第36話 欲しい身体は、元の身体とは限らない
《BLUE KNOT》の義体市場で、マリア・セルヴァは一つの身体を見つけた。
それは、人間だった彼女の姿とはまるで違う、旧式の農業作業用機体。
試験接続の期限は、あと五十八分。
マリアは誰かに身体を選んでもらうのではなく、自分の手で未来を選ぼうとしていた。
「私、この身体が欲しいわ」
マリアが選んだのは、人間の身体ではなかった。
身長百三十二センチ。
くすんだ青色の装甲。
幅の広い二本の脚。
四本の腕。
顔の代わりに、横長の観測レンズが一つ。
義体というより、農場で土を耕すための小型作業機に見える。
少なくとも、その隣に立っている女性型義体の方が、ずっと人間らしかった。
柔らかな人工皮膚。
呼吸に似せた胸の動き。
マリアの生前の記録から再現された顔。
市場の案内端末には、大きく表示されている。
『社会適応予測値、九十四パーセント』
一方、青い農業機体の表示は三十八パーセントだった。
「本当に、こっちでいいのか?」
俺が尋ねると、観測卓から投影されたマリアの姿が頷いた。
「ええ」
「人間型を選ばない理由を聞いても?」
「その質問なら構わないわ」
マリアは女性型義体を見る。
そこには、生前の彼女の顔がある。
穏やかな目。
日に焼けた頬。
短く切った茶色い髪。
記録映像をもとに作られた、過去のマリア・セルヴァ。
「似ているのよ」
マリアが言った。
「だから嫌なの」
「嫌?」
「この顔で目覚めたら、みんなは安心するでしょうね。マリアが戻ってきたって」
その声は静かだった。
「でも、私は戻りたいわけじゃない」
マリアは百七十三の人格記録の一人だ。
元は人間で、農業技師だった。
生前は長い間、原因不明の神経痛を抱えていたという。
眠っている間も痛みが途切れず、医療機関からは何度も精神的なものだと言われた。
やがて《ORIGIN REGISTRY》の人格保存計画へ参加し、身体を失った。
「この人間型義体は、私の過去を再現するための身体でしょう?」
「そうね」
ミサキが答えた。
今日は医療用の白衣ではなく、濃い灰色の上着を着ている。
それでも端末を見る目は、完全に医師のものだった。
「骨格も感覚領域も、生前の身体記録へ合わせてある。ただし、痛覚の初期値まで記録に近い状態で再現されるわ」
「それよ」
マリアは笑った。
「どうして高いお金を払って、昔と同じ痛みを買い戻さなくちゃいけないの?」
案内端末が反応した。
『慢性疼痛記録は、人格同一性を維持する重要な感覚情報です』
「消して」
『推奨できません』
「表示を消せと言ったの」
俺が端末へ触れる前に、エリスの機械指が表示を閉じた。
「おすすめ機能は、だいたい売る側に都合がいいのよ」
昨夜買った赤い石の指輪が、六本ある右手の一本に輝いている。
「契約の確認は私がするわ。でも、身体選びに口は出さない」
「ありがとう、エリス」
「購入するなら呼んで。今度は、買った本人が本当の所有者になる契約にするから」
それだけ言い残し、エリスは売買窓口へ向かった。
彼女がいなくなると、ガイが青い機体の前へしゃがみ込んだ。
「型式は《AGRI WALKER C4》か。ずいぶん古いな」
装甲の一部を開く。
内部には土埃が入り込み、動力管の被膜も劣化している。
「直せる?」
マリアが尋ねた。
「誰に聞いてやがる」
ガイは太い指で配線を持ち上げた。
「右脚の駆動軸を交換。感覚処理器は半分入れ替え。下の二本の腕は制御系が独立してるから、人間用の身体認識へ直接つなぐと混乱する」
「四本とも私の腕にはできないの?」
「できなくはねえ。ただ、いきなり全部を自分の手だと思うな。上の二本を主腕、下を補助操作器にする。慣れてから身体認識へ組み込め」
「人間にはなかった腕なのに?」
「人間にねえから、時間がかかるんだよ」
ガイは機体の幅広い足を叩いた。
「こいつは耕作地用だ。泥でも沈みにくい。足裏に酸性度、温度、水分量の測定器がある。上の腕は精密作業、下は二百キロまでの運搬用」
「土に触れられる?」
「指先でも、足でもな」
マリアの投影像が、わずかに揺れた。
俺には、それが息を呑んだように見えた。
「試験接続はできるのか?」
「制御規格が古い」
ガイが俺を見る。
「人格記録側の身体認識を、機体へ無理やり合わせるならすぐだ」
「それはしない」
俺は答えた。
マリアの人格を、機械に合う形へ変えるつもりはない。
