第31話 救難船の食卓は、七人には狭すぎる
《ORIGIN REGISTRY》との管理契約を更新し、自分の身体と能力を現在の自分へ取り戻したレン。
百七十三の人格記録も、回収資産から救難保護対象へ変更された。
《ウェイフェアラー》は安全な宙域まで離れ、十二時間の休息へ入る。
大きな戦いを終えた後、乗員たちを待っていた最初の問題。
それは、食卓が四人用しかないことだった。
「椅子が足りない」
俺が言った。
「正確には、三脚不足しています」
レナが答える。
「座らなければいい」
ガイは壁へ寄りかかる。
「機関区で食べてくる」
「駄目よ」
エリスが止めた。
「今日は全員で食べるって決めたでしょう?」
「投票には反対した」
「多数決で負けたの」
「機関長権限で無効にする」
『食事場所は、機関長の管轄外』
ピコが食卓の中央から告げた。
小さな身体で、鍋の隣を占領している。
「お前がどけば一人分空くだろ!」
『椅子を使用していない』
「卓上を使ってる!」
『整備主任席』
「そんな席はねえ!」
『現在、設置』
《ウェイフェアラー》の食堂。
修理前は物資保管室だった場所だ。
壁へ折り畳み式の食卓を取りつけ、余っていた座席を四脚置いた。
乗員全員で使うことは想定していない。
俺。
レナ。
ミサキ。
ガイ。
ピコ。
エリス。
一時同乗者のユーノ。
七人。
ミラは船全体にいるため、椅子を必要としない。
サヤは《MOURNING STAR》へ戻っていた。
食事へ誘ったが、船を無人にできないという理由で断られた。
代わりに、黒い容器を一つ送ってきた。
中身は保存肉。
期限は五年前に切れている。
「これ、食べても平気なの?」
俺が尋ねる。
「真空凍結品よ」
エリスが容器を確認する。
「表示期限を七年は超えても食べられる」
「二年後まで待つ必要があった?」
「待たなくていいわ」
「どうして五年前の日付なんだ」
「サヤが買った時点で、すでに期限を四年過ぎていたんじゃない?」
エリスは平然と答えた。
「安かったのでしょうね」
ユーノが言う。
「懸賞請負人の補給品では珍しくありません」
「マーテルでは?」
「期限の三日前に交換します」
「捨てるのか?」
ガイが反応する。
「規定上は廃棄です」
「三日前なら食えるだろ!」
「安全規定です」
「そんなことしてるから、物資が足りなくなるんだ!」
「不足したことはありません」
「余ってる奴の言い方だ!」
ガイとユーノが言い争いを始める。
食事はまだ始まっていない。
それ以前に、座る場所すら決まっていない。
「一人ずつ、部屋で食べる?」
俺が提案する。
全員の視線が集まった。
「何?」
「レン」
レナが言う。
「全員で食べることを提案したのは、あなたです」
「うん」
「開始前に撤回するのですか?」
「食卓を見て、難しいと分かった」
「工夫してください」
「船長命令?」
「希望です」
「その言い方、便利だな」
「あなたから学びました」
否定できない。
◇
船内にある座れるものを集める。
操縦室の予備椅子。
修理用の低い作業台。
空になった物資箱。
俺は浮遊椅子を使うため、座席は要らない。
問題は、食卓の幅だった。
七人分の食器を置くと、中央の鍋が置けない。
「鍋をピコの上へ置けばいい」
ガイが言った。
『高温物体の設置を拒否』
「整備主任席なんだろ」
『鍋置き場ではない』
「じゃあ、どけ」
『拒否』
エリスが食卓を測る。
六本指の機械腕が、それぞれ別の食器を動かす。
「レンを端へ置きましょう」
「俺から減らす?」
「浮遊椅子なら高さを変えられる」
俺の椅子を、食卓より少し低くする。
肘掛けが天板の下へ入った。
「右側にレナ」
