第十九話 王太子の元婚約者が『妊婦なんです!』と訴えてきましたが、それとこれは別の話です
「……アメリア」
アドリアン殿下が呟いた。
回廊からこちらへ向かってきた令嬢は、確かに以前、大広間で殿下の子を身籠ったと主張していたアメリア様だった。
あの時より、お腹が目立っている。
「殿下!やっとお会いできましたわ!」
「待ってくれ。今は少し――」
「まあ!」
アメリア様が足を止めた。
「なんですの、その髪!?」
「それに関しては、今は触れないでくれ」
先ほどの爆発によって、殿下の髪はまだ膨らんでいる。
元に戻るのに、もう少し時間が必要なのかもしれない。
「それより、どうしてここに?」
「殿下とお話をするためです!」
「先触れは?」
「何度出しても、お返事をいただけなかったでしょう!?」
「だから直接来たのか?」
「妊娠中のわたくしが、わざわざここまで来たんですのよ!」
「殿下はお呼びしてないのでは?」
つい口から出た。
アメリア様が私を見る。
「……あなた」
「お久しぶりです。アメリア様」
「なぜあなたが殿下と一緒にいるんですの?」
「成り行きです」
他に説明のしようがない。
鯖が百匹出てきて、キャンピングカーで保存食を作っていたら爆発した。
詳しく説明しても、余計に分からないだろう。
アメリア様が顔をしかめた。
「……何、この臭い」
「鯖ですわ」
「鯖?」
「大量におります」
まだ加工されていない鯖が、中庭のあちらこちらでぴちぴち跳ねている。
「妊婦の前で魚を焼くなんて、どういうおつもりですの!?」
「どういう、と申されましても」
「魚の臭いで気分が悪くなったらどうするんです!?」
「アメリア様がいらっしゃるとは存じませんでしたので」
「今はいるでしょう!」
「でしたら、魚から離れた場所へ移動されてはいかがです?」
「妊婦を歩かせるんですの!?」
難しい。
妊娠をしたことがないから、どう扱えばよいのだろうか……
「椅子を」
「すぐに」
殿下が近くにいた侍従へ声をかけた。
「やっとですの?」
「……アメリア」
「妊婦を立たせたまま話をするなんて、あり得ませんわ」
運ばれてきた椅子を見て、さらに眉を寄せる。
「これ?」
「座れると思うが」
「もっと座り心地のいい椅子はないんですの?」
「持ってこさせる」
「最初からそうしてくださいませ」
殿下が何か言いかけて、やめた。
私はなんとなく、婚約中の二人を想像した。
きっと、今とあまり変わらなかったのだろう。
「お姉様」
ミシェルが私の袖を引く。
「なんです?」
「これですわ」
「何がです?」
「私が見たかったのは!」
目が輝いている。
「メモを取らないでくださいませ」
「まだ何もしてませんわ!」
手にはどこから持ってきたのか、しっかり紙とペンがあった。
「ミシェル嬢。後で全部没収するからな」
「横暴ですわ!」
「王太子だからな」
「殿下、そこだけ王太子の権力を使わないでくださいませ」
「じゃあどうすればいいんだ!」
殿下が疲れた顔で言う。
すると、アメリア様が椅子に腰掛けたまま不満そうにこちらを見た。
「わたくしを放っておいて、楽しそうですわね」
「……楽しそうに見えるか?」
殿下が自分の髪を指差した。
「爆発したばかりなんだが」
「妊婦の前で爆発なんて!」
「君が来る前だ!」
「でも今も燃えているではありませんか!」
「それは……そうだな」
燃えている。
商会令嬢と使用人たちが必死に消火しているので、もうじき消えそうではあるけれど。
「妊娠中に火事を見たら、お腹の子に痣ができると聞いたことがありますわ!!わたくしのお腹の子に何かあったらどうするんですか!?」
「だから離れた方がいいと言ってるんだ!」
「わたくしを追い払うおつもり!?」
どうすれば正解なのだろう。
「アメリア……話があるんだろう?」
殿下が額を押さえた。
「……そうですわ」
「聞く。だから落ち着いてくれ」
「最初からそうしてくださればよかったんです」
アメリア様が膨らんだお腹へ手を添えた。
「殿下。わたくしの実家の爵位が落とされた件についてです」
「その話か」
「わたくしは妊娠中なのですよ!?この大切な時期に、父の爵位まで下げるなんて酷すぎます!」
公爵家だったアメリア様の実家は、あの騒動の後に侯爵家となったらしい。
「それを決めたのは父上だ」
「殿下なら止められたでしょう!?」
