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廃棄された俺だけがアンドロイドの魂を修復できるらしい ~恋も出産も管理された未来世界で、機械の少女たちと反逆します~  作者: 好山 雪


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第37話 青い結び紐は、二人の距離を縮める

ブルー・ノットを出発する前日。


レンはミサキと交わした、二人だけで食事をする約束を果たすことになった。


今夜の彼女は医師ではない。


そう決めていたはずなのに、長年染みついた役割は、白衣を脱いだだけでは消えてくれなかった。


「今日、私はあなたの脈を取らないわ」


 待ち合わせ場所へ現れたミサキは、最初にそう宣言した。


「……挨拶より先に?」


「先に決めておかないと、たぶん無意識にやるから」


 冗談ではないらしい。


 ミサキは両手を身体の後ろへ回した。


 今夜は白衣も、医療用上着も着ていない。


 濃い青緑色のワンピース。


 腰にはブルー・ノットの低重力区画で使う、細い安全帯。


 肩まであった髪は片側だけ編まれ、耳元には透明な青い石が揺れている。


 袖のない服から伸びる腕が、いつもより白く見えた。


「どうかしら」


「何が?」


「服」


 聞かれて初めて、感想を口にしていなかったと気づく。


「綺麗だと思ってた」


「思うだけでは伝わらないでしょう」


「ごめん」


「医療記録なら、観察したことをすぐ言葉にするのに」


「比較対象が厳しすぎないか?」


「今日の私は、少しくらい厳しくてもいいの」


 そう言ったミサキは、わずかに頬を赤くした。


 俺も普段の船内着ではない。


 エリスが市場で選んだ黒い上着に、レナが留めてくれた銀色の襟飾り。


 浮遊椅子の外装はピコが磨いた。


 磨きすぎて、一部だけ新品のように光っている。


 出発前、レナは椅子の安全機構を確認しながら言った。


『楽しんできて、とはまだ言えません』


 正直だった。


『ですが、私が不機嫌だからという理由で、約束を破らないでください』


 エリスは俺の襟を直した。


『帰ったら、どこまで進んだか聞くわ』


 ミサキが冷たい目を向けると、すぐに言い直した。


『冗談よ。本人たちが話したい範囲にする』


 昨夜、四人で話し合った。


 誰の気持ちも隠さない。


 誰かの返事を、別の誰かが決めない。


 交わした約束は一つずつ守る。


 結論を急がせるための期限は設けない。


 それですべてが綺麗に収まったわけではない。


 レナは嫉妬している。


 ミサキも、エリスも同じだ。


 俺だって、全員へ平等な答えを返せるわけではない。


 それでも、曖昧な冗談だけで逃げることはやめた。


「レン」


「うん」


「考え込んでいる?」


「少し」


「体調が悪いわけでは――」


 ミサキが言葉を止める。


 俺は思わず笑った。


「今、診察しようとした?」


「していないわ」


「本当に?」


「……しかけただけ」


「診察券を持ってきてない」


「この船の船長に、診察券なんて発行していないでしょう」


 ミサキも笑った。


「分かった。今夜は聞かない。もし具合が悪くなったら、あなたから言って」


「約束する」


「我慢した後ではなく、異変を感じた時点で」


「それは診察じゃないのか?」


「デートへ出るための契約条件よ」


 どうやら完全に医師をやめるつもりはないらしい。


 けれど、その言い方はいつもより柔らかかった。


 ブルー・ノットの居住区は、複数の小型環を太い連結路で結んだ構造をしている。


 外から見ると、青い糸で不揃いな輪を結び合わせたように見えることが、港の名前の由来らしい。


 中心部へ近づくほど重力は強くなる。


 市場区画は地球基準の〇・六二倍。


 俺の浮遊椅子には動きやすい環境だが、歩く人間は勢いをつけすぎると身体が浮く。


 通路の店先には、青い紐が並べられていた。


 細いもの。


 太いもの。


 金属を編み込んだもの。


 光を蓄えて暗闇で輝くもの。


「これは?」


「《結び紐》よ」


 ミサキが説明板を読む。


「低重力区画が整備される前、子どもや荷物が人混みで流されないよう、互いを紐で結んでいたんですって」


「今も使うのか?」


「実用品として使う人もいる。でも、今はお守りに近いみたい」


 説明板の下に、小さな文字がある。


『同じ道を歩きたい相手と、一晩だけ結ぶ』


 恋人。


 家族。


 友人。


