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廃棄された俺だけがアンドロイドの魂を修復できるらしい ~恋も出産も管理された未来世界で、機械の少女たちと反逆します~  作者: 好山 雪


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第34話 契約金庫は、撃っても開かない

エリスが清算したはずの義体債務は、今も二百六十八万七千クレジットまで増え続けていた。


さらに、その契約は《HELIOS》にとって身体を担保にする成功事例とされ、四千八百二十一件の派生契約へ利用されている。


原本を載せた契約管理船《GOLDEN CAGE》が、マーテルの債権保管所へ入るまで残り一日。


レンたちはエリスの名前を契約から取り戻すため、かつて十一人の労働者を救出した船へ戻る。

『警告』


『当船へ武器を使用した場合、契約原本四千八百二十一件を自動消去します』


 《GOLDEN CAGE》は、撃てば開く船ではなかった。


 撃てば、証拠が消える船だった。


「やっぱり、正面から入るしかない」


 俺が言った。


『私は外壁を撃てる』


 《MOURNING STAR》から、サヤの声が届く。


「今の警告、聞いてた?」


『外壁を撃つだけだ』


「向こうは攻撃と判断する」


『判断させる前に通信機を壊す』


「それも攻撃だろ」


『面倒な船だ』


「契約管理船ですから」


 ユーノが言った。


「撃たれた時に債権者が損をしない構造になっています」


「乗員より、契約が大事なのか?」


「《HELIOS》では、契約原本の方が高額です」


 操縦室の窓に、《GOLDEN CAGE》が映っている。


 黒と金色の巨大船。


 外周には、檻のような装甲柱。


 中央へ細長い居住区と、契約保管区画がある。


 以前、十一人の労働者を救出した場所。


 神経債務帯をつけられた者たちが、借金を返すため働かされていた船。


 現在、労働者の反応はない。


 代わりに、四十七人分の警備反応。


 小型戦闘艇が六機。


 こちらへ武器を向けている。


『逃亡債務者、エリス・ヴァントを確認』


 《GOLDEN CAGE》の管理音声が響く。


『債務残高、二百六十八万七千クレジット』


『義体資産の任意返還を要求します』


「断るわ」


 エリスは補給席から答えた。


『拒否を記録』


『違約金、三千クレジットを追加』


 債務表示が変わる。


 二百六十九万クレジット。


「断っただけで三千?」


 俺が尋ねる。


「契約執行への非協力」


「話すほど増えるのか?」


『債務に関する質問を確認』


『契約相談料、二百クレジットを追加』


「俺の質問だぞ!」


「彼女の代理人と判断されたのでしょう」


 ユーノが冷静に答える。


「話さない方がいいな」


『契約相談の中断を確認』


『手続き中断料――』


「ミラ、相手の音声を切って」


『切断しました』


「金が増える前に入るわよ」


 エリスは笑っている。


 けれど、両方の機械腕を強く組んでいた。


「本当に入る?」


 俺は尋ねた。


「そのために来たのでしょう?」


「嫌なら別の方法を探す」


「レン」


 いつもの船長さんではない。


 名前で呼ばれた。


「私は入る」


「分かった」


「でも、一人では行かない」


「うん」


「あなたも来て」


「もちろん」


「レナは?」


 航路席のレナが振り返る。


「同行します」


「護衛?」


「それもあります」


「ほかには?」


「レンが、契約相談だけで借金を増やさないよう監視します」


「信用がないな」


「先ほど、二百クレジット増やしました」


「反省してる」


「不十分です」


 ユーノも立ち上がる。


「私は、現地調査員として同行します」


「ダリウスの権限、使える?」


「第七回収部隊における外部人格回収事案だけです」


「今回は義体契約だぞ」


「《ORIGIN REGISTRY》への人格資産照会が含まれています」