エリスが指示する。
「どうして?」
「右手の訓練を手伝えるでしょう?」
「私が担当します」
レナが即答する。
「左側はミサキ」
「私は食事中まで診察しません」
「でも、体調が変わったら分かる」
「それは分かりますが」
「決まりね」
ミサキが俺の左隣へ座る。
いつもの白い医療服ではない。
薄い青色の船内着。
長い髪も下ろしていた。
浴場で見た時とは違い、乾いた髪が肩へ柔らかく広がっている。
「何ですか?」
視線に気づかれた。
「今日は医療服じゃないんだな」
「勤務時間を終えましたから」
「じゃあ、今は医者じゃない?」
「資格は消えません」
「そうじゃなくて」
ミサキが少しだけ笑う。
「今は、同じ食卓に座る乗員です」
「うん」
「ただし、あなたが喉を詰まらせた場合は医師へ戻ります」
「気をつける」
俺の右側へ、レナが座る。
彼女の右脚には補助具。
食卓の下へ伸ばすと、俺の浮遊椅子とぶつかった。
「もう少し離れる?」
「必要ありません」
「脚、当たってるけど」
「補助具の外装です。痛覚はありません」
「邪魔じゃない?」
「いいえ」
レナは動かなかった。
左側では、ミサキの膝も俺の浮遊椅子へ触れている。
「狭くない?」
「狭いです」
「席、替わる?」
「その必要はありません」
こちらも動かない。
正面へエリスが座る。
赤い髪を後ろでまとめ、両方の機械腕を食卓へ置いている。
「いい眺めね、船長さん」
「何が?」
「両側」
右を見る。
レナ。
左を見る。
ミサキ。
「狭いだけだろ」
「そういうことにしておくわ」
エリスの隣へユーノ。
端へガイ。
ピコは結局、食卓の中央に残った。
七人が座る。
身体のどこかが、必ず隣の誰かへ触れていた。
「食堂、広げるか?」
俺が尋ねる。
「船体構造上、隣は配管区画です」
レナが答える。
「配管を動かせば広がる」
ガイが言う。
『工数、三十二時間』
「やめよう」
「即答か」
「狭くても食べられる」
「さっきは部屋で食べるって言っただろ」
「座ってみたら、意外と悪くなかった」
両側から、誰かの温度が伝わる。
一人で食べるより、落ち着かない。
でも、嫌ではない。
◇
中央の鍋は、エリスが作った。
サヤから届いた保存肉。
祭りで買った白い穀粒。
《NOMAD’S REST》の農園から譲られた乾燥野菜。
マーテルの携帯調味料。
アークライト家で使われていた香料の代用品。
《HELIOS》の労働船から持ち出した栄養粉末。
出所の違うものが、全部同じ鍋へ入っている。
「料理名は?」
俺が尋ねる。
「ないわ」
エリスが答える。
「材料が毎回変わるから」
「以前も作ってたの?」
「借金を返していた頃にね」
彼女の銀色の機械腕。
六本ずつある指。
かつては、その腕を手に入れるために借金を負わされた。
働いても利息が増え、身体そのものを担保にされかけた。
「一番安い食材を全部煮るの」
「味は?」
「調味料の値段次第」
「今日は?」
「あなたたちが持ってきたものを使ったから、原価を計算できない」
「エリスでも?」
「交換品、救助への返礼、期限切れの保存肉。市場価格がないものばかりよ」
エリスが鍋を見る。
「査定不能」
「悪い意味?」
「以前ならね」
「今は?」
「値段をつけなくても、食べていいものがあると覚えたところ」
六本指で柄杓を持ち、俺の器へ最初の一杯を入れる。
「毒見役?」
「料理人は、最初の感想を聞く権利があるの」
「医療上、私が先に確認します」
ミサキが器を見ようとする。
「あなたは勤務時間外でしょう?」
「医師資格は消えません」
「少しくらい恋愛対象へ食べさせる役を譲りなさい」
エリスが平然と言った。
ミサキの手が止まる。