 翌朝になれば解いてもいい。


 次の港まで結んでいてもいい。


 永遠を約束するためのものではない。


 今、同じ場所へ帰りたい相手を選ぶための紐。


「買う?」


 俺が尋ねた。


「安全のため?」


 ミサキの目が少しだけ細くなる。


「それとも、ほかの意味で?」


「両方じゃ駄目かな」


「駄目ではないわ」


 彼女は店頭の紐を一本ずつ見比べた。


 選んだのは、飾り気の少ない青い布紐だった。


 片方を自分の手首へ結ぶ。


 もう片方を持ち、俺へ向ける。


「椅子に結ぶ? それとも、腕?」


 右腕はまだ自由に動かせる範囲が狭い。


 左手首なら問題ない。


「腕で」


「分かった」


 ミサキの指が、俺の左手首へ紐を回した。


「きつくない?」


「大丈夫」


「指先の感覚は?」


「診察しないんじゃなかった?」


「紐を結んだ人間の責任よ」


 結び目ができる。


 俺とミサキの間に、青い線が一本伸びた。


 長さは一メートルほど。


 互いに離れれば張る。


 近づけば、床へ緩く垂れる。


「これなら、はぐれないわね」


「ミサキが?」


「あなたがよ」


 彼女はそう言いながら、浮遊椅子のすぐ隣へ立った。


 予約した店は、港の外周にある小さな食堂だった。


 窓の外には、ブルー・ノットを構成する環状区画が見える。


 青い誘導灯。


 低速で行き交う輸送艇。


 遠くには、《ウェイフェアラー》と《MOURNING STAR》が並んで停泊していた。


 店員に案内され、ミサキは一度、俺の正面へ座ろうとした。


 けれど、椅子を止める。


「どうした?」


「正面の方が、顔色も姿勢も見やすいの」


「うん」


「だから、隣に座るわ」


 ミサキは俺の右側へ椅子を移した。


 青い紐が短くなり、彼女の腕が俺の腕へ触れる。


「近すぎない?」


「デートなのでしょう?」


「そうだった」


「忘れないで」


 メニューには、港へ立ち寄る船が持ち込んだ食材を使った料理が並んでいる。


 培養魚の串焼き。


 重力の弱い農園で育てた、内部に空洞のある赤い芋。


 淡い青色の香辛料を使った煮込み。


「何にする?」


 俺が尋ねると、ミサキは迷わず栄養調整食の欄を開いた。


「消化負担を考えると、あなたはこの白身魚と――」


 俺は無言で彼女を見る。


 ミサキの指が止まった。


「何?」


「診察券」


「……持ってきていないわね」


 彼女は栄養調整食の表示を閉じた。


「好きなものを選んで。ただし、薬と相互作用のある酒は駄目」


「そこは守る」


「私は何を食べようかしら」


「ミサキが好きなもの」


「好きなもの……」


 難しい質問をされたような顔をする。


「普段は何を食べてる?」


「手早く摂取できて、匂いが強くなく、診察へ戻りやすいもの」


「それは好きなものじゃないだろ」


「嫌いではないわ」


「一番食べたいものは?」


 ミサキはメニューを戻していく。


 青い香辛料の煮込みで指が止まった。


『蒼星煮込み』


 辛味の強い香草と、肉と豆を煮込んだブルー・ノットの名物料理。


 辛さを五段階から選べる。


「これ?」


「昔、一度だけ食べたことがあるの」


「好きだった?」


「ええ。でも、翌日の診察まで口に香りが残ったから、それ以降は避けていたわ」


「明日の出港前診察は?」


「ミラと港の医療端末へ任せられる」


「なら、食べられるな」


「辛さは二にする」


「五段階あるのに?」


「久しぶりなのよ」


「三は?」


「あなた、食べたこともない料理を勧めているでしょう」


「せっかくなら、少し冒険した方がいいかと思って」


「患者に言われるとは思わなかったわ」


「今は患者じゃない」


 ミサキはしばらく俺を見た。


「そうね」


 メニューの辛さ三を選ぶ。


「今は違うわ」


 料理が運ばれてくる。


 蒼星煮込みは、名前のとおり深い青色をしていた。


 食欲を誘う色には見えない。


 表面には銀色の油が星のように浮かんでいる。


「本当に食べ物なのか?」


「注文した人が言わないで」


 俺は赤い芋を使った包み焼き。


 右手に補助具をつけ、小さな匙を持つ。


 一口目はうまくすくえた。


 二口目で、芋の欠片が皿へ落ちる。


 ミサキの手が反射的に動いた。


 けれど、途中で止まる。


「手伝う?」


 彼女はそう尋ねた。


 以前なら、答える前に皿や匙を動かしていただろう。


「もう一回やってみる」


「ええ」


 三本の指へ力を入れる。