 ユーノは身分章を示す。


「調査範囲です」


「規定外って言われない?」


「臨時任務自体が規定外です」


「便利だな」


「ダリウス隊長へは、後で謝罪します」


「許可は取らない?」


「取れば、止められる可能性があります」


 ユーノも変わった。


 以前なら、命令を受ける前に動くことはなかっただろう。


「四人で行く」


 俺は決めた。


「サヤは外で戦闘艇を見てて」


『攻撃された場合は?』


「撃っていい」


『契約原本は?』


「警備艇への反撃なら消去されないって、エリスが確認した」


『了解』


「ガイとピコは接続口の確保」


『任せろ』


『物理切断を検出した場合、即時回収』


「ミラは契約情報の複製準備」


『了解しました』


 役割を決める。


 《SOUL REPAIR》は使わない。


 今回は、壊れた仕組みを俺の力で直すのではない。


 契約そのものを読み、本人の証拠で終わらせる。


     ◇


 《GOLDEN CAGE》への接続許可を求める。


 エリスが債務者として、契約監査権を申請。


 ユーノがマーテルの外部調査権限を添える。


 返答まで、三十秒。


『限定接続を許可』


『逃亡債務者一名』


『代理人一名』


『マーテル調査員一名』


『護衛一名』


『武器の持ち込みを禁止』


 レナが腰の《TWIN ARC》へ触れる。


「置いていく?」


「規則上は」


 エリスが契約文を確認する。


「武器とは、殺傷を目的として製造された携帯物」


「《TWIN ARC》は?」


「航路士用の緊急障害物切断具として申告できるわ」


「本来の用途は戦闘です」


「申告上は違う」


「虚偽では?」


「障害物も切れるでしょう?」


「切れます」


「なら事実よ」


 ユーノは制式拳銃を外す。


「これは武器です」


「置いていくの?」


「はい」


「不安じゃない?」


「戦闘が目的ではありません」


「警備兵が撃ってきたら?」


「レナに任せます」


「障害物切断具です」


 レナが訂正する。


「では、障害物を切断してください」


「了解しました」


 本当にこれでいいのだろうか。


 接続通路が伸びる。


 《ウェイフェアラー》と《GOLDEN CAGE》がつながった。


『逃亡防止処置として、エリス・ヴァントの義体を一時固定します』


「拒否」


 エリスが答える。


『監査権を失います』


「固定方法を開示して」


 装置の構造が表示される。


 両腕を、金属製の認証台へ置く。


 六本指すべての運動記録を確認。


 監査中は手首と肘を固定。


 神経信号への干渉は行わない。


「本当に干渉しない?」


 俺が尋ねる。


「契約上は」


「信用できる?」


「できない」


「なら、やめよう」


「それでは中へ入れない」


「別の――」


「レン」


 エリスが俺を見る。


「私は、固定を受け入れる」


「危険だ」


「分かってる」


「腕を止められたら?」


「レナに台を切ってもらう」


「障害物として認定します」


 レナが答える。


「だから、一緒に来てもらったの」


 エリスは認証台へ向く。


「怖くないわけではない」


 小さな声。


「でも、今回は自分で入ると決めた」


「分かった」


「近くにいて」


「いる」


 エリスが両腕を台へ載せる。


 十二本の指が、決められた位置へ入る。


『義体番号を確認』


『EV-6012-R』


『EV-6012-L』


『債権者所有物と一致』


 金属具が手首を固定する。


 次に肘。


 肩から先が動かなくなる。


 エリスの呼吸が、ほんの少し速くなった。


「痛い?」


「ない」


「感覚は?」


「ある」


「止める?」


「止めない」


 認証光が、指先から肩へ走る。


『神経運動署名を確認』


『契約者、エリス・ヴァント』


『監査区画への入室を許可』


 固定具が外れる。


 エリスはすぐに腕を引いた。


