第七話 消えてしまう人たち(2)
数日後。
偶然だった。
本当に偶然だった。
少女は資料運搬を命じられていた。
研究員が使う魔術論文の写し。
観測記録。
術式設計図。
分厚い紙束を抱えながら。
いつもの白い廊下を歩いていた。
窓のない通路。
白い壁。
白い照明。
どこまでも続いているような無機質な空間。
その途中だった。
一枚の扉が少しだけ開いていた。
閉まり切っていない。
ほんの僅かな隙間。
少女は通り過ぎようとした。
だが。
聞こえてしまった。
「第七個体の報告書は」
足が止まる。
「提出済みです」
「魔力限界値測定中に破裂」
「回収完了」
「次候補の選定を進めろ」
少女は動けなくなった。
抱えていた資料が少し傾く。
紙の角が腕へ食い込む。
それでも気付かなかった。
頭の中で。
一つの言葉だけが響いていた。
破裂。
破裂。
破裂。
意味は知っている。
風船が破裂する。
魔導結晶が破裂する。
実験器具が破裂する。
では。
人が破裂するとは。
どういうことだろう。
考えたくなかった。
でも。
想像してしまった。
白い髪。
青白い顔。
包帯の巻かれた腕。
少しだけ寂しそうな笑顔。
『僕も痛かった』
胸の奥が冷たくなる。
『風があった』
耳の奥で声が響く。
少女は歩き出した。
歩かなければならなかった。
課題がある。
検査がある。
やることがある。
だから歩く。
でも。
頭の中では。
少年が何度も振り返っていた。
小さく手を振っていた。
『またね』
その言葉だけが。
妙に残っていた。
◇
資料を届け終えた帰りだった。
運搬用カートが廊下を通り過ぎる。
施設では珍しくない光景だった。
研究資材。
実験器具。
人工結晶。
色々なものが運ばれる。
だから。
最初は見なかった。
見ないはずだった。
けれど。
視線が止まる。
白い布が掛けられていた。
その端から。
何かが見えた気がした。
指だった。
細い指。
青白い指。
包帯の巻かれた指。
少女の足が止まる。
見覚えがあった気がした。
『またね』
再び声が蘇る。
でも。
分からない。
布の向こうは見えない。
本当に見えたのかも分からない。
思い込みだったのかもしれない。
カートは進む。
白い廊下の向こうへ。
その時だった。
研究員の声が聞こえた。
「廃棄区画へ運べ」
短い言葉だった。
少女は意味を知らない。
けれど。
足が動かなかった。
カートは角を曲がる。
見えなくなる。
少女はしばらく立ち尽くしていた。
◇
その日の夜。
課題は終わらなかった。
机の上には紙束が積まれている。
魔術理論。
修復術式計算。
魔力循環解析。
いつもなら読める。
理解できる。
解ける。
でも。
今日は駄目だった。
文字が頭に入ってこない。
視線が滑る。
同じ行を何度も読む。
意味が分からない。
気付けば。
右手が左腕を掻いていた。
何度も。
何度も。
何度も。
爪が皮膚を擦る。
赤くなる。
少し痛い。
それでも止まらない。
昨日まで無かった腕。
昨日まで失われていた腕。
切り落とされた腕。
戻ってきた腕。
本当に自分のものなのか。
分からない。
掻いて。
掻いて。
掻いて。
やがて皮膚が赤く腫れる。
それでも止まらなかった。
まるで。
身体の奥にある不安が。
そこから漏れ出そうとしているみたいだった。
少女は机へ突っ伏した。
眠るつもりはなかった。
けれど。
意識は静かに沈んでいった。
◇
夢を見た。
白い廊下だった。
研究施設によく似ている。
けれど違う。
静かだった。
機械音も無い。
足音も無い。
誰もいない。
どこまでも続く白い廊下。
その先に。
一人の少年が立っていた。
白い髪。
細い身体。
第七個体だった。
少年は笑っている。
あの時と同じ顔で。
「いた」
少女は立ち止まる。
少年はゆっくり近付いてくる。
そこで気付く。
何かがおかしい。
身体がひび割れていた。
皮膚の下から蒼白い光が漏れている。
腕も。
胸も。
首も。
顔も。
全部。
壊れかけている。
それなのに。
少年は笑っていた。
「ねえ」
優しい声だった。
「破裂するとね」
少年が言う。
「とっても痛いんだ」
少女の身体が強張る。
「腕が無くなるより」
「もっと痛い」
一歩。
少年が近付く。
「でもね」
また一歩。
「すぐ終わるよ」
少女は後ずさろうとした。
動けない。
足が動かない。
身体が言うことを聞かない。
少年が手を伸ばす。
冷たい指先。
その指が。
少女の左腕へ触れた。
ぶく。
小さな音。
皮膚の下に何かが生まれる。
ぶく。
ぶく。
透明な気泡。
膨らむ。
膨らむ。
膨らむ。
「ほら」
少年が笑う。
「始まった」
ぱん。
気泡が弾ける。
血。
光。
肉片。
少女が悲鳴を上げる。
だが終わらない。
ぶく。
ぶく。
ぶく。
今度は肩。
胸。
お腹。
脚。
全身へ広がる。
気泡。
膨張。
破裂。
血。
光。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
「ねえ」
少年が言う。
「もう頑張らなくていいよ」
ぶく。
首に気泡。
「もう検査しなくていい」
ぶく。
頬に気泡。
「もう痛くないところへ行こう」
少年の指先が。
少女の頬へ触れる。
ぶく。
ぶく。
ぶく。
膨らむ。
膨らむ。
膨らむ。
視界いっぱいに。
自分の顔が壊れていく。
「こっちにおいで」
少年が微笑む。
「楽になるよ」
ぱん。
◇
「――っ!!」
少女は飛び起きた。
呼吸が出来ない。
心臓が暴れている。
汗で服が張り付いている。
震えが止まらない。
怖い。
怖い。
怖い。
左腕を掴む。
頬へ触れる。
壊れていない。
首も。
胸も。
全部ある。
夢だった。
夢。
夢のはずだった。
なのに。
耳の奥で。
まだ聞こえる。
『こっちにおいで』
少女は朝まで眠れなかった。
◇
翌朝。
機械音声が流れる。
『Origin-0-Mirabilis-1。本日の魔力限界値測定を開始します』
少女は固まった。
昨日聞いた言葉。
破裂。
回収完了。
頭の中で反響する。
研究員に連れられる。
検査室。
補助装置。
人工結晶。
観測装置。
研究員達。
全部。
いつも通りだった。
でも。
少女だけが違った。
呼吸が浅い。
指先が冷たい。
心臓が苦しい。
「開始しろ」
研究員が言う。
動けない。
「出力上昇」
怖い。
「継続」
怖い。
「規定値到達」
怖い。
ぱき。
右手の甲にひびが入る。
紫色の光が漏れ出す。
その瞬間。
夢が蘇る。
ぶく。
ぶく。
ぶく。
『始まった』
少年の声。
『こっちにおいで』
「やだ」
声が漏れた。
研究員達が顔を上げる。
「なに?」
少女は後ずさる。
「やだ」
震える声。
「やだ」
もう一度。
初めてだった。
命令を拒否したのは。
検査を拒否したのは。
恐怖を口にしたのは。
少女の身体は震えていた。
そして心の奥で。
本当に小さく。
思ってしまった。
ここにいたくない。
検査へ行きたくない。
もう痛いのは嫌だ。
破裂したくない。
死にたくない。




