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廃棄された俺だけがアンドロイドの魂を修復できるらしい ~恋も出産も管理された未来世界で、機械の少女たちと反逆します~  作者: 好山 雪


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第23話 漂泊港の浴場は、星空の下にある

《BRIGHT JACKALS》との対立を、戦闘ではなく救助と交渉によって終わらせたレンたち。


漂泊港《NOMAD’S REST》では、失われた故郷の灯を新しい船へ受け継ぐ《灯継ぎ祭》が始まろうとしていた。


逃げるためでも、誰かを救うためでもない外出。


レンは初めて、自分自身が祭りを楽しむために船を降りる。


「祭りに行きたい」


 俺が言うと、ミサキは二枚の許可証を机へ置いた。


 一枚は外出許可。


 もう一枚は共同浴場の利用許可。


 どちらにも、まだ彼女の署名はない。


「その前に確認することがあります」


「今日くらい、患者じゃなくて客になりたいんだけど」


「今日のあなたは、外出を希望している患者です」


「言い方が厳しい」


「医師ですから」


 ミサキは浮遊椅子に座る俺の前へ屈んだ。


 右手へ触れる前に、一度こちらを見る。


 俺が頷くと、指先から手首までをゆっくり確かめた。


「親指を動かしてください」


 力を入れる。


 一ミリ。


 二ミリ。


 昨日より少しだけ大きく曲がった。


「痛みは?」


「手首に少し」


「感覚は?」


「触られてるのは分かる。温度はまだ曖昧」


「右脚は?」


「足の裏だけ、床があるのが分かる」


「それ以外は?」


「動かない」


 ミサキは記録を入力する。


 良くなっている。


 だが、歩けるようになったわけではない。


 身体の右側は、まだ俺の命令をほとんど聞いてくれない。


「入浴中、《SOUL REPAIR》は禁止です」


「風呂で使う理由がない」


「あなたは壊れた温度調整器を見つけたら直そうとするでしょう」


「否定できない」


「浴場の設備、ほかの利用者、屋台の調理器具。今日は全部、壊れていても見なかったことにしてください」


「医者に故障を放置しろと言われるとは思わなかった」


「今日は修理する日ではなく、休む日です」


 ミサキは署名用の端末を手に取った。


 だが、まだ指を置かない。


「最後の確認です。浮遊椅子から入浴用の支持台へ、自分で移れますか?」


「やってみる」


「できなければ?」


 俺は少し迷った。


 以前なら、何も答えなかったかもしれない。


 できるふりをする。


 失敗しても、もう一度やる。


 誰かに助けを求めるくらいなら、諦める。


 けれど、今日は祭りへ行きたい。


 浴場にも入りたい。


「手伝ってもらう」


「誰に?」


「その時、近くにいる人に頼む」


 ミサキが微笑んだ。


 許可証へ二つの署名が入る。


「合格です」


「今のが試験だったのか?」


「一番大切な検査でした」


 扉が開いた。


 レナが入ってくる。


 黒い髪は、いつものように肩へ真っすぐ下りている。


 右脚には補助装具。


 胸部の亀裂を固定するため、金属製の支持具が服の上から巻かれていた。


 左腕も、まだほとんど動かない。


 それでも、昨日より姿勢が安定して見える。


 右手には、三着の服を抱えていた。


「選んでください」


「何を?」


「祭礼用の外衣です」


 三着とも、俺がこれまで着ていた簡素な船内服とはまるで違う。


 一着は青。


 一着は白。


 最後の一着は、黒に細い銀糸が入っている。


 どれも前が大きく開き、帯で留める形だ。


 千年以上前の日本で見た浴衣に少し似ている。


「レナが選んでくれ」


「あなたが着る服です」


「だから、レナに選んでほしい」


「理由になっていません」


「俺だけで選ぶと、たぶん一番地味なものにするから」


「黒ですね」


「まだ選んでない」


「今、見ていました」


