第38話 壊れた診療所は、同じ場所へ戻らない
《ウェイフェアラー》は、再建途中の《HELIX CLINIC》へ帰還した。
しかし、診療所の乗船口がユーノのマーテル所属章を検出し、隔壁を閉ざす。
かつて患者を回収しようとした兵士を、再び診療所へ入れてよいのか。
その判断を下すのは、救った側ではなく、ここで傷つけられた人々だった。
『マーテル所属者を検出』
赤い警告表示が、ユーノの胸元へ重なった。
『当該人物の入域を拒否します』
再建途中の《HELIX CLINIC》をつなぐ隔壁が、俺たちの目の前で閉じた。
透明板の向こうに、数人の患者と作業員がいる。
工具を持っていた男が、それを床へ置く。
代わりに手にしたのは、溶接用の熱線器だった。
武器ではない。
だが、人間へ向ければ十分に危険だ。
「その女を連れて帰れ」
男が言った。
「診療所へマーテルを入れるな」
ユーノは反論しなかった。
腰から拳銃を外し、床へ置く。
胸の所属章も外した。
《MATER ORDER ENFORCEMENT》
黒い金属板に、まだその文字が残っている。
「私は船へ戻る」
ユーノが言った。
「待って」
ミサキが止める。
「彼らが入るなと言っている」
「まだ全員の判断を聞いていないわ」
「聞く必要はない。私がここにいることで、患者が治療を受けられなくなるなら退く」
ユーノは《ウェイフェアラー》へ続く通路を振り返った。
「それが最も安全だ」
「あなたが決めることではない」
透明板の向こうから、別の声がした。
杖をついた老人が、人々を分けて前へ出てくる。
以前、《HELIX CLINIC》から避難した患者の一人だ。
「入れるか追い返すかは、ここにいる者が決める」
「異論はない」
ユーノは隔壁へ向き直る。
「なら、判断に従う」
帰ってきた診療所は、俺の記憶にある姿とは大きく変わっていた。
外壁の三分の一がない。
破壊された区画は切り離され、代わりに輸送船用の貨物室が接続されている。
白かった通路には、規格の違う灰色の壁材。
天井を走る医療用配線は、固定具が足りず青い布で束ねられていた。
診療所というより、治療設備を集めた工事現場だ。
それでも、内部では患者が治療を受けている。
呼吸補助装置をつけた少女が、透明板の向こうを走っていった。
あの日、大きな荷物と医療用酸素のどちらを運ぶか迫られた男が、少女の後を追っている。
助かったのだ。
避難させた人たちは、生きてここへ戻ってきた。
その事実を見ただけで、胸の奥が少し軽くなる。
「レン」
ミサキに呼ばれ、視線を戻した。
「話し合いをするわ。あなたも来て」
「ユーノは?」
「隔壁の外で待ってもらう」
「分かった」
診療所側から小型通信端末が渡される。
俺とミサキの立体映像だけが、内部の会議区画へ投影された。
集まったのは十一人。
患者。
医療従事者。
避難を手伝ったアンドロイド。
再建作業員。
全員がユーノの入域について意見を求められた。
「敵だった奴を入れる必要はない」
熱線器を持っていた男が言う。
「怪我人としてなら受け入れる。でも、今のあいつは歩けるし、武器も持っていた」
「武器は置いたわ」
「置けば、やったことが消えるのか?」
「消えない」
ミサキが答えた。
「私は許してほしいとは言っていない」
通信越しにユーノの声が届く。
「当時の私は、第七回収部隊の命令系統下にいた。診療所の包囲に参加し、患者の移動を妨害した」
言い訳を挟まない。
「直接発砲したかどうかで、責任を切り分けるつもりもない」
「なら、何をしに戻った?」
「診療所の医療記録に残された、マーテルの封鎖を解除するためだ」
室内がざわついた。
診療所の診察記録や治療同意書は、中央医療記録庫へ保存されていた。
襲撃時、マーテルは記録庫を証拠物として封鎖。
患者の移送後も、その封鎖は解除されていない。
再建作業員たちは複製記録だけで治療を続けていた。
だが、複製には限界がある。
長期投薬の変更履歴。
義体と神経の接続情報。
治療拒否の記録。
緊急時に許可する処置と、許可しない処置。
どれも、患者の生活や命に関わる。
「封鎖を解除できるのか?」
老人が尋ねる。
「ダリウス・ヴェインから与えられた、現地調査権限が残っている」
ユーノが答えた。
「ただし、私の権限だけでは記録庫を開けない」
「なぜ?」
「襲撃時に制御装置が損傷した。認証管理表の一部が壊れている」
ミサキが記録庫の状態を表示する。
