第40話 眠る妹は、自分の明日を決める
眠り続けることを選んだイオナが、自分の意思で一度だけ目覚めを求めた。
人格記録の残存率は三十二パーセント。
姉と話せる時間は、十二分。
ようやく妹の声を聞けるサヤに、イオナが最初に伝えたのは、再会を喜ぶ言葉ではなかった。
『姉さん。私を起こさないで』
イオナの最初の言葉に、サヤの表情が凍った。
人格保管庫の観測室。
中央の投影装置には、まだ姿が映っていない。
聞こえるのは、途切れがちな若い女性の声だけだ。
「イオナ……なのか?」
『うん』
「本当に?」
『その質問、難しいな』
小さく笑う声。
『私は、保存されたイオナ・グレンの三十二パーセント。姉さんの知っている私の全部ではない』
「でも、お前なんだろ」
『少なくとも、姉さんを覚えている私は、本物だと思ってる』
サヤは観測卓へ近づいた。
黒い人工眼が、青い表示を見つめる。
その手は震えていた。
ここへ来るまで、彼女は一度も走らなかった。
《MOURNING STAR》から《ウェイフェアラー》へ移乗し、人格保管庫へ到着するまで、普段と同じ速度で歩いた。
いつもの無表情も崩さなかった。
だが、声を聞いた瞬間、隠していたものが全部指先へ出た。
「姿は出せないのか?」
『出すことはできるよ』
イオナが答える。
『ただし、欠けた部分を予測で補う必要があるって』
「補えばいい」
『嫌』
拒絶は早かった。
『記録にない私を、装置に想像されたくない』
サヤの唇が動く。
反論しかけて、止まった。
「分かった」
『輪郭だけなら出せる』
「お前が望むなら、それでいい」
『じゃあ、そうする』
観測卓の上に青い光が集まった。
人間の形が作られていく。
小柄な女性。
肩に届く髪。
胸元で組まれた両手。
けれど、顔の左側と身体の一部は、星の砂のような光で途切れている。
欠損を隠してはいない。
誰かの推測で埋めてもいない。
残っているものだけで作られた、イオナの姿。
「姉さん」
投影像が笑う。
「老けたね」
「お前に言われたくない」
「私は保存されたときのままだもの」
「ずるいな」
「姉さんほどじゃないよ」
その会話だけは、ごく普通の姉妹に見えた。
『安全覚醒時間、残り十一分二十秒』
ミラが告げる。
『延長は推奨しません。イオナ本人による終了要求は、常時受け付けます』
「分かってる」
サヤが答える。
俺は観測室の端にいた。
本来なら、姉妹だけにするべきなのかもしれない。
だが、入室前にサヤから言われた。
『お前もいろ』
『いいのか?』
『私一人だと、聞きたい言葉だけを聞いたことにするかもしれない』
だから、ここにいる。
会話を導くためでも、二人の選択を決めるためでもない。
サヤが後から現実を疑わなくて済むよう、見届けるために。
「なぜ今、目覚めた?」
サヤが尋ねた。
「《ORIGIN REGISTRY》はまだ止まっていない。お前は、それまでは眠ると言ったはずだ」
「状況が少し変わったから」
「ダリウスの部隊が回収命令への協力を止めたことか?」
「それもある」
イオナは俺を見る。
「それから、姉さんの記録を読んだ」
「私の?」
「すべてじゃないよ。私に開示された行動記録だけ」
《MOURNING STAR》と結んだ協力契約。
サヤが俺たちと食事をした回数。
イオナの人格を無理に起こさず、選択を待ったこと。
サヤ本人が、妹へ見せてもいいと設定していた記録だけだ。
「姉さんが、以前より人の話を聞くようになってた」
「余計な記録まで残すな」
「姉さんが許可したんでしょう?」
「昔の私だ」
「数日前だよ」
「昔だ」
イオナが笑う。
声が一瞬だけ途切れ、光の輪郭が揺れた。
サヤが観測卓へ手を伸ばす。
「大丈夫か?」
「うん。これは痛みじゃない」
「本当に?」
「姉さん」
イオナの声が少し強くなる。
「私が大丈夫だと言ったら、まずは信じて」
サヤの手が止まった。
