第一話 ピンボールになった日
トルカ星。
中立を保つ星として知られ、各地には美しい踊り子たちが舞う酒場が点在している。
種族も、所属も、過去のいざこざも、ここではいったん忘れていい。
気候は穏やか。空は広く、酒も料理もうまい。旅人が羽を休めるには、これ以上ない星だ――。
「……って言ってたよな? サモ?」
「るっせぇ! 俺だってこんなの初めてなんだよ!!」
トルカ星の大気圏を抜けた瞬間、サモの船は巨大な渦に巻き込まれたかのようにあおられた。それまで静かだった船内が、警報機の音や、船体が削られるような音であふれかえる。
異常は、現在も続いていた。
船首が空を向いた。
次の瞬間、横から殴られたように船体が弾かれる。船内は大きく傾き、ラトの身体は操縦室から一気に通路へ転がっていった。近くの柱に、思いきり背中をぶつける。
「いっ、てぇ……! 痛くはねぇけど……」
ロニは床に爪を立て、船体へ流力を這わせていた。
揺れが、一瞬だけ鈍る。
だが次の横風で、灰色の巨体ごと床を滑った。
「ロニまで転がってんじゃねえか!」
「転がってはいない。滑っている」
「どっちでも……うわっ!」
また船が跳ねた。
右の壁に肩からぶつかり、床に落ちたと思ったら、次の揺れでその床が斜めになる。別の方向へ転がったところで、足が何かに引っかかった。止まった、と思った瞬間、船体が真横から殴られたように跳ねる。
「うわっ、ちょ、待て待て待――」
待ってくれるはずもなかった。
ラトの身体は再び通路を滑り、工具箱にぶち当たり、そこから跳ね返って積まれていた布袋に突っ込んだ。
布袋は、思ったより硬かった。中身は布ではなかったらしい。
ラトは初めて、ピンボールの玉の気持ちが分かった気がした。
外では、ごうごうという音が絶えず腹の底に響いていた。風というより、巨大な獣が船体に歯を立てて振り回しているように荒々しい。
ラトは近くの配管に手を伸ばしてなんとかつかみ、窓の外を見つめる。
窓の外は、夜だった。
黒い雲が低く垂れこめ、その隙間から、ときどき青白い月のような光がこぼれる。遠く、地平の近くに街の明かりが見えた。小さな粒のような灯りがいくつも連なっている。
あれが、サモの言っていた酒場の街なのかもしれない。
美しい踊り子。穏やかな気候。立場を忘れて楽しめる中立の星。
今のところ、どれも信じられなかった。
船がまた傾いた。
遠くの街明かりが窓の端から消え、代わりに真っ黒な空が広がる。次の瞬間、空が下へ落ち、地面らしき暗い影が窓いっぱいに迫った。
「サモ! 地面!」
「見えてる!」
なにか言おうとしたところで、ラトは見つめていた窓にぶつかった。かろうじて配管に掴まってはいるが、前後左右に揺さぶられてはどうしようもない。
今度は足が上、頭が下になった。船の中に重力がないわけではない。ただ、船が滅茶苦茶に揺れるせいで、どこが床なのか身体が理解する前に、次の床が襲ってくる。
ロニは通路の奥で、低く伏せるようにしていた。
四本の足を広げ、爪を床に立てている。
ふたたび流力を強く押し出して外へ這わせる。船の揺れがまた一瞬だけ重く鈍るが、先ほどより早く動きが戻ってしまった。
ロニは短く息を吐いた。義眼のレンズが細かく揺れる。
「サモ。これ以上は無理だ」
「十分だ。下へ降ろす」
「かなり荒いぞ」
「知ってる!」
サモの片手が、操縦桿から離れた。
サモは腕に力をこめた。目に見えない流力が床を伝い、船底の方へ流れていく。
船の下で何かが鳴った。
ごん、と重い音。
次いで、ぎぎぎ、と何かが軋むような音がした。
その音は、外から響いているものだった。
船の外では、暴風のなか船底のあちこちから太く不揃いな杭が突き出す。形はいびつで、長さも太さも揃っていない。だが、それらは船体の下から、迷わず暗い地面を狙って伸びていった。
最初の一本が岩場に突き刺さる。
船体が杭に引き止められ、腹の底をえぐられるように沈んだ。
杭は深く食い込む前に曲がり、根元から軋む。次の瞬間、横殴りの風が船を押した。杭は引きずられ、地面を削り、火花ではなく砕けた石と土を散らしていく。
二本目が刺さる。
今度は途中で折れた。
折れた先が風に持っていかれるより早く、次の杭が伸びる。三本目、四本目。灰色の杭は船底から次々に生え、地面へ打ち込まれていく。
綺麗な着陸装置ではなかった。
獣が爪を立てて地面にしがみつくような、乱暴な足だった。
船はまだ流されている。
遠くの街明かりは近づかない。金色の粒は、黒い夜の向こうで斜めにずれていく。船体はその明かりから外れ、荒れ地へ押し出されながら、杭を折り、打ち直し、また折り、また打ち込んだ。