「見るくらいいいだろ」


「予測通りです」


 レナは三着を寝台へ並べた。


 その後ろから、赤い髪が現れる。


「黒は駄目よ」


 エリスだった。


 赤い祭礼衣の帯を締めながら、勝手に医療区画へ入ってくる。


 普段の作業着とは違い、肩と機械腕の接続部が大きく露出していた。


 褐色の肌と、両腕の銀色が祭礼灯を反射している。


 六本ずつある機械の指には、細い赤色の装飾線が描かれていた。


「どうして?」


「あなたの顔色が悪く見えるから」


「元から悪い」


「だから白も駄目。病院から抜け出した患者にしか見えないわ」


「実際にそうなんだけど」


「青にしなさい」


 エリスが青い外衣を持ち上げ、俺の肩へ当てた。


「うん。これなら、多少は健康そうに見える」


「服で健康を偽装していいのか?」


「祭りは、なりたい自分の色を着るものよ」


 エリスは自分の赤い服を広げる。


「赤は?」


「欲望」


「分かりやすいな」


「褒め言葉として受け取っておくわ」


「銀は、航路の継続を意味します」


 レナが説明した。


 俺の青い外衣には、袖口から胸元まで銀糸が通っている。


「青は?」


「まだ到着していない旅人の色です」


「旅の途中ってことか」


「はい」


「なら、これにする」


 俺が言うと、レナは青い外衣を手に取った。


「着替えを補助します」


「一人で――」


 右手を見る。


 親指は動く。


 だが、帯を結べるほどではない。


「袖を通すところまでは自分でやる」


「承知しました」


 レナは背中を向けて待った。


 俺は左手で船内服の留め具を外す。


 右腕を抜くのに時間がかかった。


 途中で布が肘へ引っかかる。


 以前の俺なら、焦って無理に引いただろう。


 今日は急ぐ理由がない。


 外では祭りが始まりかけている。


 でも、俺が出るまで祭りが消えるわけではない。


 少しずつ身体を傾け、ようやく服を脱ぐ。


 青い外衣へ左腕を通す。


 次に右腕。


 肩まで引き上げたところで、袖口が裏返った。


「レナ」


「はい」


「ここから頼む」


 彼女が振り返る。


 驚いた顔はしなかった。


 ただ、静かに袖を直し、前を合わせてくれる。


 帯を腰へ回すため、レナの腕が俺の身体を囲んだ。


 顔が近い。


 黒い髪が、俺の頬へ触れる。


 胸部固定具から漏れる金色の光が、青い布へ細く映っていた。


「苦しくありませんか?」


「大丈夫」


「帯のことです」


「分かってる」


「では、なぜ視線を逸らすのですか?」


「近いから」


「着衣補助に必要な距離です」


 そう言いながら、レナは少しだけ動きを止めた。


 離れようとはしない。


 俺も、急かさなかった。


「完成しました」


 帯が結ばれる。


 レナが身体を離す。


 近すぎた距離が元へ戻ると、少しだけ惜しいと思った。


 そう思った自分に驚く。


「似合う?」


「はい」


「それだけ?」


「ほかに必要な回答がありますか?」


「似合うと言われただけで十分です」


「そうですか」


 レナの金色の瞳が細くなる。


「よく似合っています、レン」


 胸の奥が、妙に落ち着かなくなった。


 エリスが俺たちを見比べている。


「なるほど」


「何が?」


「何でもないわ。今日の査定対象は服だけにしておく」


「助かる」


 ミサキは祭礼衣ではなく、白い医療服のままだった。


「ミサキは着替えないの?」


「外出中も担当医ですから」


「祭りに行っても?」


「あなたが戻るまでは」


 少し寂しい気がした。


 俺たちを休ませるために、彼女だけが仕事を続ける。


「帰ってきたら?」


「勤務を終えます」


「その後は?」


「一人の客として祭りを見ます」


「なら、一緒に食事しよう」


 ミサキが瞬きをする。


「医師としてではなく?」


「うん」


「あなたは入浴後、すぐ休む必要があります」


「食事一回分も駄目?」


「三十分までです」


「そこは時間を決めるんだな」


「でも」


