第二話 ノーラ
ロニは船に残ることになった。
船体の確認をするためだ。あれだけ腹をこすり、杭を生やしては折り、荒れ地を削って止まったのだから、無事に見える方が怪しい。
ロニは床に残った爪痕を一度見下ろし、それからサモへ顔を向けた。
「長くは空けるな」
「分かってる」
荒れ地を抜けるまでのことは、あとから思い出してもほとんど風の音しか残らなかった。
サモの背中を追い、何度も足を取られながら、ラトはようやく街を囲む低い壁の内側へ入った。
街の中に入っても、風はまだやんでいなかった。
建物の間を抜けるたび、細い路地から横風が吹きつける。ときどき身体を持っていかれそうになりながら、足を一歩一歩踏み出す。
だが荒れ地ほどではない。街を囲む低い壁や、屋根の端に並んだ羽根車のような装置が、風の勢いをいくらか軽減しているらしい。あとは、サモの巨体がラトにとってはいい壁になってくれた。
道は石畳だった。
ただ、地球で見たような古い道とは違う。石と石の隙間には細い溝が走り、そこを小さな皿のようなものが滑っていく。皿の上には光る札や、丸めた布や、見たことのない果物が乗っていた。店から店へ、勝手に運ばれているらしい。
外で食べ物を流して大丈夫なのかな……とラトは思いつつ、サモの後を追う。
家々は木材のようなものを中心に造られていた。
太い柱。横へ広い屋根。古い酒場のような格子窓。けれど窓の内側には薄い膜が張られ、外の風が当たるたび、透明な水面のように揺れる。屋根の下の灯りは、風が強くなるたびに少し明るくなった。
昔に見えるが、昔ではない。
ラトが何度も足を止めそうになるたび、前を行くサモが面倒くさそうに振り返る。
「歩き方、忘れたか?」
「あ……見るもの多すぎて」
「店の中の方が多いぞ」
サモはそう言って、一軒の建物の前で止まった。
周りの店より少し大きい。濃い色の木材で組まれた壁には、補修した跡なのか、ところどころ違う色の板が継ぎ足されている。入り口の上には、踊る人影をかたどった看板が吊られていた。風はまだ吹いているのに、その看板だけは不思議なほど揺れていない。
扉は厚い木のような材質だった。
表面には、細い銀色の線が幾何学模様のように埋め込まれている。サモが押すと、線が一瞬沈み、扉の向こうから熱と匂いが流れ出した。
焼いた肉の匂い。
煮込んだ野菜に似た匂い。
甘い香辛料と、酒と、煙と、知らない油のような匂い。
それから、話す声。笑い声。食器が触れ合う音。弦を弾くような高い音と、足元を叩く低い拍子。
外の風の唸りが、扉をくぐった瞬間に遠くなった。
完全に消えたわけではない。壁の奥でまだ低く鳴っている。けれど店内では、風はもう、外にあるものだった。
ラトは思わず立ち止まった。
店の中は広い。
天井には太い木の梁が渡され、その間に丸い灯りがいくつも浮かんでいる。火のように揺れているのに、煙は出ていない。床も壁もほとんど木でできているが、床板の隙間には細い溝が走り、料理を乗せた小さな台が音もなく滑っていく。
席の形もばらばらだった。
背もたれの高い椅子。低い丸椅子。足の代わりに腹を乗せるような台。浅い水槽のような席。天井近くには、枝のように張り出した止まり木まである。
そこに、見たことのない客たちが思い思いに座っていた。
透明な羽を背中に畳んだ細い種族が、長い杯を両手で抱えている。岩の塊のような体をした客は、皿の上の赤い実をゆっくり噛み砕いていた。頭の左右に薄い膜を広げた者は、料理を口ではなく首元の裂け目のような場所へ運んでいる。
大皿を囲む小さな毛むくじゃらの生き物たちは、誰がどの肉を取ったかで揉めていた。ひときわ小さい一匹が皿の縁によじ登り、勝ち誇ったように肉の塊を掲げる。次の瞬間、別の一匹に足を引っ張られて、皿の中へ転げ落ちた。
周りの客が笑う。
ラトも少しだけ笑いそうになった。
別の卓では、細長い嘴を持つ客が、青い料理に嘴を突っ込んでいた。その料理は、ときどき皿の上で小さく跳ねる。ラトがぎょっとして見ていると、客は気にした様子もなく、跳ねた部分を器用につまんで口へ運んだ。
食べ物らしい。絶対食べたくはない。
しかし、この店では、それも普通なのだろう。
ラトは袖口からのぞく白い腕を見下ろした。
知らない身体。知らない星。知らない客。知らない料理。
おかしいはずなのに、この中では自分の方がまだ地味かもしれない。そう思った瞬間、少しだけ気が抜けた。
だが、完全に気を抜けるほど店内は明るくもなかった。
笑い声はある。酒も料理もある。奥の小さな舞台では、四本腕の踊り子が布を操りながら回っている。足首の飾りが小さく鳴り、床に埋め込まれた線が、その動きに合わせてわずかに沈んだり戻ったりする。
それでも、窓際の客の何人かは、外の風が強くなるたびに顔を上げた。店員のひとりは料理を運びながら、何度も入り口を気にしている。笑っている者たちも、音の途切れ目には、ふと声を落とす。