「完全初期化なら開けられるわ」
「それをすると?」
俺が尋ねる。
「患者ごとの閲覧権限と、治療に関する意思表示が消える」
「中の記録は?」
「残る。でも、誰が何を見てよいか分からなくなる」
それでは、開けたとは言えない。
患者の記録を、誰でも閲覧できる状態に変えるだけだ。
「復元する方法は?」
「元の管理表を修復する必要がある。ただ、壊れた部分へアクセスするには、マーテルの封鎖を一度解除しなくてはならない」
順番が逆になっている。
管理表を直さなければ安全に開けない。
だが、開けなければ管理表を直せない。
「私の認証を使えば、九十秒間だけ封鎖を停止できる」
ユーノが言った。
「その間に管理表を修復できなければ、自動的に再封鎖される」
「もう一度やれば?」
「この権限は一度しか使えない」
「使った後、お前はどうなる?」
熱線器の男が尋ねた。
「証拠封鎖への異議使用として記録される。マーテル本部へ同期された時点で、現地調査権限は停止されるだろう」
「部隊へ戻れなくなるのか?」
「少なくとも、同じ立場では戻れない」
男が鼻で笑った。
「それを言えば、俺たちが同情すると?」
「しなくていい」
ユーノの声は変わらない。
「必要な情報として伝えただけだ」
会議区画に沈黙が落ちた。
入域を認めるか。
外から認証だけを送らせるか。
ユーノの協力を拒み、別の解除手段が見つかるまで待つか。
三つの選択肢が表示される。
俺は口を挟まなかった。
ここで傷つけられた人たちが決めることだ。
話し合いは二十分続いた。
怒鳴り声もあった。
マーテルの人間を信用するべきではないという意見。
患者の記録を取り戻すためなら、認証だけ使わせればいいという意見。
責任を取ると言うなら、顔を見える場所に置くべきだという意見。
最後に、一人ずつ選択した。
『条件付きで入域を認める』
七票。
『外部から認証のみを許可する』
三票。
『協力を拒否する』
一票。
「決まったわ」
ミサキが隔壁の前へ戻る。
「武器は持ち込まない。所属章は外す。診療所内では、患者や職員の許可なく個人情報へ触れない」
「従う」
「それから」
熱線器を持っていた男が言う。
「許したわけじゃない」
「理解している」
隔壁が開く。
ユーノは武器と所属章を床に残したまま、境界線を越えた。
誰も歓迎しない。
拍手もない。
ただ、追い返されることもなかった。
それが今、彼女に与えられたすべてだった。
記録庫は、半壊した旧診療区画の奥にある。
通路の照明は復旧していない。
作業灯の白い光を頼りに、俺たちは瓦礫の間を進んだ。
ミサキ。
ユーノ。
俺。
ガイは記録庫の動力設備を確認するため、別の通路から入っている。
壁には、避難時の案内線が残っていた。
自力移動できる者が進む青い線。
医療電源が必要な者のための黄色い線。
傷だらけになっても、行き先を示している。
「ここよ」
ミサキが足を止める。
ひしゃげた扉の向こうに、円柱状の記録庫がある。
表面を覆うマーテルの封鎖光が、赤く明滅していた。
『証拠保全命令により、アクセスを禁止します』
ユーノが携帯端末を接続する。
『現地調査官ユーノ・カストル』
『認証を確認』
『封鎖への異議使用は、所属資格へ影響する可能性があります』
確認画面が表示された。
『続行しますか?』
ユーノの指が止まる。
「迷ってる?」
俺が尋ねる。
「ああ」
意外なほど素直な答えだった。
「怖い?」
「怖い」
彼女は赤く光る記録庫を見る。
「私は子どもの頃から、マーテルの配給区域で育った。食事も、教育も、義肢治療も組織から受けた」
「恩がある?」
「ある」
ユーノの右脚には、任務用補助骨格が組み込まれている。
昔の負傷を、マーテルの医療で治したものらしい。
「命令が正しいと思っていたわけではない。それでも、命令系統の外に出れば、自分が何者なのか分からなくなる気がする」
所属章を外した胸元へ手を当てる。
「これを押せば、以前の場所には戻れないかもしれない」
「押すべきだとは言わない」
俺は答えた。
「俺が押しても、ユーノの認証にはならない」
「ああ」
「何を失うか知ってるのは、ユーノだけだ」
彼女は目を閉じた。
ダリウスへの忠誠。
組織から与えられた役割。
自分が守ってきた秩序。
どれも、外から簡単に否定していいものではない。
やがて、ユーノが目を開く。
「一つ、確認したい」
「何?」
「記録庫が開いたら、患者の情報を《ウェイフェアラー》へ持ち出すのか?」