 ミサキが、少しだけ視線を逸らした。


「誘ってくれたことは、嬉しいです」


 普段より小さな声だった。


 エリスは何も言わない。


 ただ、口元に浮かびかけた笑みを、珍しく引っ込めていた。


     ◇


 《NOMAD’S REST》には、決まった昼も夜もない。


 いくつもの船が、別々の時間で暮らしているからだ。


 それでも《灯継ぎ祭》の間だけは、港全体の照明が一斉に落とされる。


 暗くなった通路へ、一つずつ灯りがともっていた。


 丸い灯り。


 四角い灯り。


 古い航路標識を使ったもの。


 割れた操縦盤の表示灯をつなぎ直したもの。


 遠い星の海を渡ってきた船乗りたちが、それぞれの故郷で使っていた明かりを再現している。


 俺の浮遊椅子は、通路の中央をゆっくり進む。


 右にレナ。


 左にはエリス。


 ミサキは少し後ろから、俺の状態を確認している。


 誰にも押されていない。


 俺が自分で速度を決めていた。


「匂いがする」


 何かを焼く匂い。


 甘い香り。


 少し焦げた醤油に似た匂いもある。


「漂泊港で育てた穀粒を練って焼いています」


 レナが屋台を指した。


 串へ刺さっているのは、白い団子のような食べ物だった。


 表面に茶色の蜜が塗られている。


「食べたい」


「入浴前の食事は少量にしてください」


 ミサキの許可が出る。


「一本なら?」


「半分です」


「半分か」


「残りは私が食べてあげる」


 エリスが言った。


「それは助けじゃないだろ」


「食品の廃棄を防ぐ重要な仕事よ」


 一本買う。


 左手で串を持ち、かじる。


 柔らかい。


 甘辛い味が、口の中に広がった。


「どう?」


 レナが尋ねる。


「故郷の食べ物に似てる」


「同一の料理ですか?」


「違う。でも、祭りで食べたことがある味だ」


 子どもの頃。


 まだ自分の脚で歩けていた頃。


 家族と出かけた夏祭り。


 記憶は曖昧だ。


 誰と何を話したのかも、もう覚えていない。


 ただ、人の声と明かり。


 夜の暑さ。


 手に持っていた甘い食べ物。


 それだけは残っている。


「泣いてる?」


 エリスが聞く。


「泣いてない」


「そう」


 彼女は追及しなかった。


 俺は串の残りを差し出す。


「食べる?」


「いいの?」


「廃棄を防ぐんだろ」


 エリスは左側の機械腕で串を受け取る。


 一口食べた後、反対側をレナへ向けた。


「あなたも食べる?」


「必要ありません」


「祭りで必要性を基準にすると、何も楽しめないわよ」


 レナが団子を見る。


 次に、俺を見る。


「レンが食べていたものですね」


「うん」


「では、一口だけ」


 エリスが串を差し出す。


 レナは小さくかじった。


「感想は?」


「甘味が強すぎます」


「嫌い?」


「もう一度確認する必要があります」


「それ、もう一口食べたいってことだろ」


 レナは否定しなかった。


 俺は笑った。


 こんなことで笑ったのは、いつ以来だろう。


     ◇


 共同浴場は、港の一番外側にあった。


 かつて観測船の天体観測室だった区画。


 巨大な透明天蓋の向こうには、宇宙が広がっている。


 星空の下に浴場があるのではない。


 本当に星と宇宙しかない場所へ、浴槽だけが浮かんでいるように見えた。


「裸では入らないのか」


 更衣区画で渡された浴衣を見て、俺は尋ねた。


 紺色の薄い布。


 水中で身体へまとわりつかないよう、内側に細い支持線が入っている。


「この港の共同浴場には、さまざまな身体構造の利用者が来ます」


 ミサキが説明する。


「皮膚を大気へ出せない種族や、外装を外すことが私的行為にあたるアンドロイドもいます。そのため、入浴衣を着るのが共通規則です」


「性別でも分かれてないの?」


「希望者は個別浴槽を選べます。共有区画へ入る場合も、接触には事前確認が必要です」


「合理的ね」


 エリスが自分の入浴衣を広げた。


 深い赤色。


