第三話 名もなき少年
「いた!……くない……?」
「そりゃそうだろ。可転体が痛いんじゃ、やっていけねぇし。とくに、第三期は」
サモは豪快に笑いながら言った。
その言い方に、悪意がないことはよくわかった。わかったが、それでもラトからしたらご機嫌とはいかない。
もやもやしながら、ようやく顔を上げた。
すぐ近くに海があった。
けれど、ラトの知っている海ではなかった。
水は青くなく、薄い銀色をしていた。波の端だけが紫に光り、寄せては返すのではなく、岸に触れる前にふわりと浮いてほどけるように消えていく。
海辺に生えている草も変だった。
どれも地面からまっすぐ伸びていない。途中で横へ折れ、また違う方向へ伸びている。葉は風を受けるたび、裏返るように白く光った。
ラトは息を呑んだ。
せめて穏やかな場所であってくれと思っていたが、そうではなさそうだ。すぐにでも何もかもがなくなってしまいそうな、そんな静けさすらあった。
崖の途中に、家の土台のようなものが横向きに刺さっているのが目に入った。
ラトは、立ち上がりながら尋ねた。
「なんで、あんなところに家があるんだ?」
「昔はあそこが“下”だったんだろ」
「……え?どういう……」
「この星は、たまに重力の向きが変わる」
そう言いながらサモが辺りを見渡すのにつられて、ラトも後ろを見た。
そして、さっきまでいたところが、宇宙船の中だったことに気づいた。
まわりの植物のようなものも気になったが、いまは目の前に心を奪われた。
地面に腹をつけるようにして、大きな船が停まっている。先端は丸くつぶれたくちばしのようで、胴体は横に広く、ところどころ別の色の金属板で継ぎ足されていた。側面には細い傷がいくつも走り、後ろの噴射口のようなところだけ、黒くすすけている。
映画で見た宇宙船は、もっとつるつるしていて、光っていた気がする。目の前のこれは違った。とても使い古した、それでいて大切に使われているような感じがした。
昔、壊されてしまったロボットのおもちゃを、兄貴がつぎはぎしてくれたときのようだ。
ただ大きく静かにそこにあった。
「……宇宙船」
ラトは、顔を打ったことも忘れてつぶやいた。
サモが片眉を上げる。
「……お前、まだガキだろ」
「っ……馬鹿にすんなよ」
「ふん、馬鹿にしてねぇよ。そういう顔できるやつの方が、ここじゃ重宝する」
サモは鼻を鳴らした。
慰めるつもりも、褒めるつもりもないらしい。
それでも、今の言葉だけはただの皮肉ではなかった。
ラトにはそう聞こえた。
だから余計に、どう返せばいいのか分からなかった。
「少し歩くぞ」
サモが言った。
「歩く?」
「その足がどこまで使えるか見る」
ラトは返事をしようとして、足元を見た。
自分の足なのに、まだ自分のものではないようだった。
もう一度立ち上がる。今度はこけないようにそっと。
掴まるものがないから、一歩出すたび、地面との距離を考えなければならない。
それでも、少しずつ進んだ。
海のすぐ近く、岸辺の草はまっすぐ上に伸びず、途中で向きを変えて、地面を探すように横へ這っている。奇妙な形だ。
それを眺めていると、サモは短く言った。
「さっきも言ったが、何年かに一度、“下”が変わる。前のでだいぶ削れた。次にでかいのが来たら、この陸は残らねえ」
「じゃあ……」
「その前に出る」
サモはそれ以上言わなかった。
ラトは黙って歩いた。
少しずつ慣れてきた気がする。ただ、デコボコした道は、意識して足を上げないとまたこけそうだ。
そのとき、崩れた岩の向こうで、何かが動いた。
小さな影だった。
「……人?」
ラトは、気づいたときには走り出していた。
「おい、待て!」
サモの声が後ろで飛ぶ。
けれど、足は止まらなかった。
さっきまで立ち上がることにも迷っていたはずなのに、地面の凹凸を勝手に避け、崩れた石を蹴り、身体が前へ前へ進んでいく。
走れる。
そう思った瞬間、ラトの足がもつれた。
「うわっ」
地面が近づく。
受け身を取ることもできず、ラトは砂と草の上に転がった。
しばらくして、小さな影が落ちた。
ラトが顔を上げると、だれかが立っていた。
人間ではなかった。けれど、小さな体つきや立ち方で、子どもなのだと分かった。
二足歩行で、二本の腕があるのは人間と変わらないが、目がとても大きく、鼻がとても小さく、口のようなところが見当たらない。しかし、ラトが着ている服と同じようなものを着ていた。
胸に、四角い板を抱えている。石のように見えるが、表面には薄い光が揺れていた。
子どもはラトをじっと見下ろし、それから、たどたどしく言った。
