第二十話 殿下の婚約者を寝取った間男に遭遇しましたが、様子がおかしいです
「この音は……っ!?」
アメリア様が椅子から立ち上がった。
中庭へ流れ込んでくるフルートの音。
私には聞き覚えのない旋律だけれど、アメリア様は違うらしい。
音は王宮の回廊の向こうから聞こえてくる。
「この曲……どうして……」
「アメリア?」
アドリアン殿下が声をかけても、返事はない。
お腹を庇いながら、それでも急ぐように音のする方へ歩いていく。
「追いましょう」
「ああ」
「私も!」
「ミシェルは走らないでください」
私たちも後を追った。
辿り着いたのは、王宮の庭園だった。
木陰に一人の青年が立っている。
旅装のような簡素な服を着て、フルートを吹いていた。
少し離れた場所には、楽器を持った男女が数人いる。
どうやら市民楽団らしい。
「……あなた」
アメリア様が震えながら声をかけると、青年が演奏を止める。
「え?」
「あなた……!」
駆け寄ろうとしたアメリア様を、殿下が慌てて止めた。
「走るな!」
「でも!」
「転んだらどうする!」
先ほどまで妊婦であることをあれほど主張していたのに、こういう時には忘れるらしい。
青年は、戸惑った様子でアメリア様を見ていた。
「……すみません。どこかでお会いしましたか?」
「……え?何を……言っているの?」
「申し訳ありません。僕には、その……」
「私ですわ!アメリアです!」
「アメリア……」
名前を口にするけれど、青年の表情は変わらない。
アメリア様を知っている様子はおろか、なにかを思い出した様子もない。
「嘘……」
「すみません」
「どうして謝るのです!?私を忘れたのですか!?」
「アメリア、少し落ち着け」
「これが落ち着いていられますか!?」
「だからといって詰め寄っても、仕方ないだろう」
殿下が間に入ると、青年の仲間らしい男性が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「殿下でいらっしゃいますか?」
「ああ」
「こちらの男ですが、数か月前、街道脇で倒れているところを我々が見つけた者でして」
「倒れて?」
「馬車の事故に巻き込まれたようです。頭に怪我をしていて……目を覚ました時には、自分の名前すら分からなくなっておりました」
「記憶喪失ですの!?」
ミシェルの目が輝いた。
「本物ですわ!」
「ミシェル」
「だってお姉様!記憶喪失ですわよ!」
「本人たちの前ではしゃがないでください」
「はい……」
声は小さくなったけれど、ペンは取り出している。
「文字の読み書きや生活に困るようなことはありません。ただ、自分に関する記憶だけが抜け落ちているようで」
「では、なぜ楽団に?」
「フルートだけは吹けたんです。何も覚えていないのに、これだけは手が勝手に動いて」
「その曲も?」
アメリア様が尋ねると、青年が自分の楽器を見る。
「はい。なぜか、よく吹いてしまう曲で」
「……私が好きだと言った曲です。何度も吹いてくださったでしょう?」
「え?」
青年が目を見開いた。
もう一度、アメリア様を見る。
「あなたを見ると……変な感じがするんです」
「変?」
「知っている気がする。でも、何も思い出せない……ただ、その曲を吹いている時と似た感じがする」
「……」
アメリア様の目に涙が浮かんだ。
「では……本当に、私を捨てたわけではなかったの?」
「捨てる?」
「何も言わず、突然いなくなったでしょう!」
「僕が?」
「そうですわ!」
青年は困った顔をする。
「……すみません」
「だから、謝らないでください!」
「でも、泣いているので」
「あなたが泣かせているんです!」
「そうなんですか?」
「そうです!!」
随分と話がややこしい。
けれど、少なくともアメリア様が話していた「突然消えた楽団員」は、この青年で間違いなさそうだった。
殿下も同じことを考えたらしい。
「記憶を取り戻す方法はないのか?」
「医師にも診ていただきましたが、時間をかけるしかないと」
「ふむ……」
殿下が青年の頭を見る。
「こういうのは、もう一度頭を殴れば思い出すんじゃないか?」
「殿下」
「やめて!!」
アメリア様が青年の前に立ちはだかった。
「この人に何するんですの!」
「まだ何もしてない!」
「殴ろうとしたでしょう!」
「提案しただけだ!」
「提案もしないでください!」
「ですが、物語ではよくありますわね。頭を打って記憶を失ったなら、同じ場所をもう一度――」
「やめてください!!」
「では、棒を探してきますわ!」
「ミシェルもやめなさい」
「誰も殴らない!これでいいな!?」
殿下がなぜか一番まともな結論に辿り着いた。
この中で、唯一彼を殴る理由があるはずなのに。
青年は状況についていけていない。
「ところで……その……お子さんが?」
彼の視線が、アメリア様のお腹へ落ちた。
「ええ」
「ご結婚されているんですか?」
「……あなたの子ですわ」
「……え?」
「あなたの子です!」
「僕の!?」
青年が大きく後ずさった。
「ちょっと待ってください!僕、何も覚えてないんですけど!」
「覚えていなくてもあなたの子です!」
「そういうことをしたんですか!?」
「しました!!」
「アメリア様……あまり大声を出すとお腹の子に……」
「もういいでしょう!?」
良くはない気もするけれど、これ以上聞くのも野暮だろう。
「……僕の子」
青年がお腹を見つめる。
「本当に?」
「殿下の子ではございません!」
「それは言わなくても分かっている」
アドリアン殿下が遠い目をした。
「本当に……僕の子じゃなくてよかった……」
