第四話 重力が変わる
「無理だ」
ロニは、静かに言った。
ラトは一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……え?」
「その子は、連れていけない」
ロニの声は低かった。怒っているわけでも、突き放しているわけでもない。ただ、もう答えが決まっている声だった。
ラトは横目でそっとミロを見る。
彼は語り板を胸に抱いたまま、きょとんとしている。さっきまで何度も自分の名前を口にしていた顔が、少しずつ不安に変わっていく。
「なんでだ?」
ラトはロニに詰め寄った。
ロニは淡々と続けた。
「この星の生命は、外では長くもたない。重力、空気、海から上がる成分。そして特異なエネルギー。いくつかが合わさって、ようやく体を保っている。外に出せば、弱る」
「ロニ」
サモが低く言った。
「余計なところまで視るなよ」
「視ていない」
ロニは短く答えた。
「知っていることを言っただけだ」
「そんな……」
ラトの声は、自分でも情けないくらい小さくなった。
「じゃあ、なにも……できないのか…」
ロニは答えなかった。
それが答えだった。
ミロは、口元らしい柔らかい線をきゅっと歪めた。語り板を抱く指に力が入る。
「ミロ……」
ラトが呼ぶと、ミロはびくりと肩を揺らした。
けれど、返事はなく、そのまま小さく頭を下げると、ミロは踵を返し、船の出口へ向かって走り出した。
「あ、おい!」
ラトは反射的に追いかけた。
「ラト!」
サモの声が飛ぶ。
サモも動こうとした。けれど、その前にロニが尾を伸ばし、サモの前をふさいだ。
「追うな」
「なぜだ?」
サモの声が低くなる。
ロニは船の外へ向けて、片目の前のレンズを切り替えた。
「早い」
「何が」
「兆候だ。前回の記録より、ずっと早い」
サモの顔色が変わった。
船の外で、風の向きがずれた。
ラトはそれに気づかなかった。
ミロの後ろ姿だけを見ていた。
まだ慣れない足で船を飛び出し、砂地を蹴る。今度はさっきほど、うまく走れなかった。足が重い。膝が遅れる。それでも、ラトは止まらなかった。
やっと追いつくと、崩れた岩の陰でミロはしゃがみ込んでいた。
語り板を胸に抱えたまま、肩を小さく震わせている。
「ミロ……」
ラトが呼ぶと、ミロは慌てて顔をこすった。
でも、涙は隠せていなかった。頬を伝って、語り板の端に落ちる。板の表面に浮かぶ小さな光が、涙に揺れて歪んだ。
「ごめん」
ラトは息を切らしながら言った。
「オレ、勝手に……連れていけると思って」
ミロは首を振った。
「だいじょうぶ」
声は震えていた。
「だいじょうぶだよ」
大丈夫には、見えなかった。
語り板を抱く手は白くなるほど強く握られていたし、ミロはラトの顔を見ようとしなかった。
ラトは膝をついた。
「大丈夫じゃないだろ」
ミロはまた首を振った。
「ミロ、名前もらったから」
「え?」
「だから、だいじょうぶ」
ミロはそう言って、笑おうとした。
けれど、うまく笑えていなかった。
そのときだった。
地面の下から、低い音がした。波の音ではなかった。風でもない。もっと大きなものが、遠くで寝返りを打ったような音だった。
ラトは振り返った。
海の縁が、少しだけ浮いていた。
岸に寄せるはずの水が、岸を離れ、空へ向かって細くほどけていく。
草が一斉に裏返った。
葉の白い面が、ぎらりと光る。
ミロが語り板を抱いたまま、息を呑んだ。
「……はじまる」
ラトはその言葉の意味を聞き返そうとした。
けれど、その前に、足元の“下”が揺れた。
地面が揺れた、というより、地面そのものが息を吸ったようだった。
ラトの足の裏で、砂と根が持ち上がる。岩の割れ目がゴリゴリと音を立てて開き、その隙間から、細い草の根が空気にさらされた。
「な、なんだよ、これ」
ラトは踏ん張ろうとした。
けれど、踏ん張る場所が分からなかった。
足元の感覚がふっと抜け、ラトは一瞬、自分の身体が浮いたのかと思った。けれどそうではない。
地面が消えたのではなく、“下”の向きがずれはじめていた。腹の奥がひっくり返るような感覚に、ラトは踏ん張ろうとして、何もない空を蹴った。
ミロが小さく声を上げた。
語り板が、ミロの腕から抜けたのだ。
「あっ」
ミロの腕を離れた四角い板は、地面に落ちるはずだった。けれど板は足元へは向かわず、草の白い葉をかすめながら、見えない斜面をすべるように斜めへ流れていく。表面に浮かんでいた灰色の光が、細く尾を引いた。
ミロがとっさに手を伸ばした。
「だめだ!」
ラトは叫んでいた。
次の瞬間、世界が傾いた。
地面が壁になった。
さっきまで立っていた場所が、ラトの横を滑り落ちていく。海の音が上からではなく、横から殴りつけてきた。根を張った木々だけが、ぎしぎしと音を立てながら、新しい“下”に逆らっている。
ラトの身体が投げ出された。
視界の端で、ミロの小さな体も流された。
「ミロ!」
ラトは腕を伸ばした。
指先が、ミロの手首に触れる。
掴んだ。
けれど、掴んだ瞬間にはもう、二人とも落ちていた。足元ではない。横だ。さっきまで空だった場所へ、二人とも持っていかれる。
ラトは片腕でミロを掴んだまま、もう片方の腕をめちゃくちゃに振り回した。
硬いものにぶつかった。
木だった。
横向きになった幹に、ラトは必死で腕を回した。
木の皮が白い手に食い込むが、痛みはない。改造されていてよかったと、初めて思った。
けれど、うまく力のコントロールができない。
ミロはラトの下で揺れていた。いや、下ではない。もうどちらが下なのか分からない。
ミロの足は空へ向いていて、腕だけがラトの手に繋がっている。語り板は少し離れたところで、草と石の間を転がりながら、薄い光をまたたかせていた。
「つかまってろ!」
ラトは叫んだ。
ミロはラトを見上げた。
顔が青ざめていた。しかし、ミロは小さくうなずいて、ラトの手を握り返した。
その手は、驚くほど軽かった。
ラトは歯を食いしばった。
離すな。絶対に。
そう思った。
そう思ったのに、指にうまく力が入らない。




