表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/9

第三話 中立の崩壊

 船に戻ったころ、風は止んでいた。

 荒れ地に立つ細い木は、さっきまで同じ方向へしなっていたはずなのに、今はぴくりとも動かない。船の外壁を叩いていた砂も、小石も、音を失っている。

  

 ラトは船の入り口で足を止めた。さっきまであれほど暴れていた空気が、まるで最初から何もなかったように眠っている。

「……んだ?」

 サモは答えなかった。

 

 ロニは船の腹の下にいた。灰色の巨体を低くし、船底の傷を確かめている。サモが無理やり打ち込んだ杭の跡は、船底のあちこちに残っていた。折れた部分もある。削れた部分もある。見たところ、無事とは言いがたい。


「飛べるか?」

 サモが聞く。

 ロニは船底から顔を出した。

「飛ぶだけならな」


「落ちないなら十分だ」

「十分の基準が低い」

「生きてりゃ勝ちだ」


 サモはそう言って、船内へ向かった。出発の準備をするつもりらしい。

 ラトは船の入り口で、さっき見た水の文字を思い出していた。


 コップの水が、空中で文字になった。水滴がばらけ、また寄り集まり、見たことのない文字列を形作る。たぶんそんな感じだったと思う。

 あれが彼女の流子操作というやつなんだろう。


 けれど、サモやロニとは少し違って見えた。


 サモの流子操作は……心強いが、少々乱暴だった。灰色の杭を打ち、折れれば次を伸ばす。助ける形を作ると言っていたが、形は歪だ。


 ノーラのそれは、もっと静かだった。

 水が自分で行き先を知っているように動いていた。

 ……ほとんど彼女の顔しか見てなかったけど。

 

 ラトがそんなことを考えていると、ロニの耳がぴくりと動いた。次に、鼻先が街へ向く。


「……火薬の匂いがする」


 サモの動きが止まった。


「どこだ」

「……遠い」

 ロニの声は低かった。


 ラトは反射的に街の方を見た。夜の向こう、さっきまでいた街の明かりが小さく瞬いている。遠い。ここからでは、どの建物がノーラの店なのかまでは分からない。


 その明かりの一角が、突然ふくらんだ。


 遅れて、音が来た。


 腹の奥を叩かれるような低い爆発音。静まり返った荒れ地を震わせて、こちらまで届いた。

 ラトは息を呑んだ。


「今の……」


 ロニの義眼が、街の方へ向いた。レンズが細かく動く。暗闇と距離を越えて、何かを見ている。

 数秒後、ロニが言った。

「さっきの店だ」

 

 サモが舌打ちした。

 その音が終わるより早く、ロニの姿が消えた。

 

 誇張ではなかった。


 灰色の巨体が沈む。次の瞬間には、もうサモの前にいない。地面を蹴った音だけが残り、ロニは弾丸のように荒れ地を抜けていった。低い岩を越え、倒れた草を裂き、街の明かりへ一直線に飛ぶ。


 ラトは目で追えなかった。


「はっや……」

「感心してる場合か」


 サモがラトの襟首を掴んだ。


「え」

「口閉じろ」

「なんで」

「舌噛むぞ」


 次の瞬間、ラトの身体はサモの腕の下に抱え込まれていた。


「ちょ、待――」


 サモの足が地面を噛む。 

 見えない力が脚に通ったように、踏み込みのたび荒れ地が低く鳴った。サモの身体は重いはずなのに、次の瞬間には前へ跳んでいる。

 ロニの速さが弾丸なら、サモの速さはもっと重かった。

 

 その巨体でラトを抱えたまま、地面を踏み潰し、流子操作で足元を押し返し、無理やり距離を潰していく。走っているというより、一歩ごとに荒れ地を蹴り捨てているようだった。

 

 ラトの視界は上下に跳ね、逆さに映る街の灯りが何度もにじんだ。


 

 ロニはもう、ノーラの店の前にいた。

 サモがラトを抱えたまま遅れて到着したとき、店は、半分ほど形を失っていた。


 さっきまで踊る人影の看板が吊られていた入り口は、黒く焦げている。木の壁は内側から吹き飛ばされたように裂け、銀色の線が何本も切れて垂れ下がっていた。店内からは煙と熱が漏れ、人の声が重なって聞こえる。


 悲鳴。

 怒号。

 咳き込む音。

 割れた食器を踏む音。


 ラトの身体が、サモの腕の中で固まった。

 