「殿下」
「いや、心の底から」
それはそうだろう。
青年はしばらく黙っていると、やがて、アメリア様へ向き直る。
「何も覚えていません」
「……ええ」
「だから、あなたを愛していた、と今すぐ言うこともできません」
アメリア様の表情が曇る。
「でも、この子が僕の子なら逃げません」
「……!」
「それに、あなたを見ていると……やっぱり、何か思い出しそうな気がする」
「本当に?」
一歩、近づこうとしたその時だった。
ぬるっ。
「……え?」
まるでスローモーションのように足が滑った。
見ると、足元に一匹の鯖がいる。
先ほどの爆発騒ぎで調理され損なった一匹が、どういうわけかここまで跳ねてきたらしい。
「危な――」
ずるっ。
ごんっ。
鈍い音と共に、後頭部が庭園の低い石縁にぶつかった。
「きゃああああ!!あなた!?しっかりして!お願い、目を開けて!」
「医師を!」
殿下が叫ぶ。
アメリア様がしゃがみ込むと、青年がゆっくりと目を開いた。
「……痛い」
「大丈夫!?」
「……アメリア様?」
動きが止まった。
青年が後頭部を押さえながら起き上がる。
「……え?」
「僕……どうして……」
「私が分かるの?」
「何言ってるんだ?」
「分かるんですの!?」
「もちろんです。アメリア様」
「……!」
「楽団が王都を出る前に、必ず戻ってくるって約束して……それから……そうだ。馬車が……!」
「……思い出したのですか?」
アメリア様が泣きながら勢いよく抱きつくと、もう一度倒れ込みそうになっているのを、なんとか堪えている。
「馬鹿!!」
「すいません」
「ずっと待っていたんですのよ!子供までできたのに!」
「……子供?」
青年が固まる。
「さっき聞いたでしょう!?」
「記憶が戻る前のことが少し混乱してて……」
「あなたの子です!」
「ええ!?」
「二回目だな」
「殿下、黙っていてくださいませ」
足元の鯖を見る。
ぴちぴちしている。
「……本当に頭を打って戻りましたわね」
「ほら!」
殿下が得意げに言った。
アフロなのに。
「殿下が殴っていたら、大問題になっておりましたけれど」
「結果としては正しかっただろう!」
「鯖のおかげです」
「では、記憶喪失になったら鯖を床に置けばいいんですのね!」
「ミシェル」
「冗談ですわ」
たぶん半分くらい本気だった。
青年はアメリア様のお腹に恐る恐る触れている。
「本当に僕の子?」
「何度言わせるんですの」
「……結婚してくれますか」
「今ここで!?」
「だって、僕の子なんですよね?」
「それだけですの!?」
「違います!記憶も戻ったから!ちゃんと好きです!」
「順番がおかしいですわ!」
先ほどまで殿下との復縁を求めていた人とは思えない。
けれど、こちらの方がずっと自然に見えた。
青年はしばらくアメリア様を見つめていたが、ふと何かに気づいたように顔を上げ、アドリアン殿下を見る。
「……殿下」
「なんだ?」
青年が姿勢を正した。
「その……アメリア様のこと。本当に、申し訳ありませんでした。僕は……殿下の婚約者だった方と、こんなことになってしまって」
「……」
「事故に遭ったことは言い訳になりません。その前のことですから」
アメリア様が顔を上げる。
その表情に、初めて殿下に対する謝罪の色が見えた気がした。
「……僕としては、もちろん腹が立たなかったと言えば嘘になる」
「はい」
「でも、もう婚約は終わった。それに、僕にも悪かったところはある」
殿下はしばらく青年を見る。
それから、アメリア様のお腹を見る。
「だから僕に謝るより、その二人を大事にしてくれ」
「……はい」
「まずはアメリアの父上にも挨拶しろ。簡単には許してもらえないと思うが」
「はい」
「逃げるなよ」
「もう逃げません」
「事故で消えたのですから、逃げたわけではありませんけれど」
「そうだったな」
これで、あの婚約破棄から続いていた騒動も、ようやく終わったのだろう。
たぶん。
「……朝から疲れたな……」
「本当に」
「セシリア、昼食もよかったら一緒に……」
「いえ、まだ鯖がお腹に残っているので帰ります」
「……そうか」
きっぱり断った。もう十分だった。
後ろでミシェルが残念そうに声を上げているが、ここで帰らなければ、また何が起きるか分かったものではない。
やっと帰れた……もう何日も帰っていない気がするけれど、実際にはそこまで経っていない。
しばらくは家で大人しくしておこう。
そう決めた。
殿下もここ数日の騒動で溜まった政務に追われているようで、顔を合わせることはなくなった。
代わりに、時折手紙が届く。
騎士団へ鯖の保存食を試験的に配ったこと。
鯖はその後、宮殿の庭園に急遽作られた大きな海水槽で飼われ、時折増えたり減ったりを繰り返していること。
キャンピングカーの改良版を作ると商会令嬢が張り切っていること。
爆発で膨らんだ髪は本当にその日のうちに元へ戻ったこと。
どうでもいいことばかりなのに、手紙が届く日は少し嬉しくなる。
静かに過ごせるようになったはずなのに、以前より一日が長く感じることもあった。
そんな鯖の騒動から数日後。
また殿下から手紙が届いた。
『やっと休暇が取れそうなんだが、よかったら買い物に付き合ってくれないだろうか』
次々に修羅場に遭遇する令嬢…次はどんな修羅場に遭遇するのか…
気になったら、ブックマーク、★★★★★、よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ
もし、こんな修羅場を見てみたい!などありましたら、感想でもらえると嬉しいです!





