら雲に隠れず、きらきらとよく見えている。帰路をたどるのに支障はなかった。なんとなく互いに黙ったまま、ゆっくりと歩みを進める。静かな道にふたりぶんの足音が、さくりさくりとよく響いた。
「水瀬さん」
ふいに呼ばれて、葉末ははっと柳を見あげた。柳は大きな黒い瞳で葉末の顔を見おろしていた。
「はい、なんでしょうお師匠さん」
「きょうは、ありがとうございました」
柳はその場で立ちどまり、身体を向けてきて頭をさげた。葉末はすっかり慌ててしまい、思わず妙な声で叫んだ。
「そんな、そんなお師匠さん!」
おろおろと手を突き出していると、柳は顔をあげてくれた。少しいたずらっぽく、笑っていた。
「そんなに慌てないでください。ほんとうにたすかったんですから」
「でも……」
「水瀬さんのおかげで、文吉くんを祓うことができました」
そのことばに、一瞬息が詰まる。文吉は祓われ、消えてしまった。けれども、消える前の文吉は飾りけもなく笑んでいた。顔のよごれが拭われたような、すっきりとした表情をしていた。
「文吉くんにはなんの罪もありません。あのままにしておくこともできました。でも、少しとはいえ玉田さまには、霊障の症状が出ていました」
葉末の心のうちを見透かしたように、柳は落ち着いた口調で言った。
「症状は、現状が維持される場合もあります。でも、悪化する場合もあります。あのままにしておくのは危険でした」
「はい……」
「祓いに協力してくださって、ほんとうにたすかりました」
今度は真剣な目をまっすぐ向けて、柳は葉末に礼を言った。葉末は恐縮し、頭を垂れた。
「わたくしは、視たまま聞こえたままを、お伝えしていただけですので……」
「それがとても力になるんです。祓いは、話を聞くことですから。向かい合って、ちゃんと目をみて」
この世にのこってしまった情念、つまり己のことについて、話すことで霊は祓われる。目の前にいる霊そのものと、向き合うことが重要になるだろう。柳は煙のようにしか霊が視えず、ほかの感覚も薄くなっている。そう考えると己のしたことは、少しは役に立ったのかもしれない。そう思えてきた葉末は頭をあげた。目が合った柳はほっとしたように、さっぱりとした笑みを見せた。それを映して、ふと思い出す。葉末はつい口走った。
「文吉さんも、笑っていました……」
そうですね、と柳がうなずく。前に向きなおり、歩きだす。
「あそびたかったと、言ってましたね」
「はい。たべて、ねて、おとをならして」
葉末は柳の少しうしろを歩いていた。柳はちょっと振り向いて、ふわりとちいさな笑みを洩らした。それは快活なものではなく、悼むような静けさを持っていた。葉末はうつむき、己の下駄の鼻緒を見つめながら呟いた。
「うまれたときから、ひとりだったというのは、捨て子だったということでしょうか」
「ええ、きっとそうなのでしょうね」
「にいちゃんねえちゃんにひろわれたというのは、だれか、若いひとたちに、育てられていたということでしょうか」
「そうなのかもしれません」
そして、わるい水を飲んでしまい、おなかをこわしてなくなった。葉末は軽く息を逃がした。胸が締めつけられていた。
「なくなってしまったあとは、いろいろなところをさまよったのでしょうね」
それは、茶を飲みながら、玉田ミヨも言っていたことだった。文吉は、霊はつまらない、気づいてもらえない、とこぼしていた。ここにいるのに、かえりみられない。そんな経験をいろいろなところで、たくさんしてきたのだろう。そして玉田家に流れ着いた。
「玉田さまのおうちでは、視える子がいたりやさしい空気があったり、きっと、居心地がよかったのでしょうね……」
「そうですね」
「でも、それまでは、ずっとひとりで……」
「なくなってしまう前も、ひとりでさまよったかもしれません」
柳がふいに呟いて、葉末は息を飲み込んだ。幼い子どもが病気になって、たすからず死んでしまったのだ。文吉は苦しみながら、たすけを求めていたかもしれない。それでも、救いの手は遅かった。もしくは、差し伸べられなかった。
文吉はその事情について、詳しく話すことはなかった。ただ、あそびたかったと言った。葉末は衿もとを握りしめた。もっとあそびたかったと、いうのは、それは。
「もっと、生きていたかった、でしょうか……」
出さないつもりだったのに、こぼれて落ちた声がふるえた。柳がふたたび振り返る。月影に薄く削り取られて、ひどく複雑な顔をしていた。迷ってしまった弱い子犬が、たすけてやれないのについてくる。そんなときのような表情。葉末ははっと背筋を伸ばし、大急ぎで笑ってみせた。
「すみません、わたくしがこのようなこと、言っても、なんでもありません……」
「いいえ」
深い声音が耳を撫で、黒い瞳が覗き込んでくる。星を映したようにきらめく。柳はほんのりと、口もとをゆるめて言った。
「ありがとうございます」
「え……」
「なんだか楽になる気がします」
わたしがですが、と困ったように、肩をすくめてまた歩きだす。葉末はその背中を追った。風がうしろから吹いてくる。柳の髪がさらさらとゆれ、葉末の袖も前へ流れる。なぜだか、鼓動がはやくなっている。すうと大きく息を吸い込む。目の端を、透き通ったすがたの霊がふらりと横切った。
葉末も、もとは捨て子だった。月方家で働いていた母に拾われ、娘同然に育てられたのだ。鞠子嬢に尽くすことになり、おだやかですこやかな日々を過ごした。文吉とは異なる道だった。
「帰ったら、饅頭でも食べますか。買って、とってあるんです」
柳が暢気な声で提案する。ふっと息が楽になり、いただきたいですとうなずいた。