レナの金色の瞳がエリスへ向く。
ユーノが姿勢を正した。
ガイだけが鍋を見ている。
「まだ食べないのか?」
「ガイは少し黙ってて」
「腹が減ってる!」
『空腹による判断力低下を確認』
ピコが言う。
「お前は食わねえだろ!」
『食卓へ参加中』
「燃料でも入れてろ!」
エリスは俺を見る。
「冷めるわよ」
「食べます」
左手で匙を取ろうとする。
途中で止めた。
右手を見る。
三本の指が動く。
まだ力は弱い。
匙を持てても、器から口まで運べるか分からない。
「右手でやる?」
レナが尋ねた。
「やってみる」
「補助は?」
「落としそうになったら頼む」
「承知しました」
匙の柄を右手へ入れる。
親指。
人差し指。
中指。
三本で挟む。
持ち上がった。
右肩が重い。
手首が震える。
汁が少しこぼれる。
全員がこちらを見ていた。
「見られると、やりにくいんだけど」
ガイが鍋へ視線を戻す。
ユーノも自分の器を見る。
エリスは正面なので、あまり意味がない。
レナとミサキは、最初から隠すつもりがなさそうだった。
匙を口へ運ぶ。
途中で右手首が下がる。
レナの右手が動きかける。
俺は、もう少しだけ力を入れた。
匙が唇へ届く。
一口。
温かい。
甘い。
その後から、強い香辛料。
肉は少し硬い。
白い穀粒が、汁を吸って柔らかくなっている。
「どう?」
エリスが尋ねる。
「おいしい」
「本当に?」
「うん」
「査定ではなく?」
「俺の感想」
エリスの表情から、いつものからかう笑みが消えた。
「そう」
短く答える。
「それなら、よかった」
彼女は自分の器へ鍋を入れた。
視線を落とす。
機械の指が、ほんの少しだけ動きを迷っていた。
「カレーに似てる」
俺が言う。
「カレー?」
レナが聞く。
「昔の地球の料理」
「同一の食材はありますか?」
「たぶん、ほとんどない」
「味の再現は?」
「記録があればできるかもしれない」
ミラが船内から答える。
『旧地球料理記録を検索』
『該当名称、二万八千四百十三件』
「多すぎないか?」
『地域、時代、家庭により差異があります』
「レンの家の味を再現できる?」
ミサキが尋ねる。
「記録が残ってないと思う」
俺の家。
誰が作ってくれたのか。
どの程度辛かったのか。
何を一緒に食べたのか。
思い出そうとする。
味は分かる。
でも、正確な材料は分からない。
「もう食べられないんだな」
口にした瞬間、食卓が静かになった。
「ごめん。暗くするつもりじゃなかった」
「謝る必要はありません」
レナが言う。
「再現できないなら、新しく作りましょう」
「新しく?」
「あなたがカレーに似ていると判断した料理です」
レナは鍋を見る。
「次回は、味を調整できます」
「俺の家の味とは違うよ」
「はい」
「それでもいいの?」
「同じものを作るとは言っていません」
彼女は自分の器へ匙を入れる。
「現在のあなたが、また食べたいと思える味を作ります」
胸の奥が、少し温かくなる。
「私も協力します」
ミサキが言った。
「塩分と栄養量を調整します」
「味が薄くなりそう」
「健康を損ねる料理は認めません」
「私が香辛料を選ぶわ」
エリス。
「値段は?」
「今回は考えない」
「ガイは?」
「機関炉で煮れば、燃料を節約できる」
「味への協力を聞いたんだけど」
「火力は味だ!」
「ユーノは?」
「マーテルの携帯調味料を提供します」
「おいしいの?」
「栄養摂取効率が十二パーセント上昇します」
「味を聞いたんだけど」
「記録にありません」
「ピコは?」
『鍋の温度管理』
「まともだ」
『過熱時、強制停止』
「それでいこう」
地球のカレーは戻らない。
でも、この船で作る次の鍋がある。