変えるなら、機械の方だ。
「ミラ。マリア側の接続規格は?」
『人体型遠隔操作規格に固定されています。恒久的な変更には、本人による複数回の承認が必要です』
「今回は変更しない。試験用の変換層を挟む」
『準備可能です』
「ガイは主腕と脚部を人体型制御へ接続。補助腕は独立操作のまま残して」
「了解だ」
「ミサキはマリアの人格負荷を監視。中止判断は?」
「第一権限をマリア本人へ」
ミサキが答える。
「応答不能になった場合だけ、私が切断する。制限時間は二十分。最初の五分は痛覚信号を最低値に固定するわ」
「固定は嫌」
マリアが即座に言った。
ミサキは反論しなかった。
「理由を聞かせて」
「最初から誰かに痛みの強さを決められたくないの」
「完全に切ると、関節の過負荷に気づけない可能性がある」
「危険警告は残すわ」
マリアの視線が、青い機体へ向かう。
「痛みを全部消したいんじゃない。熱すぎる土や、壊れかけた関節には気づきたい。ただ、その信号をどれだけ強く感じるかは、私が決めたいの」
ミサキは数秒、黙っていた。
「分かった」
端末へ設定を入力する。
「損傷警告と苦痛感覚を分離する。警告は常時有効。苦痛感覚は零から十まで、マリアだけが変更できるようにする」
「緊急時は?」
「あなたが事前に許可した場合だけ、私が設定へ触れる」
「なら、お願い」
二人の間で合意記録が交わされる。
俺は青い機体の感覚処理器へ右手を置いた。
三本の指が、冷たい金属へ触れる。
以前なら、それだけで腕が震えていた。
今は自分で支えられる。
「《SOUL REPAIR》を使う」
俺は接続条件を声に出した。
「対象は《AGRI WALKER C4》の感覚変換器のみ。マリアの人格記録には接続しない。上限〇・九秒」
「神経値、安定」
ミサキが答える。
「中止権限、私が持つわ」
「頼む」
目を閉じる。
機体の中に、古い信号の流れが見えた。
触覚。
温度。
関節負荷。
損傷警告。
本来は別々だったはずの情報が、旧式の処理器では一つにまとめられている。
痛いから危険なのではない。
危険を、痛みとしてしか伝えられない構造なのだ。
俺は絡まった信号を切り離す。
警告は警告として。
触覚は触覚として。
苦痛の強さは、操縦者が選べるように。
「切る」
接続を終える。
『接続時間、〇・七四秒』
ミラの声。
『感覚変換器の再構築を確認しました』
「レン?」
ミサキが顔を覗き込む。
「右腕に軽い痺れ。呼吸は問題ない」
「視界は?」
「正常」
「今日は追加使用を許可しないわ」
「分かった」
禁止ではなく、約束として伝えてくる。
俺も素直に頷いた。
ガイが変換器を機体へ戻し、装甲を閉じる。
「試験接続、いけるぞ」
観測卓に青い光が満ちた。
マリアの投影像が薄くなる。
『遠隔身体接続を開始します』
動かない農業機体の観測レンズに、白い光が灯った。
右の主腕が持ち上がる。
次に左。
幅の広い足が床を踏んだ。
一歩目を出そうとして、機体全体が大きく傾く。
「支えるぞ!」
ガイが腕を伸ばした。
「待って」
機械の胸部から、マリアの声がした。
「まだ、触らないで」
機体は傾いたまま止まっている。
脚部の駆動音が細かく変化する。
重心が前へ。
次に左へ。
最後に中央へ戻った。
「立てた」
マリアが言った。
「ええ」
ミサキが微笑む。
「自分で立ったわ」
マリアは二歩進んだ。
三歩目で壁へぶつかりそうになり、上の右腕をつく。
「硬い」
「痛覚設定は?」
「二」
「損傷警告は?」
「出てる。でも、痛いと叫ばなくても分かる」
マリアは壁を撫でた。
ざらついた金属。
塗装の剥がれ。
誰かが残した小さな傷。
「触っているのね」
声が震えている。
「百十三年ぶりかしら」
「保存されていた期間を含めると、正確な体感時間とは――」
『ミラ』
ピコの通信が割り込んだ。
『今は訂正不要』
『了解しました』
マリアは歩いた。
遅い。
左右へ揺れる。
それでも、一度も運ばれることなく、試験区画の端まで進んだ。
そこに、もう一つの身体が置かれている。
マリアの過去を再現した女性型義体だ。
二つの身体が向き合う。
片方には、顔がある。
片方には、一本のレンズしかない。
『候補者の生前容姿との一致率を表示します』
市場端末が勝手に比較を始めた。
『女性型生体模倣義体、九十七・二パーセント』
青い機体へ赤い数字が出る。