 十二本の指を、一本ずつ動かす。


「全部動く?」


「ええ」


「触れて確認する?」


「今は大丈夫」


 彼女は右手を俺へ向ける。


 俺の右手。


 三本の指で触れる。


 エリスの六本指が、それを軽く握った。


「行きましょう」


「うん」


 接続通路の扉が開いた。


     ◇


 《GOLDEN CAGE》の中は、以前と変わっていなかった。


 金色の壁。


 黒い床。


 必要以上に明るい照明。


 通路の壁には、現在も広告が流れている。


『身体がなくても、働く未来を』


『初期費用不要』


『契約期間中、充実した保守を提供』


『あなたの価値を、最大限に』


「消してもいい?」


 俺が尋ねる。


「まだ駄目」


 エリスが答える。


「証拠だから」


 警備兵が八人待っていた。


 黒い装甲服。


 武器は持っている。


 こちらへ銃口を向けてはいない。


「逃亡債務者を確認」


 先頭の兵士が言う。


「契約監査終了後、義体資産の回収手続きを行う」


「拒否するわ」


「拒否は記録されている」


「また違約金を増やす?」


「監査終了後に算定する」


「終わる時には、契約がなくなってるわ」


「契約者本人に無効化権限はない」


「それを確かめに来たの」


 兵士はユーノを見る。


「マーテル調査員の身分確認を要求」


 ユーノが身分章を示す。


『外部人格回収事案、現地調査員』


「義体契約は管轄外だ」


「《ORIGIN REGISTRY》への人格資産照会履歴があります」


「照会は契約者の労働価値を算定するためのものだ」


「人格を労働資産として扱ったことを認めますか?」


 警備兵が黙る。


「回答を記録しました」


 ユーノは身分章を閉じる。


「まだ何も答えていない」


「否定しませんでした」


「誘導尋問だ」


「事情聴取です」


 ユーノも、交渉が上手くなっている。


「契約金庫へ案内してください」


 警備兵は数秒、動かなかった。


 やがて進路を開ける。


「監査時間は十五分」


「短すぎるわ」


「契約条件だ」


「原契約では?」


「現行契約」


「変更履歴も監査対象に含める」


「十五分以内なら自由だ」


 床に、金色の線が表示される。


 契約金庫へ続く道。


 俺たちは、その線を進んだ。


     ◇


 契約金庫は、船の中央にあった。


 円形の巨大扉。


 厚さは三メートル。


 物理鍵はない。


 四千八百二十一件の契約署名を組み合わせた暗号で守られている。


「撃ったら?」


 俺が尋ねる。


「船内の原本を消去」


 エリスが答える。


「扉だけ壊しても?」


「金庫内部の温度が上がった時点で消える」


「《TWIN ARC》は使えないな」


「障害物であっても、切断を推奨しません」


 レナが言う。


「どうやって開ける?」


「債権者権限」


「または、基準債務者の監査権限」


 エリスが扉の前へ立つ。


 右肩の服を外す。


 契約番号が刻まれた接続環。


『EV-6012』


 金庫が反応する。


『基準債務者を確認』


『監査を開始しますか?』


「開始する」


『本人による独立査定は認められません』


「原契約を表示して」


『現行条項により拒否』


「原契約の第八十七条を表示」


『独立査定士による監査を認めます』


「本人を除外する条項は?」


『第八十七条第二項』


「追加日を表示」


 施設が沈黙する。


「表示して」


『契約開始から百二十六日後』


「原契約にはなかった」


『契約者による更新承認を確認しています』


「署名を表示」


 若いエリスの音声が再生される。


『承認します』


 短い声。


「ほかの更新署名も表示して」


 契約開始から九十一日。


『承認します』


 百二十六日。


『承認します』


 二百四日。


『承認します』


 三百十二日。


『承認します』


 全部、同じ声。


 音の高さ。


 息の長さ。


 背景音。