「診療所と患者が望まない限り、持ち出さない」
「《ORIGIN REGISTRY》への対抗材料になる情報があっても?」
「本人の許可なしには使わない」
「そうか」
ユーノは頷いた。
「なら、私がここを開ける理由はある」
確認画面へ指を押す。
『異議使用を受理』
赤い封鎖光が消えた。
『再封鎖まで、九十秒』
「レン!」
ガイの声が通信から響く。
『記録庫の電力は維持する! だが中身まで焼けてたら知らねえぞ!』
「ミラ、管理表の損傷範囲を表示!」
『全記録の十四パーセント。特に同意権限索引の破損が深刻です』
「内容は読まない。所有者と閲覧権限だけを復元する」
『了解しました』
俺は浮遊椅子を記録庫へ近づける。
右手を持ち上げた。
指先を接続板へ置く。
「《SOUL REPAIR》を使う」
ミサキが俺の横へ立つ。
「対象は?」
「《HELIX CLINIC》医療記録庫の同意権限索引だけ。診察記録本体には接続しない」
「上限時間は?」
「一・一秒」
「一秒にして」
「理由は?」
「前回使用からの回復値を考えると、それ以上の接続は右腕の感覚低下につながる可能性がある」
「分かった。一秒」
ユーノが端末を見る。
『再封鎖まで、七十二秒』
「ミラ。切断権限をミサキへ」
『設定しました』
「始める」
接続する。
膨大な医療記録が、暗い空間に並んでいた。
俺は中身を見ない。
誰が、どんな病気で。
何を恐れ。
どの治療を拒み。
誰にだけ記録を見せたいと望んだのか。
それは俺が勝手に触れていいものではない。
探すのは、記録へつけられた名前と鍵だけ。
壊れた索引。
途中で切れた所有者情報。
マーテルの封鎖が上から押しつぶした、患者自身の許可。
それらを元の位置へ戻す。
新しい命令は書かない。
失われていない意思を、再び読める形へつなぐ。
「切って!」
ミサキの声。
接続が途切れた。
視界が白く明滅する。
それでも意識は残っている。
『接続時間、〇・九六秒』
ミラが報告する。
『同意権限索引、復元率九十九・八パーセント』
「残りは?」
『所有者情報が元から存在しない記録です。自動割り当ては行いません』
「保留にして」
『了解しました』
『再封鎖まで、五十八秒』
「まだ開いてないぞ!」
ガイが叫ぶ。
『管理表は直った! 最後の承認を入れろ!』
ユーノの端末へ、二つの選択肢が表示される。
『マーテル証拠保全区分を維持したまま、医療情報のみ返還』
『全記録をマーテル管理下へ再登録』
「上だ!」
俺が言う。
「患者へ返す情報だけを選んで!」
ユーノが上の項目へ触れる。
『現地調査官による承認が必要です』
署名欄へ、自分の名前を入力する。
ユーノ・カストル。
『この決定は、中央命令へ反する可能性があります』
「承認する」
『所属資格の再審査対象となります』
「承認する」
『最終確認』
残り十二秒。
「承認!」
ユーノが端末を叩いた。
赤い封鎖光が一度だけ強く輝く。
次の瞬間、白へ変わった。
『医療記録の管理権を、《HELIX CLINIC》および各記録所有者へ返還しました』
記録庫の各所に、小さな緑の灯がともっていく。
薬の記録。
義体調整履歴。
治療同意。
緊急時の意思表示。
一つずつ、持ち主のもとへ戻る。
ユーノの端末から、認証表示が消えた。
『現地調査権限は停止されました』
静かな声が告げる。
「終わったのか?」
俺が尋ねる。
「ああ」
ユーノは黒くなった画面を見る。
「これで私は、ダリウスから与えられた権限を失った」
「後悔してる?」
「まだ分からない」
彼女は端末をしまった。
「だが、押したのは私だ」
診療所へ戻ると、復元された記録の受け取りが始まっていた。
患者一人ずつに、閲覧範囲が確認される。
医師へ見せる記録。
家族と共有する記録。
本人以外には開示しない記録。
誰も同じ設定ではない。
「これも返還対象に入っていた」
作業員が、大きな黒い箱を運んできた。
角は潰れ、表面には焼けた跡がある。
避難の日。
呼吸補助装置をつけた少女のため、男が床へ置いていった荷物だ。
「残ってたのか……」
男の手が震える。
「封鎖区画へ回収されていた。所有者認証が復元されたから開けられる」
男が掌を当てる。
箱の内部から、古い記録板が現れた。
空中へ、小さな映像が投影される。
食卓を囲む家族。
笑う女性。
幼い男の子。
今より若い、荷物の持ち主。
男は映像へ手を伸ばした。
「戻った」