「……分かった」
「心配なら質問していい。でも、私より先に私の状態を決めないで」
「ああ」
「今の姉さんなら、その話ができると思った。だから起きたの」
サヤは何も言わなかった。
イオナの顔を見つめている。
欠けているはずの左側まで、そこに表情があるように。
「何を伝えたい?」
「三つある」
イオナは指を一本立てた。
「一つ目。私を、姉さんが用意した身体へ入れないで」
サヤの右手が硬く握られる。
「知っていたのか」
「《MOURNING STAR》の保管記録にあった」
サヤは妹の人格を取り戻すため、長い間準備していた。
人格移植が可能な身体。
妹の生前記録に近い顔。
神経接続へ耐えられる人工脳。
いつ人格データを発見してもいいように、少しずつ部品を集めていた。
「まだ完成していない」
「完成しても嫌」
「なぜだ」
「私が選んでいないから」
「お前の昔の身体に近づけた」
「昔の身体が嫌だと言っているんじゃない」
イオナは首を振る。
「姉さんが悪いとも言ってない。私のために集めてくれたことは分かってる」
「なら――」
「でも、次に身体を持つなら、私が起きて、自分で見て、自分で選びたい」
サヤの表情が歪んだ。
「その間に、データが壊れたら?」
「壊れる可能性はある」
「《ORIGIN》に奪われたら?」
「それも怖い」
「なら、今すぐ移した方が安全だ」
「安全でも、嫌なの」
声は穏やかだった。
だからこそ、拒絶がはっきり伝わる。
「姉さんは、私を失うのが怖いんでしょう?」
「ああ」
「もう一度失うくらいなら、私が嫌がっても身体へ入れたい?」
サヤは答えられなかった。
長い沈黙の後、握った拳を開く。
「……入れたい」
「うん」
「お前が怒っても、生きていれば後から謝れると思ってる」
「姉さんらしいね」
「だが」
サヤは息を吐いた。
「やらない」
観測卓へ、自分の端末を置く。
人格記録に設定された家族代理権限が表示された。
イオナの覚醒。
移送。
緊急時の身体転送。
現在の管理規約では、血縁者であるサヤが一部を代行できる。
「この権限を消せばいいのか?」
「緊急移送は残して」
「身体への転送は?」
「私自身の現在承認がある場合だけ」
「覚醒権限は?」
「私から要求したときだけ。姉さんから起こすことはできないようにして」
サヤの指が確認欄の上で止まる。
「お前が眠っている間に、話したいことができたら?」
「二つ目が、その話」
イオナは指を二本立てた。
「手紙を送って」
「手紙?」
「音声でも映像でもいい。私を起こさず、保管領域へ置いておいて」
「眠っているお前は読めない」
「次に私が起きたいと思ったときに読む」
「次は、いつだ」
「決めてない」
「一年後か?」
「分からない」
「十年後かもしれないのか?」
「そうかもしれない」
サヤの黒い人工眼が、かすかに明滅する。
「待てと言うのか」
「姉さんには、待たなくていいと言いたい」
「どういう意味だ」
「私が起きるまで、姉さんの時間を止めないで」
イオナの声から、笑みが消えた。
「復讐の進み具合だけを送るのも禁止」
「なぜだ」
「読みたくないから」
「お前をこんな状態にした奴らだぞ」
「だから怒るなとは言ってない」
イオナは正面から姉を見る。
「姉さんが許せないなら、姉さんの名前で怒って」
「お前のためだ」
「私の名前を理由にしないで」
サヤの肩が震えた。
「私が復讐を望んでいることにすれば、姉さんは自分が何をしたいか考えなくて済む」
「そんなことは――」
「あるよ」
姉妹の声が重なる。
「私は、姉さんに怒る権利がないとは言ってない。戦うなとも言わない」
イオナは続ける。
「ただ、私の人生を取り戻すことと、姉さんが誰かを殺すことを、同じにしないで」
「では、私は何をすればいい」
「食べたものを送って」
「何?」
「今日は何を食べたとか。どの星を見たとか。眠れたとか」
「そんなものを?」