 一つも違わない。


「複製だ」


 俺が言った。


「ええ」


 エリスの六本指が動く。


 音声波形を重ねる。


 完全に一致した。


「私が最初に署名した音声を、そのまま使ってる」


『神経運動署名も存在します』


「表示して」


 十二本の指による署名動作。


 それも、すべて同じ。


 初回契約時の記録を複製していた。


「十九歳の時、私にはまだ義体がなかった」


 エリスが言う。


「初回署名は、音声だけ」


「神経運動署名が追加されたのは、手術後よ」


「初回契約と同じ時刻に、義体署名が存在するはずがない」


 契約金庫の表示が止まる。


『記録矛盾を確認』


「署名偽造よ」


『自動処理による代理承認です』


「代理承認を許可した条項は?」


『現行契約、第二十二条』


「追加日は?」


『契約開始から九十一日後』


「その追加署名も複製」


 エリスが、一本ずつ逃げ道を塞いでいく。


「代理承認を許可する条項を、代理承認で追加した」


「私の署名はない」


『債権者は、契約維持に必要な修正を行えます』


「原契約のどこに?」


 表示されない。


「ないでしょう?」


『……確認できません』


「なら、原契約を開示して」


『現行契約との競合を確認』


 十五分の監査時間。


 残り九分。


 警備兵が後方で待っている。


「ユーノ」


「外部調査権限を適用します」


 身分章を金庫へ接続する。


『署名偽造の疑いがある契約原本について、証拠保全を要求』


『マーテル現地調査権限を確認』


『原本変更を停止』


 契約金庫の自動消去表示が消える。


 警備兵が動く。


「権限外だ!」


「異議は、ダリウス・ヴェイン隊長へ提出してください」


「第七回収部隊に債権監査権限はない!」


「人格資産照会に関する証拠保全です」


「言い換えているだけだ!」


「規定外の事案です」


 ユーノは身分章を金庫から外さない。


「規定が存在しない場合、現地調査員が一時判断できます」


「そんな規則はない!」


「今、ダリウス隊長が作りました」


 全員がユーノを見る。


「いつ?」


 俺が聞く。


「通信を送信しました」


「返事が来たの?」


「はい」


「何て?」


「好きにしろ。ただし報告書はお前が書け、と」


「許可なのか?」


「隊長命令です」


 警備兵が通信を確認する。


 マーテルの正式署名。


 ダリウスは、また規則の外へ一歩出た。


『証拠保全を受理』


 金庫の扉が開き始める。


 撃っても開かなかった扉が。


 偽造された一秒の記録によって開いていく。


     ◇


 金庫内部には、紙も、記録端末もなかった。


 四千八百二十一本の細い金属柱。


 それぞれに、一人分の契約原本が保存されている。


 中央。


 最も太い柱。


『EV-6012』


 エリスの契約。


「残り時間、七分」


 レナが告げる。


「十分よ」


 エリスが原本へ接続する。


 契約開始時の状態。


 義体価格、三万六千クレジット。


 返済条件。


 労働報酬の三十パーセント。


 利息上限。


 独立査定権。


 義体の所有権は、完済時に本人へ移る。


「完済条件を計算」


『必要返済額、四万二千クレジット』


「私が払った金額は?」


『四十二万一千クレジット』


「完済日は?」


『契約開始から百八十七日後』


「その後に請求された金額は?」


『三十七万九千クレジット』


「過払い」


『肯定』


「所有権移転を実行して」


『現行契約と競合します』


「現行契約は、偽造署名を含む」


『確認』


「原契約を優先」


『外部調査員の承認が必要』


 ユーノが触れる。


「承認します」


『独立査定士の承認が必要』


 エリスの指が止まる。


「本人は除外されない」


「原契約には書かれていない」


『確認』


「エリス・ヴァント」


「独立査定士として、自分の契約を査定する」


『利益相反を警告』


「警告を受け入れる」


