第39話 二十三日目、兵士は自分の名で報告する
ダリウスから与えられた二十三日間が終わる。
ユーノが提出できる報告書は一つだけ。
真実をすべて書けば、百七十三人の人格記録と《ウェイフェアラー》の位置がマーテルへ渡る。
隠せば、組織を変える証拠まで失われる。
かつて命令に従うだけだった兵士は、自分が守るものを選ばなければならなかった。
「レン。少し屈んでください」
通信室へ入る直前、レナが俺の前に立った。
「何かついてる?」
「襟が曲がっています」
浮遊椅子の高度を下げる。
レナが黒い上着の襟へ指をかけた。
顔が近い。
黒い髪が俺の頬へ触れる。
襟を直すだけにしては、少し時間が長い。
「もう直ってない?」
「まだです」
「そう?」
「昨日、ミサキと青い紐で結ばれていた時間の分、今日は私が近くにいると決めました」
小さな声で告げられる。
「それは襟と関係あるのか?」
「ありません」
レナは平然と答えた。
「嫌ですか?」
「嫌じゃない」
「では、問題ありません」
襟から手を離したと思った瞬間、彼女の唇が俺の耳元へ近づいた。
「通信が終わったら、私の部屋へ来てください」
「何かある?」
「二人だけで朝食を取る約束を、まだ完全には果たしていません」
「朝食は食べただろ」
「二人だけではありませんでした。ピコがテーブルの下にいました」
『緊急整備だった』
通路の点検口から抗議の声がする。
「数に入れなくてもいいんじゃないか?」
『差別を検出』
「そういう意味じゃない」
レナの指が、俺の唇へ触れた。
「今夜、改めて二人だけで食事をします」
「夕食になるけど」
「時間帯は重要ではありません」
金色の瞳が俺を見つめる。
「その後も、しばらく帰さない予定です」
「それは命令?」
「希望です」
彼女は指を離した。
「返事は、通信が終わってから聞きます」
こちらが考える時間を残しながら、断られるとは思っていない顔をしている。
胸の奥が妙に落ち着かなくなった。
『船長』
通信室からユーノの声がする。
『開始時刻まで、残り三分だ』
「今行く」
レナは満足したように一歩下がった。
「頑張ってください、レン」
「俺が報告するわけじゃないけどな」
「それでもです」
通信室には、ユーノが一人で座っていた。
机の上には三つの報告書が並んでいる。
一つ目は、マーテルの規定に沿った正式報告。
二つ目は、彼女が見たすべてを書いた無修正版。
三つ目は、個人情報と現在地を伏せた報告。
「どれを出す?」
俺が尋ねる。
「まだ決めていない」
ユーノは眠っていないようだった。
目の下に薄い影がある。
マーテルの制服は着ている。
だが、所属章があった場所だけ空いていた。
診療所の隔壁前へ置いた後、一度は回収したらしい。
黒い所属章は、三つの報告書の横に置かれている。
「一つ目は?」
「組織にとって最も安全な報告だ」
表示を開く。
『《ORIGIN REGISTRY》による権限逸脱の可能性あり。証拠不十分につき、追加調査を推奨』
「嘘ではない」
「でも、何も変わらない」
「ああ」
「二つ目は?」
『《ORIGIN REGISTRY》は、身体および人格記録を本人の現在意思と無関係に資産化している』
俺の契約記録。
サーティーンの人格断片。
百七十三人の保存状態。
エリスの債務契約。
イオナの人格保存率。
俺たちの航路と、《ウェイフェアラー》の人格保管庫の構造。
すべてが書かれている。
「これを提出すれば、十分な証拠になる」
ユーノが言う。
「同時に、マーテルが百七十三人を回収するための案内図にもなる」
「三つ目は?」
個人名と位置情報が黒く消されている。
証言者ごとに、開示を許可された範囲だけが残されていた。
俺の契約は全文。
エリスの債務契約も、本人の署名つき。
《HELIX CLINIC》の封鎖記録は、診療所が正式に開示を許可している。
マリアの事例は匿名。
本人の希望により、選んだ身体の形も伏せられていた。