 匙の角度を直す。


 今度は口まで運べた。


「できた」


「見ていたわ」


「採点は?」


「今日はしない」


 ミサキは嬉しそうに笑い、自分の煮込みを口へ入れた。


 次の瞬間、動きが止まる。


「辛い?」


「……平気よ」


「水、飲む?」


「平気」


 耳まで赤くなっている。


「辛さ二にすればよかったんじゃないか?」


「あなたが三を勧めたのでしょう」


「無理しなくても」


「食べたいから食べているの」


 そう言って二口目を食べる。


 今度はすぐ水を飲んだ。


「美味しい?」


「美味しいわ」


 目尻には涙が浮かんでいる。


「でも、辛い」


「やっぱり」


「笑わないで」


「ごめん」


 笑いながら、俺も水を渡した。


 ミサキは受け取ろうとして、俺の右手を見た。


「さっきより震えが――」


 また言葉を止める。


「気になる?」


「ええ」


「聞いていいよ」


「でも、今夜は医師にならないと決めたから」


「医師じゃなくても、心配はするだろ」


 ミサキは目を伏せた。


「その境目が、私にはよく分からないの」


 賑やかな店内で、俺たちの席だけが少し静かになった。


「患者だから心配しているのか」


 彼女は青い煮込みへ匙を入れる。


「好きな人だから心配しているのか」


「両方じゃ駄目?」


 先ほど、結び紐を買ったときと同じ答えを返す。


「私が医師で、あなたが患者である間は、駄目だと思っていた」


「今は?」


「継続監視は終わった。でも、私は《ウェイフェアラー》の医療責任者。あなたの治療にも関わっている」


「うん」


「私があなたへ好意を伝えたら、治療を受けるために応えなければならないと思わせるかもしれない。逆に、あなたが私を拒絶したら、治療へ影響すると思わせるかもしれない」


 ミサキは、ずっとそれを恐れていたのだろう。


「だから白衣を脱いでも、簡単には別の人間になれない」


「ならなくていいと思う」


「え?」


「医師じゃないミサキだけを好きになる必要はないだろ」


 俺は匙を皿へ置く。


「俺を治療してくれたミサキも、辛いものが好きなミサキも、同じ人だ」


「でも――」


「答えを強制されているとは思ってない」


 青い紐で結ばれた左手を少し持ち上げる。


「今日、ここへ来ると決めたのは俺だ」


 ミサキは何も言わない。


「それに、ミサキのことを医師としてしか見ていないなら、こんなに緊張しない」


「緊張していたの?」


「待ち合わせの前から」


「そうは見えなかったわ」


「ミサキの服を見て、感想を言い忘れるくらいには」


「それは緊張ではなく、単に気が利かなかった可能性もあるわね」


「否定できない」


 彼女が笑う。


 今度の涙は、辛さのせいではないように見えた。


「レン」


「うん」


「右手の震えは?」


「少し疲れただけ。痛みも痺れもない」


「休めば治まりそう?」


「たぶん」


「分かった」


 ミサキはそれ以上、数値を求めなかった。


 代わりに自分の皿から、煮込まれた豆を一つすくう。


「食べてみる?」


「辛さ三だろ?」


「冒険を勧めたのはあなたよ」


 差し出された匙を見る。


「自分で持つ」


「これは介助ではないわ」


 ミサキの顔が近づく。


「私が食べさせたいの」


 言われて、断る理由を失った。


 匙を口に入れる。


 最初は肉の甘み。


 その直後、舌が焼けるような辛さが広がった。


「辛い」


「でしょう?」


「ミサキ、よく食べられるな」


「まだ半分も残っているわ」


「無理しない方がいいんじゃないか?」


「残りはあなたも手伝って」


「俺の薬は?」


「この香辛料との相互作用はない」


「結局、調べたんだな」


「店へ来る前に」


 医師をやめることは、やはり無理らしい。


 でも、それでいい。


 食事を終えた後、俺たちは外周通路へ出た。


 照明は夜間用に落とされている。


 窓の外では、港の環を結ぶ青い誘導灯が、暗い宇宙へ線を描いていた。


 青い紐をつけたまま、ミサキが俺の隣を歩く。


「聞いてもいい?」


 彼女が言った。


「何を?」


「昨日のエリスとのこと」


 足を止める。


「聞かないと言ってなかった?」


「どこまで進んだかを、面白半分で聞くつもりはないわ」


 ミサキは窓の外を見た。


「あなたが彼女を好きになり始めていると言ったことは、本人から聞いた」


「うん」


「レナを大切に思っていることも知っている」


「うん」