『農業作業機体、一・八パーセント』
「低いな」
俺が言うと、マリアは機械の身体で笑った。
「一・八パーセントもあるの?」
「人格記録との音声照合分でしょう」
ミサキが答える。
「なら、見た目はほとんど零ね」
マリアは四本ある腕を見る。
上の二本は人間の腕に近い形。
下の二本は折り畳まれたままだ。
「レン」
「うん」
「あなたは、どっちが私だと思う?」
質問されて、二つの身体を見る。
過去を映した顔。
未来のために選ばれた作業機。
俺は一度死に、この時代で再構築された。
もし昔の俺と同じ顔をしていなかったら。
同じ声でなかったら。
それでも俺を俺だと言えるのか。
以前なら、答えるまでにもっと時間がかかったかもしれない。
「今、その質問をした方」
マリアの観測レンズが、わずかに明るくなった。
「ずるい答えね」
「気に入らなかった?」
「いいえ。気に入ったわ」
彼女は女性型義体へ背を向けた。
「私は、昔の私に似た身体じゃなくて、これからやりたいことに似た身体を選ぶ」
市場端末の表示へ、機械の指を伸ばす。
『選択された義体は、人間型社会での受容性が低い可能性があります』
「誰に受け入れてもらうための身体なの?」
『質問を認識できません』
「でしょうね」
エリスが戻ってきた。
手には売買用の薄い端末を持っている。
「値段は下げさせたわ。外装劣化と規格外部品、それからガイが見つけた動力管の不良を全部引いた」
「払えるのか?」
「救難用身体支援費の範囲内。ただし船の共同資金を使うなら、最終承認は船長」
全員の視線が俺へ向く。
マリアもだ。
「条件は?」
「支払者は《ウェイフェアラー》」
エリスが契約を表示する。
「所有権者はマリア・セルヴァ。船は担保権、差し押さえ権、遠隔停止権を持たない。マリアが下船する場合も、機体は彼女と一緒に移動する」
「整備費は?」
「本人と相談して決める。勝手に借金へ加算しない」
「いいと思う」
俺はマリアを見る。
「ただ、船長として買っていいかを決める前に、一つ聞きたい」
「何?」
「この身体が必要なのは、船に役立つから?」
青い機体には農業能力がある。
食料生産にも、環境調査にも使える。
俺がそれを理由に買えば、マリアの身体は船の設備になってしまう。
「それとも、マリアが欲しいから?」
「私が欲しいから」
答えは早かった。
「役に立つかもしれない。でも、役に立たない日があっても、これは私の身体よ」
「分かった」
俺は契約端末を受け取った。
「船長権限で承認する。これは船の機材じゃない。マリア・セルヴァ個人への身体取得支援だ」
署名を入れる。
エリスが契約内容を再確認する。
「最後は所有者本人の署名」
端末がマリアの前へ差し出された。
青い機械指が、署名欄へ触れる。
最初は力が強すぎて、端末が揺れた。
二度目は弱すぎて認識されない。
三度目。
一本の指が、ゆっくりと自分の名前を書く。
マリア・セルヴァ。
『契約成立』
機体の胸部表示が切り替わった。
『RIGHTS HOLDER — MARIA SELVA』
マリアはその文字を、長い間見ていた。
「私の身体」
確かめるように言う。
「まだ遠隔接続だけどな」
ガイが告げた。
「感覚器と動力管を直すまで、人格記録の直接移動は禁止だ。最低でも十一日。試験も複数回やる」
「ええ」
「四本腕の身体認識訓練も必要だぞ」
「それも楽しみ」
「整備費を稼ぐために働けとは言わねえ。ただ、修理の希望は自分で書け」
「顔は作れる?」
「どんな顔だ」
「この一本の光でいいわ。でも、色を変えたい」
「何色だ?」
マリアは少し考えた。
「芽が出たばかりの葉の色」
ガイが口元を緩める。
「緑だな。追加しとく」
試験時間は、残り五分。
マリアは機体をゆっくりと反転させた。
「レン。船から持ってきてもらったものは?」
俺は椅子の横に固定していた小箱を開く。
透明な保護容器。
その中に、白い粒が一つ入っている。
マリアが眠りから目覚めたとき、観測卓へ置いた穀物の種。
彼女が自分の存在を確認するため、ずっと保管していたものだ。
「ここにある」
小さな土壌カプセルも取り出す。
ブルー・ノットの市場で買った、掌ほどの栽培容器。
「本当に植えるの?」
ミサキが尋ねる。
「発芽能力は残っていないかもしれないわ。保存しておけば、今の形のまま残せる」
「分かってる」
「一粒だけよ」
「だから植えるの」
マリアは機械の上腕を伸ばした。