イオナとサーティーンの情報は記載されていない。
本人から、報告へ利用する許可を得られないからだ。
「三つ目では、証拠として弱い」
「それでも、何が起きているかは伝わる」
「ダリウスが信じればな」
ユーノは俺を見る。
「お前は、どれを提出してほしい?」
「船長として?」
「神代レンとしてだ」
俺の答え一つで、彼女は選択を変えるかもしれない。
そう思うと、簡単には言えなかった。
「二つ目は嫌だ」
「やはり、位置が知られるからか」
「それもある。でも、一番の理由は違う」
「何だ?」
「許可をもらっていない人のことまで、俺たちの都合で使うから」
百七十三人は、同じ未来を望んでいない。
身体が欲しい者。
身体を望まない者。
起きている者。
眠り続けることを選んだ者。
俺たちを信用していない者もいる。
「組織を変えるためなら、使っていいとは思わない」
「三つ目では、ダリウスを説得できない可能性がある」
「それでも、俺は三つ目を選ぶ」
「勝てなくても?」
「勝つために守るものを捨てたら、何に勝ったのか分からなくなる」
ユーノは三つ目の報告書へ目を戻した。
「お前らしい答えだ」
「ユーノは?」
「私は――」
『定時通信まで、残り一分』
ミラの声が割り込む。
ユーノは三つの報告書を見比べた。
一つ目を削除する。
次に、二つ目も削除した。
無修正版のデータが消える。
残ったのは、黒く伏せられた箇所の多い三つ目だけだ。
「不完全な報告になる」
「うん」
「それでも、これを私の名前で出す」
彼女は黒い所属章を胸へ戻さなかった。
代わりに、机の中央へ置いた。
『通信を開始します』
部屋の照明が落ちる。
正面へ、一人の男の立体映像が現れた。
ダリウス・ヴェイン。
第七回収部隊指揮官。
以前より頬が痩せている。
右肩の軍装には修復跡があり、《TITAN FRAME》との接続端子も一部が外されていた。
『ユーノ・カストル』
「はい」
『二十三日間の現地調査期限を終了する』
「確認しました」
『先に尋ねる』
ダリウスの視線が、ユーノの胸元へ向く。
『所属章はどうした』
「机の上にあります」
『なぜ身につけない』
「今から提出する報告が、所属への忠誠ではなく、私個人の判断によるものだからです」
短い沈黙。
『報告書を送れ』
ユーノが送信操作を行う。
報告書がダリウスの前へ表示された。
彼は一頁ずつ読む。
室内には、通信装置の低い駆動音だけが響いている。
『黒塗りが多い』
「本人の許可を得られなかった情報です」
『調査対象の位置情報もない』
「救助対象として保護されている人格記録の位置は、開示しません」
『誰の命令だ』
「私が決めました」
『お前は、マーテルの現地調査官だ』
「権限は《HELIX CLINIC》の医療記録返還に使用し、すでに停止されています」
『報告は受けている』
ダリウスの声が低くなる。
『証拠封鎖へ異議を申し立て、患者へ記録を返した。命令系統への事前確認はない』
「確認すれば、止められると判断しました」
『そうだろうな』
否定しなかった。
ダリウスは報告書を読み進める。
『四千八百二十一件の債務契約に、人格権を担保化する同一書式が使われていた』
「エリス・ヴァント本人と、影響を受けた契約者のうち開示へ同意した者の記録です」
『生前に結ばれた身体管理契約が、死亡後に再構築された人間へ継承された』
「神代レン本人が全文開示を許可しています」
ダリウスが俺を見る。
『お前は、自分に不利な契約まで提出したのか』
「過去の俺が同意した事実は消さない」
『その同意を無効だと主張するのか』
「過去の同意が存在したことと、現在も同意していることは別だと主張してる」
『言葉の違いに見える』
「身体を止められる側にとっては、大きな違いだ」
ダリウスは何も言わない。
次の頁。
《ORIGIN REGISTRY》による回収要求。
人格を資源単位として数えた記録。