『査定結果を入力してください』


 エリスは、深く息を吸った。


「原契約、完済」


「追加債務、署名偽造により無効」


「義体所有権、契約者本人へ移転」


「過払い金、三十七万九千クレジット」


「利息を含めた返還請求は」


 彼女は少し考える。


「別途行う」


「今は、私の腕だけ返して」


『査定結果を登録』


『債権者による異議申立て待機』


 警備兵の通信機が鳴る。


『異議を申し立てます』


 《HELIOS》の管理音声。


『契約者は、義体を使用して利益を得ています』


「原契約では、完済後の利益は私のもの」


『派生契約への影響が甚大です』


「それは私の契約が有効かどうかと関係ない」


『四千八百二十一件の債権価値が失われます』


「人間の身体へつけた値段でしょう?」


『契約は、社会的信用により成立します』


「偽造した契約に信用を求めないで」


『異議を却下する権限はありません』


「それは誰にある?」


『マーテル中央債権管理局』


「保管所へ着くまで待てと言うの?」


『はい』


「十一年かかる」


『標準審査期間です』


 エリスの両手が閉じる。


 残り時間、四分。


「原本を壊す?」


 俺は尋ねた。


「壊せば、私の契約は消える」


「派生契約は?」


「債権者側の複製だけが残る」


「証拠がなくなる?」


「ええ」


 エリスは中央の柱を見る。


 これを壊せば、彼女の名前は消せるかもしれない。


 だが、残り四千八百二十人が、自分の契約を争うための証拠も消える。


「どうする?」


 俺は尋ねた。


「船長が決めないの?」


「エリスの原本だ」


「でも、ほかの契約もある」


「だから、本人に聞いてる」


 彼女は目を閉じる。


「残す」


 やがて答えた。


「逃げるために壊したくなる」


「全部燃やせば、私の名前を見なくて済む」


「でも、それでは四千八百二十一人へ、私と同じことをさせる」


「一人で契約を読み」


「一人で証拠を探し」


「誰にも査定を認められないまま、逃げ続ける」


 エリスは柱へ両手を置く。


「原本を残す」


「偽造記録を、全派生契約へ送る」


「自分の契約を確認するかどうかは、本人が決める」


「こちらから勝手に無効にはしない?」


「契約を続けたい者もいるかもしれない」


「義体の保守を失う方が困る者もいる」


「だから、証拠だけ送る」


 エリスが配信処理を開く。


『基準契約の重大な瑕疵を、派生契約者へ通知』


『執行停止を申請』


『本人による再査定経路を提供』


「ピコ」


『受信準備完了』


「記録を複製して」


『四千八百二十一件、同時処理』


「ミラ」


『外部救難記録へ登録します』


「ユーノ」


「マーテル調査証明を付与」


「送るわ」


 六本指が、実行へ触れる。


 金庫の四千八百二十一本の柱が、一斉に光った。


『通知開始』


『一件』


『百件』


『千件』


『四千八百二十一件』


『完了』


 契約表示が変わる。


『基準契約――重大瑕疵』


『派生契約――執行一時停止』


『本人確認後、再査定可能』


 全員を勝手に解放したわけではない。


 エリスが、ほかの者の契約を代わりに決めたのでもない。


 ただ、証拠と、選び直すための入口を渡した。


「残り時間、一分」


 レナが告げる。


「エリスの所有権は?」


『異議申立てにより保留』


「まだ?」


 俺は原契約を見る。


 完済日。


 所有権移転条項。


 マーテル調査証明。


「エリス」


「何?」


「この腕は、誰のもの?」


「私のものよ」


「記録へ署名して」


「異議申立て中よ」


「だから、現時点の本人主張として残す」


「法的効力は?」


「エリスが詳しいだろ」


 彼女の目が細くなる。


「所有権確定前でも、占有者による権利主張は記録できる」


「なら、やろう」


「それだけでは、異議を止められない」


「でも、次の審査で消されない」


 エリスは、自分の右肩へ触れる。