「そのうえで聞きたいの」


 彼女が俺へ向き直る。


「私が入る場所はある?」


 簡単に答えてはいけない問いだった。


 全員を好きだと言えば、楽なのかもしれない。


 誰も選ばないと言えば、責任から逃げられる。


 けれど、ミサキが求めているのは、整った答えではない。


「同じ形ではないと思う」


「同じ形?」


「レナへの気持ちと、エリスへの気持ちと、ミサキへの気持ちは、たぶん全部違う」


「それは、そうでしょうね」


「でも、ミサキと二人でいる時間を、もっと欲しいと思ってる」


 彼女の瞳が揺れる。


「医療区画じゃなくて、こういう場所で」


「それは、好意だと受け取っていいの?」


「受け取ってほしい」


「患者から医師への、一時的な依存ではなく?」


「診察券を持ってきてないって言っただろ」


 ミサキが吹き出した。


「大事な話をしているのよ」


「俺も大事なつもりだ」


「なら、もう一度言って」


 青い紐が、彼女の手首から俺の手首へ伸びている。


「ミサキが好きだ」


 今度は迷わなかった。


「まだ知らないことも多い。レナやエリスとのことも、簡単に答えは出せない」


「ええ」


「それでも、医師としてだけじゃなく、一人の女性として好きだ」


 ミサキは目を閉じた。


 長く息を吐く。


 それから、俺の前へ一歩近づいた。


「私も、あなたが好きよ」


 静かな声だった。


「守らなければならない患者だからではなく、あなたに選ばれたいと思っている」


 彼女の手が、俺の頬へ近づく。


 途中で止まった。


「触れてもいい?」


「うん」


 温かい掌が、頬へ触れる。


「キスしても?」


 俺は頷こうとして、やめた。


 言葉で返す。


「してほしい」


 ミサキの顔が近づく。


 青い石の耳飾りが揺れた。


 唇が重なる。


 触れるだけの短いキス。


 離れた後も、彼女の手は頬に残っていた。


「脈が速いわ」


「取らない約束じゃなかった?」


「手で触れなくても分かる」


「医師として?」


「女としてよ」


 もう一度、ミサキが口づける。


 今度は少し長い。


 俺の左手と彼女の右手を結ぶ紐が、二人の間で緩く揺れた。


 唇が離れる。


「次の約束をしてもいい?」


 ミサキが尋ねる。


「今度はどこへ?」


「場所はまだ決めない」


 彼女は俺の頬を撫でた。


「次は、あなたからではなく、私から誘いたい」


「分かった」


「治療が終わるまで待つとも言わないわ。あなたの回復に、私の人生の開始時期を決めさせたくないから」


「うん」


「ただし、治療中の判断は今までどおり。好意を理由に、診断を甘くはしない」


「そこは期待してない」


「少しくらい期待してくれてもいいのに」


「追加の甘味を許可するとか?」


「薬との相互作用がなければ考えるわ」


「やっぱり医師だな」


「ええ」


 ミサキは笑った。


「そして、あなたを好きな女でもある」


 帰り道。


 青い結び紐は解かなかった。


 市場を抜け、港の連絡通路を通り、《ウェイフェアラー》の前まで戻る。


 乗船口にはレナが立っていた。


 俺たちの手首をつなぐ紐を見る。


 次に、ミサキの少し赤くなった唇を見る。


 金色の瞳が細くなった。


「お帰りなさい」


「ただいま」


 俺が答える。


 ミサキも目を逸らさなかった。


「ただいま、レナ」


「楽しかったですか?」


「ええ」


 ミサキが答える。


「とても」


 レナは数秒黙った後、乗船口の脇へ退いた。


「そうですか」


 声には嫉妬が混じっている。


 それでも、道を塞ぐことはなかった。


「レン。明日は私との朝食です」


「覚えてる」


「二人だけです」


「それも覚えてる」


「なら、いいです」


 船内へ入ろうとすると、青い紐が張った。


 ミサキが港側に残っている。


「解く?」


 俺が尋ねる。


 彼女は手首の結び目を見る。


「この紐は、一晩だけでもいいのよね」


「説明にはそう書いてあった」


「なら、朝まで」


 ミサキは俺の隣へ並ぶ。


「今夜は、まだ同じ道を歩いていたいから」


 二人で乗船口を越える。


 扉が閉じても、青い紐は俺たちの間に残っていた。

青い紐で結ばれた、レンとミサキの新しい約束。


次回、《ウェイフェアラー》はブルー・ノットを離れ、再建途中の《HELIX CLINIC》へ向かいます。

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