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第五話 はじまり

 指が、閉じない。

 正確には、閉じている感覚がない。かろうじて閉じてはいる。けれど、それ以上どうすることもできない。

 

「くそっ……!」

 

 指はミロの手を握っているのに、締め方が分からない。どれだけ力を込めようとしても、自分の手ではないものを遠くから動かしているようだった。

 ミロの体が、少しずつ下へ引かれていく。

 新しい重力の方へ。

 

「もういいよ」

 ミロが言った。

 

「よくねぇよ!」

 ラトは叫んだ。

「クソッ! この身体なんなんだよ!」

 

 指が滑る。下だったはずの場所から草木がせり上がるように流れ、ミロとラトを揺らした。

 このままでは二人とも落ちる……。

 だが、ラトは離したくなかった。しかし、その願望とは反対に、ミロの手が、ラトの手の中で細くなっていく。

 

「おにいちゃん」 

 その声に、ラトは顔を向けた。

 そこにはもう、ミロの下手くそな笑顔はなかった。泣いたあとで目は赤かったが、その顔は不思議なくらいおだやかだった。

 

「なまえ、くれてありがとう」

 

「やめろ」

 ラトは首を振った。

「やめろ、ミロ」

 

 ミロの指から、力が抜けた。

 滑ったのか、離したのかは分からない。

 ラトは掴もうとした。

 でも、掴めなかった。

 

 ミロの小さな体は、あっけないほど簡単に、新しい“下”へ落ちていった。

「ミロ!!」

 ラトの叫びを、轟音が飲み込んだ。


 ラトは必死に追おうとした。

 しかし、身体が勝手に木にしがみつかせ、腕を回してしまう。

 

 そうして、ただ震えるしかできなかった。

 ミロを追わなきゃいけない。そう思うのに、足が動かない。

 

 怖い。

 

 怖いと思った自分が、みっともなくて、許せなかった。

 

 何で、少しでも救えるなんて傲慢なことを思ったんだろう。ちっぽけな人間が勝手に改造されて、すぐに強くなるなんてありえなかった。少しでも期待した自分に呆れた。


「ミロ……」

 ラトはただ、もう届かない名前をつぶやくしかできなかった。

 

 しかし、それはすぐにかき消された。

 頭の上で、何かが影を落としたのだ。


 ラトは顔を上げた。涙なのか、海水なのか分からないもので、視界が滲んでいる。


 サモの船だった。

 船体は斜めに傾き、後ろの噴射口から白い光を吐きながら、何度も横へ流されかけている。

 それでも落ちなかった。

 落ちる向きに逆らって、無理やりそこに踏みとどまっているようだ。


 腹の方から扉が開き、そこから声が落ちてくる。


 けれど、声はほとんど轟音に潰されていた。

 崩れていく陸の音、逆巻く海の音、木々が根を裂く音。その全てに混じって、途切れ途切れにしか聞こえない。

  

 それでも、ラトには分かった。

 サモの声だった。


『――ト! ……まれ!』


 ラトは視界がにじむなか、懸命に首をうごかす。

 灰色のものが、船の腹からするすると伸びてくる。

 棒のようなものだ。中央の太い棒に、いくつも細い棒が張り付いているが、手を引っ掛けられるように形作られている。


『――つかめ!』


 今度は、はっきりと聞こえた。

 ラトは震える手を伸ばした。指が触れる。だが濡れていて滑ってしまう。それでももう一度、身体が腕を伸ばした。

 

 掴んだ、と思うより先に、身体が持ち上がる。木の幹が腕の下をすり抜け、足元だった場所が一気に遠ざかった。それは横にずれ、横だった場所が落ちる先になり、海と地面が同じ音で崩れていく。


 ラトは息を呑んだ。

 ミロが落ちていった方を見ようとした。風や木の枝に邪魔をされ、上を向くしかなくなった。

 

 白い腕がきしむように震えた。痛みはない。ただ、指の間から何かが抜け落ちた感覚だけが、まだ消えない。

 

 頭上で、船の腹が開いていた。

 暗い穴のような扉の向こうから、赤い髪が見えた。サモが何か叫んでいる。音はほとんど轟音に潰されて、言葉にはならなかった。

 

 ケーブルのようなものが、ラトの腰に巻きつく。

 次の瞬間、身体が扉の方へ投げ込まれた。


 船の縁を越える直前、ラトはもう一度だけ下を見た。

 銀色の海が、空へ流れていた。草の白い面が一斉に光り、横倒しになった陸地が、ゆっくり裏返っていく。


 さっきまでミロが立っていた場所は、もうどこなのか分からなかった。


 扉が閉まる。

 視界の端にあった白い光が、細くなり、線になり、消えた。

 ラトの身体は床に転がった。何かが腹の奥を押しつぶすように重くなる。船が傾き、壁の向こうで低い音が唸った。

 

 世界の音が遠くなった。


 ついさっきまで耳の中を潰していた轟音は、厚い壁の向こうへ押し込められた。代わりに残ったのは、船の底から響く低い唸りと、短く途切れる警告音だった。


 静か、というにはうるさい。

 けれど、外に比べれば、あまりにも静かだった。


 ラトは床に座り込んだまま、動けなかった。

 体は何度か横へ傾き、そのたびに壁や床にぶつかった。船がまだ急いでいるのだと、頭のどこかでは分かった。

 しかし、指の間に残った小さな手の感覚だけが、そこから動かなかった。


 何も掴んでいない白い指を見ているうちに、視界がにじんだ。

 声は出なかった。


 ただ、涙のようなものが勝手に落ちた。

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