第三話 中立の崩壊
船に戻ったころ、風は止んでいた。
荒れ地に立つ細い木は、さっきまで同じ方向へしなっていたはずなのに、今はぴくりとも動かない。船の外壁を叩いていた砂も、小石も、音を失っている。
ラトは船の入り口で足を止めた。さっきまであれほど暴れていた空気が、まるで最初から何もなかったように眠っている。
「……止んだ?」
サモは答えなかった。
ロニは船の腹の下にいた。灰色の巨体を低くし、船底の傷を確かめている。サモが無理やり打ち込んだ杭の跡は、船底のあちこちに残っていた。折れた部分もある。削れた部分もある。見たところ、無事とは言いがたい。
「飛べるか?」
サモが聞く。
ロニは船底から顔を出した。
「飛ぶだけならな」
「落ちないなら十分だ」
「十分の基準が低い」
「生きてりゃ勝ちだ」
サモはそう言って、船内へ向かった。出発の準備をするつもりらしい。
ラトは船の入り口で、さっき見た水の文字を思い出していた。
コップの水が、空中で文字になった。水滴がばらけ、また寄り集まり、見たことのない文字列を形作る。たぶんそんな感じだったと思う。
あれが彼女の流子操作というやつなんだろう。
けれど、サモやロニとは少し違って見えた。
サモの流子操作は……心強いが、少々乱暴だった。灰色の杭を打ち、折れれば次を伸ばす。助ける形を作ると言っていたが、形は歪だ。
ノーラのそれは、もっと静かだった。
水が自分で行き先を知っているように動いていた。
……ほとんど彼女の顔しか見てなかったけど。
ラトがそんなことを考えていると、ロニの耳がぴくりと動いた。次に、鼻先が街へ向く。
「……火薬の匂いがする」
サモの動きが止まった。
「どこだ」
「……遠い」
ロニの声は低かった。
ラトは反射的に街の方を見た。夜の向こう、さっきまでいた街の明かりが小さく瞬いている。遠い。ここからでは、どの建物がノーラの店なのかまでは分からない。
その明かりの一角が、突然ふくらんだ。
遅れて、音が来た。
腹の奥を叩かれるような低い爆発音。静まり返った荒れ地を震わせて、こちらまで届いた。
ラトは息を呑んだ。
「今の……」
ロニの義眼が、街の方へ向いた。レンズが細かく動く。暗闇と距離を越えて、何かを見ている。
数秒後、ロニが言った。
「さっきの店だ」
サモが舌打ちした。
その音が終わるより早く、ロニの姿が消えた。
誇張ではなかった。
灰色の巨体が沈む。次の瞬間には、もうサモの前にいない。地面を蹴った音だけが残り、ロニは弾丸のように荒れ地を抜けていった。低い岩を越え、倒れた草を裂き、街の明かりへ一直線に飛ぶ。
ラトは目で追えなかった。
「はっや……」
「感心してる場合か」
サモがラトの襟首を掴んだ。
「え」
「口閉じろ」
「なんで」
「舌噛むぞ」
次の瞬間、ラトの身体はサモの腕の下に抱え込まれていた。
「ちょ、待――」
サモの足が地面を噛む。
見えない力が脚に通ったように、踏み込みのたび荒れ地が低く鳴った。サモの身体は重いはずなのに、次の瞬間には前へ跳んでいる。
ロニの速さが弾丸なら、サモの速さはもっと重かった。
その巨体でラトを抱えたまま、地面を踏み潰し、流子操作で足元を押し返し、無理やり距離を潰していく。走っているというより、一歩ごとに荒れ地を蹴り捨てているようだった。
ラトの視界は上下に跳ね、逆さに映る街の灯りが何度もにじんだ。
ロニはもう、ノーラの店の前にいた。
サモがラトを抱えたまま遅れて到着したとき、店は、半分ほど形を失っていた。
さっきまで踊る人影の看板が吊られていた入り口は、黒く焦げている。木の壁は内側から吹き飛ばされたように裂け、銀色の線が何本も切れて垂れ下がっていた。店内からは煙と熱が漏れ、人の声が重なって聞こえる。
悲鳴。
怒号。
咳き込む音。
割れた食器を踏む音。
ラトの身体が、サモの腕の中で固まった。
さっきまで、あそこには笑い声があった。知らない料理があって、見たことのない客たちがいて、踊り子が回っていた。
その場所が、黒く崩れている。
ロニは店の前で低く構えていた。