 普段の服より身体の線が分かりやすい形をしている。


「これなら機械腕も外さずに入れる」


「防水は?」


「水中作業用よ。あなたより長く潜れるわ」


「競争はしないからな」


「残念」


 レナは黒い入浴衣を選んだ。


 胸部固定具を保護するため、上半身には追加の布が重ねられている。


 それでも、布の隙間から金色の光が見えた。


「見ますか?」


 突然、レナが聞いた。


「何を?」


「胸部の状態です」


「ここで?」


「入浴前に、防水固定具へ交換します」


 レナは俺を見る。


 ミサキは少し離れた場所で器具を準備していた。


「以前は、破損した部分を見られることへ抵抗がありませんでした」


「今はある?」


「分かりません」


「なら、無理に見せなくていい」


「隠したいわけでもありません」


 レナの右手が、胸部支持具へ触れる。


「レンには、知っておいてほしいと思いました」


 理由を尋ねようとして、やめた。


「分かった」


 俺が答えると、レナは固定具の外装を開いた。


 人工皮膚の中央に、斜めの亀裂が走っている。


 亀裂の奥には属性炉。


 以前より安定しているが、金色の光はまだ弱い。


 周囲には、新しい補強線が何本も追加されていた。


 綺麗だとは思わなかった。


 痛々しいとも、壊れているとも思わなかった。


 これは今のレナの身体だ。


 彼女が戦い、生き残った痕跡。


「どうですか?」


「前より光が安定してる」


「ほかには?」


「ほか?」


「視覚的評価です」


 どう答えるべきか迷う。


 エリスなら、すぐに気の利いた言葉を返せるのだろう。


 俺には無理だ。


「見せてくれて嬉しい」


 正直に言った。


「評価になってないな」


「いいえ」


 レナの指先が、亀裂の縁へ触れる。


「十分です」


 ミサキが防水固定具を取りつける。


 俺も入浴衣へ着替えた。


 病気だった頃の手術痕は、新しい身体には残っていない。


 けれど、《ORIGIN REGISTRY》の回収実働体に止められた右半身は、左側より少し血色が悪い。


 レナが見ている。


「俺にも何か評価は?」


「痩せています」


「それだけ?」


「食事量を増やすべきです」


「医者みたいなことを言うな」


「事実です」


 短い間。


「ですが」


 レナは視線を逸らさない。


「今のあなたの身体だと分かります」


 それは、褒め言葉ではない。


 けれど、俺には何より嬉しい言葉だった。


     ◇


 浴槽の湯には、弱い磁性を持つ鉱物が混ぜられている。


 低重力でも水面が崩れないよう、浴槽の底へ引きつけているらしい。


 俺は浮遊椅子を支持台の横へつけた。


 左手で手すりを掴む。


 身体を前へ傾ける。


 左脚を床へ置く。


 右脚は、支持台が自動で位置を整えてくれた。


 腰を上げる。


 途中で力が抜けた。


「レン」


 レナが手を伸ばしかける。


「もう一回」


 俺は言った。


 彼女は止まった。


 ミサキも何も言わない。


 左手の位置を変える。


 さっきより身体を深く前へ倒す。


 左脚へ力を入れる。


 浮遊椅子から腰が離れた。


 一秒。


 二秒。


 右脚は動かない。


 それでも床へ接している感覚はある。


 身体が傾く。


「レナ、腕を貸して」


「はい」


 レナの右腕を掴む。


 彼女も右脚を補助具で固定している。


 壊れていない者が、壊れた者を運ぶのではない。


 不安定な二人が、互いの重さを使って姿勢を保つ。


 俺は支持台へ身体を移した。


「できた」


「はい」


 息が切れている。


 たったそれだけの移動だった。


 けれど、自分で始めて、必要な時に助けを頼み、最後まで倒れなかった。


 ミサキが記録端末を閉じた。


「今日は数値を記録しません」


「いいの?」


「覚えておけば十分です」


 支持台が俺の身体を支えたまま、浴槽へ降りていく。


 温かい湯が足先へ触れる。


 右足では温度が分からない。