「おにいちゃん、だい、じょうぶ?」
「あ、ああ。大丈夫だ……」
ラトはそう言いながら立ち上がった。
やっぱり全く痛くない。
最近はサッカーにハマってたから、よく顔面にボールをもらったり、ボールにつまずいて転んだりしていたが、あのときは痛いなんてもんじゃない。
ただ、今も同じようなものなのにまったく感じない。当たる感覚はしっかりあるというのに。
「あー……えっと……お前は?」
「ぼくは……これ、読んでる」
その子は抱えていた板のようなものをラトに見せた。
それはさっきちらっと見えたものだったが、よく見ると、絵や文字が浮いて光っていた。
なにかを言いかけたとき、ラトの背後からサモの影が現れた。
「テメェ、勝手に走るんじゃねぇよ!」
サモの怒鳴り声は辺り一面に響いた気がした。
ラトは反射的に振り返ったが、バランスを崩して地面に尻をついてしまう。その横で、少年がサモの巨体を見上げて小さく震えていた。
「わ、悪かったよ……ほらこの子、怖がってるから……」
サモはその子をジロッと睨みつけると、舌打ちをして背後の木の向こう側へ場所を移す。
「ご、ごめんな。悪い人ではないんだよ。きっと。……顔は悪い人だけど」
ラトが後半はサモに聞こえないように言うと、少年はやっと動けるようになったようで、ラトの隣に腰を下ろし、再び、抱えている板に目を落とした。
「ミロ」
少年は、板に浮かんだ文字を指でなぞって言った。
「ミロって、なに?」
少年はラトにたずねた。
板の中では、小さな人影が地面の上を歩いている。何度も同じ印が、その人影のそばに浮かんでは消えてまた別のところから現れる。
「……たぶん、この子の名前だな」
「なまえ?」
「そう、名前。お前にもあるだろ?」
少年は答えなかった。
ただ、板をじっと見つめている。
ラトは、すぐにまずいと思った。
まさかそんなはずがないと、勝手に思ってしまったからだ。
「ご、ごめん」
少年は動かなかった。
サモは木の陰で、黙って二人を見ていた。ときおり、辺りを警戒するように見回す。
ラトはいたたまれなくなって、口を開いた。
「あのさ。その……オレでよければ、名前つけようか」
その言葉に、少年は目を見開いた。
それから、板を抱えたままラトを見上げて、嬉しそうにうなずいた。
「あー……ええと……」
ラトは考えた。名前なんて、急に出てくるものじゃない。
かっこいい名前。
強そうな名前。
優しそうな名前。
いくつか頭に浮かべてみたが、どれも目の前の少年に置くには、なんだか違う気がした。
ラトは、助けを求めるように少年の抱えている板を見た。
「それ、もう少し見てもいい?」
少年はこくりとうなずき、板を少しラトの方へ傾けた。
知らない文字のはずだった。
なのに、意味だけが頭の中へ入ってくる。
細かい表現は分からないが、ミロという登場人物が、白い葉の森で光る貝を見つける話や、銀色の海辺で誰かを待っている場面など、さまざまな小さな物語が絵とともに切り替わっていた。
ラトはふと、板の中の小さな子と隣の少年が重なって見えた。
大きな目。
板を大事そうに抱える手。
さっきからずっと、その物語を読んでいた子。
ミロ。
なんだか、いいなと思った。
丸くて、やわらかくて、呼ぶとちゃんとこちらを向いてくれそうな響きだった。
それに、なんかかわいい。
「……ミロ」
ラトは、板に浮かぶその文字を指さした。
「その子と同じでよければ、ミロはどう?」
少年はしばらく瞬きもせずにラトを見ていた。
それから、自分の胸に指を当てた。
「ぼくが?」
「うん。お前が」
「ぼくが、ミロ」
少年は小さく息を吸った。
目が、ぱっと明るくなる。
「ぼくが、ミロ。ぼくが、ミロ」
彼は語り板を抱きしめたまま、その名前を何度も口にした。
ラトは何度もそれに頷いてこたえた。心の中が温かくなるような、そんな感じがした。自分がまだそんなふうに感じられることが、不思議だった。
「なあ」
ラトは振り返ってサモに尋ねた。
「この子……ミロを連れて帰りたいんだけど。だめか?」
サモは木の陰で眉をひそめた。
すぐには答えなかった。
ラトの後ろで、ミロが板を胸に抱いている。
「ぼく、ミロ」
まだ確かめるように、小さくつぶやいている。
サモは舌打ちしかけて、やめた。
木の陰からゆっくりとラトたちに近づく。
「……ロニに見せてからだ」
「え、いいのか?」
「いいとは言ってねえ。ロニが駄目だと言ったら駄目だ」
サモはそう言って、先に歩き出した。
「遅れんな。ミロもだ」
ミロは、ぱっと顔を上げた。
呼ばれた、と分かったようだった。