マーテルへ提供された、回収優先順位。
『百七十三という数字だけがあり、個体情報がない』
「本人たちの許可がありません」
『実在を証明できない』
「それでも書く必要がありました」
ユーノが答えた。
「彼らを証拠へ変えずに、何が行われたかを報告するためです」
『名前も姿も示さず、組織へ信じろと言うのか』
「いいえ」
ユーノは背筋を伸ばす。
「調査してください。ただし、回収部隊ではなく、本人の現在意思を確認できる方法で」
『その間に、証拠が逃げる可能性がある』
「人が自分で移動することを、証拠の逃亡とは呼びません」
通信室の空気が張り詰めた。
ダリウスの背後で、誰かが動く影が見える。
彼一人で通信しているわけではない。
この記録は、マーテル内部へ残る。
『報告書の結論を読め』
ダリウスが命じた。
ユーノは最終頁を開く。
「《ORIGIN REGISTRY》が発行する人格および身体の回収要求は、救助要請ではなく、所有権の主張として機能しています」
自分の声で読み上げる。
「現在の本人による個別同意を確認できない限り、第七回収部隊は当該要求へ協力するべきではありません」
『“べきではない”か』
「はい」
『命令への服従を拒むという意味だな』
「命令の内容を確認せず、服従だけを理由に行動することを拒みます」
『随分と変わった』
ダリウスの目が細くなる。
「そうかもしれません」
『神代レンに何をされた』
質問に、レナが通信室の外で動く気配がした。
おそらく聞いている。
「身体も人格も操作されていません」
ユーノは淡々と答える。
「意見を求められ、選択肢を示されました」
『それだけか』
「待たれました」
『何を?』
「私が自分で決めるまでです」
ダリウスの視線が俺へ向く。
『お前は兵士一人を奪うために、二十三日も待ったのか』
「奪ってない」
『なら、ユーノは今も私の部下か』
俺が答えることではない。
ユーノを見る。
彼女は机の上の所属章へ手を伸ばした。
黒い金属板を持ち上げる。
長い間、自分の名前より先に示してきたもの。
「ダリウス指揮官」
『何だ』
「私は、マーテルに救われた恩を否定しません」
『ああ』
「あなたから学んだことも、部隊で守られたことも忘れません」
所属章を胸元へ近づける。
だが、つけなかった。
「それでも、現在の意思を確認せず人を回収する命令には従えません」
『その条件では、私の部隊へ戻れない』
「理解しています」
『除隊を望むのか』
ユーノはすぐに答えなかった。
所属章を握る指へ力が入る。
「逃げる形では終わらせたくありません」
『では?』
「必要なら、マーテルの審理へ出ます。自分の行動について証言します」
『拘束される可能性がある』
「分かっています」
「ただし」
ユーノは顔を上げる。
「今は戻りません。百七十三人の安全が確保され、報告の内容が正式に検討されるまで、独立した証言者として行動します」
『都合のいい立場だ』
「はい」
『兵士でもなく、脱走者でもないと言うつもりか』
「その名称を決めるのは、あなたたちでしょう」
所属章を机へ置く。
「どう行動するかは、私が決めます」
ダリウスは動かなかった。
やがて、報告書の最終頁へ自分の認証を入れる。
『現地調査報告、受理』
ユーノが目を見開いた。
『第七回収部隊は本報告に基づき、《ORIGIN REGISTRY》発行の回収要求に対する協力停止を無期限で継続する』
「指揮官」
『ただし、私の権限が及ぶのは第七部隊だけだ』
ダリウスは続ける。
『マーテル全体を変える力はない。百七十三人へ保護資源を割り当てるとも約束できない』
「分かっています」
『神代レンの懸賞指定も、私には解除できない』
「それでも十分だ」
俺が言う。
『十分ではない』
ダリウスは即座に否定した。
『一部隊が撃たなくなっただけだ。別の部隊も、懸賞請負人も動く』
「でも、一つは変わった」