 左足から伝わった熱が、腰、胸、肩まで上がってくる。


 身体の力が抜けた。


「気持ちいい」


 思わず声が出る。


「それはよかった」


 ミサキも医療服から入浴衣へ着替えていた。


 青緑色の落ち着いた服。


 いつも束ねている髪を下ろしている。


 濡れた髪が肩へ張りつく姿は、診療中とはまるで違って見えた。


 俺が見ていることに気づき、ミサキが首を傾ける。


「何ですか?」


「髪を下ろしてるの、初めて見た」


「入浴中ですから」


「似合ってる」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。


 ミサキは何も答えない。


 湯へ入る動きが、一瞬だけ止まった。


「今の言葉は」


「うん」


「診療記録には残しません」


「残されたら困る」


「私が覚えておきます」


 その頬が、湯の熱だけではない色へ変わっている。


 エリスが隣の浴槽からこちらを見ていた。


 からかわれると思った。


 だが、彼女は六本指を唇へ当て、何も言わなかった。


 代わりに、赤い髪を湯へ広げる。


 無重力に近い水の中で、髪が炎のように揺れた。


「どう?」


 今度は俺が尋ねられる。


「綺麗だ」


「即答なのね」


「感想を求めたのはエリスだろ」


「そうだけど」


 エリスは少しだけ困った顔をした。


 冗談を返されると思っていたのかもしれない。


「ありがとう」


 いつもの誘惑するような声ではなかった。


 そのまま彼女は背中を向け、星空を眺め始めた。


 俺の隣へ、レナが入る。


 黒い入浴衣が湯を含み、身体へ沿う。


 胸部に巻かれた防水固定具の内側で、金色の光が揺れていた。


 レナは手すりを掴み、俺と同じ方向を見る。


 透明天蓋の向こう。


 星々の間を、小さな船が横切っていく。


 港の外周には祭礼灯が並び、暗い宇宙へ細い輪を描いていた。


「本当に星空の下なんだな」


「正確には、星空の内側です」


「雰囲気を壊すな」


「訂正します」


 レナは少し考える。


「綺麗ですね」


「うん」


 湯の流れで、俺の右手が支持台から浮いた。


 指先に力が入らない。


 手が、レナの側へ流れていく。


 触れる直前で、彼女が尋ねた。


「手を戻しますか?」


 事故で触れたことにすることもできた。


 感覚が鈍いから分からなかったと言うこともできる。


 でも、そうしたくなかった。


「いや」


 俺は答えた。


「握っていてほしい」


「姿勢が不安定ですか?」


「違う」


「では、理由は?」


「そうしたいから」


 レナが黙る。


 湯の中で、彼女の右手が俺の右手へ触れた。


 強く握る必要はない。


 指先を重ねるだけで、俺の手は流されなくなった。


「私も」


 レナが言う。


「こうしていたいと思います」


 それ以上は何も言わなかった。


 ミサキは別の方向を見ている。


 エリスも星空を見上げている。


 誰も俺たちの間へ入らない。


 俺とレナは、湯から出るまで手を離さなかった。


     ◇


 浴場を出ると、祭りは最も明るい時間を迎えていた。


 港の中央広場に、大きな灯りがある。


 古い船の航行灯を組み合わせたものらしい。


 住民たちは、その灯りから細い光糸を受け取っていた。


「何をしてるんだ?」


「《帰灯環》を作っています」


 レナが答える。


 光を通す細い繊維を編み、手首へ巻く。


 次の《灯継ぎ祭》まで無事に帰りたい場所がある者は、自分で一つ作る。


 二人で同じ場所へ帰りたい場合は、一本の光糸を二つに分ける。


「誰かと組にしなくてもいいのよ」


 エリスが言った。


「船へ結ぶ人もいるし、故郷へ送る人もいる。亡くなった相手の記録へ添える人もいるわ」


 ミサキは緑色の光糸を選んだ。


「私は診療所へ」


「《HELIX CLINIC》に?」


「いつか戻ります。置いてきた患者も、設備もありますから」


「一人で?」


「今は決めません」


 ミサキは自分の手首へ光糸を巻いた。