 さっきまで、あそこには笑い声があった。知らない料理があって、見たことのない客たちがいて、踊り子が回っていた。


 その場所が、黒く崩れている。


 ロニは店の前で低く構えていた。

 耳を伏せ、四本の足で地面を掴んでいる。義眼は店ではなく、周囲の屋根や路地を見ていた。瓦礫の中へ入らないのは、警戒しているからだとすぐに分かった。


 サモはラトを地面に下ろした。


「立てるな?」

「おう」

「じゃあ来い」


 店の奥で、木材が軋んだ。

 次の瞬間、崩れた壁の一部が、不自然に内側へ沈んだ。

 ラトは一瞬、崩れるのかと思った。けれど違った。

 瓦礫が持ち上がったわけではない。

 折れたはりと砕けた壁の間に、空洞ができていた。


 まるで、瓦礫の中を細い道が通ったようだった。無理に押しのけるのではなく、落ちるはずの板が少しだけ横へずれ、噛み合っていた破片がほどけ、煙の流れまで別の方向へ逃げていく。


 その奥から、すすに汚れた客がひとり、這い出してきた。

 続いて、小さな毛むくじゃらの生き物が二匹。誰かに抱えられた透明な羽の種族。咳き込みながらも、自分の足で外へ出る者。


 瓦礫の隙間の向こうに、ノーラがいた。

 額にすすがつき、肩の布は裂けている。それでも立っていた。片手を瓦礫へ向け、もう片方の手で子どものように小さな客を支えている。


 彼女の前で、煙が曲がる。

 熱が横へ逃げる。

 崩れた木材の間に、細い道ができているかのようだ。


 近くには同じような衣装を身にまとっている踊り子たちが、客たちを火のない場所へと誘導している。なにやら連絡を取っている様子の踊り子もいた。


「ノーラ!」


 サモが叫んだ。

 ノーラは顔を上げた。雫形の瞳が、煙の向こうで揺れる。


「下に、まだいる」

 それだけ言って、彼女はまた瓦礫へ向き直った。

 サモは舌打ちした。


「ラト、手ぇ貸せ」

「も、もちろん!なにしたらいい?」

「俺が上げる。お前は引っ張れ」


 サモの手元から、灰色のものが瓦礫の隙間へ伸びた。崩れたはりと梁の間へ潜り込み、太い支えの形になる。綺麗な形ではなかった。歪で、太さもばらばらだ。

 だが、崩れかけた天井を押し返すには十分だった。


 ぎぎ、と木材が軋む。

 サモが歯を食いしばった。


「今だ!」


 ラトは瓦礫の下へ腕を伸ばした。

 暗い。熱い。煙が目に染みる気がする。実際に染みているのかは分からない。それでも、そこに誰かの腕があった。


 細い腕だ。

 ラトは掴んだ。


「引くぞ!」


 返事はなかった。けれど、掴んだ腕に力が入る。

 今度こそ、手を離したくない。


 ラトは足を踏ん張り、身体を後ろへ倒すようにして引いた。上着がめくれてあらわになった白い腕が、灰にまみれた誰かの体を引きずり出す。途中で瓦礫に引っかかった。サモの灰色の支えが、さらに上へ押し上げる。


 抜けた。

 ラトはそのまま尻もちをついた。腕の中には、背中に薄い膜を持つ小柄な客がいた。息はある。咳き込み、目を開け、何かを言おうとしている。


「生きてる!」

「次だ!」


 サモは振り返らなかった。

 ラトは唇を噛み、また瓦礫へ向かった。

 

 ロニはその間も、救助には加わらなかった。


 代わりに、店の周囲を見ていた。屋根の上。細い路地。崩れた看板の影。夜に紛れる煙の流れ。義眼の焦点が、何度も切り替わる。


 そして、ある一点で止まった。


「サモ」

 ロニの声が低く落ちる。

「いる」


 サモは瓦礫を支えたまま、目だけを向けながら尋ねた。

「犯人か」

「可能性は高い。右手の路地。二人。片方は火薬臭い」

「追えるか」

「追える」


 ロニはすでに地面を蹴る姿勢になっていた。

 サモは一瞬だけ黙った。

 その下で、瓦礫が嫌な音を立てる。ノーラの作った空洞の奥で、誰かが咳き込んだ。


「追うな」

 サモが言った。

 ロニの耳がわずかに動く。

「いいのか」

「よくねぇよ」

 

 サモは灰色の支えをさらに太くした。

「だが、今追ったらこっちが潰れる。犯人は保安官に投げてお前は周りを見てろ。二発目があったら終わりだ」


 ロニは短く息を吐いた。

「そうか」

 その声に不満はなかった。


 ラトは瓦礫の奥へ手を伸ばしながら、サモを見た。

 追えるのに、追わない。


 それが正しいのかどうか、ラトには分からない。けれど、今、自分の手の先にはまだ人がいる。

 ラトはもう一度、腕に力を込めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