「そういう姉さんの話、ほとんど聞いたことがないもの」
イオナが少し笑う。
「たまには、誰かを追いかけていない姉さんのことを知りたい」
サヤは俯いた。
白い髪が顔へ落ちる。
「分かった」
「本当に?」
「努力する」
「料理の写真も欲しい」
「作らない」
「買ったものでもいいよ」
「《MOURNING STAR》の保存食になるぞ」
「毎回それなら、レンさんの船で食べさせてもらって」
突然名前を出され、俺は姿勢を正した。
「俺?」
「姉さん、一人ではまともに食べないから」
「余計なことを言うな」
「その人なら、姉さんが食べ終わるまで待ってくれそう」
イオナは俺を見る。
「お願いしてもいいですか?」
「俺が決めることじゃないけど、食卓にはいつでも来ていい」
「だって、姉さん」
「契約にない」
「食事に契約が必要なの?」
「こいつの船では必要ないらしい」
「詳しいね」
「何度か食べただけだ」
サヤの手が、いつの間にか俺の上着の袖を握っている。
本人は気づいていないようだった。
イオナがその手を見る。
「姉さん」
「何だ」
「契約相手の袖って、そんなふうに握るもの?」
サヤが自分の手を見る。
すぐに離そうとした。
しかし、指が途中で止まる。
「これは……」
「不安だから、そばにいてほしいんでしょう?」
「違う」
「違うの?」
「こいつを証人として逃がさないためだ」
「そういうことにしておくね」
「イオナ」
「怒らないで。少し安心したの」
投影像の輪郭が柔らかくなる。
「姉さんが、誰かのそばにいることを選べるようになったんだって」
サヤは俺の袖を離さなかった。
俺も何も言わない。
『安全覚醒時間、残り四分三十秒』
ミラが告げる。
「三つ目は?」
サヤが尋ねた。
イオナは少し黙った。
「姉さんは、私に謝りたい?」
「ああ」
「何を?」
「お前が別人のようになっていたのに、気づけなかった」
《ORIGIN REGISTRY》は、イオナの身体から人格を抜き取った。
代わりに、命令へ従いやすい適応用人格を入れた。
身体は家族のもとへ返された。
サヤは妹が帰ってきたと思った。
しかし、その身体にいたものは、本来のイオナではない。
適応用人格は三百十二日後に崩壊。
イオナの身体も死亡した。
「助けを求めていたかもしれないのに、私は――」
「求めてないよ」
イオナが答えた。
「え?」
「少なくとも、ここに残っている私は、姉さんへ助けを求められなかった」
「なぜだ」
「抜き取られる直前まで、自分に何が起きているか分からなかったから」
青い輪郭に、細い乱れが走る。
「眠るように言われた。次に目覚めたら、痛みも恐怖もなくなるって」
「嘘だった」
「うん。でも、信じたのは私」
「お前の責任じゃない」
「なら、気づけなかった姉さんだけの責任でもないよ」
サヤの顔が上がる。
「戻ってきた身体の中に、私がいなかったことを姉さんは知らなかった」
「それでも――」
「姉さん」
イオナが呼ぶ。
「私が謝らなくていいと言ってるの」
サヤの唇が震える。
「その言葉を、受け取って」
長い沈黙。
やがて、サヤが頷いた。
「ああ」
「声にして」
「私は」
言葉が途切れる。
「お前に許されたことを、受け取る」
「うん」
「だが、忘れはしない」
「忘れなくていいよ」
「お前を取り戻せなかったことも」
「私は、ここにいる」
「三十二パーセントだ」
「三十二パーセントの私を、いないことにしないで」
サヤの頬を、涙が一筋流れた。
黒い人工眼からは流れない。
残された右目だけが泣いている。
彼女は拭わなかった。
「分かった」
端末を操作する。
『家族代理覚醒権限を放棄しますか?』
「放棄する」
『身体転送には、人格本人の現在承認が必要となります』
「承認する」
『緊急時の保管領域移送権限のみ維持します』
「それでいい」
イオナの記録に、新しい条件が書き込まれる。
『管理主体――イオナ・グレン』