呼吸補助装置をつけた少女が、彼の横へ立つ。
「おじさんの家族?」
「ああ」
「良かったね」
男は少女を見る。
避難の日に、荷物の代わりに運ぶことを選んだ命。
「お前が生きてる方が、ずっといい」
そう答えながらも、記録板を胸へ抱いた。
正しい選択をしたからといって、失ったものを惜しんではいけないわけではない。
助けた命も。
戻ってきた記憶も。
両方を抱えていい。
熱線器を持っていた男が、ユーノへ近づいた。
周囲の空気が固くなる。
「所属章はどうした?」
「隔壁の外に置いた」
「戻るとき、つけるのか?」
ユーノは答えるまで少し時間を置いた。
「分からない」
「命令が来たら?」
「内容を見て、自分で決める」
以前の彼女なら、命令を確認してから行動すると言っただろう。
今は違う。
男も、その違いに気づいたようだった。
「俺は、お前を信用しない」
「当然だ」
「だが、今日ここを開けたのがお前だという記録は残す」
「それでいい」
男は運搬用の壁材を一枚持ち上げた。
重そうに腕が震える。
ユーノが手を伸ばしかける。
男は警戒するように見る。
「何だ?」
「運ぶ場所を教えてくれ」
「手伝うつもりか?」
「入域を許可された条件に、作業をしてはいけないとは書かれていない」
しばらく睨み合った後、男は壁材の片側をユーノへ渡した。
「医療区画の右だ」
「了解した」
許しではない。
信頼でもない。
ただ、二人で一枚の壁を運ぶ。
今は、それで十分なのかもしれない。
診療所の中央区画では、古い看板の取りつけ作業が始まっていた。
《HELIX CLINIC》
襲撃で中央から割れ、二つになっている。
「新しい看板を作らなかったの?」
俺が尋ねると、ミサキは首を振った。
「これは、残した方がいいと思ったの」
「割れたまま?」
「ええ」
二つの破片を、少し離して壁へ固定する。
傷を隠すのではなく、傷があっても読めるように。
「ミサキ先生」
古い職員の一人が近づいた。
「院長室の復旧を優先します。今は貨物室を使っていますが、先生が戻るまでには――」
「私の部屋は作らなくていいわ」
職員が止まる。
「戻らないんですか?」
「診療所を見捨てるわけではない」
ミサキは割れた看板を見上げた。
「《ウェイフェアラー》へ医療中継所を作る。ここだけでは届かない場所へ、診療所の機能を運びたいの」
「でも、先生がいなければ――」
「私しか診られない診療所のままでは、また同じことが起きる」
襲撃の日。
ミサキ一人が判断を背負っていた。
彼女が倒れれば、診療所全体が止まる構造だった。
「残る人が決められるようにする。患者も、自分の記録と治療方針を持って移動できるようにする」
「先生は、船に残るんですね」
「ええ」
ミサキが俺を見る。
昨夜の青い結び紐は、もう手首にない。
朝になって二人で解いた。
それでも、約束までなくなったわけではない。
「私は、自分で選んだ場所にいたい」
職員は寂しそうな顔をした。
けれど、引き止めなかった。
「中継所の名前は?」
俺が尋ねる。
「《HELIX WAYFARER》」
「そのままだな」
「分かりやすいでしょう?」
「船長の許可が必要?」
「医療区画の使用許可は必要ね」
「許可する」
「即答?」
「船長だから」
「予算は?」
後ろからエリスの声がした。
契約端末を抱え、呆れた顔で立っている。
「船長でも、予算確認は必要よ」
「……申請する」
「よろしい」
エリスは割れた看板の小さい方を指す。
「余った破片、持っていけば?」
看板の端に、ひび割れた《H》の一部が残っている。
ミサキはそれを外し、両手で抱えた。
「船の医療区画へ置くわ」
一つだった診療所の名前が、二つの場所へ分かれる。
壊れる前と同じ形には戻らない。
けれど、以前より遠くまで届くようになる。
『ユーノ・カストル宛て、定時通信を受信』
ミラの声が、俺たちの端末から流れた。
壁材を運んでいたユーノが足を止める。
『送信者、ダリウス・ヴェイン』
彼女に与えられた二十三日間。
その期限が、まもなく終わる。
『現地調査報告書の提出を要求しています』
ユーノは、隔壁の外へ置いてきた所属章の方角を見る。
それから、自分が運んだ新しい壁を見る。
「今度は」
彼女が静かに言った。
「何を書くかも、私が決める」
二つの場所へ分かれ、新しく歩き始めた《HELIX CLINIC》。
次回、二十三日間の期限を迎えたユーノは、ダリウスへ自分の報告を届けます。