それを楽しみにしてもいいと思った。
◇
食事が進む。
ガイは三回おかわりした。
ユーノは最初、決められた量だけ食べていたが、ガイに競争を挑まれて二杯目を取った。
レナは祭りの団子と同じように、一口ごとに味を確認している。
ミサキは勤務時間外と言いながら、俺が右手を使う回数を数えていた。
「数えてる?」
「数えていません」
「今、端末に入力しただろ」
「食事記録です」
「右手使用、十一回って見えた」
「よく見えましたね」
「勤務時間外では?」
「自動記録です」
「ミサキが押してた」
「習慣です」
彼女が端末を伏せる。
「では、記録をやめます」
「怒った?」
「いいえ」
「本当に?」
「本当です」
少しだけ声が硬い。
「記録されるのが嫌だったわけじゃない」
「では?」
「今は、乗員として座ってるって言ったから」
ミサキは俺を見る。
「医師として見られたくないのですか?」
「そうじゃなくて」
言葉を探す。
「ミサキが、医者じゃない時間を作ったなら、その時間まで俺の治療に使ってほしくない」
「それでは、私があなたを見ている理由がなくなります」
「なくなる?」
「医療上の理由は」
ミサキの頬が、少しだけ赤くなった。
エリスが正面で笑いかける。
だが、今回は何も言わなかった。
「医療上じゃない理由なら?」
俺が尋ねる。
「それを」
ミサキは伏せた端末へ指を置く。
「今、探しているところです」
「じゃあ、見てもいいよ」
「許可されなくても見ます」
「強いな」
「医師ですから」
「今は乗員じゃなかった?」
ミサキが言葉に詰まる。
レナが俺の右腕へ触れた。
「レン」
「何?」
「匙が傾いています」
右手を見る。
話している間に、汁がこぼれそうになっていた。
レナが匙の先を支える。
「補助を頼みますか?」
「お願い」
「はい」
彼女の指が、俺の右手へ重なる。
二人で匙を器へ戻す。
「レナ」
「はい」
「怒ってる?」
「なぜですか?」
「何となく」
「私は、レンがミサキを見ていることを確認しました」
「それは怒ってるんじゃない?」
「分かりません」
レナは少し考える。
「ですが、私の方も見てほしいと思いました」
真っすぐな言葉。
「見てるよ」
「現在、ミサキを見ていました」
「ずっと一人だけ見るのは無理だろ」
「合理的です」
「納得した?」
「感情は、合理性だけでは更新されないようです」
レナは俺の手から離れない。
「しばらく、このまま補助します」
「もう匙は置いたけど」
「問題ありません」
手を握る理由が変わっている。
補助ではなく、そうしたいから。
俺も離さなかった。
左側では、ミサキの膝がまだ浮遊椅子へ触れている。
正面では、エリスが赤い髪を揺らして鍋を食べている。
「船長さん」
「何?」
「大変そうね」
「食卓が狭いだけだよ」
「その回答、いつまで使えるかしら」
「できるだけ長く」
「ずるい男になってきたわね」
「褒めてる?」
「少しだけ」
◇
鍋が空になる。
誰も残さなかった。
食器を片づけようとすると、エリスが止める。
「最初の食事だから、決めることがあるでしょう?」
「何を?」
「次も全員で食べるか」
「一回だけじゃなかったの?」
「船長が十二時間の休息を決めた記念よ」
ユーノが姿勢を正す。
「規則にしますか?」
「規則にすると、参加しない者が違反になります」
レナが指摘する。
「では、推奨事項として」
「毎回は無理だぞ」
ガイが言う。
「機関を止められない時もある」
『整備作業を優先する場合あり』
ピコも続く。
「医療対応中は参加できません」
ミサキ。
「契約交渉中もね」
エリス。
「マーテルへの報告時も困難です」
ユーノ。