 契約番号。


『EV-6012』


「登録する」


『権利主張を入力してください』


「両上肢義体は、私の身体の一部」


「使用権、保守権、交換権、改造権、廃棄権を、エリス・ヴァント本人が持つ」


「債権者による遠隔停止、回収、複製、神経運動記録の利用を認めない」


「署名」


 十二本の機械指が動く。


 以前、複製された署名ではない。


 今のエリスが、自分で動かした署名。


 一本目。


 二本目。


 六本。


 十二本。


 すべて異なる軌道を描き、一つの名前になる。


『本人権利主張を登録』


『エリス・ヴァント』


『削除には、本人による再承認が必要』


 異議申立ては残っている。


 それでも、《HELIOS》だけでは消せない記録が入った。


「時間です」


 ユーノが身分章を外す。


 金庫の扉が閉まり始める。


「出るわよ!」


 俺たちは走る。


 正確には、レナとユーノが走り、エリスが俺の浮遊椅子を引く。


「自分で動かせる!」


「今は私の方が速い!」


「右手、戻して!」


「口を閉じないと舌を噛むわよ!」


 金色の通路を進む。


 警備兵たちが道を塞ぐ。


「債務者の退船を認めない!」


 レナが《TWIN ARC》を抜く。


「障害物を確認」


「人間だぞ!」


「武器を向けています」


「切るな!」


「では、どかします」


 刃を返し、先頭の銃だけを切断する。


 もう一本で床を斬る。


 警備兵の前へ、深い線。


「越えた場合、次は装甲を切断します」


 誰も動かなかった。


 接続口まで、残り三十メートル。


『警備艇、攻撃準備』


 ミラの声。


『《MOURNING STAR》、迎撃位置へ移動』


 外で閃光。


 サヤが、警備艇の兵装だけを撃ち抜く。


 《GOLDEN CAGE》本体には当てない。


 契約原本も消えない。


「接続口へ到着!」


 ガイが固定具を開く。


 ピコが俺たちの人数を確認。


『四名、帰還』


『切り離し準備』


 《ウェイフェアラー》へ入る。


 扉が閉じる。


 ガイが固定具を解除する。


 古い救難船が、《GOLDEN CAGE》から離れた。


     ◇


『追跡艇、四機』


 レナが航路席へ戻る。


「戦闘は?」


『《MOURNING STAR》が二機を無力化』


「残りは?」


「マーテル領境界へ入ります」


 ユーノが身分章を操縦盤へ接続する。


「《GOLDEN CAGE》からの攻撃記録と、契約偽造の調査証明を送信」


『マーテル境界監視より応答』


『契約管理船へ、停船命令』


 《GOLDEN CAGE》の追跡艇が減速する。


 本船も進路を変えられない。


 マーテルの正式審査は、これからだ。


 十一年かかるかもしれない。


 それでも、原本は保全された。


 証拠も送られた。


 四千八百二十一人へ、自分で契約を確かめる経路が開いた。


『当船への追跡反応、消失』


 ミラが告げる。


 操縦室に歓声は上がらなかった。


 全員、まだ結果を確認している。


「エリスの契約は?」


 俺が尋ねる。


 エリスは、自分の端末を開く。


『債務残高――算定停止』


『契約執行――停止』


『義体回収命令――停止』


『所有権――本人主張、審査中』


「ゼロじゃない」


 俺が言った。


「でも、増えてない」


 エリスが答える。


 会話料も。


 保守料も。


 呼吸するように増え続けていた数字が、初めて止まった。


「腕は?」


 右手。


 六本の指を動かす。


 左手。


 同じように動かす。


「私の命令で動く」


「うん」


「《HELIOS》の回収命令は停止」


「うん」


「本人権利主張は、私の承認なしに消せない」


「うん」


「まだ審査中よ」


「知ってる」


「完全に終わってない」


「それも」


 エリスは端末を閉じた。


「なのに」


 声が震える。


「どうして、こんなに軽いのかしら」


 十二本の機械指を、自分の胸へ当てる。