 以前なら、迷わず一人で戻ると言ったのだろう。


 今は、その先を決めつけない。


 エリスは赤い糸を手に取った。


 しばらく見つめた後、自分の機械腕ではなく、腰の工具袋へ結ぶ。


「腕につけないの?」


「まだ、どこへ帰りたいか決めていないから」


「決まってからでいいのか?」


「ええ。この糸は逃げないもの」


 エリスは俺を見る。


「人と違ってね」


「誰の話だ?」


「まだ誰の話でもないわ」


 笑っている。


 だが、その目は少しだけ真剣だった。


 俺は青い光糸を取った。


 自分で編もうとする。


 左手しか使えないため、すぐに形が崩れた。


「補助しましょうか?」


 レナが尋ねる。


「頼む」


 二人で一本の糸を編む。


 俺が端を押さえ、レナが輪を作る。


 彼女の指は正確だ。


 それでも、最後の結び目だけは俺へ任せた。


 左手で時間をかけて結ぶ。


 少し歪んだ輪が完成する。


「二つに分ける?」


 俺が聞いた。


「意味を理解していますか?」


「次の祭りも、同じ場所へ帰りたい相手と分ける」


「はい」


「俺は、レナと分けたい」


 彼女の瞳が、青い光を映す。


「義務でも、護衛契約でもなく?」


「一緒に祭りへ来たいから」


「次の祭りまでには、私の脚が修復されているかもしれません」


「俺も歩けるようになってるかもしれない」


「この港へ戻れない可能性もあります」


「別の場所で作ればいい」


「戦闘や事故で――」


「先のことを全部心配してたら、約束なんてできないだろ」


 俺は光糸を二つに分けた。


 片方をレナへ差し出す。


「次も、一緒に祭りを見たい」


 助けるためではない。


 世界を変えるためでもない。


 俺が、そうしたい。


 甘いものを食べたい。


 温かい湯へ入りたい。


 似合う服を着たい。


 好きな相手に、隣にいてほしい。


 そんな理由で、来年まで生きたい。


「受け取ってくれる?」


 レナは光糸を受け取った。


「はい」


 俺の手首へ、青い《帰灯環》を結ぶ。


 次に、自分の右手首へ残りの輪を巻いた。


「次の《灯継ぎ祭》も、あなたの隣へ行きます」


「約束だ」


「約束します」


 二つの青い輪が、同じ光を放つ。


 俺たちはまだ、帰る場所を決めきれていない。


 《ウェイフェアラー》は壊れたまま。


 《ORIGIN REGISTRY》には、百七十三の人格記録が狙われている。


 レナの家族も、マーテルも、《HELIOS》も、俺たちを放ってはおかないだろう。


 それでも、来年を望むことはできる。


 俺は、生き残らなければならないのではない。


 生きたい。


 次も、この人と同じ灯りを見るために。


     ◇


 船へ戻ると、格納庫の扉に新しい傷が増えていた。


 ガイが《BRIGHT JACKALS》の推進器を直すため、《ウェイフェアラー》の予備部品を一つ持ち出したらしい。


 ピコは祭りへ行かなかった。


 代わりに、操縦室の天井へ小さな青い照明を取りつけていた。


『祭礼灯を再現』


「綺麗だな」


『帰還場所として登録するか?』


 俺は浮遊椅子から、古い操縦室を見回した。


 不揃いな座席。


 補修跡だらけの壁。


 時々消える照明。


 それでも、今は誰かの声がする。


 食事の匂いが残っている。


 帰ってきたと感じる。


「候補に入れておいて」


『了解』


 ミラが通信を告げる。


『レン。あなた宛てではなく、レナ宛ての優先通信を受信しました』


 レナが青い《帰灯環》へ触れる。


「発信者は?」


『アークライト家中央管理局』


 操縦室の中央に、封印された紋章が表示される。


『通信件名――レナ・アークライト帰還命令』


 祭りの灯りは、まだ消えていなかった。



次回、第24話「故郷は、彼女の傷を治すと言った」。


アークライト家から届いた帰還命令には、レナの完全修復を保証する条件が記されていました。

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