全員に、参加できない時間がある。
「大きな救難や仕事が終わった後」
俺は提案する。
「安全な場所まで来たら、一度だけ全員で食べる」
「参加できる人だけ?」
「うん」
「参加しない理由は聞かない」
「食べるものがない場合は?」
ガイが尋ねる。
「食べられるものを探す」
「まずかったら?」
「次は直す」
「食卓は?」
「狭いまま」
「そこは直さないのか!」
「今日、悪くなかっただろ?」
ガイが周囲を見る。
ピコは食卓の中央。
ユーノの肩と、ガイの機械腕が触れている。
俺はレナとミサキに挟まれている。
エリスは六本指の機械腕を置く場所がなく、二本を膝へ下ろしていた。
「……配管を動かすほどじゃねえ」
「決まり」
『船内推奨事項へ登録』
ミラが告げる。
『大規模救難または任務完了後、安全確保を確認した時点で共同食を提案』
『参加は任意』
『欠席理由の提出は不要』
「料理担当は?」
『立候補または抽選』
「次はレンね」
エリスが言う。
「俺、料理できない」
「地球のカレーを作るのでしょう?」
「作り方を知らない」
「知っている範囲から始めればいいわ」
「失敗したら?」
「全員で食べる」
「逃げ道がない」
「良い契約でしょう?」
エリスが笑う。
「出口は?」
「次の食事で作り直せる」
「なるほど」
俺は登録へ承認を入れる。
共同食。
この船で初めてできた、仕事以外の決まりだった。
◇
食事が終わり、ガイとピコは機関区へ戻った。
休息時間だと言ったが、二人とも固定具の修理をすると言って聞かなかった。
ユーノはダリウスへの報告を送る。
エリスは食器を片づける。
俺も手伝おうとしたが、右手の訓練は終わりだとミサキに止められた。
「診察します」
「やっぱり勤務へ戻るの?」
「食事は終わりました」
「三十分だけじゃなかった?」
「予定を十二分超過しました」
「楽しんだ?」
ミサキの動きが止まる。
「はい」
「なら、よかった」
「レン」
「何?」
「神経状態が七十二時間安定し、自力で寝台と浮遊椅子の間を移動できるようになれば、常時監視を終了します」
「治療が終わる?」
「継続診療へ移ります。毎日、私が隣にいる必要はなくなります」
「そっか」
「嬉しくないのですか?」
「回復するのは嬉しい」
「では、なぜその顔を?」
「ミサキと一緒にいる時間が減ると思った」
また、言ってから恥ずかしくなる。
最近、考える前に口へ出ることが増えた。
ミサキは、しばらく黙っていた。
「診察がなくても」
やがて言う。
「食事へ誘ってください」
「いいの?」
「患者ではなくなった後も、私はこの船の乗員です」
「それだけ?」
「それ以上の理由は」
彼女は髪を耳へかける。
「治療が終わってから、考えます」
「分かった」
「待てますか?」
「待つ」
「その間に、ほかの女性と関係を進めないとは言わないのですね」
レナを見る。
彼女は食堂の入口で待っている。
俺の部屋へ行く約束が残っている。
「嘘は言えない」
「正直ですね」
「怒った?」
「少しだけ」
ミサキは微笑んだ。
「でも、治療を急がせる理由にはなります」
「無理な計画は駄目だぞ」
「それは私の台詞です」
◇
診察が終わる。
神経状態は安定。
《SOUL REPAIR》使用後の異常なし。
右手は、三本の指に随意運動あり。
明日から、移乗訓練を始める。
「おやすみなさい」
ミサキが医療区画の扉を閉める。
レナが、俺の隣へ来る。
「部屋へ行く?」
「はい」
俺の船長室。
扉が開く。
寝台。
小さな机。
壁の青い祭礼灯。
椅子は一脚しかない。
「レナが座って」
「レンは?」
「浮遊椅子がある」
「では、問題ありません」
レナが椅子へ座る。