 金属の腕。


 高性能義体。


 査定道具。


 契約上の資産。


 そのどれより先に、エリスの身体だったもの。


「おかえり」


 俺は言った。


「何が?」


「腕」


 彼女は一瞬、目を見開く。


 それから笑った。


「ただいま」


     ◇


 食堂へ戻る。


 エリスは、前回へこませた食卓の修理を再開した。


「今やるの?」


「自分で直すって言ったでしょう?」


「休んでからでも」


「終わらせたいの」


 ガイから買った補修板。


 部品代は正式に記録されている。


 エリスは自分の腕で、へこんだ部分を直す。


 最後に、表面を磨く。


「完成」


「きれいになったな」


「査定して」


「俺が?」


「傷は残ってる?」


「少し」


「減額は?」


「しない」


「査定失格ね」


「思い出が増えた分、価値が上がった」


「それも査定ではないわ」


「じゃあ、俺には無理だ」


 エリスが工具を置く。


「正解」


 赤い髪をほどく。


 長い髪が肩へ落ちる。


 機械腕の接続部。


 契約番号は、まだ残っている。


「レン」


「何?」


「右手を貸して」


 差し出す。


 エリスが、俺の三本の指を自分の右肩へ導く。


 刻印。


『EV-6012』


 その下に、新しい小さな表示がある。


『RIGHTS HOLDER――ERIS VANT』


「読める?」


「うん」


「誰の腕?」


「エリスの」


「もう一度」


「エリスの腕」


 六本指が、俺の手を包む。


「ありがとう」


「俺は、ほとんど何もしてない」


「私に決めさせた」


「船長だから」


「それだけ?」


「エリスの答えが聞きたかったから」


「それだけ?」


 距離が近づく。


 赤い髪から、鍋の香辛料とは違う匂いがする。


「一緒に帰りたかった」


「合格」


「何の?」


「今の回答」


 エリスは顔を離す。


 いつもの軽い笑み。


 でも、目は笑っていない。


 冗談へ逃げているのではない。


 本気で次を求めている目。


「約束、覚えてる?」


「原本から名前を外せたら、酒を一杯」


「完全には外れてないわ」


「本人の権利主張は入った」


「なら、前祝い」


「次の寄港地で?」


「ええ」


「二人で?」


「契約通り」


「ミサキにも確認する」


「許可されなかったら甘い飲み物」


「覚えてる」


 エリスが俺の耳元へ顔を近づける。


「次は、査定士でも契約担当でもない私を見て」


 低い声。


「冗談なしで誘うから」


 離れる。


 俺が返事をする前に、食堂を出ていった。


 赤い髪が扉の向こうへ消える。


 右手には、六本指の感触が残っていた。


     ◇


『次の寄港候補を表示します』


 ミラが告げる。


 最も近い場所は、小さな自由港。


 医療設備。


 義体部品市場。


 酒場。


 《HELIX CLINIC》再建候補地へ向かう中継航路もある。


「寄る?」


 レナが尋ねる。


「補給が必要」


 エリスが答える。


「乗員の休息も」


 ミサキ。


「機関部品も買え」


 ガイ。


『賛成』


 ピコ。


「マーテルへの報告拠点として使用できます」


 ユーノ。


 全員が、それぞれの理由を出す。


「寄港する」


 俺は決めた。


 戦いのためではない。


 契約原本の審査結果を待つためだけでもない。


 約束した一杯を飲む。


 次の共同食の材料を買う。


 ミサキとの食事をする店も探す。


 マリアの身体に使える部品も調べる。


 《ウェイフェアラー》が自由港へ進路を変える。


 エリスの債務表示は、もう増えなかった。


次回、第35話「赤髪の女は、冗談なしで誘う」。


自由港の夜、エリスは査定士でも契約担当でもない一人の女性として、レンを酒場へ連れ出します。

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