耳を伏せ、四本の足で地面を掴んでいる。義眼は店ではなく、周囲の屋根や路地を見ていた。瓦礫の中へ入らないのは、警戒しているからだとすぐに分かった。
サモはラトを地面に下ろした。
「立てるな?」
「おう」
「じゃあ来い」
店の奥で、木材が軋んだ。
次の瞬間、崩れた壁の一部が、不自然に内側へ沈んだ。
ラトは一瞬、崩れるのかと思った。けれど違った。
瓦礫が持ち上がったわけではない。
折れた梁と砕けた壁の間に、空洞ができていた。
まるで、瓦礫の中を細い道が通ったようだった。無理に押しのけるのではなく、落ちるはずの板が少しだけ横へずれ、噛み合っていた破片がほどけ、煙の流れまで別の方向へ逃げていく。
その奥から、煤に汚れた客がひとり、這い出してきた。
続いて、小さな毛むくじゃらの生き物が二匹。誰かに抱えられた透明な羽の種族。咳き込みながらも、自分の足で外へ出る者。
瓦礫の隙間の向こうに、ノーラがいた。
額に煤がつき、肩の布は裂けている。それでも立っていた。片手を瓦礫へ向け、もう片方の手で子どものように小さな客を支えている。
彼女の前で、煙が曲がる。
熱が横へ逃げる。
崩れた木材の間に、細い道ができているかのようだ。
近くには同じような衣装を身にまとっている踊り子たちが、客たちを火のない場所へと誘導している。なにやら連絡を取っている様子の踊り子もいた。
「ノーラ!」
サモが叫んだ。
ノーラは顔を上げた。雫形の瞳が、煙の向こうで揺れる。
「下に、まだいる」
それだけ言って、彼女はまた瓦礫へ向き直った。
サモは舌打ちした。
「ラト、手ぇ貸せ」
「も、もちろん!なにしたらいい?」
「俺が上げる。お前は引っ張れ」
サモの手元から、灰色のものが瓦礫の隙間へ伸びた。崩れた梁と梁の間へ潜り込み、太い支えの形になる。綺麗な形ではなかった。歪で、太さもばらばらだ。
だが、崩れかけた天井を押し返すには十分だった。
ぎぎ、と木材が軋む。
サモが歯を食いしばった。
「今だ!」
ラトは瓦礫の下へ腕を伸ばした。
暗い。熱い。煙が目に染みる気がする。実際に染みているのかは分からない。それでも、そこに誰かの腕があった。
細い腕だ。
ラトは掴んだ。
「引くぞ!」
返事はなかった。けれど、掴んだ腕に力が入る。
今度こそ、手を離したくない。
ラトは足を踏ん張り、身体を後ろへ倒すようにして引いた。上着がめくれてあらわになった白い腕が、灰にまみれた誰かの体を引きずり出す。途中で瓦礫に引っかかった。サモの灰色の支えが、さらに上へ押し上げる。
抜けた。
ラトはそのまま尻もちをついた。腕の中には、背中に薄い膜を持つ小柄な客がいた。息はある。咳き込み、目を開け、何かを言おうとしている。
「生きてる!」
「次だ!」
サモは振り返らなかった。
ラトは唇を噛み、また瓦礫へ向かった。
ロニはその間も、救助には加わらなかった。
代わりに、店の周囲を見ていた。屋根の上。細い路地。崩れた看板の影。夜に紛れる煙の流れ。義眼の焦点が、何度も切り替わる。
そして、ある一点で止まった。
「サモ」
ロニの声が低く落ちる。
「いる」
サモは瓦礫を支えたまま、目だけを向けながら尋ねた。
「犯人か」
「可能性は高い。右手の路地。二人。片方は火薬臭い」
「追えるか」
「追える」
ロニはすでに地面を蹴る姿勢になっていた。
サモは一瞬だけ黙った。
その下で、瓦礫が嫌な音を立てる。ノーラの作った空洞の奥で、誰かが咳き込んだ。
「追うな」
サモが言った。
ロニの耳がわずかに動く。
「いいのか」
「よくねぇよ」
サモは灰色の支えをさらに太くした。
「だが、今追ったらこっちが潰れる。犯人は保安官に投げてお前は周りを見てろ。二発目があったら終わりだ」
ロニは短く息を吐いた。
「そうか」
その声に不満はなかった。
ラトは瓦礫の奥へ手を伸ばしながら、サモを見た。
追えるのに、追わない。
それが正しいのかどうか、ラトには分からない。けれど、今、自分の手の先にはまだ人がいる。
ラトはもう一度、腕に力を込めた。