内部で、サモが叫ぶ。
「ロニ! 少しもたせられるか!?」
「……二秒だ」
「上等!」
船体の傾きが、ほんの一瞬だけ戻った。そのすきに、船底の杭が一斉に伸びる。
今度の杭は、足ではなく爪のようだった。
短く太く、船底から斜めに突き出し、地面へ噛みつく。一本が岩を割り、一本が土を抉り、一本が根元から潰れた。
それでも船は、落ちる向きを変えた。
風に流されるだけだった船体が、無理やり腹を下へ向ける。船底が地面へ近づく。杭が折れる。折れた場所から、また灰色の杭が伸びる。
そして、船の腹が地面に触れた。
すぐに、削るような音が船内に響き渡る。床が斜めになったまま、船体は長く滑った。
ばきん、と何かが折れた。
続いて、全身を叩かれるような衝撃。
最後の杭が地面をとらえて、船が止まった。
止まった、はずだった。
だがその直後、遅れてやってきたように船内の荷物が全部動いた。工具箱が滑り、布袋が転がり、ラトは配管にぶら下がったまま、無意味に揺れた。
しばらく、誰も喋らなかった。
風の音だけが、まだ船の外で吠えている。
「……着陸だ」
サモがぽつりと言った。
ラトは、息を整えるふりをした。息が乱れていないのだ。自分の異質さを感じて、いっそのこと乱れてほしいくらいだった。
「今の、墜落って言わない?」
「着陸だ」
「腹こすってたし……」
「着陸だ」
「杭、折れて……」
「うるせぇ」
ロニがゆっくり身体を起こして、身震いした。床には、爪で引っかいた跡が何本も残っている。
彼はそれを一瞥してから、窓の外へ目を向けた。金属で囲われた片目の周りで、レンズが何枚も展開される。
「なあ、ロニ」
ラトもようやく配管から手を離し、着地した。
この船のなかで、いやでも身体の使い方を覚えてしまったように感じる。
「なんだ」
ロニが、遅れて答えた。
「ええと……気になってたんだけど、その目って……」
「……義眼だ」
「自分で作ったのか?」
「……どこぞのお節介者が俺につけさせた」
「へ、へえ……」
サモが作ったのかな、とラトは思った。
あのデカい手でこんなに精密そうなものを作れるなんて。なかなか考えにくいことではある。
そんなことを思いながら、ロニの目線を追って外を眺めた。
外は暗い。
船の灯りが照らす範囲には、低い岩と、風に倒された細い木のようなものしか見えなかった。遠くの方に、街の明かりがある。金色や橙色の粒が、黒い夜の中でかすかに瞬いていた。
あそこだけは、別の世界なんだろう。
たぶん本当なら、あの明かりの下には酒場があって、踊り子がいて、旅人たちが笑っているに違いない。
だが、ここまで届くのは音楽ではなく、風の唸りだけだった。
サモが操縦席から立ち上がった。肩を回し、乱暴に息を吐く。
「船は?」
ロニが聞いた。
「動く。たぶんな」
サモが答える。
「たぶんか」
「まあ、なんとかなんだろ」
サモは短く言って、壁に変な向きで引っかかっている外套をつかんだ。擦り切れた裾が、床の上の砂を払う。
「ラト、行くぞ」
「どこに?」
聞き返したラトの胸元に、何かが飛んできた。
「うわっ」
受け止めると、分厚い上着だった。工具箱の下敷きになっていたのか、片袖に細かな金属片がくっついている。
「それ着ろ」
「もう着てる」
「その上だ。身体を隠せ」
ラトは、受け止めた上着と自分の腕を見比べた。白い第三期可転体の身体は、薄いシャツの袖口からでも妙に目立つ。
「それと、足も隠せ」
サモが布と金属片を組み合わせたような靴を、ラトの前に放った。
「裸足だと目立つ」
踵の部分で金属が飛び出しており、履きにくそうと思いながら、ラトは足先を入れる。
足がすべて通ると、金属部分は自動的にラトの足に合わせて引き締まった。
「すげぇ……」
サモはラトを上から下まで眺めると、一つ大きくうなずいた。
「これでただの旅人にある程度は見える」
「ここ、中立の星なんだろ?」
「だからだ。面倒事はごめんだ」
「じゃあオレ、ここにいるよ」
「……お前はいらねぇことしそうで信用ならねぇ」
「は!?酷くね?」
と言い返したものの、否定はできないと思ったラトは、大人しく言うことを聞くことにした。
彼が上着に腕を通す間に、サモは遠くの街明かりを顎で示す。
「あの街だ。ノーラの店がある」
「ノーラ?ていうか、この風の中を?」
「船で行くよりマシだ」
ラトは窓の外を見た。
夜の荒れ地。遠くの明かり。いまだに暴れ狂う風。
穏やかな中立星というサモの紹介文は、もう完全に信用できなかった。