ここだけは別世界のようだった。
けれどその別世界の外側で、何かが暴れている。そんな感覚だ。
サモは慣れた足取りで店の奥へ進んだ。
大柄な客の背後を抜け、料理を運ぶ台をまたぎ、ぶつかりそうになった誰かの肘を雑に押し戻す。ラトはその後ろを追った。床板の一部が、ラトの足に合わせるように少し沈む。驚いて足を止めると、サモが振り返らずに言った。
「止まるな」
「床が動いた」
「客に合わせてるだけだ」
「床が?」
「ここじゃ普通だ」
普通。
この世界の普通は、いちいちラトの知っている普通を踏み越えてくる。
サモはカウンターの前で足を止めた。
カウンターの向こうに、ひとりの女性がいた。
背が高い。
まず、ラトはそう思った。
サモほど大きいわけではない。けれど腰の位置が高く、肩から背中、背中から腰へ流れる線が、店の中の誰よりもなめらかだった。
胸元は大きく開いていた。踊るための衣装なのだろう。身体を締めつけすぎない薄い布が、胸元から腰へ流れる線を隠しきらず、それでいて動くたびに軽やかに揺れる。
腰のあたりで重なった布は、歩けば大きく割れて、長い脚がちらりと見えた。
ラトは、どこを見ていいのか一瞬分からなくなった。
顔は、地球人とは少し違う。
目尻が丸く長く、瞳孔は丸ではなく、雫を縦に伸ばしたような形をしていた。白目にあたる部分は淡い金色で、店の灯りを受けると、水面のようにゆっくり色が変わる。
耳は小さく、けれど先端だけが後ろへ薄く伸びていて、金色の長い髪の下で半透明に透けていた。
見慣れていない造形なのに、美人だと思った。
女性は片手で長細いコップのようなものを磨き、もう片方の手でカウンターに流れてくる文字を払っていた。
スマホかタブレットか何かあるのかと思ったが、なにもなさそうだ。ただ文字だけが流れてくる。おそらく注文なのだろう。
手つきは静かだった。
なのに、その周りだけ空気の動きが違う。
湯気の立つ料理がカウンターを滑ってきても、湯気は客の顔へ向かわず、彼女の手前でふわりと横へ逃げた。乱暴に置かれた皿は、音を立てる直前に勢いを失う。注がれたばかりの酒の表面は、外の風が壁を叩いても揺れなかった。
サモがカウンターに片手を置いた。
女性はまだ顔を上げない。
ただ、コップを磨く手だけが、ほんの少し止まった。
「あら」
柔らかい声だった。
彼女はようやく顔を上げ、サモを見て、それからラトを見た。
「ずいぶん……ボロボロね」
「おう。珍しい歓迎を受けたんでね」
サモは平然と言ったが、外套の裾は風と砂でひどいことになっていた。ラトも似たようなものだ。さっきまでピンボールになり、外では風に押され、いまは自分でも分かるくらい髪が乱れている。
女性は少しだけ目を細めた。
「……そう。あなたたちも」
「も?」
ラトが思わず聞き返す。
女性の雫形の瞳が、ラトへ向いた。
「ええ。最近、そうやって苦労して辿り着く人が増えているのよ」
サモの表情が、そこでわずかに変わったが、すぐに戻る。
「ノーラ」
サモは声を低くして言った。
「前の星は壊滅した」
ノーラは、長いまつげを伏せながら小さく息を吐く。
「次の星が知りたい」
その言葉に、ノーラはコップを立てながら考え込んだ。
「あるにはあるけど……うん、そうねえ……」
ノーラは雫形の瞳をわずかに揺らした。
立てたコップの縁から、水がふわりと浮く。
こぼれるはずの水はこぼれない。まるで空中に見えない細い道でもあるように、水はひとすじになって滑り、いくつもの水滴にほどけ、また寄り集まる。
やがてそれは、サモの目の前で文字の形を取った。
「いまは、ここくらいかしらね。監視が酷くなってるから」
「……ここのほうが監視酷そうだが……」
「レースよ。その最中ならある程度紛れやすいでしょ」
「レースかあ……」
サモは珍しく声を弾ませて、復唱した。
ラトは、相変わらずノーラに釘付けだった。
目の前で何かすごいことが起きた気はする。水で文字ができたし、サモが真面目な声で何かを聞いていた気もする。
けれど、正直、あまり頭に入ってこなかった。
綺麗な人だなあ。
そればかり思っていた。
杯を置く手も、少し首を傾ける仕草も、ただ立っているだけの姿も、いちいち目で追ってしまう。作っている感じはしない。なのに雑なところがひとつもない。
サモとはぜんぜん違う。
いや、比べるものではない気がする。比べたらノーラに失礼な気もする。
「……い、おい!」
「……うぇっ!? あ、なに?」
ラトが変な声を出すと、サモが心底呆れた顔でこちらを見ていた。
「行くぞ」
「え……あ、」
ラトは慌てて頷いた。
けれど、立ち上がりながら、名残惜しくなってもう一度だけノーラを見る。
ノーラはそれに気づいたのか、にっこりと微笑んだ。
「またおいで」
柔らかい声だった。
ラトは返事をした。
つもりだった。
実際に声が出ていたかどうかは、よく分からなかった。