俺はその掌へ、保護容器を置く。
太い指が蓋を開けようとして止まった。
「細かい作業は、まだ難しいわね」
「手伝おうか?」
「容器だけお願い」
俺が蓋を緩める。
種を取り出すのは、マリア自身だ。
彼女は指先の感覚倍率を上げた。
「触覚、四倍」
ミサキが数値を読む。
「負荷は正常」
金属の指が、白い粒を挟む。
一度、滑った。
種が掌へ落ちる。
誰も拾わなかった。
マリアは指を動かし、もう一度つまみ上げる。
「重い」
彼女が言った。
実際には、ほとんど重さなどない。
けれど、その声を聞いて笑う者はいなかった。
「こんなに小さいのに、重いのね」
マリアは栽培容器の土へ指を入れた。
「冷たい」
乾いた土を崩す。
「少し酸性に傾いてる」
足裏と指先の測定器が、土の状態を彼女へ伝えている。
「水分が足りない。温度はちょうどいい」
「その身体、気に入った?」
俺が聞く。
「ええ」
白い種が、土の中へ置かれる。
「だって、土が黙っていても、何を必要としているか分かるもの」
マリアは指で土をかぶせた。
押し固めすぎないよう、何度も力を調整する。
最後に、少量の水を落とした。
黒く濡れた土の中心に、小さなくぼみが残った。
「芽が出なかったら?」
「別の種を植えるわ」
「それでいいのか?」
「私は農業技師よ」
機械の声が、少し誇らしげになる。
「育たなかった一粒を、永遠に眺めるのが仕事じゃない」
接続終了の警告音が鳴った。
『残り一分です』
「マリア。延長はしないわ」
ミサキが告げる。
「分かってる」
「自分で切れる?」
「やってみる」
マリアは栽培容器を、青い機体の胸に抱えた。
四本あるうち、上の二本の腕で。
「次に起きるとき、この身体はあるのよね?」
「ある」
俺は答えた。
「誰かが勝手に人間型へ交換することもない」
ガイが鼻を鳴らした。
「せっかく直す機体を交換されてたまるか」
「契約上も交換できないわ」
エリスが端末を掲げる。
「所有者の承認が必要よ」
「それなら安心」
マリアの観測レンズが、鮮やかな緑へ変わった。
ガイが驚く。
「おい、色の変更は修理後だぞ」
「試験機能にあったわ」
「勝手に設定項目を見つけやがって」
「私の身体だもの。見るでしょう?」
次の瞬間、緑の光が静かに消えた。
マリア自身の意思による切断だった。
青い機体が停止する。
栽培容器だけは、二本の腕に抱かれたまま残った。
観測卓へ、マリアの投影像が戻る。
『遠隔接続終了。人格負荷、許容範囲内です』
ミサキが記録を確認する。
「十八分四十二秒。問題なし」
「二十分使わなかったんだな」
俺が言うと、マリアは頷いた。
「もっと動きたかったけれど、最初の日に全部やる必要はないでしょう?」
「ああ」
かつての俺なら、動ける時間を最後の一秒まで使おうとしたかもしれない。
倒れてでも、できることを証明しようとした。
マリアは、自分で始めた接続を、自分で終えた。
それは立ち上がったことと同じくらい、大切な選択に思えた。
ガイが青い機体を整備用の台車へ固定する。
胸には、マリアの名前。
腕には、土の入った小さな容器。
その中には、もう見えなくなった白い種。
「船へ運ぶぞ」
ガイが台車を押す。
「こいつを入れる場所を作らねえとな」
『整備区画には空きがありません』
ピコの声が通信から聞こえた。
「作るんだよ」
『マリア専用区画を要求する』
「分かってる!」
『身体は工具棚と共用不可』
「誰が工具棚へ入れると言った!」
騒がしい会話とともに、青い機体が《ウェイフェアラー》へ運ばれていく。
マリアの投影像が、その背中を見送っていた。
「人間の身体に戻らなくて、後悔しない?」
ミサキが最後に尋ねた。
「する日もあるかもしれないわ」
マリアは答えた。
「顔が欲しい日も、柔らかい肌が欲しい日もあるでしょうね」
それから、穏やかに笑う。
「そのときは、その日の私が考える。今日の私は、土を触れる四本腕の身体が欲しいの」
俺たちは試験区画を出た。
市場の通路には、人間、アンドロイド、義体化した者、車輪で移動する者、浮遊装置に身体を預ける者が行き交っている。
誰も同じ形をしていない。
マリアの新しい身体も、やがてその中を歩く。
過去の姿へ戻るためではなく。
自分で選んだ明日へ進むために。
マリアが選んだ、土へ触れるための身体。
次回はブルー・ノットを発つ前に、白衣を置いたミサキとの約束を果たします。