「止めた」
「……え?」
「止めたんだ」
アメリア様が黙った。
私もアフロの殿下を見る。
「君が僕以外の男との子を身籠った。それだけなら、僕たちの婚約を解消すれば済む話だった」
「……」
「だが、その子を僕の子だと偽ろうとした。王家の血統に関わる」
さっきまで鯖を没収されしょんぼりして、今もアフロになっている人とは思えないほど、淡々とした声だった。
「父上は爵位そのものを取り上げることも考えていた」
「そんな……」
「君の父上が関与していなかったことと、婚約者だった君を僕がほったらかしていたことを話して、処分を軽くしてもらった」
「殿下が……?」
「あれが限界だった」
彼女の顔から、先ほどまでの勢いが少し消えた。
「政務にかまけて、君との時間を作らなかった僕にも責任はある」
「でしたら!」
「でも、それと僕の子だと偽ることは別だ」
ぴたりと遮られた。
「……僕も悪かったと思っている。仕事が忙しかったのは本当だ。でも、それだけじゃない」
「……」
「君に会うたびに、『また政務なの?』『私より仕事が大事なの?』と責められるのが嫌だった」
先ほどまでの勢いが嘘のように、アメリア様が唇を結ぶ。
「王太子なのだから誰かに任せればいい。君は何度もそう言っただろう?」
「だって……わたくしは婚約者でした!」
「僕にしかできない仕事もある」
「婚約者なら、もっと大切にされて当然でしょう!?」
「大切にすることと、何よりも優先することは違う」
アフロの殿下が静かに答えた。
「それをちゃんと君に言わず、会う回数を減らした僕も悪かった。面倒になって逃げたんだと思う」
自分に都合よく取り繕うつもりはないらしい。
「だから、君だけが全部悪かったとは思っていない」
「でしたら、もう一度――」
「でも、戻れない」
アメリア様の言葉が止まった。
「君には、お腹の子の父親がいる」
「……いません」
「旅の楽団員だった男だろう?」
「もう、いないんです!」
初めて声が揺れた。
「あの人は消えました!」
「消えた?国を出たとは言っていたが……」
「突然いなくなったんです!何も言わずに!」
お腹を庇う手に力が入っているように見える。
「手紙もない。行き先も分からない。もう、どこへ行ったかわからないのです……」
「それで僕の子だと言ったのか?」
「……」
「アメリア」
「怖かったんです!」
顔を上げると、堰を切ったように話し出す。
「一人で子供を産むなんて、怖かった!家にも言えない。あの人はいなくなった。殿下にもずっと会ってもらえなかった!」
「だから、僕の子にしようとした?」
「他にどうすればよかったんですの!?」
「他に方法はあった」
殿下は即答した。
「僕に相談してもよかった。父上でも、君の父上でもいい。怒られたとは思う。でも、王家の血を偽るよりはずっとよかった」
「そんなこと……あの時のわたくしに分かるわけないでしょう!」
「分からなかったから仕方ない、では済まないこともある」
俯くと、しばらくしてアメリア様が小さく呟く。
「……この子には罪はありません」
「分かっている。子供に罪はない。必要な支援が受けられるようにはする」
「殿下が?」
「王家として、できる範囲でだ」
「では……」
顔を上げると、その表情はわずかな糸をたぐるように、殿下を見つめている。
「もう、殿下は私を愛しておられないんですか?」
「……」
殿下は少しだけ困ったような顔をした。
視線がどうしても頭部に吸い寄せられてしまう。
……髪はまだ戻っていない。
「……すまない。君を妻に迎えることはできない」
それはそう。
少なくとも、ここまでの話を聞いて復縁する方が驚く。
「……そう」
アメリア様には、先ほどまでの勢いはなくなっていた。
ミシェルも、さすがに今はペンを動かしていない。
その時だった。
どこからともなく、細い音が聞こえてきた。
フルートだろうか……柔らかな旋律が、中庭へ流れ込んでくる。
「……?何の曲でしょうか?」
「……!」
聞き覚えのない曲だったけれど、アメリア様が勢いよく顔を上げ、椅子から立ち上がる。
「アメリア様?」
「この音は……っ!?」
次々に修羅場に遭遇する令嬢…次はどんな修羅場に遭遇するのか…
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