『代理覚醒――許可しない』
『身体転送――本人の現在承認が必須』
『サヤ・グレンからの記録受信――許可』
サヤは最後の確認欄を押した。
『更新完了』
取り消した権限は、サヤの判断だけでは戻せない。
妹を目覚めさせる鍵を、自分の手から離した。
「これでいいか?」
「うん」
イオナは嬉しそうに頷いた。
「ありがとう、姉さん」
『残り一分』
青い光が、少しずつ弱くなる。
「イオナ」
「大丈夫」
「次は、いつ話せる?」
「話したくなったら、私から起きる」
「必ずか?」
「約束はできない」
「なぜだ」
「次に目覚める私が、今の私と同じことを望むか分からないから」
サヤは苦しそうな顔をした。
それでも、無理に約束させなかった。
「分かった」
「手紙、送ってね」
「ああ」
「食事の写真」
「努力する」
「レンさんと一緒なら、姉さんも写って」
「なぜこいつと一緒が前提なんだ」
「まだ袖を握ってるから」
サヤの指が、再び強く俺の袖をつかむ。
「最後まで余計なことを」
「姉さん」
イオナの輪郭が崩れ始める。
「生きていてね」
サヤの喉から、掠れた声が出た。
「お前も」
「うん」
イオナは俺を見る。
「姉さんをお願いします、とは言いません」
「言わないの?」
「姉さんの人生だから」
欠けた顔で笑う。
「でも、そばにいたいなら、いてあげて」
「分かった」
「おい」
サヤが低い声を出す。
イオナの笑い声が響く。
次の瞬間、投影像が光の粒へ変わった。
『本人の要求により、安全覚醒を終了します』
観測卓に、一つの橙色の灯が残る。
『外部記録受信――有効』
眠りへ戻った。
だが、完全に閉じたわけではない。
サヤの言葉を受け取る、小さな窓が残っている。
「終わったな」
俺が言う。
「ああ」
サヤはまだ袖を握っている。
指摘しようとして、やめた。
「レン」
「何?」
「しばらく、ここにいろ」
「うん」
「何も言うな」
「分かった」
俺は動かなかった。
サヤも袖を離さなかった。
どれくらい時間が過ぎたのか分からない。
やがて俺は、動かせるようになった右手を持ち上げた。
「触ってもいい?」
サヤが顔を上げる。
「こういうときまで聞くのか」
「聞いた方がいいと思った」
彼女は鼻をすすった。
「……いい」
俺の右手を、袖をつかむ彼女の手へ重ねる。
三本の指しか、うまく力が入らない。
それでも、サヤの冷たい手を包むことはできた。
「温かいな」
サヤが呟く。
「手が?」
「お前が」
黒い人工眼が俺を見る。
「今のは忘れろ」
「無理だと思う」
「契約違反にするぞ」
「どの契約?」
「今から作る」
以前にも聞いたような言葉だった。
サヤの口元が、ほんの少しだけ緩む。
観測室を出ると、レナが通路で待っていた。
壁へ背を預け、腕を組んでいる。
「聞いてた?」
「会話の内容は聞いていません」
レナは俺の袖を見る。
サヤが握っていた場所には、皺が残っている。
「ただし、接触記録は船内安全情報として確認しました」
「それ、覗き見に近くない?」
「近くありません」
「嫉妬してる?」
「はい」
迷いのない返事。
「ですが、今日はその袖を貸したままで構いません」
レナが俺の前へ立つ。
襟元を、また直す。
「その代わり」
「代わり?」
「延期した二人の時間は、二倍にします」
「二倍?」
「朝まででも構わないと伝えました」
顔が近づく。
額が触れた。
「今夜と、明日の朝までです」
「それは本当に二倍になるのか?」
「計算は、部屋で説明します」
レナの唇が、俺の唇のすぐそばで止まる。
「逃げないでくださいね、レン」
返事を待たず、彼女は先に歩き出した。
数歩進んでから振り返る。
「来ないのですか?」
断るつもりなど、最初からなかった。
目覚める時期も、身体も、自分で選ぶと決めたイオナ。
次回、サヤは妹へ送る最初の記録を作るため、《ウェイフェアラー》の食卓へ自分から座ります。