『そう思いたければ思え』
相変わらず素直ではない。
『ユーノ・カストル』
「はい」
『お前の所属資格を、現地調査終了に伴う無期限停止とする』
「除隊ではなく?」
『お前は審理へ出ると言った。ならば、証言する席を残す』
「……ありがとうございます」
『礼を言うな。審理で私の判断が誤りだったと証明されれば、拘束命令を出すのも私だ』
「そのときは、内容を聞いて判断します」
ダリウスの口元が、ほんのわずかに動いた。
『最後まで可愛げのない部下だ』
「あなたに教わりました」
『そうか』
ダリウスは俺へ視線を移す。
『神代レン』
「何?」
『お前を人間として信用したわけではない』
「知ってる」
『能力の危険性についても評価を変えていない』
「それも知ってる」
『だが、第七回収部隊は今後、お前を回収物とは呼ばない』
それは謝罪ではない。
味方になるという約束でもない。
けれど、最初に会ったときの彼は、俺の名前さえ呼ばなかった。
「ありがとう、ダリウス」
『礼を受け取る理由はない』
「俺が言いたかっただけだ」
『勝手にしろ』
通信終了の表示が出る。
『ユーノ』
最後に、ダリウスが呼んだ。
「はい」
『次に会うまで、その所属章は自分で持っていろ』
通信が切れた。
暗くなった投影装置に、俺とユーノの姿が映る。
ユーノはしばらく動かなかった。
「終わったな」
「ああ」
「大丈夫?」
「分からない」
今日、何度目かの答え。
「戻る場所を失った気もする」
「帰ってきたくなったら?」
「戻れると思うか?」
「前と同じ場所には戻れないだろうな」
ユーノの表情が曇る。
「でも、違う立場で会うことはできる」
マーテルの兵士としてではなく。
命令を届ける者としてでもなく。
自分の見たものを、自分の言葉で話す者として。
「レン」
「うん」
「《ウェイフェアラー》に、もう少しいてもいいか?」
「期間は?」
「まだ決められない」
「なら、決まるまで」
「そんな曖昧な乗員契約があるのか?」
「今から作る」
ユーノが小さく笑った。
「エリスに怒られるぞ」
「正式な契約は後で相談する」
「役割は?」
「警戒担当。あとは、マーテルとの交渉立会人」
「兵士ではなく?」
「ユーノ・カストルとして」
彼女は所属章を持ち上げる。
制服へ戻すのではなく、透明な保管ケースへ入れた。
「分かった」
ケースの蓋を閉じる。
「次に使うときは、何のためにつけるのか自分で決める」
通信室の扉が開いた。
レナが立っている。
「終わりましたか?」
「うん」
「では、レンを借ります」
ユーノが眉を上げる。
「船長にまだ確認事項がある」
「後にしてください」
「重要な確認だ」
「私にも重要な約束があります」
レナは俺の浮遊椅子の背へ手をかける。
有無を言わせず動かすのではなく、顔を覗き込んだ。
「レン。先ほどの返事を聞いていません」
「希望の話?」
「はい」
「レナの部屋で食事をして、その後もしばらく一緒にいる」
「嫌ですか?」
「行きたい」
レナの金色の瞳が、わずかに柔らかくなる。
「では、決定です」
「何時まで?」
「それは、二人になってから相談します」
耳元へ顔を寄せる。
「朝まででも、私は構いません」
「レナ」
「希望を伝えただけです」
通信室の外へ押されながら、振り返る。
ユーノが呆れたようにこちらを見ていた。
「確認事項は明日でいい」
「助かる」
「ただし船長」
「何?」
「顔が赤いぞ」
扉が閉まる直前、レナが答えた。
「私がそうしました」
妙に誇らしげな声だった。
『船長、レナ』
通路にミラの声が響く。
『人格保管庫から、自発的な通信要求を検出しました』
レナが足を止める。
「誰から?」
『イオナ・グレン』
眠ることを望んでいた、サヤの妹。
『一度だけ、姉と話したいと要求しています』
自分の名で報告し、命令の外へ踏み出したユーノ。
次回、眠りを選んだイオナが、姉のサヤへ伝えたい言葉と向き合います。