俺は向かいへ浮遊椅子を止めた。
「航路相談じゃないんだよな?」
「はい」
「何をする?」
「二人で話します」
「食堂でも話したけど」
「ほかの乗員がいました」
「二人だけがよかった?」
「はい」
レナは青い《帰灯環》へ触れる。
「中継施設で、あなたは戻ってきました」
「うん」
「倒れませんでした」
「うん」
「契約を更新しました」
「うん」
「私は、嬉しかったです」
「ありがとう」
「ですが」
レナの視線が、俺の右手へ移る。
「確認したいことがあります」
「何?」
「右手で、私へ触れたいと言いました」
「言った」
「現在、三本の指が動きます」
「まだ少しだけ」
「少しでも構いません」
レナが椅子から立つ。
俺の前へ来る。
膝をつき、顔の高さを合わせた。
「触れてもいい?」
俺が尋ねる。
「はい」
右手を持ち上げる。
肩が重い。
指先が震える。
それでも、自分で動かす。
レナの頬へ触れた。
親指。
人差し指。
中指。
三本の指先に、人工皮膚の温かさが伝わる。
「分かる」
「何がですか?」
「温かい」
「はい」
レナが、俺の右手へ自分の手を重ねる。
強く押しつけない。
落ちないように、支えるだけ。
「もう一つ、確認したいです」
「何?」
「口づけてもいいですか?」
「うん」
今度は、レナから近づく。
唇が触れる。
祭りの後より、ゆっくり。
短いけれど、急いで離れない。
右手は、彼女の頬にある。
左手は、レナの腰へ回した。
離れた後も、額が触れたままになる。
「確認できた?」
「はい」
「何を?」
「右手で触れられた場合も、嬉しいです」
「それだけ?」
「口づけも」
金色の瞳が近くで細くなる。
「前回より好きです」
俺は笑った。
「次は?」
「右手全体で触れられるようになった時」
「それまでしないの?」
「現在の発言を修正します」
レナが、もう一度顔を近づける。
「回復段階に関係なく、希望した時に行います」
「合理的だ」
「感情に合わせて更新しました」
二度目の口づけ。
船体が、かすかに揺れる。
扉の向こうでは誰かの足音。
機関区から工具の音。
食堂には、空になった鍋。
狭い食卓。
一人で眠るために作られた小さな部屋。
それでも今は、一人ではない。
◇
十二時間の休息が終わる。
《ウェイフェアラー》の食堂には、洗い終えた七つの器が並んでいた。
形も、色も、材質も違う。
次の共同食まで、棚へ保管される。
『レン』
ミラが静かに呼ぶ。
「何?」
『次の航路候補を三件、受信しています』
「救難信号?」
『いいえ』
『一件は、水城ミサキによる《HELIX CLINIC》再建候補地』
『一件は、マリア・セルヴァが希望する機械身体の製造情報』
『一件は、エリス・ヴァントの過去の債務契約に関する情報です』
行き先は一つではない。
誰の問題を先に解決するか。
船長として決める必要がある。
「全員が起きてから話そう」
『了解しました』
今すぐ決めない。
休息時間を最後まで使う。
青い祭礼灯を消す。
レナが自分の部屋へ戻る前、俺の右手へもう一度触れた。
「おやすみなさい、レン」
「おやすみ、レナ」
向かいの扉が閉まる。
俺は狭い寝台へ身体を移す。
まだ一人では成功できない。
今日は、レナに支えてもらった。
明日は、もう少し自分で動く。
できなければ、また頼む。
船長室の天井。
古い救難船の振動。
隣の部屋に、誰かがいる気配。
勝利の後に残ったのは、新しい敵でも、次の命令でもない。
七つの器と。
次も全員で食べるという、小さな約束だった。
次回、第32話「医師は、診察が終わっても隣に座る」。
レンの移乗訓練と、ミサキが望む治療後の関係を描きます。




